俺と時を進める勇気6
「和輝、これこれ」
バイトに行く直前の俺を呼び止めると、母は一枚の広告を差し出した。隣の江戸川が真っ先に紙面を覗き込む。
「花火大会よ。毎年やってるでしょ?琵琶湖で」
「花火大会だってさ!」
母と江戸川の声が重なったが、広告の内容は理解できた。毎年八月の下旬に開催される琵琶湖花火大会の案内だ。滋賀県では一番大きな花火大会で、夜空に咲く一万発の花火は壮観だ。近隣の県から足を運ぶ者もいる程である。
「これがどうしたの」
「あんたこの間の納涼祭結局行かなかったじゃない。この花火大会行ってきたらどう?」
「そんなの毎年行ってないだろ」
「今年は行きなさいよ〜。彼女と一緒に」
「人多いし疲れるだけだろ。あと彼女もいない」
「和輝!オレ花火大会行きたい!」
「またそんなこと行って。隠してもバレバレだからね。最近外出も多いし」
「普通に友達と遊んでるだけだよ」
「みんな誘って行こうぜ!絶対楽しい!」
「俺もうバイト行くから」
母を振り切って玄関に向かい、スニーカーに足を突っ込む。
「このチラシそこのテーブルに置いておくから。帰ったら持っていきなさい」
俺はその言葉をまるっと無視して「いってきます」と言うと家を出た。閉まったドアからすぐさま江戸川が出てくる。
「花火大会楽しそうじゃねーか。行かないのか?」
「疲れるだけだぞ。人も多いしやることと言ったら屋台で買い食いくらいだし」
「和輝は何でそうネガティブなところばかり見るんだ。ご飯は美味しい花火は綺麗、みんなで行ったら楽しいじゃねーか」
「だったらお前らで行って来いよ。風子と悠葵ちゃんは好きそうだし」
「えー、和輝もいなきゃ意味ないだろ〜」
自転車を漕ぎ出すと、江戸川も少し後ろをついてきた。こいつ今日は暇なのだろうか。
「お前今日バイト来んの?」
「そうだな。久々に和輝が働いてるとこでも見てみるか!」
「お喋りできないから暇だぞたぶん」
「構わんぞ〜」
昼前の太陽が周囲の気温をぐんぐん上げている。汗が吹き出る直前でバイト先であるファミレスに到着した。
「そういえばよすがに聞いたぞ。野次郎が来たんだってな」
「ああ、そういえば。お前に言うの忘れてたな」
「何話してたんだ?」
「花韮のバディの話だ」
「相棒か」
スタッフ用の駐輪場に自転車を停め、冷気を求めて裏口から建物に入る。休憩室のドアでアルバイトの一人とすれ違って挨拶を交わす。そいつが出た後の休憩室は誰もいなかった。俺は荷物を置いて制服を身に着ける。
「野次郎の相棒ってことは、小夜香か」
「えっ、女の子なのか」
小夜香というのは明らかに女性名だ。花韮の話を聞いている最中、俺は勝手に相方は男性だと想像していた。水祈の姿と重ね合わせて聞いていたはずなのに、先入観というのは不思議なものだ。
「ああ。お転婆娘だぞ。名前はしとやかだけど」
「なんか思ってたのと違うな……」
叶わない恋に苦しんでいるという前情報とお転婆という言葉が脳内でうまく噛み合わない。
「その小夜香ってやつはどんなやつなんだ?」
「とにかく気が強いなぁ。勤務態度は真面目なんだけど。引っ張り回されて野次郎も苦労してそうだ。たしかあの二人は組んで間もなかったと思う。五年くらいかな?」
「へぇ。何であいつと組んだんだろうな」
「組を決めるのは上司だから。上司もちゃんとそれぞれの性質を見て決めてるぞ。小夜香はどんどん突っ込んでいっちまうから、野次郎みたいに冷静に周りを見れる人の方がいい」
「なるほどな」
着替え終わった俺はスマホを見て時刻を確認した。十分前。タイムカードを切るのはギリギリにするのが俺の流儀だ。早く厨房に入ったってその分タダ働きになるだけである。
「花韮も前のペアの方がいいとか思ってんのかな」
「それは思ってると思うぞ」
やけにハッキリ言い切るなと思ってスマホから顔を上げたら、目の前にいる江戸川と目が合った。天然パーマの隙間から二つの瞳が俺を見ている。
「野次郎の相棒は殉職してるから」
花韮のあっさりとした口調を思い出した。何でもない風に、俺に「もし魂が消滅したら誰かがそれを上に報告しないといけないだろ」と言った。どういう気持ちでそれを口にしたのだろう。あいつ必死に生きてるんだな。それじゃあ死ぬ前の世界なんて気にしてられないだろう。残された人間ばかりがいつまでもズルズル想い出を引きずって、馬鹿だなと思っていたのかな。
「悪霊は払われたら輪廻の輪に乗れない、だっけ。それって、魂のまま死んだらどうなるんだ?」
「オレそんなこと言ったっけ」
「?ああ。もしかしたらよすがに言われた言葉かも」
「そうか。霊魂の状態で死んでも輪廻の輪には乗れなくなる。そもそも、魂がもうないから何をやっても無理だ。踏んづけて粉々になった皿が元に戻ることはないだろ?」
「そっか。まぁ、そうだよな」
「死んだ魂は周囲の霊子に溶け込んでその一部になる。花とか水とか光とか、世界の一部になるんだ」
そして江戸川はこう続けた。
「だから友達が死んだらいつでも祈ればいい。きっと野次郎もそうしてる」
いつでも祈ればいい、か。大切な人がいつでも側にいるだろうという考えは、きっと自分を安心させる宗教なのだろう。




