27.どうかお願いだから私のことを嫌いにならないで、グエン様
軽い流血描写があります、ご注意ください。
どうやったら叔母を止められるのだろう。真夜中の屋敷の前に人が現れ、こちらを見つめてくる。リーファはにっこりと笑って近付き、それまで白い夜着の上から羽織っていた真っ赤な衣を脱いだ。
「お待ちしておりました。……リーファです。叔母様からの、迎えですよね? 私は、」
なるほど、私が逃げるとでも思っているのか。手早く数人の男に手首を縛られ、するりと猿轡をされる。しかし抵抗はしない、絶対に叔母からの手の者だから。
(怖い。……でも大丈夫。絶対にグエン様とお義母様が守ってくれるだろうから)
彼らは知らない。この光景を、塀の上に立っているショウリンが見守っていることを。思わずそちらを向きたくなったが耐える。ばれては水の泡だ。
(手が震えている。大丈夫、大丈夫。落ち着いて、私)
ふと妹のリンファが恋しくなる。先日家を出て行ってしまった妹のリンファ。もう少しだけ傍にいて欲しかったのにと言うと、淋しそうに微笑んで「すぐ戻ってくるわ、姉さん。故郷を見たらすぐに」と約束してくれた。
真っ暗闇の揺れる輿の中にて、震えつつ考える。あれで良かったのだと。気の狂った叔母がまたリンファを狙うかもしれない。
(それよりも遠い所に行って。ユウロンに守って貰う方がいい)
ぎゅっと両目をつむる。怖い怖い、何もされないといいけど。
(いざとなったらセイランさんやスオウ様も助けて下さるから……)
でも怖い。とろりと滑らかな翡翠と金の指輪を見て考え込む。大丈夫だろうか、いきなり目の前で叔母を殺したりしないだろうか。彼らは妖魔だ。何もかもが違う。考え方も常識も。
(グエン様。……グエン様)
でもきっと、叔母の狙いは彼なのだ。彼に一方的な恨みを募らせている。
(ここで失う訳にもいかない。ああ、一体いつ。話そうかな、妊娠したってことを)
月のものが止まった。やたらと眠たくて体が熱っぽくて、二の腕や下腹がふっくらとしてきた。足も常にむくんでいる。水っぽい。
(でも良かった。気付かれなくて)
私が妊娠したと、そう知れば「囮になんて使えない」と言うだろうから。彼に心配をかけてしまうから。
(あ……また眠たくなってきた。そうよね、だっていつもはぐっすり眠っている時間だもの)
うつらうつらと船を漕いで、彼とのこれからを考える。大丈夫大丈夫、きっと。全部を手に入れて幸せになれる。彼の、傍にいたい。一生。
(グエン様…………眠ろう、ちょっと。眠ろう……)
帰ったら沢山甘やかして貰おう、そうしよう。リーファは揺れる輿の中にて、そっと目蓋を閉じた。
「うっ、うう。どうしよう? スイランに拒絶されたら。うっ、うう。どうしよう? 怖いなぁ、グエン君。怖いなぁ~」
「なんだい、あんた。めそめそして。いい加減に黙りな! 鬱陶しい!」
母のショウリンがごっと薙刀でフェイランの頭を殴り、グエンは思わず唾を飲み込んだ。
「っおい! 母さん! やめろって! トアンの父さんをいじめんのやめろ! あと気付かれたらどうするんだよ!? 大体な、母さんはな、」
「黙りな、グエン。馬鹿息子。もう二発ほど拳骨を落とされたいのかい、あんたは」
「……落とされたくないけど。でも殴るのはやめろ。刃の部分で殴ってないよな?」
「だっ、大丈夫。グエン君、血は血は、ちょっとしか出てないみたいだから……!!」
「出てるんですね……? すみません、俺の母が。貴方を殴ったりして」
茂みの中に隠れつつ、そう謝ってみるとふんわりと微笑む。俺と同じ黒衣を纏っているが、その印象はまるで違う。いつもの気の弱さは鳴りを潜め、らんらんと茶色い目が光っている。
(弱音ばっか吐いているが……何だ? 鋭い。流石はトアンの父親といったところか)
めそめそと泣いている筈なのに背筋がぞっとしてしまう。もう一度唾を飲み込んで、明かりがついている屋敷を見上げた。
(ああ、リーファ様。貴女の身に、もしも万が一のことがあったら)
あの笑顔がもう、永久に見れないとしたら。春の陽射しの中で笑って、潤んだ黒い瞳で見上げてくる。リーファ様、リーファ様。
(どうかご無事で……ああっ、でも。駄目なのか? 合図って一体いつの話なんだ? よろしく頼んだぞ、セイランにスオウ……!!)
ふっと目覚めると、誰かが私の顔を覗き込んでいた。叔母だった。黒い瞳が歪んで、その狂気に満ちた微笑みにひっと悲鳴が出そうになる。
「おっ、叔母様……お久しぶりです」
「リーファ、おはよう。偉いわね、ちゃんと一人で来て。……でも」
「あっ、それは、それは……」
私の手からするりと指輪を抜き取って、しげしげと眺め始める。ユウロンの師匠であるギエムお爺さんが「俺ぁ、こういった小細工は得意でねぇ。任せな、ばれないようにしてやっから」と言い、完璧に妖魔の気配を隠してくれている筈だが。
艶やかな黒髪を下ろして、夜着の上から豪華な金銀の羽織りを羽織ったスイランが口元を歪める。どうしよう、見破られたのだろうか。
(そしてここはどこなんだろう……薄暗い。それに、お香の匂いがする? 甘い匂いが漂ってる)
ゆらゆらと、鼻にこびりつくような甘ったるい匂いが漂っている。部屋はどこまでも薄暗く、天井にはシャンデリアが吊り下がっていた。所狭しと並べられた箪笥の上には、いくつもの蝋燭が並んでぼんやりとした明かりを放っている。
「叔母様、ここは……」
「ああ、まだ寝ていなさい。……きっと、あいつらも来ることだろうから。私はね、リーファ。決して騙されたりなどしないの。貴女は大嘘吐きだわ、お兄様にそっくりね?」
「叔母様、あの、私は」
広い寝台の上で後退ると、叔母がふっと悲しげな笑みを浮かべた。そしてぎっと乗り上げてきて、こちらを空虚な黒い瞳で覗き込んでくる。
「駄目じゃない、リーファ。貴女も。どうせ私のことが嫌いになるんでしょう? ねっ? そうなんでしょう?」
「叔母様……もう、もうやめましょう。貴女の……旦那様のフェイラン様だってこちらに来ます。だから」
「お黙り」
「っあ!!」
ぱんと乾いた音が響き渡り、頬がじんじんと熱く痛む。殴られたのだと、平手打ちをされたのだと理解して震える。どうしてだろう、どうして叔母はこんなにも狂っているのだろう。
「ああ、リーファ……ずっとずっと目障りだった。お兄様が貴女のことを大事に隠したりなんかして。お兄様、お兄様。ああ、そっくりだわ。その目の形も何もかも!」
「叔母様……叔母様は、お父様を憎んでらっしゃるのですか?」
叔母のスイランがこちらの頬に両手を添えて、泣き出しそうな笑みを浮かべる。その手は冷え切っていて、ほんの僅かに震えていた。これは……恐怖から?
「教えて下さい、叔母様。あの人は……父は一体何をしたのですか? 貴女に」
「最初はお兄様からだったのよ、リーファ……お兄様がね、私を父から守ってくれたの。あの、下劣で最低な父から」
その重たい言葉に吐き気がした。まさかまさか、私の今はとうに亡くなった祖父は自分の娘に手を出していたのか。スイランの痛々しい笑みを見て理解する。ああ、気持ち悪い。恐ろしい。
「だからね、私もお兄様のことが好きだったの。でも違ったの、お兄様は。私のことを守ってくれなかったの、あの父と一緒だったの……信じていたのに」
姉妹のようだったと、そう言っていた。以前に。同じ淡い色合いの襦裙を着て笑い合う、少年少女の頃のスイランと父を思い浮かべる。確かに二人は姉妹のように仲が良かったのだろう。頭のおかしな両親に囲まれて育って、そうして二人でいつかは愛し合うようになったのか。
「それでね、私。赤子を孕んだの。でもお兄様は気持ち悪いって言って。堕ろさせたの、私、私、楽しみにしていたのに……薬を盛られて昏倒させられて」
恐ろしかった、何よりもその言葉が。
(ああ、駄目だ。私は何が何でも絶対にこの子を守らないと。なんて恐ろしい、怖い、怖い。グエン様)
痛いほどによく分かる。この子を? この子の命がもしもそうやって理不尽に奪われたとしたら。
「叔母様。……きっと私だって気が狂います。そんな目に遭ったとしたら」
「……リーファ」
スイランは黙って、虚ろな黒い瞳でこちらを見ていた。蝋燭の明かりに石膏のような白い肌が浮かび上がり、すいと手が伸ばされて私の顎を持ち上げる。
「お兄様はね、貴女のことを愛しているの。再三文を送ったのに、金も渡すといったのに。あの女の子供を大事にしたりなんかして」
「叔母様、私は愛されてなどいません。そして、そして……貴女は帰るべきです。フェイラン様の下に」
「リーファ、お前も私のことを馬鹿にしているのね? いいわ、今夜。全員殺すから」
ざわりと空気が殺気立って蝋燭の炎が揺らいで、スイランの頭に金色の耳が生える。ぶわりと尻尾の毛が逆立って、らんらんと赤く光る目でこちらを見下ろしていた。
「もう誰も何も信じたりなどしないの。リーファ、お前もいずれ気が付くわ。騙されていることに。あのグエンとやらもきっとお兄様と、」
「お父様とは絶対に違います! 彼は私のことを裏切ったりなどしない、優しくて真面目で誠実で良い人です!」
ああ、一緒になどされたくない。あの清廉な眼差しで笑みを浮かべるグエン様と、狂ったお父様が一緒だなんて。怒りのままにスイランの両肩を掴んで、その虚ろな瞳を睨みつける。
「グエン様は優しい方です! きっと貴女を傷付けることでさえためらう! もう終わりにしましょう、叔母様。帰る場所があるのに駄々をこねていては駄目です!」
「……帰る場所? 無いわ、リーファ。今も昔も。きっと貴女が愛されて育ったからそんなことが言えるによ……忌々しい」
大丈夫、大丈夫。
(お願いだからまだ。まだ出てこないで、スオウ様にセイランさん。まだ、肝心なことが聞けてないから……)
甘い考えかもしれないけど。理解したいのだ、叔母を。彼女もまたトアンのように、ふっと正気に戻ってくれたらと。そう考えて、少女のように華奢な両肩を握り締めていた。
「うわっ、うわああああん! やっぱりだああああっ! 俺はっ、ふっ、スイランに拒絶されているんだああああ~…………」
「血塗れで泣き叫ぶのやめて下さいよ、フェイランさん……」
「まったく、鬱陶しい男だねぇ。本当にもう。おいっ! ズハン! あんたはお嬢様を探してきな! そこで雑魚どもを蹴散らしてたって仕方が無いだろ!」
こちらへと向かってくる何故か牙が生えた巨大魚に剣を噛まれ、持っていかれそうになりつつ叫ぶ。
「ズハーン!! 俺っ、俺が行くぅーっ!! リーファ様を助けに行くぅーっ!!」
「じゃあさっさと行くんだね、グエン! リーファちゃんの合図を待ってちゃ駄目だよ!! あの子は無茶しがちだからね!」
鱗が生えた腹を蹴り飛ばし、真っ暗闇の向こうで戦っている母を睨みつける。
「分かってらぁ、そんなこと! 行ってくる! ズハン、死ぬなよ!」
「こちらですよ、グエン殿。お連れしましょう」
「うおおおっ!? スオウ!? つめたっ!!」
「俺も行くううううっ!! グエン君ーっ!!」
「おわああああっ!? ちょっ、リーファ様! リーファ様の髪の匂いが嗅ぎたい! 辛い!!」
ざらりと、広げられたのは見事な金銀刺繍の花嫁衣裳。牡丹に百合に薔薇が咲き誇った刺繍に亀と龍。それを見て息を飲み、おそるおそる叔母を見上げる。
「これはね、本当は……トアンとの結婚式に着て貰おうと思ったのだけど。あの子は奪われてしまったから。仕方が無いわね、本当に」
「叔母様……トアンの置き手紙を見たのなら。分かるでしょう? グエン様は優しい方です。それに」
「黙れ、リーファ。可哀想に、ああ、お前も。あんな男なぞに騙されて……」
ああ、話が通じない。どうしよう? リーファは両目を閉じ、また開いた。ゆらゆらと蝋燭の火が揺らぐ室内にてスイランが顔を歪め、そっと花嫁衣裳を広げている。部屋にあった箪笥の中にはぎっしりと襦裙と反物が詰められており、全て私への贈り物だと言う。
「これは貴女が五歳の時に。これは貴女が六歳の時に……と。思って買って贈ったんだけどねぇ。お兄様はどれもこれも全部、突き返してきて…………ああ、つまらない。悲しいわ、リーファ。悲しい、お兄様、お兄様」
完全に気が触れている。精神が病んでいるのだ。彼女の時は止まったまま、あの日の婚礼の前日で止まったまま。
(ああ、当然かもしれない。そんな目に遭って病んでしまうのも。でも)
どうしたらいいのだろう、殺せば解決するのか。念の為に忍び込ませてきた短刀をそっと握り、考え込む。
(……ああ、まだだ。まだ、終わらせない。きっと誰も幸せにならない)
この哀しくて美しい人を殺したって何の意味もない。ああ、お父様。もうお父様とは呼べないけれど、でも。
「叔母様、どうしますか? もしも貴女の夫が……フェイラン様が裏切っていないとしたら?」
「そんなことは。有り得ない、嘘に決まっている。今でもあの人は私の同胞を殺しているのに? 有り得ない、嘘に決まっている、嘘に決まっている……」
揺らいでいる。信じていたいのだ、やっぱり。
(そして好きなんだ、叔母様も。まだ)
戻ればいい、戻せばいい。多少乱暴な手を使ってでも。短刀を握り締めて考え込む。どうやったらこの人を救えるのだろう、と。
「叔母様。……好きなんでしょう? まだ。だからご自分で殺しになどいかない。臆病者のようにびくびくと怯えて震えて、貴女はじっと耳を澄ませて隠れて、ぐっ!?」
「いいわ、リーファ。それが貴女の望みなら」
白い両手で首を締め上げられ、低く呻いて見上げる。らんらんと赤い瞳が煌いていた、血のように赤い。視界がちかちかと点滅している、誰か、誰か────………。
「っう! リーファ様! リーファ様、リーファ様!!」
「ぐえん、さま…………!! きちゃ、だめです。こちらに…………」
「ああ、ようやく来たのね? お前は」
「もう終わりにしよう、スイラン。悪い子だ、そうやってずっと俺から逃げたりして」
ゆらゆらと蝋燭の炎が揺らぐ中で立ち上がり、こちらを睨みつけてくるのは血塗れの男だ。フェイランが黒い衣を着てぴっと、剣についた血を払う。仙界からやってきた妖魔でさえも切り裂いて殺すという、神の鉄を鍛えて剣にしたもの。それがぎらりと輝いて、こちらの背筋を震わせる。
「ごめんよ、グエン君。俺達の夫婦喧嘩に巻き込んでしまって」
「夫婦? ……夫婦? あっ、うん。はい…………」
けほっと咳き込んで喉を押さえていると、甘い微笑みを浮かべたスオウに首根っこを掴まれている彼が今いち微妙な顔をする。ああ、良かった。彼がこちらに来なくて。見られずに済むから、今の私の顔を。
「もう終わりにしましょう、叔母様。貴女は口で言っても聞かない人でしょう? それにフェイラン様は貴女のことを愛している。手荒な真似など出来ないわ、やはりこういうことは。女である私がしなくては」
そう呟き、見事な金色の尻尾を生やしているスイランの背中を刺す。どっと、上等な布地を通して柔らかい肉を刺した感触が伝わり、爪が痒くなるようなおぞましい感覚に耐え忍ぶ。
ああ、初めて。人を刺した。死なないといいが、叔母が。
「リーファ、様? リーファ様」
彼の頼りない声が響いてくる。手の甲に真っ赤な血が伝って、吐き気を催すような温もりに両目を閉じる。
「好きです、グエン様。……たとえ優しい貴方に軽蔑されても。私は貴方とお腹の中の赤ちゃんを守ります」




