俺と一年後の気持ち3
ひとしきり泣いた後、俺はベンチに腰掛けてぼーっとしていた。俺の右側に一人分の空間があいている。
俺は水祈の葬式でも涙を流さなかった。水祈が死んだあの日、俺の時間は止まったのだ。俺の人生は止まった。俺は生きているとも死んでいるともいえない中途半端な生き物になった。
俺は棺の中に花を添えた。眠る水祈の右頬の辺りに、薄紅色の花を一輪添えた。水祈はもう俺を見ていなかった。その頬は氷のように冷たかった。
後ろに並んでいた水祈と同じ学校の生徒達が俺を急かした。俺と水祈の最後の別れはひどく呆気なかった。俺は心の中で「また明日」と言った。何度も繰り返してきたやり取り。水祈からの返事はなかった。虚しくなった。
すぐ背後から聞こえた物音で俺は我に返った。一メートルと離れていない居場所で土を踏む音がした。俺は肩を思い切りびくつかせたのが恥ずかしくなった。息を止めて全神経を背後に集中する。
背もたれのないベンチを、ひらひらとした着物を纏った脚がまたいで乗り越えた。自称神様の天パが、俺の右隣りの空間に腰を下ろした。一、二分、どちらも口を開かなかった。
「……どこに行ってたんだよ」
俺は地面を見ながら呟くように尋ねた。俺の足元で、小さな蟻が一生懸命に土を運んでいた。
「散歩してたんだ」
「断り入れろよ」
俺はその後に小さく「心配すんだろ」と付け足した。隣に聞こえたかどうかはわからない。
「ごめんな。一人になりたい気分だったんだ」
「俺の一人になりたい気分はお構い無しかよ」
「でも、和輝は今寂しそうだったから」
無理に顔を上げた。昼の眩しい日差しが景色を白く照らしていて、鼻の奥がツンと痛んだ。俺はなるべくそっと鼻水をすすると、悪態をついた。
「余計なお世話だボケ。お前あんまフラフラしてると部下とやらに捕まるぞ」
「それは困るな。また抜け出すのが大変だ」
幽霊は眉尻を下げると「はは」と笑った。しばらく二人の間に無言が流れる。
「……天国で暮らしている人達は、ほんとは勝手に地上に降りちゃいけないんだ。地上で仕事をするやつはほとんど顔パスみたいなもんだけど、普通は通行証を発行して、それを門番に見せるんだ。地上に行くには門をくぐるんだけど、これがすげーでけーんだよ。和輝の身長の三倍くらいある。それをな、門番達がすげーでかい絞車を回して開けるんだ」
何か語り出したなと思いながら、俺は幽霊の話にぼんやりと耳を傾けた。
「その門はちゃんと神殿で管理してるから、誰が出たとか誰が入ったとかすぐわかる。でもな、天国には地上への抜け穴みたいなもんがいっぱいあるんだ。井戸の中とか、水溜りとか、輪っかになった木の枝とか。何でそういうとこくぐると地上に空間移動すんのかは頭いい人達にも解明できてないんだけど。危ないし悪い霊が出入りするといけないから、見つけ次第神殿で壊してるけど、壊しても壊してもいつの間にか別の場所にできてて、キリがないんだ。オレ達はこの穴のことを雲外って呼んでる。街の人たちは風穴とかトンネルとかって呼んでるけど」
幽霊の声は少し鼻にかかっていてザラザラしていて、とても心地いいものではなかった。なのに、何故か酷く安心した。緩やかに止めどなく流れるその声を子守歌と錯覚した。
「オレがここに降りてきたのも、下町の子供達に教えてもらった雲外のおかげなんだ。暇だから散歩してたらさ、よく話す子供達が駆け寄ってきて、あっちで風穴見つけたよって。その時は危ないから後で塞いどくって約束したんだけど、心の中ではもう決めてた。地上に降りようって」
幽霊は小さく鼻水をすすった。こんな事の顛末を順々に話しているだけなのに、何を感極まっているんだ。と、茶化すことはしなかった。
「オレはずっと地上に降りたかったんだ。雲外は見つかったらすぐに塞がれちまう。こんな機会次はいつ来るかわからない。だからオレは子供達と別れたその足で雲外に飛び込んだ。天国で百十年も生きたんだ。六十年も神をやった。何にも変わらなかったんだ。ずっと胸のあたりがモヤモヤしてた。地上に来たら絶対何か思い出せるって思った」
俺は幽霊の横顔を見た。黒目がちな瞳がキラキラ光っていて、不覚にもキレイだなと思った。
「何か思い出せたか?」
「どうかな……。わかんない。でもさ、友達できたよ」
「それ、もしかしなくても俺のことかよ」
幽霊がこちらを振り向いた。吸い込まれそうな目だった。挫けそうになりながらも、その純粋さを貫いてきたのだ。
「ま、そうかもな」
自然と微笑んでいた。後になって幽霊が「あの時の和輝は優しい目をしていた」と語るが、俺には微笑んだ自覚さえなかった。ただ幽霊が目を細めてニカッと笑ったので、相変わらず能天気なやつだなと思っただけだった。
「また今度さ、ここに来たら和輝の話聞かせてくれよ」
「気が向いたらな」
俺が立ち上がって歩き出すと、幽霊もピョンとベンチから降りてステップを踏むような足取りで俺を追いかけた。そろそろ授業が終わる時間だ。家に帰ろう。