20.反転する愛情と呪い、彼女の覚悟
若干気持ち悪い描写があります、ご注意ください。
「ああ、どうかな。あれで良かったのかな」
無駄だとは分かっている筈なのにどうしてもやめられない。手に持っている瓢箪を握り締めて、口を付けて呷ってごくごくと飲み干していた。虚しくなって黒衣を握り締める。彼と同じ物を。
「グエンさん。……グエンさん」
自分の泣き出しそうな声を聞いてわんわんと泣き出したくなった。父親譲りだとかいう茶髪頭を滅茶苦茶に掻き毟って掻き毟って、薄暗い寝台の中へと倒れこんだ。
「グエンさん……会いたいな、グエンさん。殺して欲しいな、グエンさん」
もうあのファファとかいう子猫の目を通じて彼を見られなくなってしまったのだ、とても苦しい。辛い。目を閉じるとまた、あの優しくて青い瞳が浮かび上がってくる。
「冬の海のようなあれを。俺一人だけのものに出来たら良かったのに…………」
思い返してみると、あれが初めて人に優しくして貰った瞬間で。自分の手を掲げて寝そべりながらも考える。
(手が熱かった、途方も無く。握り締められた手がとても熱かったんだ)
人混みの中でしきりに振り返ってはこちらの足を心配してくれる。気遣わしげなあの青い瞳で、俺の手を握って引いていてくれたというのに!
「っグエンさん! 何でいないんだろう? グエンさん、グエンさん、グエンさん…………」
分かっているのに、無駄だっていうことは。
(分かっているのにやめられない、グエンさん、グエンさん、グエンさん)
ああ、いっそこのまま飛んで魂だけとなってあの女も彼も絞め殺せたらいいのに!
「グエンさん、俺だけがあそこに行けない。グエンさんグエンさん」
あそこだけがきらきらと健康的に輝いている。呪具のリンファがいてお嬢様のリーファもいて、護衛のズハンもルイも何もかも。
そして中心にはあの人が立っている。
冬の海のような青い瞳を細めて、いつものあの神秘的な黒衣を揺らして優しげに微笑んでいる。
『トアン、大丈夫か? 辛くなったら言うんだぞ、お前』
『はい、グエンさん。でもそんなに心配しなくったって大丈夫なのに!」
ああ、また出かけたいなぁ。
「グエンさんと一緒にお出かけがしたいなぁ、あーあ。無理なんだろうけど、それは」
泣き出しそうになってしまう、グエンさんグエンさん。
「ひとりぼっちは嫌だよ、グエンさん…………」
でもどうすればいい? どうしたらいい? この凝り固まった苦しみにいつか喉を絞められて殺されてしまうんだろう、ああ、グエンさんグエンさん。
薄闇に浸された寝台で歯を食い縛って、砕けそうなぐらい噛み締めて。脇腹が痛かった、どうしようもなく。呼吸が浅くなる、痛い痛い。体が汗ばんでいる、彼も誰もここにはいない。
俺を気にかけてくれるような人は誰一人としていない、グエンさんグエンさん。
「ああ、解呪なんてしたくないなぁ。全部、全部を知ったら貴方は何て言うだろうか? グエンさん」
軽蔑されてしまうかもしれない、そうなったら吐いてしまうかもしれないよ。グエンさん、グエンさん。
「使ったんだ、子供を。呪いが解けないように……ははっ」
命は金で買える。何人もの幼児を使ったんだ、だからもうあれは俺にしか解けない呪いなんだ。
「淋しいなぁ、グエンさん。淋しいなぁ」
貴方の手にかかって死ぬことが出来たらどんなに幸福なんだろう?
(きっとあの人は悲しむに違いない。そういう人だから)
自然と笑みが浮かんでくる、優しい気持ちになれる。
「グエンさん」
恍惚とした声が出た。きっと死ぬ間際の彼はあの青い瞳を歪めて「他にもっといい方法は無かったのか? トアン…………!!」と言って、血を吐いている俺の体を苦しく掻き抱いてくれるのだ。
「ああ、グエンさん。じゃあ貴方を追い詰めなくっちゃ。貴方は優しい人だからきっと。すぐに俺を殺す覚悟は出来無いだろうから。ふっ、ふふふ」
そして彼の手で葬って貰おう、そうしよう。彼の手で柔らかな地面に埋めて貰うのだ。火葬は嫌だな、死んでも最後の最後まで虚ろな瞳で彼の歪んだ顔を見ていたいんだ。グエン様、グエン様。
(そして死ぬ間際にとびきりの呪いをかける。俺は生まれ変わってきっときっと、貴方の息子に生まれ変わりますよって。ああ、それとも)
ずっとひたすらに祟って呪って、彼にしがみついていようか。そうしていつの日かグエンさんが俺のことを見て。見て。
「見てくれないよ、もう…………!! 分かってる、分かってるんだ! そんなことは百も承知なんだ!!」
喉の奥から叫んで飛び上がって、息を荒げて部屋の奥の机へと向かった。置いてあった筆を掴んで白い紙を広げて、はっと苦しく息を吐き出す。
目の端には熱い涙が浮かんでいた、グエンさんグエンさん。
「呪おう、呪おう。彼を。死んでしまえばいい、みんな何もかも。グエンさん、グエンさん。貴方が俺のことを殺さないなら俺が貴方のことを殺すよ、みんな死んじまえ。くたばっちまえ」
そうだ、みんな死んでしまえばいい。死ね死ね、彼もあの女も何もかも! 墨汁を浸した筆を滑らせる。ああ、グエンさん、グエンさん。
「ああ、行っておいで? 愛しい彼の下に、俺の代わりにどうかどうかあの二人を殺してきて下さい…………」
「グエン様? …………こちらにいらしたのですね?」
「ああ、リーファ様。すみません、なんか。最近いつもいつも」
そう言って気怠げな微笑みを浮かべ、百日紅の花が満開になった木の下で佇んでいる。彼はいつもの黒衣を着て剣を下げ、こちらを見つめていた。
薄紅色の花弁がひらひらと舞い落ちては、彼の黒衣へと染み付いてゆく。憂鬱そうな青い瞳が細められ、端正な口元に笑みが浮かぶ。
透き通るような青空の下でそんな彼を見て、きっと見惚れるべきではないと思いながらも見惚れてしまう。リーファは薄紅色の胸元をぎゅっと握り締め、その光景を愛おしく眺めていた。
(ああ、綺麗だわ。こんなの不謹慎だけど。許されないことだけれど)
物憂げに悩んでいる彼が美しい。冬の海のような青い瞳は日に日に憂いを帯びて、伏せられた長い睫に触れたくなってしまう。
思わず腕を伸ばして、その端正な顔立ちに触れていた。
「リーファ様? どうかしましたか? 俺の顔に何か、」
「グエン様。きっと……きっと大丈夫です。何とかなります」
彼の心を現実に引き戻したくて、その黒衣の胸元に縋って抱き締めてしまう。すると優しくそっと頭を撫でて、こちらを抱き締め返してくれた。今日は彼に贈って貰った珊瑚の簪を挿しているので、彼がふっと笑って「似合っている、可愛い」と呟いてくれた。
そして深く深く息を吸い込んで、こちらを強く抱き締める。
「リーファ様…………俺、どうしたらいいのかよく分からないんです。トアンのことを。どうしても」
「分かっています、グエン様はお優しい方だから。でも」
嫉妬してしまう、ずっとずっとトアンのことを考えているから。
(貴方は立派な恋敵だわ、トアン。だって近頃のグエン様は貴方のことばかりを考えている)
きっと頭のおかしい従兄弟はそうは思っていないんだろうけど。
(満たされない、満たされないと言って泣いているんでしょうけど)
好きだとも可愛いとも言ってくれるのにちっとも安心が出来ない。ぎゅっとより強く強く胸元に縋って、これまでの不安を打ち明ける。
「私、グエン様にとって邪魔な存在になっているのでは…………?」
「っそんなこと! 絶対にありませんよ、リーファ様! 俺は、貴女がいないと生きていけないのに…………!?」
ぐいっと力強く引き離されて、切羽詰まった青い瞳に嬉しくなってしまう。
(ああ、良かった。まだ愛されている)
そのことに酷くほっとして息を吐いていた。両肩を掴んでいる手は熱くて大きい。ぐっと青い瞳を歪め、泣き出しそうな表情でこちらを見下ろす。
「すみません、リーファ様……近頃の俺がぐだぐだとしてばかりで」
「いいえ、グエン様。しかし心ここにあらずといった様子でしたからどうしても、」
「姉さん、ここにいたのね? あっ、グエンも。おはよう」
「リンファ! 一体どうしたの?」
「あっ、リーファ様! 俺は? 俺は……!?」
淋しそうな声を上げた彼に笑って、その乾いた手をぎゅっと握り締める。するとふっと青い瞳を瞠って嬉しそうな笑顔を浮かべるのだから、ああ、やっぱり。
「グエン様は笑っている時が一番素敵です。ごめんなさい、私が貴方の助けになれなくって」
「そんな! リーファ様! 俺はこうして貴方の白魚のように美しく柔らかい手を握っているだけで、」
「ちょっといいかしら? 話があるんだけど?」
「あっ、すまん……」
「ごめんね、リンファ。一体どうしたの? 珍しいわね、貴女がそんな顔をするだなんて」
そう話しかけてみると困ったような顔をする。リンファはまだ唐紅の襦裙を着て、何故か季節ではない梅の花の簪を挿していた。もぞもぞと白い腕を出して擦り、悲しげな表情で顔を伏せていた。
「その、ユウロンのことなんだけど…………」
「あっ! ここにいたのか、リンファ! 探したんだぞ!?」
「おっ、ユウロン…………はっや、息あっら」
「うるっ、うるせぇよ…………!!」
あれからというものの、ユウロンは護衛として雇うこととなった。ズハンと同じ黒い胡服を着て剣を下げ、両膝に手をついてぜいぜいと息を荒げている。
父は酷く嫌そうな顔をしていたけれど、偶然傍にいた母が「それぐらいしたらどう? 言いつけるわよ、私の両親に」と呟いたことがきっかけで雇うことになったのだ。
どうも食事会の一件で怒っているらしく、父の傍にいてちくちくと嫌味を言っては怒りをぶつけているらしい。
「でも良かったわ、ユウロン。貴方がここにいるようになって。リンファも嬉しそうだし。ねっ? リンファ」
「姉さん!」
「リンファ、ほら。もう行こう? ここにいたら僅かとは言えどもお嬢様の寿命を吸ってしまう。ほら」
「ちょっと! 分かったから、もう!」
怒っているような口調なのにその頬は赤い。見るとユウロンの頬も赤く、こちらの視線から逃れるようにして去って行った。薄紅色の花弁が舞い落ちる中で、手を繋いで去って行った二人を見て微笑む。
「上手くいくといいんですけど。ユウロンの恋も」
「まぁ、十四? 十三? でしたっけ。その年齢で二歳の女の子を呪具にしたらずっとずっと気に病みますよね…………恋をするのも、少しだけ分かるような気がする。貴女によく似て美人だし」
さり気なく褒めてくれるのだから、ああ、こんな所が好きで愛おしいのだと。愛情をこめて見上げてみると、その頬が赤くなってぐっと思い詰めたような表情となる。そしてこちらへと手を伸ばして頬を包み込んだ。
頬にざらりと乾いた指先の感触が当たって、その青い瞳は仄暗く光っている。
「リーファ様。俺はやっぱりトアンを殺します。これ以上、貴女を不安にさせたくない」
「グエン様、それは。でも」
殺したところで解決するのだろうか? そんな不安がぐるぐると渦巻いて喜べない。それに。
「グエン様。貴方の負担になるでしょう? だって気にいってらしたもの。トアンのことを弟のように見ていた。でしょう?」
「リーファ様、それでは貴女が」
「私のことはどうだっていいんです、グエン様。貴方が一番辛いのだから貴方が一番楽な方法を選ぶべきです。だから私は賛成できません、そんな方法に」
「リーファ様……」
途方に暮れたような顔で見つめてくる。ああ、でも大丈夫。
(いざとなったら私がトアンを殺しますから、グエン様。でも叔母様もどうにかしなくては)
頭の痛い問題ばかりだけれど、きっと何とかなると信じて生きて行くしかない。ふと視界で何かがきらりと光った、不思議に思って振り返ってみる。
「っ危ない! リーファ様!」
「グエン様!? わっ!」
しゃりんと剣を引き抜いてその何かを鮮やかに斬り捨て、ぐっと肩を抱き寄せられる。そこにいたのは光る白い鱗を持った蛇で、真っ赤な瞳から黒い涙をぼたぼたと流して泣いている。
それは百日紅の木の枝からこちらへ飛び掛ってきたものらしいが、今は木の根元で暴れ回っていた。
白い鱗が薄紅色の花弁を巻き込んで、ごろごろと白蛇はのたうち回り、しゅうしゅうと真っ赤な舌を震わせて鋭い牙の間から悲鳴のような声を出す。真っ赤な目はこちらを見据えていて、黒い涙をだくだくと流している。
「グエン様、グエン様、一体どうしてですか!? 俺は貴方のことを、」
「っ分かっているよ! 分かっているけどそれは恋じゃないし、俺はお前のことを別に嫌っている訳じゃないんだよ! トアン!!」
「グエン様」
どうしてその一言で深く傷付いてしまったのだろう。彼がぱっとこちらを放して木の根元へと駆け寄る。黒い背中を見て考え込んでいた。
ああ、こんなにも距離が遠いと。苦しくぎゅっと、自分の胸元を握り締める。
(どんな時だって私を優先して欲しいだなんて。私といる時ぐらい、ちゃんと私のことを考えて見て欲しいだなんて)
恋をすると我が儘になってしまう。我が儘になって相手を傷つけてしまう。駆け寄って背後から覗いてみると、彼の手の中で白蛇がぶるぶると震えていた。
彼は呪いの蛇かもしれないのに平然と掬い上げて、苦しそうにそれを見つめている。
(ああ、危ないから。そんなことはして欲しくないのに!)
でも我慢しよう、我慢を。いつかは限界がきてしまうのかもしれないけど、やっぱり私は彼の方が大事だから。出来る限り笑っていて欲しいから、さっきのように。
「なぁ、トアン……聞こえているんだろう? きっと。聞いているよな?」
「ええ、貴方が何の疑いもなく可愛がっていた子猫の時と。同じように術を使って、」
「俺、行くよ。お前のところに。そんでお前がどうしても殺して欲しいって言うのなら。話し合おう、そんでどうしようもなかったら殺してやるよ。なっ?」
「グエン様! 駄目です、それは」
ぐっと言葉を飲み込んだ。彼の青い瞳が「もう限界だ」と告げていたから。涙が滲んだ青い瞳に悲しくなってしまう。結局はこの方法しか無いのだと打ちのめされてしまう。
(いや、負けてたまるものですか。そうだ、お義母様に相談しよう。そしてこの指輪を作ってくださったスオウ様にも相談する。あの先日のお爺さんもユウロンも巻き込んで全力でトアンを叩いてみせる)
ぐっと拳を握り締めて決意をする。彼は優しい人だからそんな判断は下せない。
(だったら彼の分まで私が残酷になろう、大丈夫。きっと大丈夫だから、リーファ)
百日紅の花が美しかった。こちらの苦しみと絶望をものともせずに空は青く美しく、薄紅色の花弁がひらひらと舞い落ちてゆく。
「本当ですか? グエン様。来てくれますか?」
「ああ、行こう。一週間後に。きっとお前の居所はお義父さんが知っているよな? 教えて貰うから行くよ、会いに」
「嬉しいです、グエンさん……」
彼の手の中で白蛇がぐったりと両目を閉じ、黒い涙を流していた。
「ただし。頼むからもう彼女の命だけは狙わないでくれ。俺一人で十分だろう? なっ?」
「グエン様……!!」
「分かりました、それじゃあそうします」
白蛇が真っ黒な口を開けて、にやりと歪んだ笑みを浮かべたような気がした。
「リーファ、何が何でも君からグエンさんを奪い取ってみせるよ。どうしても許せないんだ、どうしても」
「っトアン! お願いだからやめて!?」
「リーファ様、大丈夫です! 大丈夫ですから!!」
「どうして君と俺はこうも違うんだろう? 君のお父様やお母様だって頭がおかしいのに。同じ血が流れていながらどうして、君は俺のように苦しんでいないのか……」
ざぁっと、白蛇の体が灰となって崩れ落ちてゆく。さらさらとした灰色の砂を握り締め、グエン様がぼそりと呟いた。
「悪いな、トアン。でも俺はリーファ様のことが一番大事だから。やっぱりお前のことを殺すよ、トアン……」
ふうっと両手に息を吹きかけて、灰色の砂がさらさらと風に舞って消えてゆく。気を取り直すかのように立ち上がってこちらを見つめ、ふっと困ったように笑っていた。
「ああ、どうか泣かないでください。リーファ様? どこの誰が疑おうとも。たとえ貴女が疑おうとも俺は貴女のためなら何だってしますよ? だって一番愛しているから、貴女のことを」
「グエン様。……グエン様。何でだろう? 泣く気なんて、ちっとも無かったのに…………!!」
百日紅の花が舞う中で抱きついていた。彼が黙って抱き締めてくれる。
「リーファ様…………大丈夫、大丈夫ですよ。俺は貴女に怖がられてしまうぐらい、ちゃんと貴女を愛しているんですから」
「はい、はい。グエン様」
ああ、大丈夫だ。信じていよう、でも。
(グエン様。私も戦います。剣ではなく知恵を使って、私なりに貴方を守ってみせますからね……)
しかしこの言葉は胸に秘めておこう。きっと、彼を心配させるだけだろうから。
「そんじゃあ。トアンに襲われる可能性も無くなったし? 久しぶりに俺と街にでも行きませんか? リーファ様!」
「ふふっ、いいですね! グエン様、それじゃあ精一杯おめかししてきますね!」
「うっ、可愛い! やっぱり何だかんだ言って幸せ…………!! 好きっ!!」




