22.呪いよりも何よりも母は強し
ああ、憎い。
「憎しみで体が焦げてしまいそうだよ、グエンさん……ふふっ」
死んで魂だけとなって貴方の首を絞めて殺せたら。
「グエンさん、グエンさん。きっと貴方は俺のことが殺せない」
視線の先では彼と彼女が笑っている。グエンとリーファが笑い合ってその手を繋いでいる。店先で楽しそうに笑っている、白い指で煌く簪を持ち上げて楽しそうに笑っている。
翡翠色のそれが美しく揺れていた、彼女の横顔は綺麗だった。それを見つめているグエンの青い瞳が愛おしそうに細められ、誰もが俺を気にかけもせずに通り過ぎてゆく。
「ああ、虚しいなぁ」
小さな呟きがくちびるから漏れて、空虚な疲れだけが降り積もってゆく。俺が生まれた意味ってあったんだろうか、酷く体が重たい。
茶髪頭をすっぽりと覆い隠してローブを羽織り、この暑い季節に何を着ているのかと物珍しそうな表情の人々から逃れて歩いて溜め息を吐く。
「グエンさん、グエンさん。……俺は」
いっそ今手に持っている短刀で刺してみようか、でも。
「リーファ様、大丈夫ですか? 疲れていませんか?」
「ふふっ、大丈夫です。グエン様! まだ歩けます。あっ、あれは」
「わっ、ちょっと待ってくださいよ!? 転びますよ!?」
その優しい声をずっとずっと聞いていたいから。
(俺に向けられていたものなのに、それは)
とんでもなく優しい青い瞳も何もかも、あの時だけは全て俺のものだったのに。
「グエンさん……やっぱり俺は貴方を自分の物にしたい。俺だけが死んで、貴方と彼女だけが幸せになるだなんて許せない」
俺のために泣いてくれたのに、白蛇を抱えて苦しそうに青い瞳を歪めていた。
『っ分かっているよ! 分かっているけどそれは恋じゃないし、俺はお前のことを別に嫌っている訳じゃないんだよ! トアン!!』
鮮明に蘇ってくる、なんて熱いんだろう。彼の手のひらも青い瞳も、その苦しそうに吐き出された言葉も何もかも。それに触れると火傷してしまいそうだ、ああ。愛おしい。なんて愛おしい。恋しい恋しい、グエンさん。
「ああ、俺のものに出来たらなぁ。いらないじゃないか、リーファ。君はひとりぼっちじゃないんだから、誰からも愛されているんだから」
君と俺の違いってなんだろう? 俺と君はよく似ている。彼も雰囲気がそっくりだと言って笑っていた、ああ、そうか。
「俺が君になってしまえばいい……代わってしまいたい、君と」
呑気に笑うルイがいて護衛のズハンもいて、かつては俺の世話係だったユウロンも妹のリンファもいて。
「ああ、そうだ。俺がそんな風に暮らせたら? いいなぁ、いいなぁ、リーファ。君が羨ましいよ、本当に」
そうだ、俺と彼女が入れ替わって。
(彼がリーファを殺したら?)
その思いつきに心臓がどくどくと鳴って興奮していた、そうだそうだ。そうしよう。
「そうするよ、グエンさん。貴方の手で俺を殺して? でもそれは貴方の愛しのリーファなんだ」
それで彼が俺の手を握って笑うのだ、あの青い瞳を悲しげに細めて「もう大丈夫ですよ、リーファ様。これからはずっと一緒です」と言って何も知らずにリーファの死体を埋めるんだ。
「ああ、そうだ。そうしよう、それが一番いい。帰って母様に相談しよう、そうしよう……」
待っていて、グエンさん。楽しげに話して手を繋いで歩いている二人に背を向けて、人混みを掻き分けて遠くの屋敷へと向かう。
口元には笑みが浮かんでいた、ああ、楽しい。
彼のことを考えているだけで生きる気力が湧いてくる、彼のことを考えるとこんなにも心臓が高く鳴り響く。
「グエンさん、リーファを殺して。お願い。そして貴方はずっとずっと一生、俺を彼女だと思って勘違いをして生きて行くんだ……」
ふと見上げてみると空が青かった。また虚しさが降り積もってゆく。ああ、分かってる。分かってるんだ、分かってる。目の端に涙が浮かんで、疲弊に押し潰されて殺されてしまいそうだった。
「グエンさんは絶対に俺のことを見ない。好きになってくれないんだ、こんなことをしても。何の意味もないって、そう、分かっている筈なのになぁ…………!!」
彼が愛おしそうな青い瞳で頭を撫でるのも、腕枕をするのもリーファだけ。その優しい手と声は俺に向かない、俺を救ってはくれない。いつだって彼の頭の中にあるのはリーファのことだけ、俺によく似たリーファのことだけ。
(ああ、いいなぁ。彼女だけが花に囲まれているかのようだ)
でも好きなんだ、グエンさん。憎い憎い憎い、だからこれは復讐なんだ。逆恨みだけど。頬に一筋の涙が伝って、苦しくなって胸元を握り締めて歩いていた。
「ねぇ、グエンさん? 殺して、リーファのことを。それであの屋敷でずっとずっと一緒に俺と暮らそう、大丈夫。貴方は一生そのことに気が付きはしないからね……」
「馬鹿じゃないですか? グエン様。絶対に罠ですよ、それ。頭が沸いているんじゃないですか?」
「おい、ズハン。でも」
「アホかよ、お前は。今の状況で二人きりで会いましょうって言われて。会いに行く馬鹿がどこにいるんだよ?」
どうして俺は今、ユウロンとズハンに挟まれて責められているのだろう。トアンから届いた手紙を握り締め、その美しい文字を眺める。ここは池が美しい庭園の東屋で、向かいの席には気遣わしげな表情のリーファ様がファファを抱えて座っていた。
今日は薄い翡翠色の襦裙を着て黒髪を纏め、白い首筋を出している。潤んだ黒い瞳が最高に可愛い、本当はずっとずっと彼女と二人きりで過ごしたいのだが。
俺の横に立った黒い胡服姿のユウロンが溜め息を吐き、同じく隣に立ったズハンが手紙を覗き込む。
「いや、絶対。何らかの罠ですって。何かしおらしくリンファ様の呪いを解くとか言ってるし。嘘ですよ、嘘。嘘しか書かれていませんよ、これ」
「えっ? でも、トアンだってここに書いてある通り虚しくなってきたのかもしれないし、」
「お前の頭には何が詰まっているんだよ? どこからどう見ても罠だろうが、ああ?」
「やっ、やめろって、ユウロン……」
がしっと黒髪を掴まれてぐらぐらと揺らされ、解せない気持ちでいっぱいとなる。
(だって。分からないじゃないか、そんなの……)
手紙には涙の跡がついていて、それを見るとくちびるを噛み締めたくなった。ああ、俺はこんなにも無力だ。トアンに何もしてやれない。
「なぁ、トアン? お前もお前で、辛いんだよな……」
「アホか? お前は。何が辛いんだよな、だよ!? 辛いからって何でもしていいのか!? 俺があいつに今までされてきたことを全部全部伝えてもお前はまだそんなことを言うのか!?」
「そうです、ユウロンの言う通りですよ? グエン様は甘すぎるんです、ぶっ殺しましょう! ぶしゃあっと、あいつの頚動脈を掻き切れば終わりです! あとは楽しい新婚生活が待っていますよ!?」
ぎゃいぎゃいと頭上から責められ、うんざりとしてしまう。無神経なズハンの言葉に眉を顰め、額に手を当てるとリーファ様がこちらを見ていた。何だろう、今日も天女のように可愛い。夏の風に浚われてしまいそうだ。
「そうやってトアンを殺して! 俺だけのうのうと生きていってもきっと楽しくない……」
「なーにを甘いことを! お前、本当に三十五歳なのか!? 今まで何をして生きてきたんだよ!?」
「年齢のことを言うなよ、ユウロン!? しゃあねぇだろうが、今までずっとじめじめと死霊使いの仕事をしてきたんだから!」
「開き直るなよ、このアホっ!!」
「あだぁっ!? てめぇ!」
彼女がいなければユウロンを蹴り飛ばしていたところだが、目の前に彼女がいるのでぐっと拳を握って耐える。この騒ぎを聞いてファファが青い瞳を丸くしていた。白い耳がぴこぴこと動いて、じっとこちらを凝視してくる。
「あ~……駄目だ、答えが出ない。俺は一体どうしたらいいんだろう」
「アホかよ、お前。この期に及んでぬゎーにをぐだぐだぐだぐだ言ってんだよ!?」
「あだだだだ!! 痛い痛い! 痛いって、ユウロン!?」
「被害者なんですよ、ユウロンは。グエン殿」
ズハンが真面目な顔つきで俺のことを「グエン殿」と言いだした。どうも俺に腹を立てている時は「グエン様」と呼ぶことにしているらしい。
溜め息を吐いて頬杖を吐き、穏やかな表情のリーファ様を眺める。彼女は白い指でファファの毛皮を梳かし、ファファが青い瞳を細めてごろごろと喉を鳴らしていた。
「でもなぁ~……人を殺したくないってのは。まとも人間なら自然と思うことで、」
「あっま! あっま、何ですか? グエン殿は。あっま」
「いっつもこうなんですよね、この人は。ユウロン殿も気をつけた方がいいですよ、気を抜いたらすぐに誰かを拾ってくるから」
「やめろ、ズハン! 誰のことも拾っちゃいねぇよ、俺は」
がたんと椅子を動かしてもたれて、そのままこつこつと指でテーブルを叩いてしまう。相変わらず彼女は穏やかな表情で猫を撫でていた。
(もしかするともう。俺に愛想が尽きたのでは……?)
あまりにも静かなリーファ様に怯えて、身を乗り出してその顔を覗きこむ。
「あっ、あの。リーファ様? 怒っていますか?」
「えっ? どうして? 怒ってなんかいませんよ、グエン様」
彼女がふっと困ったように笑い、その黒い瞳を細める。可愛い、どうやら怒ってはいないようだ。
「いえ……先程から静かなので。それで」
「うーん、私は。グエン様が苦しまないのが一番だと思っておりますから……そうね、行ってみたらどうでしょう?」
「お嬢様!?」
「リーファ様、駄目ですよ! こいつ! 駄目ですよ!?」
「やめろ! 唐突の悪口! 俺の心が抉れるじゃねぇか!」
黒い腕を組んで舌打ちしていると、彼女が困ったように笑う。
「だってグエン様は。会いに行きたいのでしょう? 誰も連れずに」
「いや、まぁ、それは……」
「お嬢様! 反対です!! グエン殿はあっさりころりと騙されて鎖に繫がれて、屋敷に閉じ込められて終わりですって!!」
「そうですよ!? リーファ様!? そんなことになったらリンファも悲しみますって!!」
何故、そこでリンファの名前が出てくるのか。
(あいつは俺のことをアホの子だと思ってるし……ああ、そうか)
ユウロンはリンファと恋人同士になったばかりなので、その名前をとにかく呼びたいのだろう。
(分かる。俺もそういう時があった……)
そしてこの問題が解決したら、二人でリンファの故郷に帰って家族を探して、それから夫婦となって各地を旅してみるのがユウロンの夢らしく────────・・・・・・・・。
「おいっ!? 聞いてんのかよ、ちゃんと! なーに両腕を組んで目を閉じて考え込んでいるんだよ!! 眠っているのか!? なぁ!?」
「現実逃避はよくありませんよ、グエン殿。きちんと向き合いましょう、きちんと」
むっつりと黙り込んで聞いていると、向かいに座っているリーファ様がにっこりと笑う。
「ねぇ、二人とも? 私ね、グエン様のことが好きなの」
「えっ? あっ、はい……」
「それは重々承知しておりますが…………」
どうしてだろう、彼女の笑顔に謎の迫力がある。
(でもそんな所も好き…………!! 可愛い、最高。今夜も会いに行きたいけど迷惑かなぁ)
彼女は顔を伏せて膝の上のファファを撫で、甘い声で話を続ける。
「私に考えがあるの。だから黙ってグエン様を行かせてあげて? どうしてもトアンに会いたいみたいだから。ねっ?」
「リーファ様…………!!」
思わずがたんと椅子から立ち上がって駆け寄って、彼女の翡翠色の膝に縋っていた。彼女が黒い瞳を綺麗に丸くしてから、ふっと穏やかな微笑みを浮かべる。
「リーファ様、ありがとうございます。俺は、」
「大丈夫ですよ、グエン様。…………ちゃんと分かっていますから。でも」
「でも? どうかしましたか?」
「いいえ…………言っても、仕方の無いことですから。それにやっぱり私は、貴方のそんな優しい所に惹かれたから」
彼女が俺の頬を撫でて、ほんの少しだけ悲しそうに笑う。ファファが俺の手の甲をふにふにと踏みしめ、仕方の無いやつめとでも言いたげな表情で見下ろしてくる。
「俺は……俺は」
「大丈夫ですよ、グエン様。愛情を疑っている訳でも、苛立っている訳でもありませんから。ねっ?」
「はっ、はい! リーファ様好きです! 愛しています!!」
「ふふっ、私もですよ。グエン様。好きです」
「は~、可愛い。は~、天女。幸せ、好きっ…………!!」
二人の光景を見つめ、ユウロンとズハンが同時に深い溜め息を吐いた。
「ああ、俺も。早く仕事を終わらせて、メイリンお手製の飯が食えたらなぁ……」
「俺はリンファに会いたくなってきた……でもまだ少しだけ避けられているんだよな。どうしよう、やっぱり最初から距離を詰めすぎたのかな……」
彼はとても優しい人だから。優しくて、優柔不断な人だから。
「ですから、お義母様。どうぞ知恵を貸して下さいませ。グエン様は言っても聞かない人です。こちらで彼を守らなくては……」
「ごめんね、本当に。うちの馬鹿息子が」
月光が射し込む寝室にて、青い瞳を煌かせたショウリンが串焼き肉を食べつつ謝る。白い夜着姿のリーファは悲しげに微笑んでそっと、首を横に振った。その隣にはウシガエルのヨウリンが座っており、真剣な表情で腕を組んでいる。
「そうね、ご主人様は止めても聞かない人だもの。むしろ囮にしてトアンを捕まえた方がいいのでは?」
「それは私もそう思っているんです、ヨウリン様。トアンが油断している所を捕まえて解呪方法を吐かせる。そうね、尋問はスオウ様にお任せした方が、」
「うう~ん、リーファちゃんもよく考えているんだねぇ~」
その言葉に黙って微笑む。彼には嫌がられてしまうかもしれない、嫌われてしまうのかもしれないけど。
「もう、トアンの目的は。グエン様なんです、お義母様。私ではなく、彼を傷付けるのが目的なんです」
「ま、だろうね。悪趣味なこって」
「まったくもう、世話が焼けるわぁ~、あの男どもめ」
「ふふっ、そうですね? でもだからこそ、私がきちんと考えて動かなくては。あっという間に彼を失ってしまいそうで……」
彼は優しく微笑んで、こちらに背を向けてふっと儚く消えてしまいそうだ。淡い桃色の花弁と共に現れた彼はそのまま、するりとこちらの手を放して両目を閉じて消えてしまいそうだ。
「グエン様を守りたいんです、私。トアンの手から」
「うん、きっと大丈夫だよ。リーファちゃん」
「私も手を貸しますからね、リーファ様!」
「ありがとうございます。お義母様、ヨウリン様……」
そうだ、彼を守るためならどんなことだってしよう。きゅっと湯飲みを握り締め、心配そうな表情のショウリンに笑いかける。
「お義母様、いざとなったら私がトアンを殺します。だからどうぞ心配なさらないで下さい」
「あたしが心配なのはリーファちゃんなんだけどね~、大丈夫? 無理してない?」
「大丈夫ですよ、お義母様」
さり気なく自分の腹を擦って、もしかしたら宿っているかもしれない彼の子供のことを考える。
(分からない、でも。ここで彼を失う訳にはいかない……)




