俺と一年後の気持ち2
俺はセミナーハウスの陰で弁当を食っていた。一時間と少し探し回ったが幽霊は見つからず、昼食を摂るため一旦学校に帰ってきたのだ。その辺の公園で食べても良かったのだが、幽霊が学校に来ているというわずかな望みもあった。
俺は空になった弁当箱にフタをして、箸を箸箱に戻した。弁当箱を元通りに包み直し、カバンにしまう。カバンを肩にかけ、隣に置いておいたハンバーグ弁当を手にして立ち上がった。これからどうしようか少し迷う。
この狭い街を一時間探しても見つからなかったんだ、これからまた探しに行ったって見つかるかどうか。なら、あいつが教室か家に帰って来るのを待った方が早いんじゃないのか?
俺はそう考えながら昇降口までやって来ていた。顔を上げて驚く。考え事をしながら歩いていたせいで、大名が目の前にいるのに気が付かなかった。大名は上履きのまま、上履きで出れるギリギリの位置に立っている。俺は陽のあたる場所に、大名は屋根の下で影になっている場所にいて、白と黒のコントラストが二人の世界をバッサリと分けていた。
「今日も屋上に来なかったのね。どこに行ってたの」
「お前こそこんな所で何してんだよ。もう昼休み終わるぞ」
俺は大名の質問に質問で返した。大名はゆっくりと瞬きをし、再び俺を見据える。
「職員室に数学のプリントを出しに行っていたの。昨日の」
俺はなるほど、と思った。職員室前の廊下の窓からは、俺が歩いてくるのが丸見えだっただろう。だが、だからといって友達でもないのに普通はここへは来ない。少なくとも、俺と大名の関係では来ない。はずだった。
「最近よく授業をサボるのね」
俺が黙ったままだったからか、大名が呟くようにそう言った。
「気分じゃないだけだ」
「私も昨日の六時間目サボっちゃった。気分じゃなかったから」
「そうか」
一瞬校舎がざわざわと騒がしくなった。大名は俺の右手に視線を落とした。
「弁当、食べなかったのね。どこに行ったの?」
その瞬間、昼休みの終了と午後の授業の開始を告げるチャイムが鳴り響いた。その音が鳴り止むまで、俺も大名も一言も喋らなかった。先に口を開いたのは、例によって大名だった。
「私には言えないのね」
俺が何も返せないでいると、大名はくるりと踵を返した。俺はそれを追うために数歩足を前に出し、大名を呼び止めた。
「待て」
大名は肩を跳ねさせ、振り返る。その顔には驚きの色が浮かんでいた。
「お前に確認しておきたいことがある」
大名は無言で俺の次の言葉を待っていた。静かだった。俺達の周りを流れる影に、全ての音が吸い込まれてしまったみたいだった。俺は張り付いた喉を動かした。声が出る。
「水祈のことは好きだったか?」
時が、止まった気がした。
俺は大名の答えを待っていた。それは一秒だったかもしれない、十秒だったかもしれない、一分だったかもしれない。大名が答えるまでの間が、ひどく長く感じた。静かだった。
「……あなたの、逆よ」
ようやく返ってきた大名の答えはどうしようもなく曖昧だった。俺は食いつくように次の言葉を発する。
「それは嫌いだったってことか?」
「そう受け取ってもらって構わない」
俺と大名はしばらくの間無言で見つめ合った。俺は知っていた。いや、知ったというのが正しい。俺は大名が水祈のことが嫌いだということを知った。……知りたかったと言えば嘘になる。
聞けば、一年生時大名と同じクラスだった者は当然のように知っていることだったらしい。俺はそれを知らなかった。浅い友人関係しか築いてこなかったことを生まれて初めて呪った。もっと早くそれを知れば、未来を変えることができたかもしれないのに。
一年生時、大名は毎日のように水祈のことを悪罵していたらしい。それは大名の友人も引くほどだったそうだ。水祈はそんな悪口雑言に毎日耐えていたのか。彼女は心配をかけたくないがために、俺に相談しなかったのだろう。
俺は大名と同じ気持ちを共有しているつもりだった。喪失感。俺達は喪失感という目には見えないもので繋がっていて、それによってわかり合える間柄だと思っていた。喪失感、虚無感、悲愴感、寂寥感。だが、そもそも根本から間違っていたのだ。
大名瑞火は水祈が嫌いだった。俺と大名は、わかり合えるわけがなかったのだ。
「いつからなんだ?」
「昔から」
大名は静かに息を吐いた。その両肩が少し下がる。
「あの子が、生まれた時から」
どこかの教室から笑い声が聞こえた。グラウンドからは掛け声が聞こえる。近くの家の庭の犬が鳴いた。学校前の道路で大きなクラクションが響いた。それら全てを、俺の耳は取り落とした。
「……そうか。悪かったな、引き止めて」
俺は踵を返し昇降口を出ようとする。次に引き止めるのは大名の番だった。
「待って」
呼び止められるような気がしていたのかもしれない。俺は大名の声が聞こえたと同時に足を止めた。振り返ろうか迷ったが、結局振り返れなかった。構わずに大名が言葉を紡ぐ。
「私じゃ、あの子の代わりにはなれない?」
俺の足元から頭の先まで、ものすごい速さで何かが這い上がった。身の毛がよだつ。背中の、皮膚の表面が気持ち悪い。
俺は振り返らないまま答えた。「答えた」というよりは「吐き捨てた」の方が正しいかもしれない。
「お前だけは絶対にない。あいつの代わりなんてこの世にいない」
言うだけ言うと、大名の言葉は待たずに歩き出した。ひどく胸がむかむかして、さっき食べたばかりの弁当を吐き出してしまいそうだった。俺は歩くスピードをどんどん上げ、最後には全力疾走していた。
校舎の角を曲がり正門から出て、住宅地の中を駆ける。わけのわからない感情が身体の中で暴れ回っていた。何かをしていなければ我慢ならなかった。そのくせ、何をしていいのかわからなかった。気持ちが悪かった。ひどく気持ちが悪かった。
俺は息を切らし汗だくになりながら、あの公園へ飛び込んだ。昨日あの幽霊と来た公園。かつて毎日水祈と語り合った公園。放課後、くだらない話をして笑い合ったあのベンチ……。
「……水祈」
息と息の間に、彼女の名前が漏れた。今まで我慢してきたもの。もう呼ぶ相手がいなくなってしまった名前。
「水祈」
ベンチはからっぽだった。木陰に佇むベンチを見て、俺の胸は焼けるように熱くなった。次に口を開いた時、その名と一緒に目から水のようなものがこぼれ落ちた。
「水祈」
涙は血液から赤い色素が抜けたものだと聞く。俺は今血を流している。どこも怪我などしていなかった。ただ、おそろしく胸が痛かった。胸のもっと奥、そこがジンジン痛いしガンガン痛いしズキズキと痛かった。最初一滴だった血液は、気が付けば頬を濡らすほど目から溢れ出していた。