俺と現実の悪夢6
風子はおそるおそる手を放した。男性はむくりと上体を起こして、そのままゴロンと反転するように座った。両手をパンパンと払う。風子も布の多い衣装でもたもたと起き上がった。そのままの動きで正座のような格好になる。俺は二人に二、三歩近付くとそこにしゃがんだ。
思ったのだが、この男性は別に風子の手くらい振り払えたのではないだろうか。風子の霊子を操る力なんて微々たるものだろうし、先程の化物を倒した力を考えるとそれくらいは容易であろう。ただ彼が振り払うとおそらく風子は怪我をしていただろうから、この男性は意外とジェントルなのかもしれない。
「それで、話って何?さっきの子は妹ちゃんとか?」
「と、友達なんです……」
風子は膝の上でしきりに指をいじっていた。当然だが緊張している。
「大事な友達なんだってさ。だからその、祓ってほしくないんだよ」
そう補足すると、男性は俺の顔をじっと見て言った。
「君達は恋人なの?」
「は?何でだよ。ちげーよ」
「いや、兄弟にしては似てないから」
風子には実際に兄貴がいるが顔は全然似てねぇぞ、と思ったが言わないでおいた。わざわざこちらの情報を喋る必要もないだろう。
「ただの友達だよ。おばけ視える仲間」
「ああ、なるほどね。それは貴重だ」
男性は納得したのか一人でうんうん頷いていた。
「こいつ、内気だからなかなか気の置ける友達がいなかったけど、あの子とは仲良くしてたんだよ。だから祓ってほしくない」
「う〜ん、でもそれは無理かなぁ。普通に」
俺は内心で「だろうな」と呟いた。風子が細長い息を吐いて肩を落とす。
「君達もさっき襲われたでしょ?あれが悪霊。霊魂ってほっといたらああなっちゃうの。もちろんさっきの子も同じ」
俺達が何も言わないので、男性は話の先を続ける。
「俺の仕事は二つ。天界に上がって来れなかった浮遊霊を連れて帰ることと、悪霊を退治すること。だから見逃せないよ。今回はたまたま君達が襲われたけど、他の人が襲われたらさ、視えない何かにいきなり攻撃されてそれで死んじゃったりするんだよ。普通に怖いでしょ?」
こいつの言っていることはわかる。さっき犬を連れていた女性だって、何が何だかわからなくて物凄い恐怖だっただろう。悠葵ちゃんが成仏した方がいいなんてこと、誰だってわかってはいるんだ。
「でも、でも……、友達なんです。……悠葵ちゃんしか友達いないんです、私。悠葵ちゃんしかわかってくれる人、いないんです……」
風子は静かに涙を流した。男性は意味ありげに俺に目を向け、俺は「俺は出会ったばっかりだから」と答えた。
「わがまま言ってるのはわかってるんです。ほんとは祓った方がいいってことも知ってるんです。でも、悠葵ちゃんだけは連れて行かないでください。見逃してください」
風子の赤い袴と、握られた拳をポタポタと落ちる涙が濡らした。風子はそのまま深々と頭を下げた。男性は困ったような視線を俺に向ける。
「う〜ん、そう言われてもなぁ。無理なものは無理だからなぁ」
そう言ってポリポリと頬を掻いた。
「どうしても祓わなきゃだめなのか?」
「うん、だってさっきの悪霊みたいになるんだよ?そりゃ祓うでしょ」
「ならない可能性はないのか?」
「遅かれ早かれいつかはなるよ。あの子は死んでからどれくらいなの?死後二年以内に悪霊化しなかった浮遊霊はほとんどいないんだよ」
「どうにか対処法はないのか?頼む。こいつの大事な友達なんだ」
「いやだからそう言われても……」
その時足音が聞こえてきて俺は顔を上げた。買い物袋を片手に提げた女性が、俺達の方をチラチラ見ながら横を通って行った。道に座って泣く女の子とその側で虚空と喋る男。どう見ても不審者だ。
「なぁ、場所変えないか?」
「いや、いいよ、俺はもう帰る」
男性は立ち上がると尻をパンパンと払った。それからフードをかぶる。
「仕事溜まってるし。他にも行かなきゃいけないところあるんだ。今日中に。まぁ、この近くだけど」
俺は「そうか」とだけ答えた。今にも飛び立ちそうな男性に、俺は立ち上がって声をかける。
「なぁ、やっぱりあの子見つけたら祓うのか?」
男性は「ん〜」と鼻から声を出してから、決まりきっているであろう答えを言った。
「祓うよ。仕事だし、この世のルールだから。ごめんね」
そう言ってトンと軽く地面を蹴った。ローブをはためかせながらふわりと浮き上がり、俺に軽く手を振ると、身を翻して飛んでいった。
風子が顔を上げたのは、男性が消えてしばらく経ってからだった。




