28.長い夜の終わりと脂肪の話
彼女が刺した。実の叔母を刺した。目の前でスイランが崩れ落ち、驚愕の表情で自分の手を見つめていた。白い口元から一筋の血が伝い、そのままどっと倒れる。
「っスイラン! ごめんよ、グエン君! 許してくれ!!」
「やめてください!! やめてください、フェイランさん! リーファ様を殺さないでください!!」
ああ、駄目だ。どうしよう?
(全部俺のせいだ、全部俺の)
彼女に無理をさせてしまったのも何もかも。腕を伸ばしてフェイランの黒衣を掴もうとしたが、空を切ってしまう。どうしよう、殺されてしまう。殺されてしまう。
「硬直している場合ですか、グエン殿。話によると貴方は父となるのに?」
スオウの涼しげな声が響き渡り、ざあっと白い霧が出てフェイランの背中を包み込む。良かった、ひとまずはこれで大丈夫な筈だ。
「リーファ様、リーファ様! 申し訳ありません、俺が、俺が!!」
走る。走ってどうやら転んだらしいフェイランの背中を飛び越えて、彼女の下に辿り着く。血塗れの手で短刀を握り締め、呆然とした表情でこちらを見上げていた。ああ、無理をさせてしまった。俺が。
「リーファ様、リーファ様。申し訳ありません、俺が俺が」
「グエン様、嫌いにならないで。お願い、グエン様……」
嫌いになんてならないのに。震える彼女の体を抱き締め、胸の苦しみに両目を閉じた。
「大丈夫です、リーファ様。未来永劫に愛していますから。大丈夫です、そして」
「っグエン様! 危ないですよ! っとと」
ばっと指輪から飛び出てきたらしいセイランが立ち、きんと震えるような高い音を出す。フェイランの剣を弾いたのだ。先程まで味方だったフェイランの殺意が彼女に向いている。
「参ったね、セイラン。お前の主人は俺だろう?」
「申し訳ない、フェイラン様。長年連れ添った貴方よりもグエン様を優先させます。私は」
でも敵わない。術で縛られているのだから。震えている彼女から離れて、涙の滲んだ黒い瞳に笑いかける。
「大丈夫ですよ、リーファ様。貴女が人を刺して殺したぐらいで嫌いになんてならないから」
「グエン様」
「意外とね、俺の愛は重たいんですよ。……この辺りは母譲りかな? さてと」
剣を持ち直して振り返り、セイランの肩を叩く。物言いたげな顔をしていたが、俺を見て黒い瞳を瞠った。自分は今、どんな顔をしているんだろう。よく分からない。
「セイラン、お前は傷の手当を。そしてスオウ。いらない、助太刀は」
「いいんですか? じゃあ、グエン殿が痛い痛いしちゃう前に止めに入りますね?」
「変わらねぇな、ほんと。そういうところは」
低く笑って、ぞっとするような真顔のフェイランと対峙していた。茶色い瞳が剣呑な光を宿して、蝋燭の炎がゆらゆらと揺らいで白い頬を照らしている。
「死なないだろう、おそらく。……彼女には半分妖狐の血が混じっているし、只人より丈夫だ」
「そうでしょうね、でも違う。貴方は単純にリーファ様のことが許せない。そして」
「君に手加減をするつもりはない。許しておくれ、グエン君」
「っ本気で首を狙ってきましたね……!!」
怒っている。いや、我を失っている。怒りで我を失っているんだ、この人は。首を狙ってきた剣を弾いて、ぎらりと輝いている茶色の瞳を見てぞっとした。やっぱりトアンの父親だ、この人。普通の人じゃない。
「どうしよう? スイランが死んでしまったら。ようやく会えたのに、ようやく家族三人で暮らそうと思っていたのに」
「っあんな人! どうだっていい、リーファ様が死ななかったらそれで!」
挑発するような言葉を吐いてしまった。どうしよう? でも俺だって怒っている。いや、違うな。これは。
(ああ、情けない。もっともっと何か出来たはずだ、俺は)
そうだ、不甲斐ない。やるせない。情けない。悔しくて悔しくて、自分の甘さが。弱さが。迫ってくる剣を弾いて、完全に正気を失っているフェイランを睨みつける。
「っああ、久しぶりだ。こんなの!! 久しぶりに自分という存在がつくづく嫌になった!!」
「ぐっ!?」
相手の腹を蹴り飛ばして、剣を持ち直す。ああ、久しぶりだ。この感覚は。
「申し訳ありません、リーファ様。俺がもっとちゃんと色々出来ていたら良かった」
「グエン様……私は」
「分かっています。貴女は優しいから。こんな俺でも好きだって言ってくれるから」
でも、いい加減やめにしよう。そうしよう。情けないにも程がある。母さんに殴られて当然だ。起き上がろうとしているフェイランの腹を踏みつけ、そのまま押さえ込む。
「やめましょう、フェイランさん。ここで争っていてもどうにもならない。貴方は、っう!」
「グエン様っ! グエン様!」
「だいっ、大丈夫ですから! リーファ様! 待っていてください、そこで! じっとしていてください! 大事な体なんですから!」
子供を宿していなくったって大事な体だけど。鋭く迫ってきた剣を受け止め、弾き飛ばし、また迫ってくる剣を弾き返す。ああ、これは。
「フェイランさん! 申し訳ない! ちょっと本気で気絶させますよ!? いいですか!?」
「無理だろう、そんなことを言っている時点で。グエン君」
「っそれはそうかもしれないけど! ああ、歯痒い……!!」
やるせない、やるせない。俺はこんなにも無力だ。自分の甘さが嫌になる。
「フェイランさん! 奥さんのところへ行ってあげてくださいよ! おらぁっ!!」
「うわああああっ!?」
剣を持ったまま背負って、床へと投げ飛ばす。その後、呆然としているフェイランに笑いかける。この人が正気に戻ってくるように、争い特有のひりつくような空気を霧散させて。
「行ってあげてください。……貴方の奥さんでしょう? フェイランさん」
「ああ、そうだね……彼女は俺の奥さんだ。でも」
「応急処置が済みましたよ、フェイラン様。奥様がお呼びです」
その言葉にばっと剣を投げ捨て、一目散に駆け寄る。ああ、良かった。助かった。俺も彼女の下に行かないと。
「グエン様……ごめんなさい、私。突っ走ってしまって」
「いいえ、俺が悪いんです。……怖かったでしょう、辛かったでしょう? ほら」
「グエン様……良かった!」
彼女が泣いて泣いて、俺の胸元に飛び込む。その体は熱く、子供が宿っていると思えば更に愛おしさが増した。震えて泣いている彼女の体を抱き締め、黒髪頭に鼻を押し当てる。仄かに花の香りがした。甘酸っぱい香りを胸一杯に吸い込む。
「……申し訳ありません、本当に。俺が情けなくて。それに!!」
「っふふ、早く言って欲しかったって言うんでしょう? 言いません。……囮になりたかったから」
「リーファ様……」
彼女の言葉が全てだ。いつだって正しい。でも。
「リーファ様、今回ばかりはちょっと怒りますよ、俺は」
「えっ……叔母様を刺したから?」
「っふ、そうじゃなくって。ああ、もう、敵わないなぁ……!!」
「グエン様」
強く強く抱き締めていると、彼女が照れ臭そうに身じろぎをする。ああ、良かった。彼女が死ななくて。良かった。
「リーファ様……帰りましょうか。きっと全部終わったから。帰りましょうか」
「はい、はい。グエン様……帰りましょう、一緒に。帰りましょう……」
強く抱き締め合っていると、背後でフェイランが泣いて「ごめんよううう~……スイラン! 早く言えば良かったね! 淋しい思いをさせちゃってごめんね!!」と叫んで、セイランが「ちょっと待って下さいよ、フェイラン様! 奥様の傷に障るので!」と焦って引き剥がしている。見えないが手に取るように伝わってくる。
「グエン様……あの。一つだけお願いがあるのですが」
「ん? どうかしましたか? 俺は貴女が無差別殺人をしたって愛していますからね? 好きです、リーファ様」
彼女の両手を握り締めていると、花が綻ぶような笑顔を見せる。それは大輪の薔薇が咲き誇るような美しいもので。
「はい。……私だってきっとそうです。グエン様……その、あのね?」
「えっ? 何ですか? 死ぬほど可愛い、死ぬほど」
彼女が声を潜めて、照れ臭そうに黒い瞳を潤ませている。どうしよう? 可愛い、死んじゃいそう。今すぐ襲いたい。
「帰ったら……トアンとお出かけもせずにずっとずっと、私の傍にいてくれますか? ここのところ毎日その、淋しかったんです……グエン様を独り占め出来なくて」
「っ可愛い~!! 勿論ですよ、リーファ様! トアンのことなんか無視して貴女のことを構いますからね! 付きっきりでお世話しますからね!!」
きっとずっと、彼女も我慢していたのだろう。
(だからきっと、ああして刺して……申し訳ないな、ずっとずっと我慢をさせていた。させてしまった)
これからは本当に彼女を優先しよう。彼女を優先して、どこにも行かずにずっとずっと傍にいよう。
「ふふっ、嬉しいです。グエン様……愛しています。心から」
「はじっ、初めて言ってくれた……!! 俺は初対面の時からずっとずっと毎日愛してるって言ってるけど! 嬉しいなぁ、もう。可愛い可愛い、好きっ……!!」
生まれてきて良かったのか。俺はもう一度死ぬべきなんじゃないのか。
(そんな風に思うことはもう無い。……良かった、良かった)
母からは子供が出来るかどうか分からないと、そう言われて軽く絶望していたけど。ああ、良かった。俺の娘か息子が生まれてくる。いつだろう、いつ生まれてくるんだろう。
「さ、帰りましょうか。リーファ様……トアンも喜びますね、きっと」
「……そうですね、グエン様。でも」
彼女がぐいっと俺の胸元を掴んで引き寄せて、くちびるを塞ぐ。そのまま首の後ろに腕を回して、がっつり固定されてしまった。視界がくらくらと点滅して、その熱さに驚く。どうしたんだろう、怖かったんだろうか?
「っは、私の前で今は……トアンの名前を出さないで下さい。私だけを見ていて下さい。ねっ?」
「うぉっ……かわっ、きゃわわわわわ!! もう一度こてんってして欲しいです! もう一度首を傾げて欲しいです、リーファ様!!」
「もうっ、グエン様ったら。も~」
「可愛い~、可愛い~、は~、可愛い。もうそれしか言えない、可愛い~!! きゃわわわわ!!」
「それで? リーファ様……貴女様は妊婦だというのに。そんな無茶をしたんですか?」
「ごっ、ごめんなさい。ズハン……」
珍しくズハンがリーファ様に怒っている。いつも俺ばっかり怒られているので新鮮だ。ズハンはふうと深い溜め息を吐いて、リーファ様の頭を撫でる。少しだけ苛立ったがまぁ、許容範囲内だ。だってズハンにはメイリンもいるし。
「医者を呼びましょうね、今度。ひとまず眠りましょうか、リーファ様。グエン殿。腹は減ってますか? 持って来ましょうか? 何か」
「肉。肉食いたい、肉」
「私も何か、こってりしたものが食べたいです……お腹が減った」
「まぁ、人一人育てていますからね。すぐに持って来ますよ、お待ちください」
ばたんと黒い扉が閉まって、寝台に座ったリーファ様がほっと息を吐く。どうやら緊張していたらしい。白い夜着姿の彼女の手を取り、その不思議そうな黒い瞳を見つめる。
「すみません、俺。ちっとも気付かなくって……大丈夫でしたか? その」
「大丈夫ですよ、グエン様。でもほら、太っていたでしょう? 最近。私」
「ああ、でも前はちょっと細すぎたので……別に。むしろ可愛らしいなぁと」
思ったままを口にしてみると、彼女が絶望的な表情を浮かべる。何故だろう、そこまで悩むこと無いのに。
「グエン様はひょっとして……ふくよかな方が好きなのですか?」
「えっ? 違いますけど……リーファ様は太った太ったって言って悩んでいましたけど。頬も丸くなってかわいらしい感じで。いいなぁと」
彼女がふるふると震えて、自分の手元を見下ろしていた。どうしてだろう? ふくよかになったはなったが、むしろ前より今の方が可愛くなっているから。それでいいのに。
「グエン様……私、何だか衝撃を受けてしまって」
「えっ!? どうしてですか!? 何でですか!?」
「だっ、だって。だってこんなにも太ったのに……毎日お腹が空いておやつばっかりばくばくと食べていたから。密かに凄く悩んでいたのに……」
「えっ、ええっ……?」
前は確かに華奢で、折れそうな細さだった。でも今は白い頬もふっくらとして柔らかく、ごつごつとしていた手首や腰回りも丸みを帯びてふわふわとしている。全体的に柔らかな曲線を描いていて、ますます女性として美しさが花開いているような気がするのだが。
呆然とした表情の彼女が倒れこんで、寝台の上でその顔を覆う。
「私、私。凄く悩んでいたのに……!! だってお腹周りもこんなにぶよぶよとしていて、醜くて」
「ええっ!? そんなことはありませんよ!? あと全然太ってなんかいませんからね!? むしろふっくらとしていて可愛い、」
「グエン様……もう無理です、私っ、もう無理です……!!」
「えっ、ええええ……?」
よく分からない。むしろ前より抱き心地も良くて、ふわふわふっくらとしていて可愛いのに。ただそれを一生懸命伝えて励ましてみると、ますます衝撃を受けてしまったらしく。
「ズハン、私。ご飯食べるのやめる……そうする……」
「何を言っているんですか、お嬢様。お腹の子に障るでしょう? きちんと食べてもっともっと脂肪を付けなくては」
「うっ、うう~……」
「りっ、リーファ様!? 大丈夫ですからね!? むしろ前より可愛いんで! ほんっとうにお気になさらないでくださいね!?」
微妙な顔をしたズハンが「逆効果だと思いますよ、その励まし」と言ってきたので押し黙る。
彼女はえぐえぐと泣いて牛肉と野菜の炒め物を食べ、もふもふと包子を食べていた。そんなテーブルの向かいに座った彼女を見て、何か良い慰めの言葉は無いかと考え込む。
「俺……リーファ様が痩せていても太っていても。何をしていても好きですからね? だから安心して、」
「じゃっ、じゃあ。太ってる私と前の私。どっちが好きですか……?」
「いや、だから別に。太っていませんって、リーファ様……」
「わたし、私からすると太っているんです……腕も顔もぽっちゃりしていて丸くって。太もも、太ももなんか特にぶよぶよで醜くて……!!」
「大丈夫ですって! 太ももなんかも特に触り心地が良いですよ!? 大丈夫ですって!」
ぶよぶよと太っている訳ではなく、ふっくらふわふわとしていて可愛いと力説してみたものの。やっぱり彼女は納得してくれなくて、すんすんと鼻を鳴らして泣いていた。可愛い、落ち込んでいるリーファ様も可愛い。好き。
「ははは、まぁ仕方が無いですよね。俺も奥さんによく怒られて、」
「ルイ!? いつの間に結婚していたんだよ!?」
彼女と一緒に眠ろうと考え、着替えている最中にルイがやって来た。どうもファファに叩き起こされたらしく、眠たそうな顔でむっちりふくふくに太ったファファを抱っこしている。
「つい先週ですよ、グエン様。ファファちゃんと離れると胸が張り裂けるので。今後は通いでも大丈夫ですか?」
「ああ、まぁ、勿論。言えよ、水臭いな……」
「だって主がごたごたと揉めてふさぎ込んでいる最中に。結婚しますねとは言えないでしょう? ね~、ファファちゅあ~ん」
青い瞳を細めたファファが「にゃあん」と甘えた声を出し、ごろごろと白い喉を鳴らす。窓の外は薄っすらと明るくなっていて、朝日とも言えぬような薄暗い光が射し込んでいる。
「そっか……なんか、淋しくなるなぁ。色々と」
「えっ? 大丈夫ですよ、通うんで。やめさせないで下さいね!? 俺のこと!」
「ああ、まぁ、それは勿論。でも」
「でも? 何ですか? 給金を下げるんですか?」
「下げねぇよ、大丈夫大丈夫」
笑ってファファの顎の下を擽ってやり、その青い瞳に笑いかける。ルイが不思議そうな表情でこちらを見つめていた。
「なんか色々と終わるんだなって。それだけ」
「違いますよ、むしろ始まりでしょう? グエン様」
「えっ? 何で?」
そこでルイが茶色い瞳を細め、ファファの頭を撫でて笑う。薄暗い部屋にごろごろと、喉を鳴らす音が響き渡る。
「だってほら。来年には子供も生まれるんでしょう? 俺の奥さんが産婆をしているんですけど。呼びましょうか? 出産の時に」
「えっ!? あ、ああ。それは心強いな……それじゃあそうして貰おうかな、うん」
「はい、お任せ下さい。それじゃあ俺はこれで。ファファちゃんにご飯をあげて、朝のお散歩に行ってきますね~」
「おう、行ってらっしゃい。気をつけて」
ばたんと扉が閉まって、薄暗い朝日が射し込んできた部屋でじっと自分の手を見つめる。感慨深かった、何だか。
「そっか、俺。お父さんになるのか……リーファ様によく似た息子でも娘でも。何でもいいや、もう。とりあえず、俺も愛しのリーファ様の下に行って眠るか……あーあ、疲れた」




