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17.もうそろそろ我慢の限界です

 




『好きなんですよ、グエンさん。どうします? 俺を殺すか、ずっと一生俺に執着されるか。今ここで選んで下さいよ、グエンさん』



 茶色い瞳が仄暗い光を宿していた、何が何だかさっぱりよく分からなかった。思わず身構えて「トアン、お前」と呟いていた、名前を呼ぶ度に嬉しそうな微笑みを浮かべていた。



(あの時。本当にどうしたら良かったんだろう? 俺は)



 そのことをズハンに相談してみると「殺せば良かったのに。グエン様は意外と甘いですよね」と言って顔を顰めていた。



(あいつは。本当にも~。意外と過激派だよなぁ~。ったく、そんな風に簡単に終わらせていいのか? 人の命を)



 寝台の上で丸まって眠っている、滑らかな絹の布団が心地良い。



「グエンさん、殺して下さいよ? それこそが俺の望んでいることなのに?」

「トアン、お前」



 目の前にトアンが立っていた、整った顔立ちで甘い微笑みを浮かべている。しかしその茶色い瞳は仄暗く、こちらへの執着と恋心で凝り固まっていた。腕を伸ばして寝台へと近付き、こちらの顔を覗き込む。



 トアンが恍惚とした甘い微笑みを浮かべる、体が一切動かない。指一本動かせない。




「好きですよ、グエンさん。貴方の甘い所も何もかも。リーファさんが羨ましくて仕方が無い、俺も。女だったら貴方の子供が産めたのに、グエンさんグエンさん」

「っう、トアン、お前」



 やめろと言いたいのに声が出ない、のしかかられて首元に手を伸ばされる、黒い靄のようなものが襲いかかってきて体がぴくりとも動かない。



(動いてくれ、動いてくれよ!? 俺の体、頼む!!)



 これは夢か現か、トアンが甘い微笑みを浮かべてのしかかってくる。両手の手首を掴まれた、必死に汗を掻いて体を動かそうとしているのに動かない、誰か誰か。



 俺に顔を近付けたトアンが笑う、その顔があまりよく見えない。




「好きですよ、グエンさん。知っています、貴方がリーファさん一筋であることも。でも好きなんです、愛していますよ? グエンさん。あの時俺を殺せば良かったのに貴方はそうしなかった!! ああ、やっぱりグエンさんはグエンさんだ。好きですよ、グエンさん。何もかもを引き摺り出して奪い取って俺のものにしたい、俺のものになって下さいよ? グエンさん、グエンさん、グエンさん……」




 白い指先が首に添えられる、妖艶に笑って首筋に噛みつかれ、俺は叫び出したいのに体を動かすことすら出来なくて────────…………。








「わあああああっ!? はっ、は? なん、何だ? 夢か、あれは」



 全身に冷や汗を掻いて飛び起きて、すっかり強張ってしまった体で深く息を吸い込んだ。何度かそうして深呼吸をしていると気持ちが落ち着いてきて、だいぶ成長した子猫のファファが飛び乗ってきて「にゃあ」と鳴く。



「ファファ。……おいで。良かった、お前が来てくれて」

「んにゅ~」




 柔らかな白い毛皮に青い瞳のファファは甘えん坊で、こちらの胸元にぐりぐりと小さな頭を押し付けてくる。そのふわふわとした白い毛を撫で、両目を閉じて子猫らしい匂いを嗅いでいると緊張が解けていった。



「なぁ? 俺、どうしたら良かったんだろう? ……トアンを殺すだなんて絶対に無理だ。それにあいつは。自分の母親のことでも悩んでいたのに」

「んん~」

「っはは、だよな? こんなこと、猫に相談したって仕方が無いかぁ」



 ひとまず寝台から起き上がって着替えて、リーファ様の下へ行こうと決める。



「リーファ様は俺の癒しだからなぁ~。はーあ、疲れた。もう嫌だ、リーファ様の手だけを握って生きていきたい……」

「にゃうん」















「えっ? リーファ様が俺に会いたくないだって……!?」

「会いたくないというよりあれは拗ねてるわね。あんた、姉さんが頑張っている間。眠りこけていたんだって……?」

「えっ? いっ、いやっ、あれは別に眠りこけてた訳じゃなくって…………!!」




 呪具のリンファに胸ぐらを掴まれ、慌てて両手で制する。母さんそっくりの怒り方だ、恐ろしい。ぱっと俺を放して深い深い溜め息を吐くと、白い顎でくいと扉を示す。




「入って姉さんを慰めてきて。……姉さんが元気になるのは。あんたの言葉でだけなんだから」

「お、おう。そんじゃあ失礼します、面目ない……」



 おそるおそる扉に手をかけると、リンファが真っ赤な衣を翻して去ってゆく。その後ろ姿を見送ってから扉を開くと、瞬時にひんやりとした空気に包まれる。



「ええっと、リーファ様ー? すみません、俺。ここのところ上の空だし、ろくに何も出来ていなくて、」

「入って。来ないで下さい、グエン様……」

「えっ? えっ!? そんな!? リーファ様!?」




 あまりの衝撃に息が止まりそうになった。すかさず寝台へと近付いてこんもりと盛り上がった白い塊を発見して、胸がきゅんとときめいてしまう。



「はー、リーファ様は。布団に包まっていても可愛いですね……!! 朝餉は食べましたか?」

「たべ、食べました。せっかく、運んできて貰ったんだし……」



 くぐもった声はどこか拗ねていて笑ってしまう。



「リーファ様? 拗ねてらっしゃるんですか? 俺が頼りないから?」

「っう、違います。私、私は……ちっともぜんぜん。グエン様が褒めてくれるような子でも何でもない……」



 もぞもぞと白い塊が動いて、了承も得ずに寝台へと腰掛ける。



「ああ、申し訳ない。俺。貴女を守ることも出来ず。今だってどうしてそんなことを言い出すのか。ちっとも汲み取れなくって」

「ちが、違うんです。私……あれから、その。トアンのことが嫌で。嫌いで。だってグエン様がその、酷い目に遭ったのに。トアンにばかり、優しくするから」

「リーファ様……可愛い」



 俺がぼそりと呟いて布団を撫でていると、やがてもぞもぞと動いて這い出てくる。ひょっこりと、潤んだ黒い瞳のリーファ様が顔を出す。



 そのあまりにも可愛らしい弱った表情に全ての理性がぶっ飛びそうになったが何とか耐える、どうかこのまま俺が頼れる男性としての顔を保てますようにと願う。つらい。



 白い手できゅっと布団を握り締め、彼女が照れ臭そうに顔を伏せる。



「わた、私。グエン様の優しい所が大好きです。でも」



 好きじゃなくて大好きって言ってくれた可愛い、でも俺は愛しているんだけどなぁなんて考えつつ必死に真面目な表情を保つ。頑張れ、俺。



「他の人になんて。優しくしないで欲しい……愛想笑いですらして欲しくないと思うだなんて、今日だってこんな風に拗ねて、わぁっ!?」

「すみません、もう無理です! 限界です!! 可愛いーっ!!」




 魂の叫び声を上げて抱きついてみると何と、驚いたことに彼女もぎゅうっと抱き締め返してくれる。そしてぐりぐりと頭を押し付けて「グエン様」と嬉しそうに呟いていた、むしろトアンには感謝するべきかもしれない。




(わっ、わ~……可愛い)



 声すら出なくて嬉しそうな彼女を抱き締めて、寝台の上で抱き合っていた。



「はー、可愛い。すみません、俺。これからはなるべくその、人前でも極力笑わないようにしますね?」

「いえ、いいんです。そんな。だってグエン様は立っているだけで格好良いもの、無駄になっちゃうから……」

「うわっ!! 可愛い~、は~、でも何か。俺はあの日にああやって巻き込まれてむしろちょっと幸せな結果になったというか、」

「グエン様? 私、とっても悲しかったんですよ? 貴方を失ってしまいそうで」

「あっ、はい。すみません、今のは失言でした……」




 リーファ様が「分かってくれたのなら。それでいいです、もう」と拗ねたように呟いて顔を埋めてくる、可愛い。どうしよう、天女様だ。




(もしかして。今ならもう少し進んでも許されるのでは……?)




 この頃になると悪夢のことなんてすっかり吹っ飛んでいた、どうしよう。今すぐ触りたい。




(っぐ!! いや、でも。嫌われでもしたら!! 生きていけねぇ、もう一回死ぬ! 死んでしまう!!)




 物凄く物凄く悩んだ結果、おそるおそる彼女の背に手を回して黒髪を撫でてみる。絹のような手触りの黒髪に恍惚として撫でていたら、ぎゅっとしがみついてきて。




「グエン様。私のこと、好きですか……? トアンよりも?」

「勿論ですよ、リーファ様!! あんな奴は眼中にありません、俺の心は未来永劫貴女のものです! リーファ様!!」

「ふふっ、良かった! 私も好きです、グエン様のことが! 大好きっ」

「うわっ……死にそうになった今ので。可愛い、つらい、幸せ……!!」



 あまりの幸福にふるふると打ち震えていると、リーファ様が離れてこちらを見上げてくる。そのふっくらとしたくちびると潤んだ黒い瞳に吸い寄せられていたら、彼女がそっと両目を閉じて。



「えっ? あ、の。リーファ様、大丈夫なんですか?」

「グエン様……私この間。物凄く頑張ったんですよ? その、ご褒美をくれませんか……?」

(あっ、しん、死んだ……!!)




 ごくりと生唾を飲み込んで、黒髪を搔き上げて顔を寄せてみる。彼女が両目を閉じて待っていた、求められることが嬉しくて仕方が無かった。



(ああ、怒られるのかもしれないけど。良かった、トアンがいてくれて)



 ふっと柔らかなくちびるに触れると、彼女がそのままにじり寄ってきて深い口付けを交わしていた、いつになく積極的な婚約者に驚いてしまう。



「っちょ、リーファ様!? すみません、やっぱり。もう少しだけ待って、」

「グエン様? 嫌ですか? 私にこうして迫られるのは」

「い、嫌じゃないけど。でも」

「ならいいでしょう? 好きです、グエン様。ごめんなさい、嫉妬深い女で……」



 寝台の上でリーファ様に押し倒されていた、妖艶に微笑んでいて魂が吸い取られてしまいそうだ。見惚れて腕を伸ばせば嬉しそうに微笑んでいた、俺の手に手を重ねてこちらを見下ろしてくる。



 その健康的な輝きを放っている黒い両瞳に安心して、ほっと安堵の溜め息を吐く。




「ああ、リーファ様。良かった、貴女が。本当にまともな人で」

「私は。私はグエン様を大事に守っていきます。ねぇ? だからお願い、トアンにあれ以上優しくなんかしないで? きっと他に何か良い方法が絶対にある筈だから。お願い、グエン様。私のことを嫌いになってしまわないで……?」




 ああ、随分と不安にさせてしまった。




(どうしよう? 俺のせいだ。ああ、リーファ様)




 後悔と反省に浸っていたらリーファ様がぼすんと倒れこんできて、ひしっとしがみついてくる。戸惑って彼女の黒髪頭を撫でて、これぐらいは許されるだろうと考えて腰に手を回す。



「えっ、えーっと? リーファ様? あの」

「私。グエン様と庭でまったりお散歩がしたいです……でも今はずっとこうしていたいです!」

「えっ? この、ずっとこのまんまの状態でってことですか……?」

「はい! グエン様! 暫くぎゅっとしていて欲しいです! まったりお昼寝がしたんですけど。その、駄目ですか?」




 胸元にしがみついているリーファ様に可愛くおねだりをされて。全てを諦めて頷くしかなかった、一気に天国から地獄である。




「はい。大丈夫ですよ、あの、その俺は」

「ふふっ、良かった! それじゃあ腕枕をして欲しいです、腕枕っ」

「あっ、はい……あと他にして欲しいことは? 何かありますか?」

「無いですっ! このままずっとこうしていたいですっ! 頑張ったから、私!」

「いくらでもどうぞ? お安い御用ですよ?」




 何て格好つけて言っていたが本当に辛かった、とんだ生殺しである。




(うっ、てっきり。その先を期待していたのに……まだか、まだかなぁ。まだか~)



 もう少しだけ待とう、彼女の心の準備が出来るまで。俺の腕に頭を乗せてすやすやと眠っている彼女を見てそう思った、どうやら彼女はこれだけで満足出来るらしい。



 白い頬にかかった黒髪を払いのけて願う、彼女がどうかどうかずっと俺のことを好きでいてくれますようにと。



















「ねぇ、ルイ? その」

「どうかしましたか、リーファ様? グエン様なら湯浴みをしている最中ですけど」



 勇気を出してこくこくと頷いたら察してくれたようで、ルイが背後の扉を振り返って声を潜めてくれた。



「そんじゃあ俺。その旨を、その。ズハンに伝えてきますね……?」

「おね、お願い」



 あまりにも緊張していて声が上手く出せなかったが、何とか足と手を動かして歩いていると、ルイがぱたんと扉を閉めて去ってゆく。



 彼が着ていた黒衣は籠の中に収められ、私も一瞬服を脱ごうかどうしようかと思ったが早々に挫けてしまい、涙目で扉を開ける。



 扉を開けると白い湯気が立ちこめて、ふわりと温泉の良い香りが漂ってきた。




(お父様が大の温泉好きで良かった、ああ、でも。嫌がられたらどうしようか……?)




 悩んでいても仕方が無いので裸足でぺたぺたと歩いていると、温泉に浸かっているグエン様の黒髪が見えてそこで立ち止まってしまう。



(っふ、やっぱり。やめた方が良かったかもしれない…………!! どうしよう? 引き返そうかな!?)




 引き返そうと決意した所でざばんと音を立てて、彼が問いかけてくる。



「んあ? ルイ? どうした? またファファが俺のことを探し回っていたのか?」

「わっ、あのう……ええっと」

「りっ、リーファ様!? えっ!? 何で!? 一体どうしたんですか!?」

「あし。足だけでも一緒に浸かろうと思って……!!」



 白い湯気の向こうで真っ赤な顔をしたグエン様が慌てていた、近寄ってみるとぱしゃんと温泉に浸かってしまう。



「ちょっ、流石に勘弁して欲しいと言うかその……!! ああ、服。着ているんですね…………?」

「あっ、はい。流石にそれはちょっと。夜着の裾をたくし上げて貰って。その」




 彼の隣に立って怖々と足を伸ばして、ちゃぷんとふくらはぎまで浸かってみる。湯船のふちに腰かけて浸かっていると、彼が非常に残念そうな顔で見つめてくる。



「あの。……リーファ様? 俺さっきからわりと。我慢しているというかその」

「我慢しなくてもいいと言ったら。その、怒りますか……?」



 青い瞳を限界まで瞠っていて、その逞しい体つきをうっかりじろじろと眺めてしまう。目が逸らせない。きっと私が言わないと何も進まないだろうから、もう誰にも何にも奪われたくないから。



 ちゃぷんと水面が揺れてグエン様が黙り込んでいた、こちらへと腕を伸ばして太ももに手を這わせてくる。



 驚いて見つめると、熱っぽくて青い瞳がこちらを射抜いていた。




「その。貴女のことを抱いてもいいんですか? リーファ様?」

「っう、あの。は、はい。この、この間。トアンにその。乱暴されるかと思うと、凄く嫌で怖くって。グエン様に一生、顔向けが出来ないと思ったから……」



 怖くて恐ろしかった、初めては彼としようと思っていたのに。彼が太ももに手を這わせてきて、私も思い切って両腕を伸ばしてみる。彼の両肩を掴むと熱かった、もくもくとした湯気に燻されて恥ずかしくて死んでしまいそうだった。



「グエン様。好きです、その。上がって、待っていますから…………!!」

「えっ? いっそここでしましょうよ、リーファ様? それが無理ならせめて一緒に浸かりましょうよ?」

「えっ? ええっ!? そんな、それはちょっと無理なような気が……!!」



 ぐいっと腕を引かれてざぶんと湯に入った、途端に夜着が張り付いてきて戸惑ってしまう。こちらの両肩を握り締めて妖艶に笑う、その青い瞳が美しくて見惚れていた。



「リーファ様。すみません、もう。我慢の限界で、俺」

「んっ!? んん…………!!」



 いきなりくちびるを重ねて舌を捻じ込んできて、夜着の下から手を入れられてとんでもない場所を触られていた、あまりの恥ずかしさで死にそうになってしまう。




「グエン様、グエン様!? あのっ!? ちょっと待って、」

「大丈夫です、優しくするんで。すみません、流石にここまで煽られて。嫌だったら言ってくださいなんて言えないんで。すみません、リーファ様。怖がらせてしまいますが、」

「いやっ、だい、大丈夫です。前にも言ったでしょう? 私、グエン様になら何をされても怖くないって」




 驚いたように青い瞳を瞠ってから、ふっと嬉しそうな微笑みを浮かべる。



(ああ、良かった。グエン様が生きていて。私の、傍にいてくださる……)



 ちゃぷんとお湯に浸かってしがみついていた。どうかどうかこのまま、あの大嫌いなトアンに奪われませんように。この時間と大好きな彼が。




「グエン様。好きです、好きです……だからどうかお願い、その。うぐ、言えませんでした。無理でした」

「っふ、そこは恥ずかしくても。言って欲しかったところなんだけどなぁ……」




 酷く優しい眼差しで頬に手を添え、またくちびるを重ねる。その日の夜は朝まで一緒に過ごしていた。朝起きた彼が「このところ毎日見ていた悪夢を。昨夜は見ませんでした、どうもありがとうございます」と言って笑って額に口付けてくれた。



 それを見て惚れ直していた、でもそのことは恥ずかしくて言えなかった。その代わりに寄り添って抱きついて呟いてみる。




「私。本当に幸せです、グエン様と巡り会えて。あの日あの時。その、私に一目惚れして下さってありがとうございます…………!!」

「うっ、多分俺は。近日中に死んでしまう!! たった今この瞬間にありとあらゆる幸運を使い果たしたような気がする!! 絶対にそうだ!!」

「ふふ、グエン様ったらも~。好き! 大好き」

「わっ、わっ、わ~……可愛い、俺も好き、天女!!」






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