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15.歪んだ叔母とこれ以上頑張れない気持ち

気持ちの悪い描写が出てきます、ご注意ください。

 






「リーファ様、リーファ様!」



 彼女が行ってしまった、こちらを振り返りもせずに。焦って寝台から起き上がって、伸ばされたトアンの手を振り払って。



「リーファ様、リーファ様!! ちょっと待ってくださいよ!? 俺は貴女がいなくなったら、リーファ様、リーファ様!!」

「ああ、もう。落ち着いてくださいよ、グエンさん?」

「トアン、だが。リーファ様がリーファ様が」



 彼女が殺されるのかもしれないのに俺だけがのんびりと寝ていられるものか、リーファ様。リーファ様。




「っ頼む、トアン! リーファ様を、リーファ様を止めてくれ! お前は知らないのかもしれないけど! お前の母さんは、」

「いいえ! 全部全部、知っています! いいから落ち着いてくださいよ、グエンさん?」




 トアンの黒い両腕に縋って、くらりと何かが失われて、ぐわんぐわんと頭が揺れて眠気と倦怠感が襲ってくる。朦朧とする意識の端に、熱い涙が浮かび上がってきて。



「リーファ様、リーファ様。いやだ、怖い。まだ何もしてないのに。このままリーファ様が死んでしまったらどうしよう? トアン、トアン。リーファ様が、リーファ様が。俺のせいで、俺がうかうかしているせいで、死んでしまったら?」

「大丈夫、大丈夫ですよ? リーファさんは死んだりしませんからね? よーくよく思い出してみてくださいよ、今までの呪いを」




 その言葉を聞いて汗ばんだ視界の中で、朦朧とこれまでのことを考える。




「ああ、そうだ。どれもこれもぜんぶ、すぐに死ぬようなやつじゃなかった……」

「でしょう? 大丈夫ですよ、グエンさん。ああ、ほら。随分と顔色も悪い」




 ちゃりんと、何らかの音が耳元で揺れて。それがふと薔薇色の耳飾りであることに気が付いて、今日も付けていたのかと考える。


 トアンが俺を抱き寄せて、二人で床に座り込んで、トアンの黒衣を強く握り締めていた。




「トアン……俺、俺は。リーファ様のことが。好きなんだよ、本当に」

「ええ、知っていますよ? グエンさん。……でも、貴方は。休まなくては」




 初めて会った時はか弱いばかりの少年だと思っていたのに、俺の体をいとも簡単に抱き上げる。抵抗する気力も湧かなくてそのまま、ぐったりと両目を閉じていた。淋しさに目頭が熱くなって、じんわりと涙が浮かんでしまう。




「リーファ様、リーファ様。あんな女と。行かないで欲しかったのに。俺の傍に、俺の傍にいて欲しかったのに。怖いよ、トアン。俺、彼女にもし、万が一のことがあったらと考えると。気が狂いそうになる、どうしよう? どうしよう、トアン……」



 トアンは黙って俺を運んでいて、体中が震えて汗ばんで息が荒くなっている。



「怖い、怖いよ。リーファ様。お願いだから俺の傍にいて欲しかった、守りたかったのに。俺が」

「グエンさん。大丈夫ですよ、ほら」



 背中に柔らかな寝台の感触が伝わってきて、トアンが優しく降ろしてくれたのだと理解する。無意識に腕を伸ばして、トアンの黒い袖を引っ張った。




「トアン、頼む。俺の、俺の代わりに彼女の下へ。俺の代わりにリーファ様を。トアン、頼む……」

「っふ、大丈夫ですよ? グエンさん」

「トアン? お前」




 その笑い方に歪んだものを感じて、何とか重たい目蓋を開けてみる。そこには泣き出しそうな表情で微笑んで、こちらの頬を撫でているトアンがいた。




「ああ、綺麗だ。初めて見た時から思っていた、その、青い瞳が。海とも空ともつかぬ色合いで。俺の好きな、冬の海の色合いをしている…………」

「トアン? なぁ、お前」





 本当に本当にまともなのかと聞こうとした瞬間、ふっと体を屈めて近寄ってくる。やけに体も意識も重たく、額がじんわりと汗ばんでいた。


 薔薇色の耳飾りがりぃんと、不思議な音を立てている。




「さぁ、グエンさん。あんな女のことなんか忘れてしまって、ずっとずっとこのままで」

「いいや。トアン、俺は。忘れたりなんかしないよ、リーファ様のことを」

「いいえ、忘れるんです。忘れてずっとずっと、俺の傍に。俺の傍にいてくださいよ、グエンさん」




 そこでぶつんと、俺の意識は黒く途絶えてしまった。左手の薬指に嵌めている筈の指輪が、熱く燃えるようにその存在を主張していた。




「グエンさん、大丈夫ですよ。絶対に絶対に逃がしたりなんかしない。貴方とあの女を。たとえ地獄で引き摺られようとも、ふ、ふふっ、ふふふ」



























「ああ、ほら。見て頂戴、リーファ。雲間から光が射し込んで。晴れてきたわ、今日は折角の素敵な日なのに。朝からどんよりと曇っていて。がっかりしていたのよ」

「叔母様……」





 明るく機嫌良く微笑んで、叔母のスイランが庭園を歩いている。どう表現すればいいのだろう、ずっとずっと滑り落ちてゆくような違和感を。



 穏やかな池のほとりを歩いて、少し前を歩くスイランは真っ赤な襦裙(じゅくん)を着ていて、黒髪に挿してある金色の簪が目に眩しい。



 花のような美貌を持つスイランが、にっこりと微笑んで振り返った。その黒曜石のような瞳にどきりとしてしまい、僅かに汗ばんでしまう。



「ねぇ? リーファ? ああ、やっぱり貴女は。お兄様によく似ているわ。お兄様もね? 昔は。それぐらい髪を伸ばしていたの」

「お父様がですか? ……初耳です、叔母様」

「でしょうね、貴女は。まだ産まれていなかったんだもの。当然だわ。ふふっ」




 ころころと鈴を転がすように笑って、白い指先を紅いくちびるに添えていた。それをぼんやりと眺めて、まるで人形か何かのように歩いている。


 元は皇族が住んでいたという屋敷を改装して料亭にしたらしく、どこまでも長閑な庭園が続いており、遠くの方には屋敷がひっそりと佇んでいた。あまりにも離れてしまった距離に、愕然としてしまうが。




(どうしよう、どうしよう? グエン様の身に何かあったら。どうしよう、怖い。グエン様)




 その時にちりりと、左手の薬指に嵌めている筈の指輪が熱くなった。これは婚約祝いにお義母様から贈って頂いたもので、とある呪い(まじな)がかけられている。



 とろりとした翡翠製の指輪は装着すると、瞬く間に透明となって、その姿を隠しつつこちらの身を守ってくれるのだが。何も嵌めていない左手の薬指を見つめ、背筋がぞっとしてしまう。



(熱くなるということは。術が発動している証拠。グエン様の身に何かあったんだ、どうしよう? 怖い)



 やっぱりやっぱり、あの男がグエン様に何かしたのだ。



(私にはもう、あの人しか残っていないのに。愛しいのに、きっともう。私をあれだけ。愛してくれる人も見つからないだろうに)




 いつもの青い眼差しを見れなくなるかと思うと。怖い、恐ろしい。あの日々が失われるかと思っただけで怖い、何もかもを振り払って逃げ出したくなってしまう。




「っ叔母様! 私、グエン様の下へ戻ります。何だか嫌な予感がするんです、彼。体調も悪かったし」

「あら、駄目よ。リーファ? 貴女はずっとずっと、私と一緒にいるんだから」

「叔母様」




 思わず呆然として青ざめて、美しい微笑みを浮かべている叔母を見つめていた。きっちりと結い上げた黒髪が光り輝いて、雲間から一筋の光が射し込んでくる。



 まるで雨上がりのような庭園にて、叔母がふんわりと甘く微笑んでいた。紅いくちびるが動いて、這うような低い声に驚いてしまう。



「駄目よ、リーファ。お前はここにいるの。もう、お兄様ときたら。貴女を私から隠したりなんかして」

「ああ、ここに。いたのかい、リーファ。それにスイランも」

「お父様……!?」




 父親の声を聞いて安心したのは初めてだった。父のタイランがにっこりと甘く微笑んでいる。それまでこちらを見つめていたスイランがたっと、少女のように駆け寄った。




「お兄様! どうなさったの? もしかして食事が。口に合わなかったのかしら? お兄様の好物ばかりを、並べてみたのだけれど」

「ああ、大丈夫だよ? スイラン。全部美味しかったから」




 まるで少年と少女の会話のようで、それを立ち尽くして眺めていた。どう表現したらいいのか分からない、穏やかなくせにどこまでも虚ろな違和感が漂う。タイランがふっと微笑んで、愛おしそうにスイランの肩に手を置いてから、忘れていたと言わんばかりにこちらを向く。




「そうだ、リーファ。お前、食欲が無いのかい? 全部残していたようだけれど?」

「お父様……私は、」

「お前はいつもそうだね? リーファ。何かと体が弱くて好き嫌いをする。食が細いのを責めている訳では無いが。少しは食べないと体に悪いぞ?」




 台詞だけを聞いたら優しい父親のようで、ふと、自分が何かとんでもなく非常識なことをしているのではないかという気持ちに駆られてしまう。嬉しそうな表情のスイランが振り返って、こちらを優しく見つめている。




「お兄様の言う通りよ、リーファ。悲しいわ、あまり食べて貰えなくて。ああ、ほら? それじゃあ行きましょうか? 心配なんでしょう? 婚約者さんのことが」

「婚約者? グエン君が、一体どうしたのかな? トアン君が連れて行って。休ませていると聞いたけど?」




 ああ、どうしよう。どうしたらいいのだろう? 突然迷子になってしまったような気持ちで戸惑っている、何をするのが正解なのか、どの選択が一番正しいのか。



 父親が美しく微笑んで、その隣に立った叔母も優しげな微笑みを浮かべている。




「さぁ、リーファ? 行きましょう? ああ、そうだわ。お兄様? リーファを暫くの間。貸して下さる? 私のね、息子の。トアンの子供を産んで欲しいの。いいでしょう?」

「困ったね、スイラン。お前はまだそんなことを言っているのかい?」

「ねぇ、いいでしょう? お兄様。私、いい子にしているから。もうあんな無茶なことはしないから。ねっ?」




 年端も行かぬ少女のように甘えて、タイランが困ったように微笑んでいる。そして腕を伸ばしてそっと、スイランの黒髪を優しく撫でていた。




「いいよ、ただし。グエン殿の許可が取れたらね? まったくお前と言う妹は。昔から我が儘ばかりを言って。頼むからリーファを傷付けないでくれよ?」

「お父様。私、」

「あの女も子供に愛情が無いとは言え。あの親達、リーファの祖父母は。リーファのことをとても可愛がっているんだ、もしもこの子の身に何かあったら。事業への支援も打ち切られてしまうかもしれない。困るよ、今は。大事な時期なのに」




 まさかとは思っていたが、金の為に私を大事にしていたのか。



(それが父親の言葉だろうか、なんて。言っても無駄よね、この人にね)



 それでも心のどこかで愛情を期待していて、金の為に大事にされていたのだと知って、思わず膝からがくんと力が抜けてしまう。



 浚われて子供を孕ませられる恐怖と、先程からじんじんと熱い指輪の温度に、泣き出しそうになってそのまま地面へと座り込んだ。



「っひどい。お願い、お父様。そんなことを言うのはやめて? 頭がおかしいわ、みんな。お父様もトアンも! 叔母様も!! 私はそんな、貴方達の玩具なんかじゃないのに……!!」

「ああ、リーファ。汚れてしまうじゃないか、衣が」

「お父様。……まさか、勿体無いとでも仰るの?」




 その問いかけに優しく微笑んで父が、こちらの手を取って立つようにと促してくる。背後には心配そうな表情の叔母が佇んでいて、その冷たい瞳にぞっとしてしまう。


 心配そうに見守っているくせに、黒い瞳はどこまでも恐ろしく冷たかった。



「スイラン。リーファもこう言っていることだし。お前も」

「嫌だわ、お兄様。一度口にしたことを覆すだなんて。お兄様らしくもない、お母様が聞いたら何と言うかしら?」



 粘り気を帯びた嫌な言葉に、ぐっとタイランが動きを止める。無表情となって私の手を握り締め、そのままスイランに引き渡すようにどんっと、こちらの背中を突き飛ばした。




「わっ!? お父様!?」

「ありがとう、お兄様。きっとお母様も喜んでいるわ。あの世でね?」

「いいから。もう行きなさい、それはやろう。ただし傷は付けないように。傍から見て分かるような傷は付けるなよ? ああ、あとそれと。狂っても面倒だから。程々にしなさい、いいね?」

「はい、お兄様。仰せのままに」

「叔母様、お父様」




 こちらが引き止めるのにも構わず、タイランがすたすたと去ってゆく。



(ああ、もう。……お父様とは。呼べないわ)



 昔から金のことばかりを気にかけて、優しい微笑みを浮かべて見当違いな心配ばかりをする。金と銀の刺繍が施された後ろ姿が去って、指輪がまた、ちりちりと熱く燃え上がった。




「グエン様、私」

「大丈夫よ、貴女の婚約者は。可愛い私の息子が見ているから。ね?」

「叔母様、私。戻らなくちゃ、彼の所に」




 震えるように呟いて、嫌な熱さを放っている指輪に怯えて、自分の胸元を強く押さえていた。スイランが心配そうに寄り添って、こちらの肩に手を添えてくる。



 そのぬるりと魚が纏わりつくような触れ方に、思わず吐き気が込み上げてきて。ばっと、白い手を振り払ってしまう。




「っいや! 私は、私は、玩具なんかじゃないの! お人形さんでもないの、いやだ!!」

「リーファ、駄目じゃない。貴女もお兄様のようなことを言って」

「お父様? お父様がどうして。そこで出てくるのですか? 叔母様?」




 悲しげに微笑んで、こちらの頬を両手で包み込んでくる。そのひんやりとした冷たい手にぞっとして早く早く、彼の下に行きたくって仕方が無くて。



 吐きそうな思いでその美しい顔立ちを見上げていた。黒い瞳が物憂げに細められ、ふうと溜め息を吐く。




「お兄様はね? 私とお母様のお人形だったの。懐かしいわ、お前みたいに。髪を長く伸ばして。美しい襦裙も仕立てて。簪も私とお揃いの、そう。まるで姉妹のようだったの、私達は」

「叔母様、それは」

「それなのにお兄様は嫌気が差してしまって。お父様が亡くなったことをいいことに。お母様を刺し殺してしまって」

「嘘。だって病気で。私が、産まれる前に」

「っふふ、リーファ。なんて可愛いの? そんな嘘を信じ込んでいたというの? お前は」




 愛おしそうに黒い瞳を細めて、恍惚と私の目元を擦ってきて、乾いた手の感触に泣き出してしまいそうになる。





「嘘に決まっているじゃないの、全部全部。でも大丈夫よ? それでもお兄様は私のことを愛しているから。さっきだってそう、私にリーファをくれた」

「お願い、叔母様。どうかもうやめて下さい、私は、私は」

「ああ、泣かないで頂戴? リーファ、貴女は」

「母様、ここにいたんですか? 探しましたよ?」

「トアン」





 やたらと機嫌の良い微笑みを浮かべているトアンを見てぞっと、背筋に嫌な予感が這い登る。彼はここにいるのに、指輪はじくじくと熱くなっている。



「グエン様は、グエン様は」

「ああ、大丈夫。そんなに、死にそうな顔をしなくても」



 あくまでも優しい微笑みで近付いてきて、がっと、私の手を強く握り締めた。その容赦の無い掴み方に怯えて、歯がかちかちと震えてしまいそうで、吐き気と恐怖が一気に込み上げてくる。


 先程の、お父様の言葉が蘇っていた。


「所詮は金のために過ぎない」とそう、言われてもいないのに頭の中で繰り返してしまう、繰り返される。




「いやだ、いやだ。グエン様。グエン様・・・・・・!!」

「大丈夫、彼なら。すっかり落ち着いて眠っているから。ねっ?」

「トアン、貴方。用意した部屋があるでしょう? リーファの為に。連れて行って頂戴」

「はい、母様。グエン様も連れてっても?」

「好きにするといいわ、興味は無いから」

「ありがとうございます、母様。さぁ、リーファさん」




 片手で顔を覆っていた私を覗き込んで、トアンがゆっくりと微笑んで、おもむろに肩を抱き寄せてくる。



「俺としては。抱きたいのはグエンさんだけなんだけど、でも、ああ、ふふっ」

「なに? なにがそんなに。おかしいというの、貴方は?」

「ふふっ、いや、だって」




 私の手を握り締めて歩いて、ふらふらと、湿った匂いのする庭園を歩いていた。まるで何かの薬でも盛られたかのように、意識が朦朧として吐き気が押し寄せてくる。




「グエン様の。絶望した顔が見たいなぁ、素敵だろうなぁ。ああ、でも。彼は恨むんだろうか、俺を。人を。ああ、純粋無垢な人って。穢しがいがあるなぁ、遊びたいよ、楽しいよ、きっと。彼の絶望した顔が見たい、彼に恨まれたい」



 恍惚とした表情で語るトアンの横で、亡霊のようにふらふらと歩いていた。先程の叔母の言葉通り、雲間からは眩い陽射しが射し込んでいた。



 額に汗が伝って吐き気がして、お腹の底が奇妙にふわふわとしていて、繋がれた手はじっとりと嫌な熱を帯びている。



「あの綺麗な青い瞳が、絶望で翳るのを。見たいんだよ、俺は。ああ、好きだなぁ。グエン様、グエン様。いつだって優しくて透明で、純粋で。素直で弱くて脆いひと。つれないことばかりを言うくせに、ぶっきらぼうな口調で、どこまでも優しくしてくれるから。ふふっ、ああ。好きだなぁ」



 ああ、駄目だ。抵抗しないと。



(だって私が。私のほうがグエン様を愛しているもの。私だけが、私だけが)



 私だけが彼の幸せを願っていて、私だけが動けるのだから。じんじんと熱い指輪に嫌気が差して、握り締められた手をばっと振りほどいて、驚いた表情のトアンを突き飛ばして、思いっきり駆け出した。



 それでもろくに屋敷を出ていないこの足は弱く、あっという間に躓いてしまう。




「っは、あ!?」

「あーあ、手こずらせやがって。やっぱり最初から縛っておくんだった、こうするべきだった。痛めつけよう、そうしよう」




 狂った男の声が響いてきて、地面に腹ばいとなって震えていた。もう起き上がる気力が湧いてこない、怖い。




「グエン様、グエン様……!!」

「呼んだって来ないよ、彼は。忌まわしい指輪をしているね、君も。だから術が効かないんだ、でも大丈夫。今は姫が破ろうと努力しているから。じきに彼の記憶も消えて、俺の言いなりになってくれるから」

「そんな、そんな!!」



 記憶が消える? 彼の?


 目の前が真っ暗になって、あの優しい彼が全部全部忘れてしまうかと思うと、本当に悔しくて仕方が無くて。



 ぎゅうっと、地面の柔らかな苔を握り締める。




「っいやだ!! 絶対に絶対にそんなことはさせない、今すぐ助けに行って、」

「へぇ? そう? 君にムカデなんて倒せるのかな、お姫様?」

「ひっ!?」




 仄暗い表情を浮かべたトアンの後ろには、艶々と光ったムカデが佇んでいて、その巨体に意識が遠のいてゆく。ざわざわざわと木々がさざめいて、慌てて起き上がった私の周囲にぼうっと、無数のムカデが浮かび上がって叫んでしまう。



「わあああああっ!? やだっ、やだ!! これ! いやだ!! お願い、やめて!? トアン!」

「可愛いだろう? 君が逃げたりなんかするからだよ、リーファ」




 怯えて爪先立ちをしていると、きちきちと牙を鳴らした妖魔のムカデが蠢いて、私を取り囲んで地面を埋め尽くしている。うぞうぞと赤黒いものが波打って、無数の足がざわめいていて。



「やだ、やだ、やだ!! やだ!!」

「襲いかかってくれないか? そのお嬢様に。服の下にも入り込んで、柔らかな肌に噛み付くといい。きっと美味しいだろうから」

「っやだ、やだ、やだ!!」



 ぐっとムカデがこちらを見上げて、ぞわりと私の沓に這い上がってきた瞬間。



「あー、あー、あー。随分と趣味が悪いことだねぇ、坊や?」

「お義母様!?」

「っち、何だよ、もう」



 ざっと木の上から飛び降りてきて、ぼうっと赤い炎が渦巻いて私を包み込み、思わず目を閉じてしまう。



「悪いね、リーファちゃん。遅くなってしまって。文句なら人使いの荒い閻魔大王に言ってくれな、まったくもう」

「お義母様、お義母様!!」



 その頼もしい背中に泣いて縋っていると、にやりと悪戯っぽく笑って抱き上げてくれる。



「怖かっただろう? ん? もう大丈夫だよ、リーファちゃん。あたしの息子がすまなかったね、本当に」

「お義母様、お義母様! グエン様が危ないの、記憶を消されるって。危ないの!!」

「ああ、大丈夫だよ。ウシガエルのヨウリンが。今頃は蜘蛛姫と戦っている最中だろうから」

「くもひめ……?」




 ほっとして首に手を回して、ぎゅうっと華奢な体に抱きついていた。細いのに途轍もない安心感があって、途端に涙が滲んでしまう。



「っふ、お義母様。怖かったです、お義母様……!!」

「可哀想に、さぁ。でもあともうちょい頑張っておくれな? この炎が消えたら。あいつも飛びかってくるだろうからね」




 獰猛に低く笑って、私を横抱きにしていた。優しく抱え直すとショウリンは、真っ赤に燃え盛る炎を睨みつける。



「さて、お仕置きをしてやらないとだね? 頭のおかしい坊やには拳骨が一番だろうが、とりあえずは」

「お義母様……その、大丈夫ですか?」

「大丈夫だとも、リーファちゃん。任せな、腕が鳴るねぇ。こんな興奮、いつぶりだろう? 若い頃には毎日。こんな生活をしていたんだけど」

「毎日ですか…………?」




 低く笑っている美しい横顔を見て、無性に彼に会いたくなった。でもそれは。




「私、お義母様。ここを切り抜けたら。グエン様とまったり過ごします、っふ。グエン様と一緒にお饅頭でも食べて、お昼寝をして、ぎゅっと抱き締めて貰いたい……!!」

「大丈夫だよ、リーファちゃん。あたしがすーぐにこんな奴等は蹴散らしてやるからね? その次はあの馬鹿息子の出番だね、きっちり叱ってやらなくちゃ」

「えっ!? グエン様は何も悪くないのに!?」

「リーファちゃんは優しいよね、ほんと。でもね?」




 獰猛に低く笑って、燃え盛る炎を見つめて青い瞳が煌いていた。



「あいつはあたしの弟子でもあるんだよ、リーファちゃん。くっだんねぇ術をかけられやがって。それでも死霊使いか、お前はって。一発殴り飛ばしてやんないと!」

「おっ、お義母様……!!」




 どうやら彼にも、試練が待ち受けているらしい。



(でも、とりあえずはっ! トアンなんかに優しくしたことを怒っておこう、そうしよう。グエン様は私だけに。優しくしていればいいのに、まったくもう!!)





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