29.お前は一生そこで不幸面をしてろ
「それで? 良かったじゃない、全部終わったの? ……あのババアはどうなったの?」
「り、リンファ。お口が悪いわよ、もう。駄目じゃない、そんなこと言ったら」
旅から戻ってきたリンファがにっと笑い、串焼き肉を齧り取る。旅行中はこの方が楽だからと言って、男物の衣を着ていたらしく今もそんな服装だ。薄汚れた衣を羽織り、化粧も何も施していない。しかしその方が凛とした美しさが出ていた。隣に座ったユウロンが笑い、さり気なく肩を抱き寄せる。
「まぁ、良かったよ。全部終わって。リンファ、疲れただろう? 宿に戻って一休みしてから俺と、」
「暫くは姉さんの傍にいるわ、ユウロン。……積もる話もあるから。折角堂々と傍にいれるようになったんだし?」
「そ、そうか……そうだよな、悪い」
あからさまにがっかりとしたユウロンを見て笑う。でもその気持ちはよく分かった、痛いほどに。流石に申し訳なく思ったのかリンファが眉を顰め、恥ずかしそうに「じゃあ明日にする。今日はもう宿に帰るから」と呟いた。そのやり取りを見て、隣に座ったリーファ様が笑う。
「リンファ、大丈夫よ。これからはいつでも話せるんだし? ……旦那さんを優先してあげて? 私もそうするから。ねっ?」
「うぉっ……かわっ、可愛い! もしかしなくとも旦那さんって俺のことですか……!?」
「お前以外。一体誰がいるんだよ、グエン……」
あれから怪我も順調に良くなっているらしく、スイランは気が抜けたようにぼんやりと過ごしているらしい。ただ肺にまで傷が到達していたので、これからはあまり外出させないようにするとフェイランが嬉しそうな笑顔で言っていた。
そしてあれほどリーファ様に怒っていたのに、激しい運動が一生出来ないと知ると笑顔で手を握って「ありがとう! ありがとう、リーファちゃん!」と感謝していたので怖い。やっぱりこういうところはトアンの父親だなと思う。
「それで? 姉さん。忌々しいトアンはどうなったの? まだ来るの?」
「ううん、もう最近はあんまり来てないかな……何かね、フェイラン様が泣いて引き止めているみたいで。お父さんにどうしても傍にいて欲しいって言われたから、あまり来ないようにするって言ってた」
眠たいのかリーファ様がほにゃりと笑って、自分のお腹を擦る。まだ全然目立っていないのだが、気になるらしくこうして頻繁に擦っている。
「リーファ様……どうしますか? 引越しの時期。ずらしましょうか? もしかしてお母さんやお父さんの傍にいた方が、」
「いいえ、グエン様。……私、お義母様と一緒に暮らしたいです。グエン様のご兄弟にもお会いしたい」
彼女が初めての出産で不安に苛まれていると相談すると、奥様が笑って「じゃあ、一緒に暮らしてみる? おいでよ、グエン」と言ってくれたので、実家に戻って一緒に暮らすことになったのだが。
「ああ~……俺としては二人きりで過ごしたかった、暮らしたかった……!!」
「ごっ、ごめんなさい。グエン様。私、どうしても不安で」
「いえ、いいんですよ、リーファ様…………」
「グエン、お前な。そんなに絶望的な表情で言うなよ……お嬢様が心配するだろうが、まったく」
いや、しかし俺としてはその日のために頑張ってきたのに。
「まさかの、まさかの逆戻りだよ、俺……リーファ様と二人きりでイチャイチャが出来ない。また弟と妹の面倒を見る羽目に……」
まぁ、弟と妹とは言っても血は繫がっていないのだが。子供好きな奥様が孤児を集めて育てて、我が子同然に可愛がっている。そして桃やら杏やらの収穫を手伝わせる。
「リーファ様……早起きをして、鶏の面倒を見る羽目になるかもしれませんよ……? それでもいいんですか? 本当に?」
ぐったりとテーブルに突っ伏してそう話しかけてみると、彼女が嬉しそうに笑った。俺の長過ぎる黒髪を払って、優しげな表情で覗き込んでくれる。
「私ね、グエン様。……ずっとずっとそうやって暮らしてみたかったんです。ずっと。好きな人に毎日おはようと言って汗を流して働いて、」
「かっ、可愛い~! 好きな人って言ってくれた、可愛い~! いいですよ、何でも。何でもしますよ、貴女のためなら。リーファ様」
そうだ。俺の望みは彼女を幸せにすること。彼女の望みを叶えて、健やかに健やかに。明日もずっとずっとこうやって、呪いにも悪意にも蝕まれずに笑って生きて行ってくれますようにと。初めて会って恋に落ちたあの瞬間から、血が滲むほどそう願っていたんだから。
「リーファ様……申し訳ありません、俺がぐだぐだと言ってしまって。でも」
彼女の白い手を取って、随分と女性らしくなったその顔を眺める。初めて会った時の花精のような儚さと脆さは消え失せ、母らしい凛とした美しさを宿していた。ああ、そうだ、何だってしよう。彼女のためなら何だって。
(母さん。母さんも同じ気持ちだったんだろ? ……だから俺の父を傀儡にした。何も許せなかった)
彼女のためにあの健やかな農園を生み出して、そして死人だった俺を蘇らせた。そう、全ては愛する女性のために。奥様のために。
(真実を知った時は。何をどう言えばいいのかよく分からなかった)
俺は何のために生まれてきたんだろう、どうして母は父を殺したのだろう。あんなの生きているとは言えない、優しいと思っていたのに。優しい父だと、何の疑いもなくそう思っていたのに。
(でも今ならその気持ちがよく分かる。そうだ、幸せにしたかったんだ。好きな女の子を)
もう虚しさを感じることはない。あの温かい農園で疎外感を感じることもない。俺は。
「リーファ様。貴女の望みが俺の望みです。ぐだぐだと言って本当に申し訳ありませんでした……貴女がいいと言うのなら。そうしましょう、そんな風にこれからもずっとずっと一緒に暮らして行きましょう。愛しています、リーファ様」
照れ臭そうな彼女の両手を握って恍惚としていると、向かいに座った二人が溜め息を吐く。そうだった、こいつらもいたんだった。
「……ま、良かったわ。姉さんが幸せそうで。ありがとう、グエン。これからも姉さんのことをよろしくね?」
リンファが初めて柔らかい笑みを浮かべ、俺のことを見つめる。背筋がぞっとしてしまった。大丈夫か、こいつ? あんだけ散々俺のことをアホだの何だの言っていたくせに。
「おい、お前……さては旅先で何か変なものを食ってきたんだな? 俺が下剤でも調合してやろうか? いてっ!?」
「前言撤回。返してよ、姉さんのこと!!」
「まっ、まぁ。落ち着けよ、リンファ……」
「グエン様……もう少し言葉は選んだ方がいいかと……」
「トアン。どうしたんだ? 来たのか」
「グエンさーんっ! お久しぶりですっ、お会いしたかったーっ!!」
「っぐ!? お前、見ない内に背が伸びたな……?」
やたらと体がごつごつとしている。いつものように茶色い瞳をきらきらと輝かせたトアンが胸元にしがみつき、こちらを見上げてきた。苦笑してその頭を撫でてやり、べりっと引き剥がす。背後に佇んでいるリーファ様が、にっこりと怖い微笑みを浮かべているような気がしたから。
「まぁたそんな黒衣を着てお前は。どうせ父ちゃんに山ほど買って貰ってるんだろ。服」
「ええ、でも。俺はこの黒衣を着たかったんです。今日でしょう? ……引っ越すの」
「おう、だな。でもちょうど良かった、来てくれて」
悩んだ。散々悩んだ、どうしようかと。さり気なく俺の腕にしがみついてきた彼女が薄緑色の襦裙を着て、不思議そうな表情で見上げてくる。
「グエン様? ……お顔が怖いのですが、一体どうなさったのですか?」
「いいや、何でもない。何でもありませんよ、リーファ様。トアン、リーファ様に付いていてくれるか? もし何かあったら嫌だから」
「グエン兄さん? ……どうしたんですか?」
二人で不思議そうな顔をしている。そっくりだ、流石は従兄妹。笑って二人の頭を乱暴に撫でて、母屋の方へと向かう。
「グエン様、もういいでしょう? 私だって父には何の期待もしておりません。シャオリンにはちゃんと別れも告げたし、」
「大丈夫ですよ、リーファ様。……ほら、予想通りだった。おいでなすった」
護衛も誰も連れずに、ひっそりと木の下にその姿を現す。初めて見た時も思っていたが、どこか浮世離れした美しさを持っている。常に春の霞のような雰囲気を纏い、黒地に真っ赤な牡丹が散った羽織りを着ていた。
リーファ様の父、タイランが黒い瞳を細めてにっこりと笑う。頭上の枝葉が揺らぎ、絹糸のような黒髪に影を落とす。色が白い、まるで人ではない者のように顔を伏せて佇んでいる。
「やぁ、グエン君。……出て行ってしまうんだね、俺の娘を連れて」
「お父様……一体どうしてここに?」
その甘い声はどこか呆然としている。それはそうだ、彼女は父親に愛されていないと思い込んでいるんだから。問いかけを無視してずかずかと歩を進め、柔らかな地面を踏みしめる。ああ、そうだ。どうしたってこの男を許せない。許してはならない。
ぐいっと胸倉を掴み、そのこちらを薄く嘲笑するような顔立ちを睨みつける。彼女とよく似た甘くて優しげな顔立ちを睨みつける。
「聞いた、全部。あれから屋敷に通ってスイラン様に全部聞いた。全部」
「元から知っているだろう? 君は。俺がスイランを抱いて孕ませたことを」
首筋が怒りでかっと熱くなる。歪んでいる、この男は。根元から歪んでもうどうすることも出来ない。夏の終わりの陽射しが揺らいで、俺と目の前の男を照らしていた。どこか遠くで鳥が囀る。
「違う、そうじゃない……お前、守っていたんだろう? リーファ様のことを。何も知らずに自分を慕ってくる幼い娘のことを」
手紙も全部見せて貰った。自分のためにリーファ様のことを殺そうとしたフェイランをすっかり信頼したようで、狂気が抜け落ちて淋しげな雰囲気だけが漂っていた。狂気が剥がれ落ちてしまえば彼女は、ただの翻弄され続けた女性だった。
「分かりにくいが、お前。リーファ様のことをきちんと愛していた。何だったけか? お前とは違う、あれだけは一心にこちらを見てくれるのだと、」
「やめろ。おい、やめろ。グエン」
がっとこちらの首を絞めてきて、後方で「グエン様!」と彼女が悲鳴を上げる。トアンが殺気立って、先程預けておいた剣を鞘から抜き放った。しゃらんと音が響き渡る。
黒い瞳が恐怖と怯えを宿していた。頼むからそれ以上見せないでくれ、現実をと言っているかのようだった。その無様な表情を鼻で笑ってやる。馬鹿馬鹿しい、ならどうして今まで彼女を一人にしていたのか。
「お前に、お前に何が分かる。グエン。お前は今まで疑いもしなかったはずだ。誰も何も傷付けてこないと」
「ああ、分からないな。何せ俺は愛されて育ったもんでね! だが」
あんな、あんなことをしなくても良かったはずだ。お前にもそこに至らざるを得ないほどの苦しみがあったのかもしれない。でも、尊重するつもりは無い。微塵も無い。激しい怒りが胸の内で渦巻いて、舌を絡め取って零れ落ちる。
「絶対に一生、リーファ様には会わせねぇよ! お前はずっとずっとここで一生不幸面をしてろ!!」
「っぐ!?」
「わああああっ!? グエン様!?」
思いっきり殴る。歯が折れるような勢いで殴り飛ばしてやった。良かった、ここに護衛がいなくて。
「親子水入らずで話したかったのか? だが、誰がそんな甘い時間を許すと思った? ……あんたは色んな人の人生を滅茶苦茶にしたんだ。自分の妹も妻も!! あんたは誰のことも大事に出来なかった、だから誰もあんたのことは大事にしない!」
「っぐ、何の権利があってお前が。そんなことを言うんだ……?」
そこへ、淡い緑色の裾を揺らして彼女が父親の下へ行く。そして地面に尻餅をついた父親の前に立ち、おもむろに座ってぎゅっと抱き締める。
「……お父様。こう呼ぶのは最後です、もう。貴方の孫もこれから生まれてくる」
「孫? 孫だって? リーファ」
「でも会わせない、絶対に。そして私が貴方を父として慕うのも。これから先一生無いでしょう」
彼女が体を離して、ぐっと白い拳を握り締める。艶やかな黒髪が陽に透けて美しかった。泣いているのか怒っているのか、小刻みに震えている。
「タイラン。お前はそれだけのことをしたのよ……考えただけで吐き気がする。けがらわしい」
今まで聞いたことがないような酷く冷たい声でそう呟くと、涙を滲ませつつこちらを振り返った。そして駆け寄ってきて、俺の胸元にぎゅっとしがみつく。その震える背中を黙って擦ってやり、呆然とした表情のタイランを睨みつける。
「お前はずっとずっと一生、ここで暮らしてろ。……じゃあな、二度と会うことは無いだろうが。もしも会いに来たら殺してやる。以上」
物言いたげなトアンに微笑みかけ、背を向ける。少し歩いてから振り返ってみると、木の根元で突っ伏していた。柔らかな地面に爪を立て、いくつもの筋を作ってその背中を震わせている。
「グエン様……あれは」
「泣いているのか怒りに震えているのか。……よく分かりませんね、リーファ様」
「はい、グエン様。はい……」
彼女が目元の涙を拭って、ぐすんと鼻を鳴らす。申し訳ないことをしてしまった、親子の仲を引き裂く権利なんて俺には無かったのに。薄く晴れ渡っている青空を眺め、ぼそりと呟く。トアンは終始無言だった。自分の犯した罪でも考えているのだろうか。
「ああやって啖呵を切りましたけど。……会いたいのならいつでも会いに行ってもいいんですよ、リーファ様。俺は貴女の意思を尊重します」
「いいえ、グエン様。いいえ……だってどうしても許せないもの。もう、父とは呼びたくない。呼べない……」
手と手を取って、彼女と一緒に黒い屋敷の門をくぐる。そうだ、この日をずっとずっと夢見ていた。全ての呪いが解けたら二人きりで一緒に暮らそうねと。
「……俺の母が手ぐすね引いて待っていますよ、リーファ様。勿論ファファにルイも。ズハンと一緒に住めなかったのは残念でしたね……」
「ええ、でも。ふふっ、いいんです。薬屋に行ったら会えるから。グエン様のその、幼馴染の女性にも是非お会いしたいです……」
そこで、それまで黙っていたトアンがこちらの手を握って口を開く。
「あの、グエンさん。俺もその……このまま付いて行ってもいいですか? グエンさんの生まれ育った家にも兄妹にも会いたい」
「……俺は別にいいけど、リーファ様は……」
「夕方までならいいかな……夜には帰って欲しい。そう伝えて貰えませんか? グエン様」
あの事件以来、彼女はトアンと目を合わせて喋らない。トアンもトアンで複雑な気持ちなのか、リーファ様と一向に目を会わせない。二人の手を握って歩きつつ、背中に冷や汗を掻く。
「ええっと、それじゃあトアンは、」
「夕方までには帰るって。そう伝えて貰えませんか? グエン兄さん」
「あっ、うん……じゃあまぁ、一緒に帰るか。お前も」
「……はい、ありがとうございます。グエンさん」
「グエン様って本当に、誰に対しても優しいですよね……ふふっ」
笑ってない、絶対に笑っていない。勿論そんな彼女も愛しているのだが、時折こうして全力で逃げ出したくなってしまう。しかしぐっと耐えて、唾を飲み込んだ。夏も終わりかけの青空は遠く、穏やかに澄み渡っていた。
「俺が優しくしたいのは。いつだってリーファ様、ただ一人なんですけどね……それじゃあ帰りましょうか、皆待っているだろうから」




