俺と真夜中の最低9
深夜の一時半。夜風が涼しくて、開けた窓の枠に腕をついてぼーっと外を眺めていると、目の前にフッと白い塊が現れた。
「うおっ!……なんだよすがかよ。何でお前らはわざわざ俺を驚かしながら現れるんだよ」
白い塊はよすがだった。俺は思わず身を引いた窓枠に再びもたれ掛かる。よすがは浮き加減を調節して俺と目線を合わせた。窓越しに向かい合う形になる。
「知りません。あなたが勝手に吃驚しただけでしょう」
「声をかけろよ声を。で、どうしたんだ?わざわざ。あいつなら風呂だぞ」
普段から、両親が寝静まった夜中に幽霊を入浴させている。もし両親がシャワーの音に目を覚ましても、俺が風呂を使っていると思うだけだろう。
「そうらしいですね。あなたしかいないのには気落ちしますね」
「ならもういいだろ。帰れよ。どこへでも行け」
シッシと手の平で追い払う俺に、よすがは澄まし顔で部屋の中へと入ってきた。すぐ真横の壁を我が物顔で抜ける彼女を、俺は苦々しげな表情で眺めた。
「何で入ってくるんだよ」
「どこへでも行けと言われたので」
よすがは「ここで江戸川様を待ちます」と続けた。
床に正座したよすがにため息を投げつけ、俺はベッドにドカリと腰を下ろした。一瞬の無言。
「なぁ、今日風子と別れたあと、お前ら引き返しただろ。何話してたんだ?」
思案した結果、結局俺はそう尋ねた。よすがと二人きりになる機会はそうそうない。聞くのなら、チャンスは幽霊が風呂に入っている間だけだ。
俺は多少の緊張感を持って尋ねたが、よすがはケロリとした顔で答えた。どうやら彼女にとってはなんてことないようだ。
「ああ、あれですか。私は悠葵殿のことが気になっただけです」
「悠葵ちゃん?」
「ええ、地上歴一年以上の大御所浮遊霊ですから」
「大御所浮遊霊って……一年ってそんな長いか?」
「長いですね。私達はその辺はけっこう細かく見てますよ。死神という役職の仕事なのですが」
俺が黙ったままだからか、よすがはとうとうと説明を始めた。
「霊魂は空気の悪い地上に長くいると刺激を受けて悪霊化しやすいので。霊子の濃い天界が一番安定するんです。悪霊化したら生き物を襲うこともありますらかね」
俺に横顔を向けているよすがは、こちらを見ないまま語り続けた。うつむいているわけでもなく、キリッと顔を上げているわけでも
なく、よすがはいったい何を見ているのだろう。
「生き物は死んだら、死んだ直後の衝撃でわけもわからぬままふわふわと天界に運ばれるのですよ。気付いた時には天界の門の前で審査の順番待ちをしているという場合が大半です。私もそうでしたし」
何かを説明する時、抑揚が少くなるよすがの声は、まるでニュースを聞いているような眠気を俺に誘った。初めて出会った日に抜け穴の説明をされたことをふと思い出す。俺の視線の先で、青白いよすがの頬だけが言葉を紡ぐたびに忙しなく動いていた。
「でもたまに浮いてこない霊魂がいるんです。理由は未だにわかっていません。霊力の多い少ないでもないようですし。そういう地上に残ってしまった霊魂を見つけ出して連れて行くのが死神の仕事です」
よすがが振り向いて、俺の顔見た。パッと視線がぶつかる。よすがは「ふふ」と笑ってこう付け足した。
「あなたも天界への案内人は天使だと思っていました?」
「いや、お前笑えるんだなと思って」
「失礼ですね」
よすがの表情はすでにいつもの無愛想に戻っていて、まるで先程の一瞬が幻想だったのかとさえ思えてくる。
「まぁとどのつまり、少し探りを入れてみたわけです。どの辺に生息しているのか把握しておこうかと思いまして」
「除霊すんのか?」
「除霊という言い方は違和感がありますね。居るべき場所へと案内するのです」
そうだろうとわかってはいたが、改めて言葉にされて、俺は思わず息を呑んだ。
「……でもよ、もし悠葵ちゃんが成仏したら……風子はまた一人になっちまうんじゃねーか?」
俺の言葉に、よすがは小さく首をかしげた。本当に些細な動きで、髪の毛の先がほんの少し揺れる程度だった。だが、俺とよすがの間に別の常識が横たわっているということは、しっかりと伝わった。
「もともと居るべきではない存在ですよ」
「そりゃそうだけどさ」
「もしも悪霊化して理性を無くし、風子殿に危害を加えても良いのですか?」
「それはもちろん良くないけど……」
「その可能性に見てみぬふりをして悠葵殿を放っておくことが、風子殿の為になるとは私には思えませんが」
「そんな責めんなよ」
「あなたは何を望んでいるのですか?」
「そんな大層なもんじゃねーって」
「風子殿が好きなんですか?」
「えっ、」
よすがの一言で俺達の一方的な暴力のような会話は止まった。よすがの言葉に、俺は驚いて彼女の目を凝視する。よすがも俺の目をジッと見て、次の言葉を待っていた。
「いや、何でそうなるんだよ」
「淡白なあなたが、あまりに執着しているので」
「ちげーだろ。可哀想だろ、単純に」
「ではその可哀想を、他の者に感じたことはありますか?」
「あるに決まってんだろそれくらい」
「例えばどなたですか?」
「例えば、」
その時思い浮かんだのは水祈の姿だった。水祈は長い髪を揺らしながら振り返って、柔らかく微笑むと俺の名前を呼んだ。
俺はつい顔を両手で覆って、それだけでは収まりきらず身体を折って小さくなった。顔が熱かった。絶対今真っ赤になっている。よすがの小さな嘆息が聞こえた。今すぐ滅茶苦茶に床を転げ回りたい気分だった。
「まぁ、あなたが何を思おうと勝手ですがね、私は上に戻ったら死神に悠葵殿のことを報告しますよ。ついでに彼らの怠慢も責めてやらねばなりません。仕事ですからね」
何を言われても今は何も言い返せなかった。というかそもそもまず顔が上げれない。
俺があまりに打ちのめされていて無抵抗だから哀れに思ったのか、ちょっとの間が空いて、先程より幾分弱々しい声でよすがは「悪く思わないでくださいね」と付け足した。俺はそれがとどめになり、そのままパタンと横に倒れると、顔を覆ったまま手探りで布団を手繰り寄せ身体に巻き付け、繭のようになった。もうしばらくそっとしておいてほしい。
俺の姿が痛々しかったのだろうか、よすがは切り替えたような声色で言った。
「まぁ、江戸川様は別の用で引き返したみたいですが。私と同じで死神の怠慢を心配されていたのだと思っていたので、少々驚きました」
え?俺はつい布団を取っ払ってしまいそうになったが、その一瞬早く幽霊の無駄にハイテンションな声が飛び込んできた。
「和輝ー!風呂終わったぞー!……あれ?よすが」
「お待ちしておりました、江戸川様」
顔を出す機会を失ってしまった俺は未だに繭のままだ。布団越しに幽霊の声が降ってくる。
「和輝どうしたんだ?」
「いえ、まぁ、ちょっと……些細なことがありまして」
よすがは定例会議のためにやって来たようだったが、俺の気持ちを尊重してか、幽霊を連れて部屋から出て行った。ありがたい。外でやってくれと思っていたところなのだ。
二人がいなくなってしばらくして、俺はもそもそと起き上がった。結局、幽霊が引き返した理由を知ることはできなかった。




