俺とあの日の記憶5
大名水祈は母親に首を絞められて殺された。
考えたくないことだが、事実はまさしくその通りにそこにあるのだ。それは受け入れる以外の選択肢を俺に与えてはくれない。
水祈の母親である大名千歳は、当時四十歳だった。三重県で育った千歳は短大を卒業後、仕事の為に滋賀で独り暮らしを始めた。そこで出会ったのが水祈の父親、大名徳光である。二十二歳で瑞火を産み、二十五歳で水祈を産んだ。この野洲の街で専業主婦をしながら二人を育てた。
俺は何度か千歳に会ったことがある。子供の頃水祈の家へ遊びに行った時や、地域での行事、瑞火の授業参観に来ていた時。その時のどの彼女も、朗らかでおっとりした、優しい女性だった。
一年前の三月二十九日土曜日。その日、サラリーマンである徳光は休日出勤の為朝早く家を出た。瑞火は昼過ぎまでリビングでダラダラとしていた。水祈はお昼前に友達と出かけると家を出た。
午後三時三十分頃、千歳は夕飯の食材を揃える為に買い物に出かけた。近所のスーパーで知り合いに会い少し話し込み、彼女が家についたのは四時三十分だった。
買い物に行く前にもリビングで見かけた瑞火はどうやら出かけたようだ。後の事情聴取でわかったが、彼女はこの時暇を解消する為家の近くをぶらぶら散歩していたらしい。
姉と反対に、水祈は家に帰ってきていた。リビングでテレビを見ていた彼女は千歳に気がついて「おかえりなさい」と言った。千歳は「ただいま」と返して、だらけている水祈に注意をした。宿題はしたの、と。
水祈は機嫌がよくなかったのか、興奮気味に言い返した。その態度にカチンときてしまい千歳も、遊び歩いてばかりいないで予習でもしたらどうだ、まだ中学生なのだからフラフラ外をほっつき歩くのもよくない、学生の本分は勉強だ、と感情的に責めてしまった。その後の会話はあまりよく覚えていないが、激しい言い合いになり、激昂したそのままの勢いで首を締めてしまった。
この話を聞いた時、俺には違和感しかなかった。水祈も千歳さんも、どちらもおっとりとした優しい性格だ。この二人が、こんなに激しい言い合いをして、カッとなって殺してしまうなんてことあるだろうか。俺には今でもその光景を想像することができない。
だが、事実は事実として確かにそこにある。
ぐったりと倒れた水祈を見て、千歳の頭は一瞬で冷え、そしてパニックになった。その後すぐに、休日出勤早をめに切り上げた徳光が帰宅。リビングの惨状を目撃し、取り乱した千歳の様子から状況を察した。千歳はこの時点ですでに自分の犯行を認めており、警察への連絡は徳光が行っている。
瑞火が帰ってきたのはその後だ。警察の到着とほぼ同じくらい。Tシャツとジーンズにスニーカーというラフな服装で、瑞火は散歩から帰宅した。
瑞火は自宅の惨状に驚いてはいたが、妹の死にも母の罪にも涙を流すことはなかった。彼女はそれを警官の迅速なフォローがあったおかげと語っている。今思えば、水祈が死んだところでそもそもショックなど受けていなかったのだろう。その証拠に、事件当日の夜彼女はクラスメイトと他愛もない内容のメッセージのやり取りをしているという。
以上が、当時の新聞やニュースから得た事件の全貌だ。千歳が犯行を認めている為、俺や近所の人々に捜査が及ぶことはなかった。生前の水祈と親しかった友達に多少事情を聞きに来たくらいだ。誰が話したかはわからないが親しかった者の中に俺の名前も上がったらしく、一応警官が話を聞きに来た。だが、それだけだった。
水祈は呆気なくこの世から消えてしまった。
母親が娘の首を絞め殺すこの事件は、多少マスコミを賑わせた。ちょうど切り裂きジャックの連続殺人がピタリと止まったところだったので、マスコミもネタを探していたのだろう。その証拠に水祈の死は、一週間後に別の県で起きた通り魔事件に話題をかっ攫われ、すぐに世界から忘れられた。
水祈の葬儀にはたくさんの人が集まった。一番前の親族の席以外は、学ランとセーラー服で埋まった。あの中のいったい何人の人が、水祈の死を悲しんでいただろうか。水祈の顔の横に花を置く時に、後ろにいた女子生徒達に急かされたことをつい思い出した。
大名水祈は母親に首を絞められて殺された。
親子喧嘩の末にあっさりとこの世を去った。あんなに心根のいい温和な水祈が。いつも温かい微笑みで俺に接してくれていた千歳さんに。首を絞められて殺された。
一年前のことを何度思い返しても信じられない。
あの日水祈の約束の相手は俺だった。電車で二駅のところにあるカフェに、昼ごはんを食べに行った。クラスの友達に教えてもらったパスタの美味しいカフェだと言っていた。水祈が選んだカフェだ。
本当に取るに足りない話をした。新学期の話とか、進学の話とか、春休みに遊びに行った場所の話、テレビの話題。まさか水祈と過ごす最後の日になるなんて。そんなの誰も、神にだってわからなかった。
カフェでゆっくりしてから、駅前の大型スーパーで必要な物を買って、電車に乗って帰った。シャープペンの芯がなくなったから文具売り場に寄りたいと水祈が言ったのだ。フロアの隅にある小さなゲームセンターでUFOキャッチャーをした。そんなに上手くもない俺が、もっと上手くない水祈に、ありふれたうさぎのストラップを取ってやった。それはただの二人の休日で、ただいつもそこにある幸せだった。
俺が水祈の死を知らされたのは、その日の夜だった。誰かから連絡があったわけじゃない。近所にパトカーが停まれば、噂は瞬く間に広がる。大名さん、娘さんの首を絞めて殺しちゃったらしいわよ。ほら、あの妹さんの方よ。俺がリビングに入るなり、母はそう言った。間違っているところなど一つもなかった。ただただそれが事実だった。
俺は水祈の家に走った。母は俺が野次馬根性を発揮したか、同級生の瑞火を心配したか、それくらいにしか捉えなかったらしい。俺と水祈の関係は誰にも話していなかったから。
水祈の家の前にはすでに人の垣根ができていた。マスコミも来ていた。警察の姿は見えなかった。水祈の家はカーテンがぴっちりと閉められていて、明かりが一つもついていなかった。父親も大名も、警察で事情聴取を受けていたのかもしれない。
俺はそれ以来、千歳さんにも水祈の親父さんとも顔を合わせていない。大名の表情からは何も読み取れない。あの日あの家で水祈は死んだ。俺にわかるのはそれだけだった。




