俺と無慈悲な世界のモメント3
「学校行くのか、和輝」
「まぁな」
野洲駅から出てしばらく歩いたところで幽霊がそう言った。少し遠くに野洲高校の校舎が見える。
「和輝のことだから怠けると思ったぜ」
「時間潰す場所考えんのも面倒だろ」
今から登校しても受けることができるのは最後の一時間だけだ。しかしこのまま帰宅しては、今日は一日中家にいると豪語していた母から質問の嵐だろう。それなら授業終了まで学校で過ごし、いつも通り帰宅するのが一番簡単だ。幸い学校は駅から近い。
「今何の授業やってんだろな」
「あー、何だったかな。五時間目は数学だったか?いや、現文だったような……」
裏門が見える位置まで歩き、サボり防止の教師が立っていないか確認しようと顔を上げる。顔を上げて、俺は思わず目を見開いた。女の子がいる。
裏門の柵のすぐ前、普段教師がいる辺りに女の子が立っている。教師はいない。ここは高校なのだから女の子が立っていることなど別におかしくも何ともないと思われるだろうが、そうではないのだ。その子の出で立ちが思い切り風変わりだ。
まず、髪が白い。腰まである長い髪を、毛先の方だけ筒のような髪飾りでまとめている。オシャレ重視の銀髪というより、おばあちゃんの白髪みたいだ。真っ白で美しい白髪ではあるのだが、後ろ姿なら年齢がわからないかもしれない。
そして極めつけは服だ。和服……というより、巫女さんのような格好をしている。落ち着いた色の赤い袴に、渋い紫や緑の模様の帯をしている。彼女は何者だろうか。
俺がつい足を止めて観察していると、彼女は突然顔を上げた。バチッと目が合った……のはどうやら俺ではなく隣の幽霊だったようだ。ん?幽霊と目が合う?
「おい、和輝、あの子こっち見てるぞ。ちょっとかわいい子だな」
「んなこと言ってる場合か!走るぞ!」
俺は高速で踵を返すと走り出した。一拍遅れて女の子が駆け出す。その更に一拍後、幽霊はようやく動き出した。
「なぁ、何で逃げるんだ?」
「馬鹿か!あの子お前のこと視えてただろ!」
「えっ、そうなのか?」
相変わらずビラビラと鬱陶しい着物で、俺の後ろをドタバタ走っていた幽霊は、ふっと宙に浮くとスーッと俺に並行した。
すぐ目の前の角を左に曲がる。ちなみに俺達は右の角からやって来たし、俺の家もそちらの方向にある。家や通学路からはなるべく離れた方がいいだろう。
「ついてきてるか?」
「ついてきてる!」
女の子は俺達について来るが、どうやらなかなかに足が遅いらしい。みるみる引き離し、俺には振り返る余裕までできた。これだけ離れていれば、次の角で巻けるだろうし、左に曲がって正門から学校に入ってしまおう。大勢の前ではだいそれた事はしないだろう。なんなら不審者として教師に通報してもらってもいい。
そう思考を巡らせながら角を左に曲がる。そしてとっさに足を止めた。眼前の男も同様だ。幽霊だけが、勢い余って俺と男をすり抜けてゆく。
「!」
「和輝!」
曲がり角で鉢合わせたのは昨日の男だった。お互いに気付いたのはほぼ同時、しかし行動は男の方が早い。男が俺のワイシャツの襟を掴み、シャツとセーターがぐっと伸びた。
やばいと感じたその刹那、伸ばされた男の腕の真上に移動していた幽霊が、空中で実体化した。男はとっさに手を離し腕を引く。成人男性の全体重と重力で腕を折ってやろうという、情け容赦の一ミリもない攻撃だ。
怯んで一歩下がった男の顔目掛けて、間髪入れず俺はスクール鞄を思い切り振るった。男には幽霊が視える。彼からはスクール鞄が突然幽霊をすり抜けて飛び出したように見えただろう。
スクール鞄は男の頬を思い切り打ち、彼はぐらりとよろめいた。再度実体化した幽霊が腰の入った回転蹴りを放った。幽霊の下駄が男の腹にめり込む。男は背が高く威圧的ではあるが、どちらかというと細身だ。腹に蹴りが入ってさすがに膝をついた。俺は男の脇をすり抜けて正門を目指す。
「風子!」
男の声に背後を振り返ると、曲がり角から先程の女の子が現れたところだった。やはり仲間だったか。そう思った次の瞬間、俺は目を疑った。
「何だあれ!」
すぐ隣で幽霊の声が聞こえる。俺は何も言葉を発せなかった。
空高くから、何か青白く光る塊が落ちてきて、女の子に直撃した。
「あれは霊体だ」
幽霊が呟いた。俺も幽霊も、完全に足が止まっている。
光が直撃した瞬間女の子はぐらついて、そしてすぐ顔を上げた。女の子と目が合う。と思った直後、彼女が眼前に迫っていた。
女の子が足を振り上げる。蹴りがくる、と気付いた。身体は動かなかった。赤い袴がまくれあがって、白い足袋とふくらはぎが見える。先程の幽霊の蹴りもなかなかのものだと思ったが、この蹴りは桁違いだ。脚が鞭のようにしなり、鋭く一直線に向かってくる。トテトテと運動音痴丸出しで追いかけてきた姿とは打って変わった、プロのような蹴りだ。
「和輝!」
幽霊に台襟を引っ張られる。女の子のつま先は俺の顎すれすれを通過した。
女の子は蹴りを躱されたと判断した瞬間、その場でくるりとターンして反対の脚を振り上げた。今度は踵が迫ってくる。それと同時に、幽霊は片足を軸に回転するように襟を引く。遠心力が味方して俺と幽霊の場所が入れ替わった。
「おい!」
「大丈夫だ!」
幽霊が頭を守る盾にした両腕に、女の子の踵がめり込んだ。どこが大丈夫だよ!幽霊の腕からはゴキッという嫌な音が鳴り、その背中は片側に揺らいだ。これがひ弱そうな女の子でなくそれなりに鍛えた男の蹴りだったら、おそらく骨が折れていただろう。
「悪いな、殴り合い担当は俺じゃないんだ」
立ち上がった男が口角を上げながらそう言った。だが残念だったな、俺だって今日は丸腰じゃない。
女の子が蹴り上げた片足を一度地につけ態勢を整える。俺はスクール鞄から引っ張りだした拳銃から巾着を引き剥がした。女の子が一歩踏み込み、それとほぼ同時に片足を上げる。また蹴りを放つつもりだ。俺は拳銃を突きつける。女の子は拳銃を見て目を見開いたが、すぐに蹴りの標的を俺の両手に変えた。拳銃を蹴り落とすつもりだ。俺はそれより早く引き金を引く。と同時に気が付いた。安全装置を外していない!
当然銃口から弾が発射することはなく、女の子のつま先が近付く。やばい、と身構えたと同時に、倒れこんでいた幽霊がグイッと足を伸ばして、女の子の地についた片足を蹴った。もともと片脚を振り上げるというひどくアンバランスな態勢だった女の子だ、幽霊に支点を蹴られて簡単によろめいた。それでも超反射的な反応速度で両足で踏ん張り、転倒は免れる。しかし、それは俺が安全装置を解除するには十分な時間だった。
「風子!」
「もう遅い!」
男の二度目の「風子!」は焦り一色だった。俺の指先からパンッと乾いた音がする。女の子は左肩を押さえてうずくまった。
「風子、大丈夫か!」
男が女の子に駆け寄る。構わず立ち上がろうとした女の子の肩を掴み無理矢理座らせると、男は小さな声で何か言った。女の子からものすごい速さで光の塊が抜け出し、空高く真っ直ぐに消えていった。俺と、いつの間にか俺の隣で両腕をさすっていた幽霊は、その様子を口を開けて眺めていた。
「お前ら……よくも……」
男がゆらりと立ち上がり、俺達を睨みつける。これが漫画なら目の上に黒い影がかかっていることだろう。もともと目付きの悪い男だ、睨まれると普通に怖い。
「よくもって……そもそもお前が喧嘩ふっかけてきたんだろッ」
いつでも走れるように腰を落として反論する。言っておくがへっぴり腰では断じて無い。いつでも走れるように腰を落としているのだ。
「お前が霊を匿うからだろう」
「匿って何が悪いんだよ」
「霊は成仏すべきだ」
「こいつら何も悪さしねぇだろ」
「放っておくと悪霊になる場合がある」
「こいつはそんな風にはならねぇよ」
「なんの根拠もないだろう。どけ、今すぐ除霊する」
「根拠ならある、こいつ神様なんだ」
男の表情が変わった。眉をそっと寄せて俺を見下ろす。今にも「は?」とか言いそうだ。
「は?」
いや言った。俺は顔から火が出そうだった。いやこれ普通に恥ずかしい。何だよ「こいつ神様なんだ」って。中二病かよ。
「お、お前、神っつーのはハッタリだとかねぇよな」
「ないないない!ほんとだ!身分証明証ある!」
ちらりと振り返ってそう尋ねると、幽霊は袖をバタバタさせながら反論した。そして何やら着物の中を漁りだした。
「ほら、これ!神様のしるし!」
幽霊が袖の中から取り出して男に突きつけたのは、小さくて薄い長方形の金属のプレートのような物だった。銀色のプレートに文字が彫ってある。彫った溝には黒いインクが流し込まれていて、文字が読みやすい。それにはこう書かれていた。【江戸川文太郎】【職業:神殿管理】【位:神】。プレートの上部には紐が輪になっており、おそらく首に掛けることげできるようになっているのだろう。
そのプレートを突きつけられて、男はフンと鼻を鳴らした。
「それが何の証拠になるんだ」
そう言われて俺は内心で「確かに!」と叫んでしまった。こいつが神だという情報は、こいつの自己申告でしかない。なんだかんだいつの間にか信じていたが、こいつが神である証拠はどこにも無いのだ。
俺が振り返ると、泣きそうな顔の幽霊と目が合った。
「おい、お前神様じゃない説出てきたぞ」
「神だって!ほんとに!」
「何か証拠ねーの」
「だからこれが証拠だよ!」
「もっと一発でわかるやつを求む」
「そうだ、杖!オレ杖とか持ってる!上に置いて来ちゃったけど」
「意味ねー」
ふいに男のため息が聞こえた。幽霊と同時にバッとそちらを振り返ると、男が呆れた眼差しを向けていた。睨まれていないのにはホッとするが、これはこれで怖いような。女の子もすっかり体調が戻ったらしく、男に寄り添うように立ち上がっていた。……チラッと考えていたのだが、もしかしてこの二人付き合っているのか。
「場所を変えるぞ。ここは目立ちすぎる」
男がそう言って俺達の背後を見る。振り返ると、少し向こうから犬を連れた女性が歩いて来るところだった。確かに、目立つのは感心しない。感心しないが……。
「なんで俺らがお前に従わなきゃなんねーんだよ」
「ただの提案だ。ここではろくな話もできないだろう」
「…………」
俺は押し黙った。隣で幽霊が俺の顔色を窺う。どうやら決断を俺に任せるつもりでいるようだ。俺は考えた。男からは先程までの敵意は感じない。俺達と腰を据えて話をする意志があるのだろうか。そうであるならばその方がいい。学校がバレている俺からしたら、何度もかち合いその度に逃げるよりも、今敵でないことをわかってもらって今後も関わらない約束がほしい。
「……わかった。俺達もちゃんと話を聞いてほしいと思っている」
俺がそう答えると、男は頷いた。
「この近くにカフェがある」
男はそれだけ言うと踵を返した。女の子はちらりとこちらを見たが、トテトテと男を追いかける。ついて来いということか。
「なぁ、カフェだって。ハンバーグあるかな」
「この近くのカフェってことは……たぶんフォークだろうな。ハンバーグがあるかどうかは知らん」
俺はここから徒歩で三分ほどの場所にあるカフェを思い浮かべた。先程死闘を繰り広げた角を右に曲がったところを見ると、目的地はそこで間違いないだろう。
「和輝、話し合ってどうするんだ」
「お前に害がないことをわかってもらう」
小声で幽霊が声をかけてくる。俺も小声で返した。俺達の二メートル程前を歩いている男が様子を窺うように振り返る。
「どうやってわかってもらうんだ?」
「逆に聞くが、お前自分が神だって一発でわかってもらえるような能力ないのかよ。何か願いを叶えるとかさ」
「神は魔法使いじゃない。神の主な仕事は見守ることだ」
「枯れた花を咲かすとか、触れずに物を移動させるとか、……死んだ人間を生き返らすとか」
「死んだ人間を甦らせるのは神じゃない。輪廻だ」
「ああ、そうだったな。わかってるよ」
俺はそう言って口を固く結んだ。目的地についたのだ。目の前の背中が振り返って「ここだ」と言った。
店内に入った俺達は、店員に「三名様ですね。お好きな席へどうぞ」と言われ、迷わず一番奥のテーブルへ向かった。
テーブルの前で一瞬言葉のない争いを繰り広げたが、男がサッと壁際の席に座った。俺達が逃げ出そうとしてもすぐに捉えることが出来るという自信の表れだと受け取る。俺は無理に澄ました顔を作ってイスに座った。これで席順は奥から時計回りに男、女の子、俺、幽霊となる。
すぐに店員がお冷とメニューを持ってきて、その時に注文も適当に済ませる。店員が厨房に戻ったことを確認したあと、男がこちらに顔を向けた。
「弁明させてやる」
俺はたっぷり時間をかけて水を一口飲んだ。コップを置き、その間ずっとこちらを見ていた男と目を合わせる。コップの輪郭をなぞった水滴がテーブルを濡らした。
何度も言うが俺は喧嘩が苦手だ。何故なら弱いからだ。それに口もたいして達者ではない。偏差値の低いあの高校のクラスメートをちょっとだけ見下せるレベルだ。目の前の男の方が圧倒的に強い。正直口の中はカラカラである。
「弁明なんてするつもりはない。逆に、どうしたらこいつに害が無いかわかってもらえるんだ?」
「霊はこの世にいるだけで害だ。霊は本来速やかに成仏すべき存在だ。成仏せずにうろちょろしている霊を俺達は払っている」
「あんた達は除霊師なのか」
「まぁ、そんなところだな」
注文した飲み物を持って店員がやってきた。俺は目の前に置かれたコーラを幽霊の前にスライドさせる。その一連の流れを眺めていた男が、心なしか眉を寄せたような気がした。
店員が片付けや料理に追われていることを確認して、幽霊がほんの一瞬だけ実体化した。本当に瞬きの間ほどの短い時間だ。昼には遅く夕飯には早いこの時刻、客はお喋りに熱中している中年女性二人しかいない。幽霊は美味しそうにコーラをすすっていた。
「こいつ一度成仏してるんだ。なら無理に祓わなくてもいいだろ」
「だからその証拠が無いと言っている。それに、成仏したからといって悪霊にならないとも限らない。霊がこの世にいるだけで悪影響なんだ」
「俺がちゃんと見張ってるよ。悪霊になったらお前に連絡する。それでいいだろ」
「悪霊になったその瞬間に食われるかもしれないぞ。悪霊になってからじゃ遅いんだよ」
男が面倒臭そうに言う。聞き分けの悪い子供に苛ついている母親みたいだ。隣に座る女の子は、成り行きを見守りながらフルーツジュースを飲んでいる。
「第一、何でそんなにそいつを守ろうとするんだ」
「別に守ってるわけじゃない」
「なら祓ってもいいだろう」
「それは……。こいつ悪いやつじゃねぇし……」
「霊の性格なんて関係ない。霊という存在自体がよくないんだ」
俺は何も言い返せずに黙ったが、すぐにまた口を開いた。説得の方向性を変える。
「あんたは霊が視えるんだろ。仲良くなった霊とか今までにいなかったのかよ」
「いないな」
男は即答した。女の子がもともとの下がり眉を更に下げて男の顔を見上げる。
「子供の頃とか、よくわからずに話しかけたりしなかったのか?そいつらは悪いやつらじゃなかっただろ」
「俺達は霊を祓うのが仕事なんだ。大工は家を建てるのが仕事、弁護士は被告人を弁護するのが仕事、料理人は料理をするのが仕事。俺達は霊を祓うのが仕事だ。霊に良いも悪いもない」
男は言い切ったが、子供の頃は俺と同じように知らずに霊に声をかけていたと思う。その時の霊は親切に、にこやかに、まるで生きている人間のように、男の言葉に答えたはずだ。悪い霊など地上にはほとんど存在しない。それを知っていても仕事と割り切るのか。
「何でそんなに頭固いんだよ」
「一つでも例外を作ればそれに甘えるやつが次から次へと湧いて出る」
「頑固野郎め」
男が言っていることはもっともで、俺の口からは悪態しか出なかった。
「おい、お前も何とか言えよ」
一対一では分が悪いと感じた俺は、肘で隣の幽霊を小突いた。幽霊はコーラをテーブルに置いて神妙な顔をする。
「でも、そいつの言ってることは全部本当のことだ。うちの職員に職務怠慢や取り逃しがあるのは事実だし、そういう霊魂が門に強制送還されるのは神殿としても助かってる」
「お前何相手の肩持ってんだよ」
幽霊は目の前の男の目を見ると、俺のツッコミには触れずに続けた。
「それでも、オレは帰りたくない。やらなきゃいけないことがまだできてないんだ」
「そのやらなきゃならないことってのは何だ」
男はすぐに聞き返した。俺は幽霊の次の言葉に意識を集中させる。琵琶湖の砂浜に棒きれで文字を書く幽霊の横顔がよみがえった。
「会いたい人がいるんだ」
男は今度はすぐに言葉を返さなかった。堅い表情でしばらく幽霊の顔を見つめる。幽霊も目を逸らさなかった。男はようやく口を開く。
「それは、お前の傲慢だな」
男は視線をコーヒーに落として、その取っ手に手をかけた。
「一度死んだ人間が何言ってんだ。ふざけてんじゃねぇぞ。ったく」
カップを口に運び、コーヒーを啜ろうとしたところで男は動きを停止した。目を開いて窓の外に目を向ける。男より数秒早くそちらを向いていた女の子は、景色の一点を見つめながら「お兄ちゃん……」と呟いた。カップルではなく兄妹だったのか。
何となくホッとしながら俺も窓の外に目を向けてみる。少し身を乗り出して兄妹の視線の先を確認したが、何も異常は無く人っ子一人いない。二人して一体何を固まっているのだと不思議に思った瞬間、窓ガラスを挟んで視界いっぱいに、白い羽がひしめいた。
「……天使だ」
思わず声がこぼれた。布が多い上に縫い目の少ない白い服に、視界を埋め尽くす白く大きい羽根。天使以外の何者でもなかった。しかも、四人もいる。
「和輝!」
幽霊がふわっと浮いてイスの背もたれをすり抜けた。俺も慌てて立ち上がり、倒れんばかりの勢いでイスが揺れる。
「おい、どこへ行く!」
「追われてるんだ!」
俺は終わりまで言わぬうちから駈け出した。騒動に気が付いた店員が顔を覗かせるが、俺と幽霊は店を飛び出した後だった。コーラの代金のことはすっかりと頭から抜け落ちていた。
俺と幽霊は示し合わせもせずに同じ方向に駈け出した。当然天使達と店を挟んで反対側だ。天使達は簡単に作戦会議をしているらしく、まだその場に留まっていた。おそらく幽霊の正確な位置は掴んでいないのだ。
「どこに行く!?」
「とりあえず離れよう!」
「くそっ、いいよなあお前は飛べて!」
悪態をつきながらも脚を動かす。すぐに息切れを感じたが、それでも走れるだけ走った。幽霊が荷物を持ってくれているのも地味に助かる。
「和輝、あそこに隠れよう!」
幽霊がドラッグストアの外付けのトイレを指差した。息が上がっていて返事はできないが、この際どこでもいい。俺は男性用トイレに飛び込んだ。
滑りこむようにトイレ内に入りドアの鍵を閉め、更に個室に飛び込んだ。ふたを閉めた便座に腰掛ける。呼吸を整えることに集中する。
「はぁ、ここは、バレないのか?ほんとに」
そこまで言って、そういやこの幽霊から逃げる時に工事現場の簡易トイレに隠れたことがあるなと思い出した。
「オレ達透視ができるわけじゃないからな。部屋の中見るにはいちいち覗かなきゃならない」
「まぁ、確かにこんなトイレまでチェックすることはなさそうだな」
それから十分間、狭い個室で二人息を潜めた。無言の空間が余計に時間の流れを緩やかに感じさせる。俺がポケットからスマホを取り出し時刻を確認したのを見て、幽霊が口を開いた。
「そろそろ出るか」
「もういいのか?」
「ここにいても埒が明かない。家に帰ろう」
幽霊はそう言うと、ほんの少しだけ顔を壁からすり抜けさせて外の様子を伺った。こちらを振り返った幽霊が小さく頷くのを見て、俺はそっとトイレから出た。太陽の光がやけに眩しく感じる。
「遅かったな」
その声に俺は思わず息を止めた。反射的に振り返ると、背後に妹をくっつけたあの男が、偉そうに俺を見下ろして立っていた。何故こいつがここに。カフェに置いてきたはずなのに。いや、そんなことよりどうしてここに隠れてるとわかった。
「そう驚くな。お前のコーラ代、徴収しようと思ってな」
男のその冗談に、俺は「あ、ああ」としか言えなかった。
「お前ら追われてるってマジだったんだな。で、これからどうするんだ」
「家に帰る予定だ」
「家に帰れば逃げ切れる予定なのか?例えば結界を張る用意があるとか」
「いや……つか結界って……」
「なら奴らに家がバレるだけだぞ」
そんなことはわかっている。だが、他にどうすればいいと言うんだ。いつまでも外をうろうろしている方が危ない。
「ならどうしたらいいんだよ。お前にはわかるのか?」
俺の口調にはイライラが滲んでいた。このままここにい続けるわけにはいかない。早く移動しなければ。俺は焦りはじめていた。
冷や汗をかく俺に、男は余裕綽々に口の端をクイッと上げて言った。
「ああ、俺達に頼ればいい」
男の答えに俺は思わず眉を寄せた。
「は?」
挑発でも何でもなく、素直に出た一言だった。




