奴隷の少年、徴兵令を受ける
秋の夜。涼風が吹き込む心地よい夜だった。
カシマの守の屋敷に、熱気を帯びた男たちが近付いていた。
「お館様はどこか、急報である! お館様はどこか!」
屋敷の従者たちが慌ただしく廊下を駆け回る。
よほどの事態であるのか、恰幅の良い従者たちの顔には脂汗が浮かんでいる。
彼らカシマの守の従者たちは、農民や奴隷たちと違い豪族の一族である。
普段のことであれば、駆けると言ってもドタバタと気品ないものではない。
それが今は、ドタバタと走っているのだ。
「何事じゃ! 儂はここにおるぞ!」
寝室の戸を開けたカシマの守が叫ぶ。
「お館様……! 大王の使者が屋敷に向かっておられるとのことです!」
「お……、大王の使者だと……!?」
カシマの守は目と口をこれでもかと言うほど大きく開き、少しの間硬直した後、ようやく言葉を発した。
「明かりを灯せ! すぐにお出迎えする支度をしろ!」
「はいぃ!」
ここサーガ国の大王の使者がやって来る。
サーガの国土、カシマの地を治る豪族の長として、できる限りを尽くして使者をもてなすことは当然のことであった。
それがいかに、急な来訪であったとしてもだ。
大王とは、各地を治る豪族たちを統べる者で、その国における象徴であり、その国において最も尊い者である。
言わばそれは、神に等しい存在だった。
大王の使者を出迎えるため、屋敷中の大人たちが大急ぎで支度を始めたその物音で、眠りについていたカシマの守の娘、邑は目を覚ました。
月夜に照らされる門が強く叩かれる。
大きな音が屋敷に響いた。
その音は、屋敷の隣にある馬小屋で大きなイビキを立てて寝ていた奴隷の少年、潤にも届いていた。
「ん……なんだ? こんな遅くに客人か?」
できることなら、明日の農作業のために体を休めておきたい潤だったが、妙な居心地の悪さから馬小屋を出て屋敷の様子を覗きに行った。
しかし、堂々と屋敷に立ち入ることができない身分の潤は、火明りに揺らめく人影が複数見える部屋に、息を潜めて聞こえてくる声に神経を集中させた。
「なにやってるのかしら?」
耳に全神経を注いでいたところ、すぐ耳元で声をかけられたため潤は大きく飛び跳ねた。
しかし、驚いて声を上げるわけにもいかないため、不格好に口をパクパクと動かした。
「ばっ、いやあ、俺は別に……って、邑! 驚かすんじゃねーよ、ばか! あほ!」
「昔からあなたと一緒に何度も盗み食いなんてしてたから、隠密行動は得意なのよ」
「そういうこと聞いてねーよ……。なんだ、お前も気になって盗み聞きしに来たってのか」
声の主は邑だった。
気付かれずに背後を取ったことに対して、誇らしげに胸を張っている。
彼女も潤と同じく、夜遅くに現れた客人が気になってこっそり寝室から出てきていたのだ。
二人の位置からは、松明に照らされて揺らめく数人の人影は見えるが、話の内容が聞こえてくるには遠すぎる距離だった。
「何かあったのか?」
「わからない。ただ……記憶にある限り、こんな時間に火を焚いているのは初めてだわ。最近、父上が話していたことが関係してなければいいけど……」
それはどんな話だ、と潤は邑に目線を送る。
「ガサキがタラの地のすぐ近くまで進軍してきていて、今にも戦が始まりそうだ、っていう話。それに、サーガの東ではすでにフクォーカと交戦中だそうよ」
ガサキ国はサーガ国の西に位置する国である。
サーガ国の西端、タラの地はガサキと国境を接しており、潤や邑が暮らしているカシマの地は、タラの地のすぐ隣という位置関係だ。
それは、ガサキ軍がタラの地を突破した場合、次はここカシマの地が戦場になることを意味していた。
サーガは肥沃な土地に恵まれた国で、穀物が豊富に採れることから、西のガサキ、東のフクォーカはこれまで何度もサーガの国土を奪いに侵略してきており、戦が始まること自体は特に珍しい話ではない。
「それで、サーガの武人は何とか追っ払ってるんだろ?」
「……これまでもガサキ軍がカシマの地まで攻めてきたことはないと聞くし、武人様が頑張ってくれていると思うわ」
「へぇ。俺も武人になって戦ってみてぇな」
「あなたわかって言ってるの? 言葉どおり、命をかけて戦うということよ?」
「俺は物心ついたときから馬小屋で生きてんだぞ、最高の騎馬兵になってやるよ」
かかか、と笑う潤の横で、邑は呆れ顔で溜息を吐いた。
時は流れるが、客人との会話は聞こえてくることはなく、松明に照らされてできる影もゆらゆらと揺れるだけで誰かが動いたり立ち上がったりすることもない。
次第に退屈になってきた二人は、隠密に覗きを働くことを忘れ、無駄話に夢中になっていた。
そのせいで、カシマの守と大王の使者が目の前に現れていることに気が付かなかった。
「潤、ここから出て行け。お前は明日、タラの地へ向かうのだ」
急に声をかけられたことと、隠れていたことがバレてしまったことで、潤と邑は心臓が飛び跳ねた。
そして、数秒遅れて、言われた言葉の意味を理解した。
邑は咄嗟に、客人とのやりとりを盗み見たせいだと考え、カシマの守に頭を下げる。
その姿を見た潤は、とんでもないことをしてしまったと思い動揺して、カシマの守と邑を交互に見ることしかできない。
「まっ、待ってください父上……! 盗み見ていたことは謝ります。でも、どうして潤がタラの地に……」
日頃、潤を目の敵にするカシマの守だが、今はどういうわけか、その気配を感じない。
「邑、違うのだ……」
「違うとは……どういう意味でしょう」
カシマの守は、問いかける邑から潤の方へ目線を移し、ごくりと息を呑んだ。
「明日、この集落から農民20人をタラの地へ向かわせる。お前もそのうちの一人だ」
ようやく理解が追いついた潤はカシマの守に歩み寄り、口を開く。
「おい、俺ら農民にとって今この時期がどれだけ大事な時かわかって言ってんのか? お前ら豪族や王様が当然のように食ってる米はな、俺たちが八十八の手間かけて作ってんだ。ここら一帯の刈り取りもまだ終わってねぇ。20人も他所にやったら、誰が明日からの仕事するってんだよ!」
当然、農作業は楽な仕事ではない。
それが故に、収穫の喜びと収穫物をどこかで誰かが美味しく食べてくれるということは、潤たち農耕を生業にする者にとって生き甲斐であった。
実りの秋、収穫の秋、今が彼らにとって最も忙しく、最も楽しい時期だった。
その最中、突然突き付けられた言葉に、潤の怒りは最高潮に達した。
「決まったことだ。もう遅い、さっさと寝て明日に備えろ」
大王の使者、その一人が感情なく潤に言葉を投げ付けた。
その瞬間、潤の左脚がふわりと浮き、音もなく空気を切り裂いた。
この場の全員が瞬きをす余裕もない一瞬の出来事だった。
大王の使者の右側頭部を潤の上段蹴りが捉え、次の瞬間には大の大人が地面にうつ伏せに伸びていた。