俺と自分を好きになるための一歩8
「湿気た事務所ね」
「ご、ごめんなさい……」
栗生除霊霊媒事務所のくすんだコンクリートビルを見上げた大名はそう呟き、風子は必要ないのに謝罪した。
俺達は揃って電車に揺られ、八駅離れた栗生除霊霊媒事務所に来ていた。道中はそれはそれは静かなものだった。誰も何も喋らなかったし、喋る雰囲気でもなかった。霊体化した幽霊とよすがが目線で戸惑い合っていたくらいである。
「私は悠葵殿とここで待ってます。兄上の前に連れ出すわけにはいかないでしょう」
霊体のままのよすががそう言うと、俺と風子は頷いた。その後すぐよすがが実体化する。
「瑞火様。私はここで誰も入らぬよう見張っておきます」
「あら、そう?……そうね。途中で関係ない人に入ってこられてもシラけるしね」
幽霊も実体化して、階段の方へ一歩進み出た。
「そうと決まればさっそく行こうぜ!」
「あんたは能天気ね」
大名はそう言いながら幽霊の横をすり抜け、先陣を切って階段を上がっていった。栗生除霊霊媒事務所はこの建物の二階にあるのである。
大名、幽霊、風子、俺が並んで階段を上ると、細い階段はぎゅうぎゅうになった。先頭の大名がドアの前に立ち、書かれている事務所の名前を確認して「ここね」と呟くと、ドアノブをひねった。
「何よ、鍵がかかってるじゃない」
数回ドアノブをガチャガチャと鳴らし、大名は拍子抜けしたようにそう言った。俺の前の風子が、戸惑っているような安心したような声色で言う。
「お、お兄ちゃん、外に出てるのかなぁ?今日は出張依頼はなかったはずだけど……」
風子は鞄の中をゴソゴソと漁って、小さなコインケースのような物を取り出した。どうやらそれはキーケースだったようで、中に一つだけ収まっていた鍵を指先でつまんだ。
「一応事務所は開けれるけど……」
「なら中で待ちましょう」
風子は幽霊を追い越してドアの前まで行くと、鍵を開けて事務所の中へ入った。俺は一度階段を降りて、降りたところに居るよすがに声をかけた。
「栗生のやつ、事務所にいないらしい。帰ってきたらここだと丸見えだから、どっか別のところに隠れててくれ」
「そうなのですね。事務所に入らず何かされてるなとは思っていたのですが……。それでしたら、近くに公園でも探してみます」
「悪いな」
二階から「和輝ー!?」という幽霊のでかい声が聞こえた。俺が着いてきていないことに気が付いたらしい。
「じゃあ悠葵ちゃんもまた後で。栗生に見つかるなよ」
「うん」
悠葵ちゃんは頷くと、よすがの着物の袖を引っ張った。
「この近くに公園あるよ。あっち」
二人を見送って階段を上がる。事務所に入ると、幽霊が「和輝ー?」と呼びながらソファーの裏を覗き込んでいるところだった。
「心配しなくてもいるよ」
「あっ、和輝君。よすがちゃんのところに行ってたの?」
「ああ、避難してもらった」
「和輝、無事でよかったぜ。どこに行ったのかと思った」
幽霊は来客用のソファーに座って、隣のスペースをポンポンと叩いた。座れということだろう。
「何か淹れるね。お茶と紅茶とコーヒーがあるけど……みんな何がいい?」
「全員お茶でいいよ」
俺の返事を聞いて、風子は台所へ向かった。俺は幽霊の隣に腰掛け、大名は仕方がないから対面のソファーに座った。
しばらくして風子が人数のコップをお盆に乗せて、ふらふら危なっかしく戻ってくる。丁寧にお茶を配り、空いている大名の隣に座った。
「そういえば、あんたそのお兄さんから連絡とか来てないの?」
「すごく来てるけど……何て言えばいいかわからなくてお返事してないの」
風子はスマホを取り出し画面を眺めてから、特に何か操作するわけでもなくテーブルに置いた。兄貴の連絡を無視し続けているのも、風子がビビってる理由の一つなのだろう。
「ふーん。……思ったんだけどさ、ここって客商売してるんでしょ?何か仕事用の電話とかあるんじゃない?私が掛けてあんたのお兄さん呼び出すわ。客として」
俺は単純に「あー、そういう方法もあるか」と思ったし、風子は制裁の時が近づいて焦りまくった。幽霊は首をキョロキョロ動かして、大名の提案に対する俺と風子の反応を見ていた。
「だって待ってるのも疲れるし時間の無駄だもの」
「まぁ、急に来られるより心の準備もできるしいいんじゃねーの」
「そうと決まればさっそくかけるわ。電話番号はどれ?」
「あ、名刺に書いてあるから……」
風子は立ち上がると所長席へ行って、その引き出しから名刺を一枚取り出した。大名に手渡したそれは、おそらく栗生の名刺だろう。
「固定電話の番号しか書いてないじゃない」
「事務所の電話に誰も出ないと、お兄ちゃんの仕事用の携帯電話に転送されるようになってるの」
「それを早く言いなさいよ」
「ご、ごめんなさい」
大名は自分のスマホから電話を掛けた。所長席の固定電話が鳴り、数コールして鳴り止んだ。どうやら栗生は転送された電話に出たらしい。大名が顔色一つ変えずに口を開いた。
「すみません、依頼があって来たんですけど、事務所に誰もいないみたいで」
肝が座っているというか何というか。たぶんこいつは表情を変えずに平気で嘘をつくだろう。
「はい、今事務所の前にいます。……そうですね、なるべく早く払ってもらえると嬉しいです。昨日から幽霊が二匹も纏わりついていて。とり殺されるんじゃないかと怖くて」
通話を修理した大名は、顔を上げて俺を見て、それから隣の風子を見て言った。
「三十分くらいで戻ってくるそうよ」
「そ、そっかぁ……。ありがとう……」
風子は落ち着き無くコップに手を伸ばした。手持ち無沙汰だった俺も無意識のうちにお茶に口をつけたが、すっかり氷が溶けてしまったお茶はあまり美味しいとは言えなかった。緊張している風子には味がわからなかったかもしれないが。
「恭也、何しに行ってたんだろうな。買い物かな?」
「さぁな。案外風子を探しに行ってたんじゃねーの」
「そうかなぁ。だってほんとに探してたらうちに何か聞きに来たっていいんじゃないか?和輝やオレと出かけてることは知ってるんだから」
「プライドが邪魔したんじゃね?」
「そういうもんか」
前に栗生が言った「たった二人の兄妹だから」的な言葉は、俺は本心なんじゃないかと思う。だがまぁ大切な妹が音信不通になってるのなら、もっと本気出して探せよとは感じる。幽霊が行った通り俺の家に話を聞きに来るとか。
幽霊とポツポツと取り留めのない話をしながら栗生を待つ。そのうちコンクリートの階段を靴底が打つ音が聞こえ、風子が思わず立ち上がった。栗生のご帰還だろう。
大名がソファーの後ろを回り込んでドアの前に立つ。ちょうどそのタイミングでドアが開いた。鍵をかけたはずのドアに警戒をしている栗生と、腕を組んで仁王立ちしている大名のご対面である。