シャッター
カシャッ、とシャッター音が鳴った。
夜道を歩いている、その時だ。
仕事の帰りが遅くなったため、自宅付近の家々の明かりは少ない。辺りはしんと静まり返っていて、私の靴の音だけがやけに大きく響いていた。
車一台分程の狭い街路。左右は住宅に挟まれていて、右前方には小さな月極め駐車場が見える。空には不安になるくらいの大きな月が浮かんでいて、風は生ぬるい。
背後を振り向くと、ここまで歩き進んで来た道が長く続いている。人影は認められない。
空耳だったのだろうか。それにしてはハッキリとした音だったが。
再び正面を向いて、息を吐く。余程疲れているのだろう。それも仕方ないなと、自分で思う。上の人達からは随分とマシになったと聞かされるが、雑誌出版業界というのは男社会だ。報道部の記者となれば尚その比重は大きく、心身共に疲労も溜まる。
更に今日はハードな取材が立て続けてあった事に加え、大きな事故まで起こった。今のコンディションなら幻聴の一つくらい聞こえても無理はないように思える。
久しぶり帰った家主をセンサーが感知すると、天井のライトが殺風景な部屋を照らし出した。
仕事の性質上、出先で寝泊まりをする事が多いため、防犯性を重視して選んだこの家に帰って来る事は少ない。帰って来たら来たで、熱いシャワーに体を潜らせ、あとはベッドに横たわるだけ。無精な私が住んでいるというのに散らかっていないのはそのおかげだ。
高い家賃を払い続けている事を馬鹿馬鹿しいと、三日に一度は思う。それと同じだけの回数、どうせ帰らないのだから、もっと安くて手狭なところにと考えるが、実行しようと動きだせた事は一度としてない。
いますぐベッドへ倒れてしまいたい衝動を堪え、シャワーを浴びた。熱いお湯が、困憊した体にそのまま染み込んでくるような気がする。
バスルームを出るとスマホが着信を知らせていた。ビール片手にソファーへ向かい、ドライヤーで髪を乾かしながらそれを確認する。
火照った体に、鳥肌が浮かんだ。
一通のメールだった。送信者の欄が何故か空欄になっていて、画像が添付されている。
私の後ろ姿。そう。ついさっき、ここへ来るまでの夜道を歩く私を撮した写真だ。
あのシャッター音は幻聴ではなかった?
込み上げてくる気味の悪さを誤魔化すようにビールを呷る。
こんな仕事をしていれば恨みを買う事もある。悪戯なんかにいちいちビクついていられない。思いながらもビールの量は増えていき、いつしか私はソファーの上で意識を手放していた。
*
寝て起きて日の下に出れば大抵の事は楽天的に捉えられるようになるところと、二日酔いになりづらいところを、私は自分の長所だと思う。
翌日何事も無かったように社へ向かった私は、普段通りに業務に勤しんだ。
昨日の事故の事もあり、オフィスはいつも以上に賑やかだ。かかってくる電話の音や、沢山の話し声がひっきりなしに続く。人の出入りも激しい。
デスクの上、パソコンのディスプレイに映し出されているのは、昨日、自らの手で撮した事故の写真だった。
無数にあるこの中から、記事に使えそうなものをピックアップしなければならない。
現場へ素早く駆けつけられた事もあり、凄惨な事故現場を、いい位置から写せている。
片側一車線道路で起きた、乗用車と大型トラックの衝突事故。乗用車を運転していた二十代の女性が死傷した。
画面上に映る変形した青の軽自動車は、押し潰された空き缶を思わせる。前から強い衝撃を受けた車体に、運転手が座っていられるような隙間は残されていない。
私が現場に到着した時、被害者女性を車から出す作業がまだ続けられていた。元は真っ白だったであろうワンピースを着た女性が車から出され、救急車に乗せられるまでの場面も、フォルダの中には収められている。
今回の事故は死傷した女性の車がトラックが走る対向車線に進入した事により起きたものだった。その原因となったのは、女性ドライバーの後ろを走っていた車による悪質なあおり運転であった事が、昨夜の内に判明している。
被害女性の運転する車は、後方を走る車に執拗なテールゲーティングやパッシングを受けた後、前方に割り込まれ、急なブレーキを繰り返された。
それに耐え兼ね対向車線へ飛び出したところへ、運悪く正面からトラックが現れ衝突。その一部始終がドライブレコーダーや、周囲に設置されたカメラに記録されていた。
尚、あおり運転の運転手もそれに巻き込まれ、今は意識を失っている。
話題性のあるネタだ。今も我が社の記者達が、被害者遺族、関係各位の元へ取材に向かっている。
あおり運転の運転手には同棲をしている女性がいたらしいという情報がついさっき入った。こちらの証言も、多くの人の関心事になってくるだろう。
こんな時、私達は道徳的な観点から侮蔑される事が多い。だけど顧客のニーズに合わせたものを売り込むのは、会社として当然の事だ。
今回、私が撮影した写真の出来は良い。久しぶり巡ってきた手柄を立てるチャンスと言える。
作業に没頭している内に、みるみると時間は過ぎていった。気がつけば昼過ぎ。このあたりで一息いれようかと伸びをしたその時。
カシャッ。
背後で、シャッター音が鳴った。
不審に思い振り返ると、後ろのデスクでパソコンを叩くアイツの姿が目に入る。
少しの間、鋭い視線を投げ掛けてみるも、沼田信之は素知らぬ顔でディスプレイを見つめているままだった。
体を戻し、息を吐いた。昨日のあれも、沼田の悪戯だったのかもしれない。奴なら私の家の場所も知っているはずだ。
放っておこうと考えたが、机の上のスマホが震えだす。 届いたメールを確認してみると、そこには案の定、デスクに座る自分の後ろ姿を写した写真が添付されていた。
仕方ない奴め。私は立ち上がって、沼田の元へ向かった。
「ねぇ」
声をかけると、嫌みな程に顔のいいアラフォー男が、こちらを見上げる。
「忙しいんだから、こういうの止めてほしいんだけど」
向けられたスマホの画面に、沼田は首を傾げる。
「は? なにこれ?」
「何これって、アンタが今送ってきたんでしょ?」
「俺が? やらねぇよそんな事」
「嘘。だってこのアングル、どう考えてもこの場所から撮したものじゃない」
沼田は怪訝な表情を浮かべて、まじまじとスマホの画面を見つめた。
「でもこれ、送り主のところ空欄になってんじゃん」
「どうせそういうアプリでも使ったんでしょ」
「ねぇだろ。そんなアプリ。てかこれ、変なもん写ってるんだけど」
不意に体を寄せられて、周囲の視線が気になる。
「ほら、ここ」
写真には私を後ろ姿が映っている。私の奥には幾つもデスクが並び、働いている同僚達がいる。沼田はその更に奥、社内へ光を届けている窓の左上辺りをズームさせた。
三十センチ程の窓。その隅に白い手のひらが張り付いていた。
私は思わずため息を漏らす。
「仕事しなさいよ。こんなもの作っている暇があったら」
「いや。だから俺じゃねぇって」
*
その夜、私は沼田と飲みに出た。居酒屋で軽い夕食をとった後、二人の行きつけのバーへと流れ込む。
薄暗い店内のカウンターに座り、バックバーを眺めながらサイドカーを傾ける。暖色の照明の下に、彫りの深い沼田の顔はよく映えた。
私とこの男の関係は複雑なようでシンプルだ。入社したては教育係の五歳年上の先輩。その一年後に恋人になり、三年後に別れ、彼が美人で頭の悪い奥さんをもらってからは浮気相手をやっている。
といっても枕を交わす事は半年に一度程度。どちらかが極端に酔っ払った日を除けば、飲み仲間と呼んでも仔細ない間柄だ。
「それにしても、お前も可愛いところあるよなぁ」
「は? なにが?」
「俺と飲む口実を作るために、わざわざあんな画像まで用意して。いじらしいじゃないか」
「冗談でしょ。黙ってたってしつこく誘ってくるアンタ相手に誰がそんな事」
「じゃあなんなんだよ、あの写真?」
「知らないわよ。私はアンタの仕業だと思っていたんだから」
「俺はシロだからな。さっき送信履歴もみせてやったろ?」
「ええ。奥さん以外の女の人の名前が並んでいるのを確りとね」
沼田は「ははは」と乾いた笑いを漏らす。
本当にどうしようもない男。
コイツの取り柄は顔と仕事だけ。
その事にもっと早く気が付いていれば、今ごろ、素敵なダーリンと穏やかな生活、強く憧れてきた母親という称号も、手にできていたかもしれない。
私は十代の頃に、堕胎した経験がある。なんて事ない、若気の至りというやつだ。
相手は一つ上の先輩で、お互いまだまだ子供だった。
その時の子の代わりなんて罰当たりな事を言うつもりはない。
罪滅ぼしっていうのも少し違う気がするけど、ともかく私はそれ以来、今度こそちゃんと成長を見守れるように、なんて自分の子供を持つ事に強い思い入れを持っていた。
沼田と付き合っている頃、そんな話をコイツに語った事がある。
その時、沼田がなんて答えたかは覚えていないけど、どうせその気もないくせに、調子のいい言葉で私を喜ばせたのだろう。
その結果が今に至る。それくらい最低な男って話。
「しかしよくよく考えると不気味だな。昨日の夜も同じ事あったんだろ?」
「仕事から家に帰る途中でね」
「まさかストーカーか? なにもこんな気の強い女をわざわざ」
腰に回ってきた腕を、ピシャリと叩いた。
「ストーカーが会社にまで入り込んでくる? それに会社で撮られた時、後ろにはアンタしかいなかったのよ」
「でも俺じゃねぇからな」
このままでは堂々巡りだ。
とはいえ、沼田が嘘をついているようにも思えなかった。少し問い詰められれば、自分が二股をしている事すら簡単に認めてしまうような男だ。
考えても分からない事は考えても仕方がない。自分に言い聞かせるが、沼田の下らない話を聞いている最中にも頭の片隅に、不完全な恐怖は纏わり続けた。
グラスが一杯、二杯と空になり、体が熱を帯びてくる。意識に少しずつ靄がかかり始め、それが漸くその恐怖まで包み込み始めた。
だけどそんな時。
カシャッ。
背後でまた、シャッター音が鳴った。
私は直ぐ様、振り返る。
そこにはシックな黒色の壁が立っているだけ。
「ねぇ。今の音……」
隣でウィスキーを飲んでいる沼田へ問い掛ける。
「はぁ? 音?」
沼田は首を傾げる。あれだけハッキリと音が聞こえたというのに。
バッグの中で、スマホが震えだした。
送り主が空欄になっている受信メールを開き、表示された写真を目にした途端、全身の血が引いていく。
私を背中から撮した写真だ。左には軽薄な中年男の後ろ姿。その背中に見切れた形で、カウンターを挟んだ向こうのグラスを拭くバーテンが写っている。
私の視線は、その写真の左隅から動かせなくなっていた。沼田の左、誰も座っていないはずのカウンター。その内側から、テーブルの上に覆い被さるようにしている人間の女性らしきものから。
なんだ、これは。
半透明の体。こちら側へ垂らされた長い髪。その両脇に投げ出された蒼白い腕は冷たくも生々しい。
現実味のない異質な存在感に、体は恐怖を訴えかけてくる。存在していないはずの存在に、頭が異常を知らせている。
スマホから目を反らし、沼田の体越しにその場所へ目をやる。だけど、そこに女の姿はない。
私の異変に気が付いたのだろう。沼田が私の手元を覗き込んだ。
「おいおい。なんだよ、こりゃあ」
沼田は自分の左を確認し、背後の壁を確認し、眉をひそめる。
「お前、これ。マジでちょっとヤバいんじゃないか?」
写真について、心当たりがないわけではなかった。
写真が送られてくるようになったの一昨日の晩から。つまり、あの事故の様子を私が撮影した日からだ。死傷した運転手は女性。髪の長さは、今しがた届いた写真に写る女と合致している。
これまでの人生、オカルトといった類いのものを鼻で笑って通り過ぎてきた私であったが、ここまで状況が揃ってしまえば、最早気付かぬふりなどしてはいられなかった。
それを沼田へ語ると、沼田は珍しく真剣な顔になって言った。
「理沙。今回の仕事は諦めろ」
こんな時だけ、この男は私を下の名前で呼ぶ。
「は? そんな事出来るわけないでしょ」
折角巡ってきたチャンスなのだ。
「長年この業界にいるとな、時々こういう話にぶつかる事がある。その中で、お前のように仕事を優先させた奴が良い結末を迎えたという話は、一度も聞いた事がないよ」
「それはそうよ。ハッピーエンドなんかじゃ、人の興味は引けないもの。私はやめないわよ。実害が出ているわけでもないんだし。それにもし本当にこの写真を送ってきているのが事故にあった女性だとするのなら、その無念を伝える事こそ私達に与えられた使命だとは思わない?」
沼田は言い淀み、私の顔を見つめてから、大きなため息を一つ。
「ったく。新人の頃の素直さはどこにいったのかねぇ」
「何年も前の話を、何年間し続けるつもりよ。アンタは」
*
店を出た後、頼みもしていないのに沼田は家にまで着いてきた。
強いてそれを拒もうとしなかったのは、こんな男でもいないよりはマシと思える程に、私が動揺していたという事だろう。弱味に漬け込まれたようで癪である。
形ばかりにシャワーを浴びた後、ソファーに座り、普段は見ないバラエティー番組を見る。
気の迷いで買って家に置いたままにしてあった男物のスウェットに着替えた沼田は、隣に座り、途中のコンビニで買ってきた缶チューハイを飲んでいる。
テレビで上がる笑い声と連動するように、沼田も声をだして笑う。馬鹿にするような笑い方。くしゃっとなる目元。懐かしく思ってしまったのは、ここがホテルや居酒屋じゃないから。
奇妙に思える程に溌剌としている沼田。矢継ぎ早に私へ冗談なんかを言ってきて、テレビで芸人がする一発ギャグを真似てみせたりもした。
お前はそんなキャラじゃないだろう。口にしなかったのは、私なりの気遣いだ。
フェミニストなところは、昔から変わっていない。
日付が変わる頃になると、互いに騒ぎ疲れ、口数も少なくなっていった。ポツポツと会話を交わしていると、急な静寂がやってきて、私はそれを狙っていたかのように口を開いた。
「そろそろ。帰った方がいいんじゃない?」
沼田は意外そうな顔で、こちらをみる。
「あら? 泊めてくれるんじゃないの?」
「会社の上司との飲み会で朝帰りなんて、違和感しかないでしょ。明日も普通に仕事があるというのに」
私がシャワーを浴びている間、この男がだれかと電話をしていた事には気付いていた。「上司との飲み会で遅くなるから先に寝てていいよ」なんて言う相手は、一人しかいない。
「でもお前、大丈夫なのか?」
「何が?」
「何がって、そりゃあ……」
沼田は言い淀む。
さっきまで私にシャッター音の事を考えさせないようにと道化を演じていたというのに、こういうところが詰めが甘いんだよな、と何故だかそれを微笑ましく思う。
奴は少しだけ考える素振りをみせた後、諦めたように息を吐いた。
「じゃあ水だけもらえるか? 少し酔いを覚まさないと」
「分かった」
私はキッチンへ向かい、シンク横の棚に納められていたグラスを手に取った。物の少ない部屋だが、ミネラルウォーターくらいは常備している。そのまま背後の冷蔵庫へ向かおうとする。
が、突然腕が動かなくなった。
「え?」
グラスを持つ右腕が、その場に固定されてしまったかのように動かない。腕には誰かに掴まれているかのような感触がある。そこを覆う服の袖が、不自然な皺を作っている。
カシャッ。
背後で鳴った音に、全身が、みるみると粟立っていく。
「な、何よ。これ」
足を踏ん張り、腕を体の方へ引こうとする。
動かない。
締め付けは徐々に強くなっていく。痛みに堪えきれず、掌からすり抜けたグラスが、床に落ちて耳障りな音を発てた。
「どうした!」
沼田が駆けてくる。
私は右の手首を左手で精一杯引っ張りながら、必死に訴えかけた。
「動かないのよ! 右腕がっ!」
足元に散らばったガラス。ヒステリックな金切り声。状況は把握出来なくとも、異常は伝わったのだろう。
沼田は透かさず私の元へ寄ってきて、一緒に右腕を引っ張り始める。
痛い。
腕が更に締め付けられ、顔が歪む。
痛い。痛い!
それでも私は引っ張り続けた。得体の知れない存在に触れられているという恐怖から、なんとかして逃れるために。
すると突然、拘束が外される。力のやり場を失った私達はそのまま後ろへ倒れ込む。
キッチンは、一瞬にして静かになった。
私と沼田は黙って互いの顔を見つめ合う。
二つの荒い呼吸だけが、その場に響いている。
ブゥゥゥ、とスマホがリビングのテーブルの上で、音を発てた。
体をビクリさせた私の、真っ青になっているであろう顔と小刻み震える体を確認した沼田は、ゆっくりと立ち上がって、リビングの方へ消えていく。
腰より下に、まるで力を入れる事が出来ない。痛む右腕の袖を捲り上げると、その箇所が掌の形のように青紫に変色している。
私のスマホを握って、沼田が戻って来た。
「理沙。流石にこれは看過できねぇよ。編集長には俺からも言ってやるから。な?」
目の前に差し出されたスマホには、シンクの前に立つ私の後ろ姿が映し出されていた。
その直ぐ右隣には、あの赤いワンピースを着た髪の長い女性が立っている。女性は俯いたまま、グラスを持つ私の右腕を握っている。何故だお腹が不自然に膨らんでいて、それがぐしゃぐしゃになった青の乗用車を思い起こさせた。
*
翌朝、私は会社へ行き事故の写真を全て削除した。
行動を起こす決め手となったのは、言うまでもなく昨夜の出来事であるが、その後に沼田が見つけた写真の秘密に背中を押されたところもある。
会社では窓の外。バーではカウンターの別の席。そして昨日は私の隣。最初の写真を見返してみると、夜道を歩く私の遥か後方に、あの女性が立っているのをカーブミラー越しに確認した。
つまりあの女性は、写真に写る度、少しずつ私に近付いてきていたのだった。
昨日は腕を握られた。もし次にシャッターが聞こえる時がきたらと思うと、職業人としての意地を貫き通す気には到底なれなかった。
沼田と共にこの一件から手を引く事を伝えると、編集長は意外にも二つ返事で頷いた。この業界に長くいるとこんな話を聞く事もある。というのは、沼田のでまかせではなかったようだ。
その後、会社を早退し、事故現場へ花を手向けた。それでも不安は拭えず、被害女性の生家まで、片道四時間をかけて焼香を上げにいった。
家に戻った頃にはすっかり日も暮れており、そうして奔走した疲労や達成感が、どっと押し寄せた。
何はともあれとシャワーを浴びる。
もくもくと湯気を立ち上らせる、熱い熱いシャワー。
偉大だ。
体の汚れを流すだけではない。不安や緊張や疲労。体内の蓄積したありとあらゆる邪悪なものが、浄化されていくような気がする。
しかし息を吐き、視線を足元へ向けたところで異変に気がつく。
「えっ?」
急排水口へ流れていくお湯が赤く染まっている。
「何よ、これっ……」
気味悪く思い、足を上げると、ツゥと内腿を内腿を流れていす真っ赤な液体。
「うそ。なんで……」
股の間から血が流れていた。生理はもう数日先のはずだったはずだ。それに、なんの予兆も感じないなんて。
一先ず出先で起きなくてよかったと、血が収まったのを確認してバスルームを出た。
リビングのソファーで、髪を乾かす。そこでスマホが震えだし、体をビクリとさせた。
あの一件が起きて以来、スマホの着信に恐怖を覚えるようになってしまっている。
恐る恐る手を伸ばし、ディスプレイに確認する。
表示されている名前に、思わず安堵してしまった自分に少しだけ腹を立てながら、私は通話ボタンを押した。
「おう。どうだった?」
聞こえてきた男の声に、更にほっとなる私の馬鹿な心。
とりあえず今日一日の行動を沼田へ伝えた。
「一先ず無事でよかったよ。こっちも気掛かりで仕事どころじゃなかったからな」
くしゃっと笑う、あの顔が頭に過る。
「それのために電話を?」
「それもあるんだが。一応伝えておこうと思ってな」
沼田はそう前置きをしてから、更に続けた。
「あの事故で煽り運転をした男が、意識を取り戻した」
ああ。そんな事すっかり忘れてしまっていた。
「色々と驚かせされたよ。男に同棲相手がいるって話があったろ? なんとその同棲相手が、事故の被害にあった女性だったらしい」
「え?」
口にした瞬間、チクリとお腹の下の辺りに不自然な痛みが走る。
「あの日は二人の間で大きな喧嘩があったようでな。口論の末に家を飛び出していった彼女の車を止めるために、男はあんな騒動を」
「そんな事って」
おかしい。お腹がどんどん痛くなっていく。
「よくいる気性の荒いタイプの男なんだろうよ。彼女が逃げ出した事を考えると、暴力を振るう事もあったかもしれない」
呼吸が荒くなり、顔には脂汗が浮かぶ。体の内側で、重たく硬い物が膨れ上がっていくような感覚がある。
「喧嘩の原因も気持ちのいいものではなくてな。彼女のお腹にできた子供を、男が下ろす事を強要し、彼女がそれを拒んだ事が発端だったようだ」
「そ、それじゃあ……」
「ああ。事故にあった時、あの女性の体にはもう一つの命が宿っていた」
ズキン。と強烈な痛みが私を襲った。
「あっ!?あううっ……」
「ん?どうした?」
ソファーにすらまともに座っていられなくなり、お腹を抱えたまま、床の上に倒れ込んだ。
「お……いっ!?ど……した!?」
スマホから沼田の声が聞こえている。しかし言葉として理解する余裕はない。
痛い。痛い。苦しい。
視界が白ばみ、意思が遠退いていく中で、
カシャッ。
シャッター音が聞こえた……。