奴隷の少年の決意
何が起きたのか理解できず、この場の誰もが動けないでいる中、邑が潤の体を抱きしめ、その動きを制した。
「やめなさい潤! 頭を下げて、早く謝罪を!」
大王の使者はこの場にいる者たちだけではなく、屋敷の中に待機していた武人たちが剣を抜いて騒ぎに駆けつけてきた。
武人たちは、素人が見ても一般人とは違うことが分かるほどに体は鍛えられており、その上頑丈な鎧を纏っている。
そして、何度も死線を超えてきたであろうその者たちの目は、並の人間が生涯かけても辿り着けない狂気に満ちていた。
「お許しください武人様! この者の無礼をお許しください……!」
潤の首が刎ねられる。
そう直感した邑は、抱きしめていた潤の体を放し、額を地面に擦り付けるほどに命乞いをした。
武人たちは、大王の使者の護衛を任された者たちだった。
目の前で、奴隷の少年が大王の使者に襲いかかった――剣を振り下ろす理由は充分だ。
権力と暴力が支配する世界に、綺麗事はない。
屈強な武人の一人が、潤の顔面をめがけて剣を振る。
「……なんだよ。武人ってのはイカつい鎧を纏っただけの木偶の坊か?」
武人が剣を振り下ろすよりも速く、潤が脚を振り回した。
誰もが目を疑った。
重い鎧を身に付けている巨漢の武人は、蹴り出された勢いのまま吹き飛んだ。
コイツ、やらかしやがった――と、カシマの守や邑、それに大王の使者たちこの場の全員が目を丸くした。
奴隷が武人を襲撃した。前代未聞だ。内乱でも起こすつもりなのか――カシマの守が一気に青ざめる。
この地を統治する者として、カシマの守は、今この状況下で何か第一声を発しなければならない義務感に襲われるが、混乱して頭の整理がつかず、言葉にならない。
そんな彼を他所目に、武人たちは誰一人として混乱などしていなかった。
そのうちの一人が口を開く。
若く、活気のある武人だった。
「やあ少年、威勢がいいな」
にんまりと笑みを浮かべ、余裕の表情で潤に近寄る。
先程の武人は不意打ちの蹴りを入れられたに過ぎず、奴隷の少年を斬り殺すことなど、百戦錬磨の武人がその気になれば赤子の手を捻るようなものである。
「今の俺たちは大王の使者をお守りする要人警護を依頼されている。普段なら一般人の、しかもまだ少年のお前を殺すなんてことは有り得ない。でもな、ククク……悪く思うなよ。自業自得だ、クソガキ」
若い武人は口角を上げ、狂った目つきで潤の瞳の奥を覗き込んだ。
「ぶ……武人殿……、剣をお納めくだされ。この者も明日、タラの地へ向かわせるうちの一人だ。わざわざここで兵の数を減らす意味もないだろう……」
屋敷の中、それも娘である邑の目の前で人の血が流れることを拒んだカシマの守は、この場をなんとか収めようと口を挟むが、すぐにそれは無意味なことだと理解し、額に汗が滲んだ。
「勘違いしてもらっては困りますねぇ、カシマの守様。兵は各集落からきっちり20人連れて行く。カシマの地には15の集落がある。つまり300人。ククク………そういう約束だったでしょう? コイツが生きてようが死んでようが関係ない」
嗚呼、無情にも潤はここで殺される――全身の力が抜けた邑の頬に涙が零れた。
「戦乱の世の常だ。死ね、少年」
潤の頭上に剣を振り上げ、若い武人はさらに鋭く口角を上げる。
「最期に何か言い残すことはあるかぁ? 俺は優しいからなぁ。乱世に生きる名も知らぬ少年が、最期に吐く言葉を聞いておいてやろう」
「………ぇな」
「あ? 何か言ったか? 怖くて声も出ねぇかぁ?」
「ごちゃごちゃうるせぇなって言ってんだよ!」
殴打。
拳で相手を殴る行為は、最も単純な攻撃である。
予備動作なし、初速度零から急加速する潤の殴打は、百戦錬磨の武人の目でも追うことができなかった。
思いっきり振り抜いた拳は武人の鼻をへし折るに留まらず、そのままの勢いで顔面ごと地面を殴り付けた。
「ぐぎゃぁあああっ……!!」
言葉にならない叫び声が屋敷に響き渡る。
潰れた鼻、折れた前歯、ドクドクと溢れ出る汚い血に塗れ、武人は激痛に悶絶し転げ回る。
「けっ。弱い犬ほどよく吠えるつってな。殺る気ねぇのか、コイツ」
誰もが予想だにしないことだった。
奴隷の少年は、鍛え抜かれた武人、幾度の死線を超えてきた武人より、圧倒的に強かった。
「なんと……これは、こちらの方が謝らなければならないようだな」
武人の中でも落ち着いた雰囲気のある男がゆっくりと潤に近づき話し始めた。
屈強な肉体にそぐわない綺麗な青年の顔をしているが、その黒い瞳は何度も人を斬ってきた者でないと到達できない領域にあることを、潤は感じ取っていた。
明らかに、先ほど殴り倒した武人とは纏う気配が違う。
「俺の名は直朝。少年、名前を聞かせてくれないか?」
「……潤だ」
「そうか。すまない潤。俺の隊員が失礼なことをした」
直朝と名乗る筋骨隆々の青年は深く頭を下げ、そのまま話を続ける。
「将と呼ぶには至らないところばかりであるが、こんな俺でも、300の歩兵と50の騎兵を任せてもらっている。そして潤、君もそのうちの一人だ。わかってくれるか? 今は仲間割れしている場合じゃない」
直朝は下げていた頭をゆっくり元に戻し、偽りのない真っ直ぐな目で潤を見つめる。
この男に対する得体の知れない恐れと、自分が置かれた状況を理解した怒りで潤はに震えていた。
「……なんとなくだけどわかってきた。タラの地でガサキ軍との戦争が始まろうとしている……。だが兵の数が足りねぇと考えたサーガ軍は、隣のカシマから300人連れて行く……俺もその一人。そして、お前が俺たちを率いる大将ってことか」
「そうだ。理解が早くて助かる」
「……ふざけんなッ! 戦争なら勝手にやりやがれ!」
潤は殴りかかろうとするが、それより一瞬早く、直朝が一喝する。
「大人になれ! いつまでも我儘が許されるガキだと思うな!」
鋭い眼光と直朝の気迫に、潤の体が強張る。
齢十五を過ぎた程度の少年だが、戦乱の世では命を賭して戦う一兵力である。
有力な豪族の子であるならまだしも、奴隷の身分である潤が、最前線で体を張るために利用されるのは全く不思議なことではない。
「お前が身を挺して守るんだ! カシマの地を! カシマの民を! これまで共に生きてきた仲間を!」
「……ッ!」
潤は邑に目を向ける。
そこには、崩れ落ち、両手で顔を覆い、肩を震わせている姿があった。
「大切なものを守れ! 共に戦おう! カシマの地に、血と涙が流れないために! その力が、お前にはあるんだ!」
戦争孤児の奴隷として生き、家族もない。
何もないが、ただ一つの心の拠り所がある。
それを守るために、できることは何か。
気が付けば、潤の目に涙が浮かんでいた。