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サングラム  作者: 國崎晶
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俺と彼の想い人2




幽霊のうるさいいびきが唐突に止んだ。いつものことだ。床で寝ている幽霊が目を覚したのだろう。

横目で机の上の時計を確認する。午前三時半。俺は呼吸のリズムは変えずに、黙って天井を見つめていた。

普段なら、夜中目を覚した幽霊は、しばらく布団の中でごろごろした後再び浅い眠りにつく。しかし今日は違った。いつもより大きな衣擦れの音がして、俺の視界に影が映り込んだ。幽霊が立ち上がったのだ。

幽霊はそろりそろりと窓の方へ近づき、カーテンに指で少し隙間を作った。どうやら外を眺めているらしい。まさか天使が近付いているのだろうか。

敵襲かと思い、俺は腕に力を込めた。起き上がろうとした直前、やはり思い留まる。ベッドはギリギリ軋まなかった。幽霊は窓の外にぼーっと目を向けている。

俺は足元の辺りに立つ幽霊を、眼球の動きだけで何とか見守っていた。しかし、微動だにしない対象に、さすがに外眼筋が疲れてくる。心の中で三つ数えると、俺は上体を起こしながら声をかけた。ミシミシとベッドが悲鳴を上げる。

「おい、どうした。何見てんだ」

俺の声に幽霊はあからさまにびっくりして振り返った。

「何だ、和輝、起きたのか」

「こっちのセリフだ。そんなとこで何見てんだよ。薄暗い部屋でぼーっと突っ立ってるなんて、幽霊かと思ったぜ」

「残念だな、オレは正真正銘の幽霊だ」

幽霊がその場を動かなかったので、俺は布団から出てその隣に並んだ。カーテンをゆっくりと開けて、幽霊が眺めていたものを瞳に映す。そこには、閑散とした夜中の住宅街と自信なさげに光る月と星しかなかった。

「で、何見てたんだよ」

「別に、何でもないんだ。一度起きたら寝付けなくて」

ほとんど同じ高さにある幽霊の顔を、横目でちらっと眺める。

「幽霊は休むと霊子が安定するっつってたが、休まないとどうなるんだ?」

「霊子がぶれて気分が悪くなる。うまく歩けなかったり、倒れたり」

「貧血みたいなもんか」

「ああ、近いかもしれん」

こいつは自分のことをすごい霊体だと言っていたが、こいつでも睡眠を疎かにしたら気分が悪くなったりするのだろうか。

俺は窓の外に視線を戻した。景色は何一つ変わっていなかったし、これから変わりそうにもなかった。再度その横顔を盗み見ても、彼は窓の外を眺めるだけだった。

「お前も寝なかったら貧血になるんだろ」

「そうだな、寝た方がいいな」

暗に寝ろと促すと、幽霊は割とあっさりその場を離れた。捲りっぱなしだった布団に両足を突っ込む姿に無性に腹が立ち、俺は目の前にぶら下がっていた蛍光灯の引き紐を引っ張った。瞬きをするように白い光が点灯する。幽霊は驚いてそのままの体勢で俺を見上げた。

「どうした、和輝。寝るんじゃないのか」

「別に寝ろとは言ってない」

「半分以上そう言ってたじゃねーか」

「お前の被害妄想だ」

俺はベッドの縁には座らず、幽霊の布団の上であぐらをかいた。幽霊は足を引っ込めて、何故か正座をする。真正面ではなく、俺の左斜めに幽霊がいるような位置取りだ。

不思議そうな顔をする幽霊に俺は切り出す。思っていたより自然に言葉が出た。腹を立てているせいかもしれない。

「お前さ、何か悩んでることあんならさっさと言えよ」

「え、そういうわけじゃないんだけど」

「どう見たってそういう感じじゃねぇか。それとも何だ、俺のだけ洗いざらい吐かせて自分のことはだんまりか。聞き逃げか?」

「別に、洗いざらいは聞いてねぇじゃんか」

「聞いただろ。俺からしたら言ったようなもんだ」

幽霊は「和輝の洗いざらいはふわふわし過ぎてる……」というよくわからない文句をブツブツ言いながら、言うか言うまいか悩んでいた。いや、何故悩む必要があるのだ。別に聞いたところで誰にバラすわけでもないのに。

しばらく黙って見守っていると、幽霊は足を崩して顔を上げた。「えー……っと」とか何とか言いながら話を切り出す。俺は気付かれない程度に身を乗り出した。

「オレ、ここには人を探しに来てるんだ」

「ああ、何か栗生にもそんなこと言ってたな。会いたい人がいるとかどうとか」

確か、栗生には「それは傲慢だ」と言われていたはずだ。

栗生の顔を思い出して、すぐにその顔が掻き消えたと思ったら、今度は風子の顔が浮かんできた。緑色の瞳。その水面で揺れる光。彼女の声を思い出しそうになって、俺はそのイメージを無理矢理頭から追い出した。

「ああ、その会いたい人っていうのは、オレの好きな人なんだ」

「……彼女ってことか」

俺は半ば呆然としながらそう聞き返した。驚いた。まさかこいつにそのような存在がいたとは。

幽霊は途端に照れだし、にへらにへらと口の端をだらしなくしながらうだうだと答えた。

「いやぁ、恋人というか何というか、オレが一方的に好きだっただけというか、まぁでも彼女の方もきっとオレのことが好きだったというか何というか」

「わかったわかった、そういうのはもういい。お前はその子に会いに来た。その子はこの世の人間なのか?」

俺はペッペッと痰を吐く身振りをした。幽霊はそれには何もツッコミを入れずに続ける。

「いや、オレと同じだ。もう死んでる」

その答えに、俺はふざけるのを止めて、まじまじと幽霊の顔を見た。幽霊は眉を下げて困ったように笑っている。死んでいると返されて、俺が戸惑っているように見えたのだろう。事実俺は戸惑っていたが、それよりも状況を理解することの方に気が回っていた。

「?どういうことだ?死んでるなら天国の中を探し回るべきだろ」

「うん、まぁ、そうだな」

「じゃあ何でこんなところにいんだよ」

俺の質問に、幽霊は視線を右に動かし、次に左に動かして、最後に上を向いた。どうやら頭の中で答えをまとめているらしい。

「天界中を探したけど見つかんなくて、せめて想い出が戻ってこないかなーと地上に降りてきた。たぶんこの辺だと思うんだ、彼女と過ごした場所」

「なんだよ、じゃあお前は、その子に会いに来たんじゃなくて、想い出を蘇らせにきたってことか?」

「まぁ、そんなところだな。百年くらいずっと探して見つからないんだから、せめて想い出くらい増やしたいよな」

「お前なぁ、想い出なんてどこにいたって思い出そうと思えば思い出せるだろ。こんなところでうろうろしてる時間があるなら、天国探しに行った方が可能性高いんじゃないか?」

唐突に、青い空に浮かぶ雲を思い出した。質量のない、大きな大きな白い鳥。

俺は記憶を辿っているのだ。記憶ってものは酷く曖昧で、どんなに忘れたくないことでも脳から消えてしまったり、都合のいいように勝手に改竄されたりする。

「天国はもう探し尽くした。何せオレは五十年生きた後に、六十年神をやってるからな」

幽霊は目を細めて微笑んだ。彼は普段は、眉尻を上げて、目を糸のように細くして、キツネみたいな表情で笑う。

不意に声が聞こえた。思わず窓を見たが、開いているわけじゃない。鼻にかかった少しざらついた声が、どこからともなく風に乗ってやってくる。すぐに俺の頭の中にだけ聞こえるのだと気付いた。

和輝にも、何か忘れたくないものがあるんじゃないか?その記憶が底に沈んでしまわないように、いつも必死に水面を掻いてるんじゃないのか?

「百十年探しても見つからないのか」

「見つからなかった。色んな方法で探したけど、だめだった」

「天国って、広いんだな」

「でもどこかにいるはずなんだ。あの人はまだ輪廻の輪に乗ってはいない」

俺の中には水祈が生きている。はねた毛先を揺らしながら、優しい青の瞳をこちらに向ける彼女。ななめに流した前髪を右手でちょっと直すのが癖だった。

俺は忘れたくない想い出を忘れないために記憶を辿るのだ。この先俺が社会人になって、結婚して、子供が生まれて、よぼよぼになって死ぬまで、この想い出を俺の中に残すために、何度も何度も同じ記憶を辿るのだ。

「転生したかっていうのはわかるもんなのか?」

「不測の事態でない限りは記録が残ってるんだ。検索とかできるわけじゃないから、あの人の記録を探すのにずいぶん苦労した」

「その人は、死ぬ前から知り合いだったのか?」

なんとなくそんな気はしていたが、やはり幽霊は頷いた。死ぬ前に好きだった人と、天国で離れ離れになる。そして天国は広い。

幽霊の着物の裾が、ひらひらと視界の端で揺れる。持て余した幽霊の両足。公園のベンチ。

その通りだった。こいつが、俺の内側をこんなに解ることに、とても腹が立った。と同時にひどく安心した。こいつの失ったものは誰だろう。

「和輝に話してたら、また会いたくなってきた」

「会えるといいな。その人、なんて名前なんだ?」

俺は忘れたくない想い出を忘れないために記憶を辿るのだ。いつか俺が死ぬまで、この想い出を俺の中に残すために、何度も何度も同じ記憶を辿るのだ。

俺の素朴な問いに、幽霊は自信なさげに答えた。

木下佳子(きのしたかこ)

なぁ、お前はそうじゃないのか?江戸川。





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