25.彼の奥さんになるのはこの私だから
たまには一人でのんびりしたい時もあるのだ。それなので木の上で息を潜めていた。
(やばいやばい、あのババア……まだ俺を殴る気でいたのかよ、勘弁してくれよもう)
とんとんとんと、いつもの薙刀で肩を叩いている。少し離れた木の下に佇んでいる母のショウリンはどうも俺を殴りにきたらしく、先程から俺のことを探し回っている。
「まったく。あの子にも困ったもんだねぇ~。リーファちゃん。隠してない? あいつのこと」
「いえ、まさかそんな。お義母様に嘘は吐きませんよ。でも困りましたね、私もグエン様にお会いしたくて探しているのに」
ああ、俺の天女様。貴女の隣に鬼神がいなければすぐにでもはせ参じるというのに! グエンは両手で口を塞ぎ、必死に気配を殺していた。
(あばばばば、ファファ~。頼むからにゃあとか言うなよ~。後で魚でも何でもやるからな~、静かにしてろよ~?)
目の前で香箱座りをしているファファが青い目を細め、ぐるぐると喉を鳴らしている。頼むからそのまま静かにしていてくれ。お前、もう子猫って年齢じゃないだろう?と、目だけで話しかける。
「仕方が無いねぇ~、お客さんだって言ってるのに。まぁ、ついでに殴るけど」
「ははは、殴るんですか? ショウリン様?」
「殴る、情けないったらありゃしない」
うおおおお、やっぱり殴る気だった。あのババア。息を潜めていて正解だった。
(しかし誰だ? あいつは。……リーファ様に近過ぎやしないか?)
両手で口を塞いだまま首を伸ばし、木々の枝葉の隙間からそっと男を眺める。男はやたらと派手な牡丹の刺繍が施された胡服を着て、涼しげな黒い瞳で彼女を見つめていた。
「ごめんなさい、ええっと。セイラン様?」
「様は付けなくて大丈夫ですよ、お嬢様。でも困りましたね。私としてもグエン様にお会いしたかったのですが。事が事だけに、彼抜きで話を進める訳にも……」
ははあ、さては厄介な案件だな。なら尚更出たくない、降りたくない。
(リーファ様、申し訳ありません! この馬鹿どもが帰ったら俺はきちんと、貴女の下にはせ参じますからね!!)
心の中で必死に謝っておく。しかし後でちゃんと顔を見て謝ろう。息を潜めてじっと腹ばいになっていると、ようやく諦める気になったのか母とセイランとやらが別れの挨拶を交わす。
「まったく、仕方が無いねぇ~。出直すとするか。そんで? セイラン? あんたは?」
「私はもう少し粘ってみます。どうもこの屋敷の中にはいるみたいですから。そうですね、トアン様にも協力して貰って探そうかと」
「いいね、それは名案だ。っち、あたしも時間さえあればね~、粘ったんだけどねぇ」
ひええええ、なんて案を思いつきやがる。
(ここ最近のトアンはほんっとうに俺に付き纏っているからな!! 一発でばれそう。どうしよう?)
かと言ってトアンに見つかった後二人きりになるのも避けたい。どうもこちらが兄の振りをしていると不満げにべたべたと甘えてくる。リーファ様に心配をかけてしまう。
(俺は男とも女とも浮気なんてしない! ああ、どうしよう? いっそ逃げ出してみるか? たまには一人で街でもうろついてみようかなぁ~)
昔はよくそうしていた。どこへ行くのかも決めずにただふらふらと出歩いて、知らない街の茶屋に入って団子を食っていた。呑気に気ままに、もしかすると一生訪れなかったかもしれない土地を歩いてその土地の酒を飲んだりしていた。
(ああ、懐かしいなぁ。でも戻りたいとは思わない。しかし! 今日一日ぐらいは許されるだろ、さて。降りるか)
周囲に人気はなく、すっかり静まり返っている。おそるおそる起き上がってみると、ファファが白い尻尾を揺らしてびょんっと上の方へと登っていき、その光景をぼんやりと眺めていた。
(ああ、白い毛が。緑に映えて綺麗だ。美しい。さてと)
降りてとんずらするかと決め、ざっと木の枝から飛び降りる。柔らかな芝生に落ちてしまった自分の黒い沓を拾い上げ、逆さまに振って小石と砂を叩き出す。
「あ~、結構入ってんなぁ。ええっと、じゃあ。屋敷の裏手から出るか…………?」
くるりと振り返ると、何故かそこには血走った目をした金色の狐が立っていた。本当に何故だ。
「えっ、ええええええ……?」
ふーっ、ふーっと息を荒げ、口からおびただしい量の唾液をぼたぼたと垂らしている。こちらを睨みつけている金色の瞳は血走っていて、豊かな毛皮には所々黒い血のような染みが付いている。
「っは、え?」
訳が分からなかった。思考が停止している。そうやってぼんやりと突っ立っていると、狐が口を開けて飛んで襲いかかってくる。
(っわ、しまった! このまま、噛み殺されるんじゃ…………!?)
嫌だ、せめてリーファ様にお別れを言いたい。いや、このまま狐の腹に収まって彼女が困った表情で俺のことを永遠に探し続けるだなんて────…………。
「いないと思ったらこんな所にいましたか、グエン様」
「おわっ!? さっきの! セイラン!?」
ばっと間に割って入ってきた人物がおそらく、狐を足で思いっきり蹴り飛ばした。そして真剣な表情でこちらに向き直ると、ひょいっと俺の体を持ち上げる。
「おわっ!? ちょっ、ええっ!?」
「この狐がスイラン様だったらこのまま、囮になって貰うところなんですが! 違うようなのでちょっと失礼しますね!」
「えっ、ええっ!? どこ行くの!?」
どんっと地面を蹴り上げ、いきなり青空が視界に入って風がこうこうと吹き荒ぶ。ぐるりと頭が回ったかと思うと次の瞬間、木々の枝葉が俺の頬を引っ掻いていた。
「しっかり捕まっていて下さいね! 一旦逃げます!」
「えっ、ちょっ、何とかたおせな、ぶっ」
視界の端に緑の枝葉が通り過ぎてゆき、頭がくらくらとする。ぎゅっと黒い胡服を握り締めていると、セイランが低く笑った。
「あれ一匹だけじゃないからですよ、グエン様? 貴方は気がついていなかったが。背後にもいた」
「えっ、ええっ? 何で俺狙われてんの!?」
「さぁ? 腹いせじゃないですか?」
「はっ、腹いせ!? 一体誰の!? ぶっ」
舌を噛みそうになって黙る。しまった、剣を持ってくれば良かった。近頃はトアンの襲撃も無くなってすっかり安心しきっていた。
「っう、リーファ様に会いたい…………!!」
「大丈夫ですよ、グエン様。私がきちんとお守りしますからね?」
情けない。ああ、確かに俺は情けないよ、母さん。
「っ降ろしてくれ! 埒が明かない、俺も!」
「いえ、もう降りるつもりですよ? 屋敷の裏手に来たので。よっと」
「おわあああっ!?」
がくんと体が揺れて、吐き気がしてそのまましがみついていると。低い狐の唸り声が聞こえてきて、セイランが獰猛に笑う。
「さてと、まさかスイラン様が眷属を使ってくるとは。あれかな、半分だけでも混じっていればいいのか? お前らは」
「なん、何の話だ…………?」
「いえね、化け狐がスイラン様の味方をしているのが不思議で」
くらくらと回る視界の中で一旦地面に下ろされ、何故か今度は横抱きにされてしまう。
「おい……もっと無かったのか、他に」
「うーん、すみません。私の趣味かな……」
「お前の趣味……さてはスオウと同じ類の妖魔だな?」
呆れ返って尋ねてみると、黒い瞳を細めて笑った。それはどこか不愉快そうな微笑みで、禁句だったかと思って口を閉じる。
ここは屋敷の裏手で、辺りは薄暗い雑木林だ。その木々の間から続々と金色の狐が現れ、ふーっ、ふーっと獰猛な呼吸音と唸り声が響き渡る。
「っう、これ、俺、明らかに邪魔なのでは…………?」
「何を今更。でも彼らの狙いは貴方ですよ、グエン様。さてと」
俺を抱え直し、楽しそうに笑う。やはりそれはどこか異質で、ひたりと肌に何かが這うような恐怖に襲われて息を飲み込む。ざわざわと、薄暗い木々が風に揺らいでいた。
「どうしようかな、久々に食ってみるか。ああ、仕方が無い。完全に変化するのはフェイラン様からも禁じられているというのに……余程のことでない限り」
声が低くなったかと思うと、みしみしと軋むような嫌な音が聞こえてくる。見るとセイランの首から顔にかけて青と銀の鱗が生え、口が裂けて白い牙が並んでいた。
(っ何だ? 蛇? いや違う、これは)
龍なのかと呟こうとした所で、隙を窺っていた狐がばっと一斉に飛びかかってくる。真っ赤な口を開けて俺の顔を食い千切ろうとしていた狐を、セイランが首を振ってその喉をがぶりと噛む。
途端に「ぎゃあああああっ!?」と叫び声が上がり、黒い霧が血のように噴き出す。それを吸い込みそうになって顔を覆っていると、セイランが「ちょっとすみませんね、怖がられてしまうかもしれませんが」と呟いて俺を抱え直し、どんっと前へ突き進んで狐を蹴り飛ばす。
「っ俺を何だと思ってやがる! か弱いお嬢様じゃねぇんだぞ!? 降ろせ!」
「いえ、ですから。私の趣味ですって。あとはフェイラン様にくれぐれもグエン様とリーファ様のことを守るようにと、仰せつかっているのでっと!」
「なんでっ、なんでトアンの父さんがそこで出て来るんだよ!? おかしいだろ!?」
ぐっと体を抱え直され、セイランが鋭い蹴りを食らわせて狐を吹っ飛ばす。薄暗い雑木林から続々と狐が現れ、背筋がぞっとしてしまった。
「なんで、なんで恨まれているんだ? 俺」
「ああ、あの糞水魔が貴方のことを気に入るのも。よく分かるような気がします。純粋だ、幼子のようで愚かしくて可愛い」
「おい……馬鹿って言うなよ、さり気にさぁ」
可愛いはさておき、愚かだという言葉に反応してしまう。思いっきり馬鹿にしているだろう、この蛇もどきが。
「ああ、どうしようかな。このまま貴方を浚ってしまおうかな?」
「はい!? ちょっ、悪ふざけは大概に、わあああああっ!?」
五匹ほど纏めて狐が飛び込んできて、その血走った目と白い牙に青ざめてしまう。獰猛に笑ったセイランが口を開け、ごうっと氷の粒が混じった咆哮を出した。
「うあっ」
「すみませんね、髪の先が凍るかもしれませんが。ああ、やれやれ……そろそろおしまいにするか、そうしよう」
くたびれた声で呟いた後、俺を地面に降ろす。ほっとしているとこちらの肩を抱き寄せ、今や怯えている狐達を指差して見据える。
「帰れ、仙界に。面倒だ、いちいち殺して回るのも。ほら」
「わっ……すげぇな」
ひゅるりと冷たく凍った旋風が巻き起こり、雑木林の隅々を凍らせてゆく。ぱきぱきと霜が生み出されて茂みが凍り、それまで柔らかかった地面も氷で覆われる。
「あんた……一体何者なんだ? あちらから来たものを強制的に返すだなんて」
「かつては神として崇められていました。まぁ、片田舎の悪神ですが」
「片田舎の悪神……なんじゃそりゃ」
「毎年毎年美少年を食らって腹を満たしていたんです。貴方のようなね?」
「変態の妖魔だったのか、お前……セイラン」
顎を持ち上げられ、眉を顰める。どうも妖魔というのはこちらをからかいたいらしく、時折スオウもこんな風にして触れてくる。まぁ、その度に頭突きをして逃げているが。
愉快そうに細められた黒い瞳を睨みつけ、ひとまずは礼を言うことにする。助けられたのは事実だから。
「……ありがとう、助けてくれて。助かったよ、恩に着る」
「えっ? ひょっとしてこのまま口付けをしてもいいんですか?」
「っ何でだよ!? 糞かよ!! 生憎と俺はリーファ様としかしない! あとファファともだな!」
「してるんですか、猫に口付け……」
「してる。猫ってのはいいもんだぞ、意外と」
嫌そうな顔をしてぱっとこちらの顎を放し、色気たっぷりの仕草で自分の首元を緩める。もうあの銀色と青い鱗は生えていなかった。そのことを少しだけ残念に思う。
「じゃ、ひとまず屋敷に戻りましょうか。大事な話があるんですよ、貴方にね?」
「おう、嫌な予感しかしない……おい、やめろ。勝手に俺の手を握るなよ?」
「迷子になるといけないと思ったんですが……ま、いいや。そういうことなら放しましょう。何も嫌がる顔が見たい訳じゃない」
そこまで捻じ曲がっている訳では無さそうだ、良かった。凍った雑木林を歩いてつるりと滑って、脇を支えられつつ歩いてゆく。
「やはり先程のように抱き上げましょうか? グエン様。危ない、骨でも折ってしまいそうだ」
「折らないから放っておいてくれ……あと話って何? 手短によろしく」
「貴方の婚約者を囮にしてスイラン様をおびき出す。捕まえる」
「なるほど、一瞬で理解出来た。ありがとう、セイラン」
セイランの手を握り締めつつ礼を言い、凍った草を踏みしめていた。かなり広範囲に渡って凍っている。凄まじいなと、心の中だけで呟く。
「お嬢様は嫌がって怖がるかもしれませんが。貴方が不安を解きほぐしてあげて下さいね、グエン様」
「ああ、勿論。でも彼女は嫌がらない。……怖がりはするんだろうけど」
近頃の彼女はますます俺を守らなくてはと張り切っており、何かと逞しい。そんな所も好き、しかし俺はちょっと情けないにも程があるんじゃないだろうか。
「グエン様? ……どうしましたか? 考え事ですか?」
「さりげなく俺の腰に手を回すなよ、セイラン? やめろ、ケツを触るんじゃない!!」
「やっぱり駄目でしたか……ちぇっ」
低く笑って手を引き上げる。どうして俺の周りにはこんな変態しかいないんだろう。
「リーファ様、リーファ様に会おう。俺の天女様…………!!」
「怒られないといいですねぇ、グエン様。私とお母様から逃げ回っていたんでしょう? だからあんな木の上にいた。でしょ?」
「……頼むからちょっと黙っててくんない? 後で酒でもやるからさ? 俺は厠にでも行っていたことにしてくんない?」
「それじゃあその代わりにちょっと、あの茂みにでも入って」
「やっぱり素直に謝ろうかな!! そうしようかな!」
「えっ、つまらないなぁ。残念だ」
囮になってくれと言われ、深緑色の襦裙を身に纏ったリーファがこくりと頷いた。ここは手狭な応接室で、向かいに座った彼が心配そうな顔をしている。でも。
「セイランさん。本当に私が出向くだけでその、叔母様は出てくるのでしょうか……?」
「だからまず、貴女様には手紙を書いて貰います。和解出来ないかという旨と、そうですね。適当にトアンのこととかを持ち出して叔母様にこっそりお会いしたいと。奥様は単純ですからね、それで出てくるとかと」
にっこりと穏やかな微笑みを浮かべてはいるものの、その黒い瞳はどことなく冷たい。話によると彼を守って助け出してくれたみたいだが、疲れきった様子の彼が私に甘えているのを見て眉を顰めていた。
(まったくもう、グエン様ったら。妖魔に好かれやすいのかしら? それとも男の人に好かれやすいのかしら……)
じっと不安げな様子の彼と穏やかなセイランを交互に見つめてみたが、勿論答えは出ない。とそこへ、応接室の扉がおもむろにばんと開いてトアンが現れる。
「っグエン様! 怪我をしたって聞きましたけど大丈夫ですか!?」
「いや、誰から聞いたんだよ? その話。俺は別にどこも怪我したりなんか……」
「ああ、良かった! つい先程貰ったお菓子があるから。俺と一緒に二人きりで食べませんか? グエン兄さん?」
お揃いの黒衣を着たトアンが、ここぞとばかりにグエン様に甘えている。彼が優しくするからますます調子に乗って甘えているのだ。どろどろとした、嫌な感情が湧き上がってくる。
ちらりとこちらを見たセイランが嫌な笑みを浮かべ、隣に座っている彼に顔を寄せた。
「ああ、ほら? グエン様、もう少しちゃんと適切な距離を取らないと。お嬢様が嫉妬していますよ? トアン様もトアン様でもう少し離れましょうね?」
「あっ、ああ。リーファ様、申し訳ありません。俺は、」
「グエン兄さん、いつになったら終わりますか? 話は」
横から彼に抱きついて、べっと舌を出してくる。セイランも止める気が無いのか、そんなトアンを見て「困りましたねぇ、もう」と苦笑して見つめている。
(ああ、駄目よ。リーファ、冷静に。冷静に……)
少しだけ腹の奥で何かが動いたような気がして、そっと撫で擦る。はっきりとした胎動が分かるのはまだ先の筈だが。それでも一人ではないような気がして、微笑みを浮かべて男達を窘める。
「トアン、もうちょっとだけ待っていてね? セイランさん、その話。お受けします。今夜にでも手紙を書きましょう。文を屋敷へ届けさせた後は。叔母様からの返事を待つ、といった感じでよろしいのでしょうか?」
「はい、お嬢様。それではこれで。失礼させて頂きますね……トアン様。一緒に帰りましょうか。お父様がお待ちですよ?」
その言葉に嫌そうな顔をしていたが、苦笑を浮かべた彼が頭を撫でて「ほら? 行って来いよ、トアン。泣かせるもんじゃないぞ、あの人をさ」と言ったので、嬉しそうな表情でこくりと頷く。
(ああ、でも私は。グエン様のそんな所が好きになったんだから)
だからちょっとだけ我慢をして、後で沢山甘えるのだ。そうしよう。何せ彼が恋愛的な意味で愛しているのはこの私だけなのだから。
深く息を吐いて、リーファは綺麗な微笑みを浮かべて告げた。
「トアン。それにセイランさんも。またいつでもいらして下さいな、この屋敷に。そしてとっても美味しそうなお菓子も頂いてしまって……どうもありがとうございます、彼と二人きりで楽しみますね?」
こちらの嫌味が通じたのか、トアンとセイランはさっと顔を曇らせていた。唯一、彼だけが恍惚とした表情で「わ~、可愛い。色っぽい、好き…………!!」と呟いている。そうだ、私は。
(グエン様のそんな所が好きになったんだから。いいの、これで。それに何たって私がグエン様の一番だもの。ふんだ)




