23.貴方の願いはあまりにも残酷だった
少しだけ流血描写があります、ご注意ください。
トアン、トアン。
(お前が殺して欲しいと願うのなら殺すよ、俺は)
ズハンやユウロンは「無理でしょう? グエン様には」と言って鼻で笑っていたが。きゅっと黒いローブをたぐりよせ、険しい山の中ではっと息を吐き出した。
(ああ、空が赤い。……どうしてトアンは。俺をこんな夕暮れ時に呼び出したんだ?)
愛しい彼女が心配そうな顔で見送ってくれた。スオウが作った翡翠の指輪を嵌め、ひらひらと白い手を振っていた。
『グエン様。どうぞ無理はなさらぬよう、お気をつけて───────…………』
申し訳ない。迷惑と心配ばかりかけて。
「あれか? トアンの住んでいる屋敷ってのは…………暗いな」
深い山の木々に覆い隠された屋敷は暗く、鬱蒼とした雰囲気で佇んでいる。汗の滲んだ額を拭い、下草を掻き分けて目指す。昨夜は雨でも降ったのか、地面がぬかるんでいる。
(ああ、しまったな。虫除けと日除けにいいと思ったんだが。暑い)
酷く暑い。夏にこんなものを着て歩くのは馬鹿だ。馬鹿だけだ。
(水分補給でもするか? でもな)
背負った背嚢から水でも取り出そうかどうしようかと悩み、足元の草を踏みしめて佇んでいると。ふっと濃い緑と土の匂いが漂う中で、空気が揺らいで陽炎のような熱が立ち上る。
「お待ちしておりました、グエン殿。……我が主がお待ちです。こちらへどうぞ」
「っな、お前は一体、うっ!?」
少しだけ展開が早くねぇかといった軽口を叩く暇もなく、体が傾いてどさりと崩れ落ちる。
(うっ……女? 蝶?)
汗が滲んだ視界の中で見えたのは、白い額から黒い触角が生えている儚げな美人で。彼女は悲しそうに黒い瞳を細め、こちらを指差していた。黒い胡服を着た彼女はぼそりと呟く。
「ああ、トアン様。これで私のことを解放してくださるのでしょうか…………」
頬に草が当たっている。濃密な土の匂いの中で何かを掴み、下からその女を見上げていた。女はただひたすらこちらをじっと、黒い瞳で見つめているだけだった。悲しさを凝縮した黒い瞳に胸が狭くなる。
「トアン。……トアン」
もうやめよう、終わりにしよう。
(大丈夫だ。俺が全部全部、終わらせてやるから……)
「ありがとう……使えるもんだな、下級の妖魔でも」
「トアン様。これでよろしいでしょうか? あと他には何か、」
「いらない、何も……蜘蛛姫には言ってあるから。解放してやれって」
ほっとしたような顔で一礼し、下がってゆく。すいと朱塗りの扉を開き、後に残されたのは俺と彼だけ。どこまでも黒いタイル床と白い壁が続いて、辺りはしんと静まり返っている。
「ああ、グエン様……ようやく、来て下さった。これも外さないと早く」
左手の薬指を探って透明な指輪を掴み、そっと引き抜く。手の中できらりと翡翠の指輪が光り、にやりと歪な笑みが浮かんでしまう。
「馬鹿なリーファ。こんなもので繋ぎ止めようとしているだなんて。愚かな」
それを適当に放り投げると、かんからかんと音が響き渡って転がってゆく。
(ああ、誰もいなかったのに。ここには)
ユウロンも去ってしまった。いや、ユウロンだけではない。
「結局誰も彼もが去ってしまうのに。俺を不気味がって。それなのに貴方は来てくれた、グエンさん」
寝台に横たわっている彼の手を掬い上げ、口付けて甘い甘い幸福に浸る。彼は今日も黒衣を着ていた。俺と同じお揃いの黒衣を着ていた。
「グエン様…………好きです。貴方は恋心ではないと言っていたけれど」
ああ、そんなことはどうでもいい。彼が目の前にいるんだ、ここにいるんだ。
「リーファの傍ではなく俺の傍に。グエンさん、グエンさん……」
「っう、トアン……?」
「グエンさん」
彼の目蓋が震えて青い瞳が現れ、その美しさに恍惚としてしまう。
「ああ、グエンさん。お会いしたかったんです、本当に」
「トアン。……約束通り、俺一人で会いに来たぞ? これで満足か?」
切ない微笑みを浮かべ、俺の茶色い頭を撫でてくれる。彼は気怠げに体を起こし、一つ欠伸をした。
「トアン。喉が渇いた。俺の荷物は一体どこに?」
「ああ、それなら今。水でも持ってこさせましょう、ちょっと待っていてください。呼びますから。ねっ?」
彼はどんな反応を見せるだろうか。毒でも混ざっているのかと、そう警戒してみせるのだろうか。ほんの少しの恐怖に吐き気がしていた、怖い怖い。
否定しないで、グエンさん。
彼はふっと青い瞳を瞠って微笑み、俺の頭をさらりと撫でてくれる。
「大丈夫だ、トアン。…………お前は、俺に殺して欲しいんだろう?」
「はい、グエンさん。殺して欲しいんです、グエンさん…………」
思わず黒い胸元に縋ると、彼がこちらをぎゅっと強く抱き締めてくれる。
(ああ、幸福だ。涙が滲んでしまう。グエンさん、グエンさん)
鼻を鳴らして顔を埋める。リーファではなく俺の傍にいてくれる。リーファではなく俺の頭を撫でて、乾いた手のひらで抱き締めてくれる。
「グエンさん……俺、やっぱり死にたくないです。こうしてずっと、グエンさんのお傍にいたい」
「トアン、お前」
「ねぇ? その短刀で俺のことを殺しますか? ……出来ないでしょう? 貴方には」
殺意ぐらい分かる。彼が戸惑って短刀を握り締めている。ような気がする。深く笑って胸元に縋って、一時の幸福に酔い痴れる。ああ、こんな時間がずっと続けばいいのに。
「グエンさん……死にたくないです、俺。きっときっともっと違う環境で育てられていたら。従姉妹のリーファとも仲良く出来ていた」
「トアン、頼む。トアン、頼む。俺に殺されたいと、頼むからそう言ってくれよ…………!!」
苦しい声を振り絞って、強く強く掻き抱く。嬉しくなって俺も、彼を強く抱き締め返していた。
「ああ、やっぱり。貴方は貴方だよ、グエンさん。決して殺せない、俺のことを」
「トアン、トアン。もうやめよう? 俺もお前も全部。きっと他に何か良い道があって、」
「じゃあリーファと別れてください。一生恋人なんて作らないでください。誰とも結婚しないで? 誰のことも見ないで?」
「トアン、お前」
体を離して悲しく見上げてみると、青い瞳を揺らして戸惑っていた。ああ、それが全部俺のものになったらそれでいいのに。それだけで幸福になれるというのに!
「ああ、グエンさん。本当にこの、短刀で俺のことを殺しちゃうんですか?」
「お前が、お前が願ったから持ってきたんだよ。俺は」
「駄目ですよ、責任転嫁をしちゃ」
ふっと微笑んで彼の手ごと短刀を握り締め、口付けてみると頬を赤くしていた。ああ、グエンさんグエンさん。
「ほんの少しでもこの狂気が伝わればいいのに。グエンさん、グエンさん」
「トアン、大丈夫だ。楽になろう? お前が願ったことだ、最初に」
「死にたいと思う人間がいるんですか? 幸せになれると理解しているのに、今のこの辛い状況から抜け出せるのなら生きていたいと。大抵の人間ならそう思うはずですよ、グエンさん」
彼は優しいから、たかだかこんな言葉一つで傷付いてしまう。俺の予想通り彼はぐっと短刀を握り締めて、長めの黒髪を揺らして強く青い瞳を閉じる。
「グエンさん。ああ、綺麗だ……苦しんでいる貴方の姿がきっと、一番綺麗だ」
「リーファ様とお前の違いはそこなんだよ、トアン」
「グエンさん?」
彼は俺の手を握り締め、苦しそうな青い瞳で見下ろしてくる。冬の海のような、湖のような深い瞳で。
「リーファ様は俺が幸せであればそれでいいと。そう言ってくれるんだ、トアン。お前とは違って」
「俺だって! 俺だってリーファの立場ならそれぐらい、」
「いいや、きっと言わなかったはずだよ。お前は。……トアン。ほら」
彼がするりと短刀を手放して、こちらを抱き締めてくれる。俺を、俺だけを見つめてくれる。グエンさん、グエンさん。
「グエンさん……!! お願い、生きていたいです。俺のことを殺さないで…………」
「トアン、トアン。大丈夫だ、殺せない。もう俺は、お前のことを殺せない……」
ああ、彼が。とうとう諦めてくれた。
「そんな風に俺に優しくしたりするから。貴方はきっと」
「……トアン? お前は」
彼が先程手放した短刀を握り締め、どっと深く深く突き刺した。彼の左肩に、深く強く。
「トアン? ……トアン」
「グエンさん、いて。傍にいて。俺の傍に。貴方はきっと帰ってしまうだろうから」
「待て、まだ、その時なんかじゃない…………!!」
彼が低く呻いて、俺のことを強く抱き締める。左肩に短刀が突き刺さったままで、ああ。
「グエンさん……お願い、お願いだから俺の傍にいて? 淋しいんだ、グエンさん」
「ああ、いてやるよ。トアン。お前の傍に。ずっとずっと」
信じられない気持ちで一杯だった。本当に、本当に?
「だけどな? トアン。…………っう、お前は。お前は」
「グエンさん、可哀想に。痛いでしょう? さぁ、ほら。もう横になって」
「トアン、よく聞け。お前には父さんがいる。お前のことをちゃんと気にかけて、愛してくれるような父さんがいるんだよ」
「嘘だ。……そんな妄言なんかには騙されない。そこまでして逃げたいんですか、俺から?」
聞いたことがない、父親の存在など。
「聞いたことがない、母様だってそんなことを……」
「それでもいるんだ、トアン。帰ろう、一緒に帰ろう。ごめんな、こんな屋敷で。一人ぼっちにしてしまって」
「グエンさん、グエンさん」
熱い涙が滲み出てくる。ああ、いやだ。狂気が剥がれ落ちてしまう。正気になんか戻りたくないのに。彼が痛いだろうに俺を強く抱き締めて、黒い衣を濡らしてしまうような量の血を流してはっと息を荒く吐き出していた。
「ごめんな、トアン。辛かっただろうに、淋しかっただろうに。トアン」
「グエンさん、グエンさん。いやだ、もうやめて。頼むからそれ以上は、」
「一緒に帰ろう、トアン。そんでお前が望むのなら傍にいてやる。お前がどうしてもどうしても苦しいと言うのならば。リーファ様とも別れる」
「グエンさん」
それを深く望んでいたはずなのに。ちっとも嬉しくない、どうしてだろうか?
「その代わり。リンファの呪いだけは解いてくれ。お前が俺を恋人にしたいと言うのならば。なってやるし一生傍にいてやるよ。……でも、違うだろ?」
「グエンさん、グエンさん。俺は」
「お前は父親と一緒に暮らすべきだよ、トアン。そんでまた一緒に遊ぼう。この前みたいに街にも行こう。大丈夫、お前が傍にいて欲しいって言うのなら、ずっと傍にいてやるから……」
「グエンさん!? グエンさん!」
どうやらそこで限界を迎えてしまったらしい。ずるりと体が崩れ落ちて、息を荒く吐き出して青い瞳を閉じている。ぎゅっと、寝台の白いシーツを握り締めている。
「本当に? 本当に? グエンさん、俺の傍にいてくれる?」
「ああ、いるよ。トアン。お前が望むのなら誰よりも優先する。リーファ様よりも何よりも」
「グエンさん……嬉しい」
「だから帰ろう、一緒に。帰ろう、トアン。俺は、お前の苦しんでいる姿なんか見たくない。幸せになって欲しいよ、トアン」
初めて言われた、そんなこと。誰かから初めて幸福を願われた瞬間だった。熱い涙が零れ落ちてしまう。震える手を伸ばして、彼が俺の手を握り締めてくれる。真っ白な寝台の上で、彼が手を握っている。
「帰ろう、トアン。一緒に帰ろう。もうここで一人で暮らさなくてもいいんだ、トアン。お前の父さんも待っている。俺もお前の、兄になってやるから……」
「…………兄? グエンさんが?」
「そうだ、お前が求めているのはそういうものだ。家族を求めているんだよ、お前は」
苦しいだろうに、顔を上げてこちらを見つめてくる。グエンさん、グエンさん。嫌だ、お願いだからそれ以上は何も言わないで欲しい。グエンさん。
「傍にいて欲しいというのならいくらでも傍にいてやるよ。お前が嫌がっても俺はそうするよ、トアン。俺はお前のことを大事な可愛い弟にするよ、トアン」
「グエンさん……」
「冬は一緒に雪遊びをしよう、トアン。春はどこか旅行にでも行ってみるか? 一緒におやつだって食べよう、トアン。もう大丈夫だからな…………」
「グエンさん、グエンさん」
ああ、駄目だ。泣いてしまう。泣いてしまう。とうとう左肩を押さえて体を丸めた彼の背中に縋って、自分の罪を考えて悲しくなってしまう。
「でも、でもきっと嫌われている。ユウロンからも誰からも。赤子だって殺したのに?」
「トアン、大丈夫だ。それでも謝ろう、どんなに怖くても謝ろう。そんで誰がどんなにお前のことを嫌いになったとしても、俺だけは絶対に絶対にお前の味方でいてやるからな……」
体を丸めたまま、何とか手を伸ばして俺の手を握り締めてくれる。ああ、グエンさん。グエンさん。
「グエンさん、本当に? 本当に?」
「本当だよ、トアン。地獄にだってついていってやるからもうやめよう。一緒に帰ろう、トアン。きっとお前は幸せになるべき人間だろうから……」
ぎゅっと強く、俺の手を握り締めて。ああ、グエンさん。
「ごめんなさい、刺したりなんかして…………!!」
「本当ですよ、俺の大事な可愛いグエン殿を。刺したりなんかして」
「っ誰だ、お前は!?」
先程転がっていった翡翠の指輪からふわりと、白い霧のような煙が立ち昇って一人の美しい男が現れる。男は白銀の地に魚影の刺繍が施された衣を纏い、ふんわりと甘く微笑む。蕩けそうな黒い瞳で長髪を揺らし、滑るように移動してこちらへとやって来た。
「グエンさん、駄目じゃないですか。そんなに無茶をしたら。もっと早くに助けてあげたのに?」
「うるせえ、お前。スオウ、だってトアンを殺そうとするだろう? 絶対に殺すなよ、トアンのことを。俺の大事な弟を……」
大事だと、大事だと言ってくれるのか。嬉しいというよりも体の力が抜けた。どうしたらいいのかよく分からない、空っぽだった。
「グエンさん、俺……貴方に術をかけようとしていたんだ。リーファだと錯覚させるようなものを」
「やれやれ、幼子の執着とは怖いものですね。性質が悪いな」
「幼子の執着……」
スオウとやらが俺の頭をするりと撫で、ふんわりと離れて寝台へと膝を突く。
「さぁ、グエン殿。帰りましょうか、この子供も連れて」
「死体が。ある筈だ、赤子の……術を。使ったのなら」
「ああ、大丈夫ですよ。彼に憑いている水子の霊を見れば分かりますから」
特に恐ろしいとは思わなかった。
「ああ、何やら背中が重たいと思ったら。やっぱりか…………」
「俺が連れて行くから大丈夫ですよ。子供も俺の領分ですからね。さぁ、グエンさん? 立ち上がれますか?」
「っう、ちょっと。無理そうだ……」
「だと思った、はい」
スオウは彼の腕を持ち上げて、ひょいっと横抱きにする。そして寝台から離れるとすたすたと歩いて「やっぱり大きくなりましたねぇ~。昔の貴方は本当に小さくて軽くて」と声をかけ、涼しげな黒い瞳で振り返る。
「何をぼうっとしているんですか? 言っておきますけど貴方をここまで気にかけてくれる人間なんて。グエン殿ただ一人ですよ?」
「スオウ、やめろ。ほら、トアン」
震える手が伸ばされて、弱々しい微笑みを浮かべて誘ってくる。青い瞳が細められ、愛情深い温度が滲む。
「帰ろう、トアン。一緒に」
「はい、グエンさん。……はい」
たっと駆け出して、伸ばされた手を握り締めると。彼はまた弱々しく微笑んで、そっと優しくこちらの手を握り返してくれるのだ。
「もう大丈夫だからな、トアン。もう絶対にお前を一人になんかしないからな? さぁ、帰ろう。ちょっとうるさいお前の父さんが首を長くして待っているぞ?」




