14.彼を守る為ならば、火にだって身を投じてみせる
「あー、どうしよう? 心配だ。結局母さんも捕まらなかったし。どこで何をやってんだ、あのババアは」
「グエン様。大丈夫ですよ、私がお守りしますから。ねっ?」
困ったように微笑んだリーファ様に手を握られて、ふと彼女は怖くないのだろうかと疑問に思う。今日は高級料亭に出かけるからか、深い緑色の襦裙を着て翡翠製の上品な簪を挿していた。
俺もそれに合わせて、上等な深緑色の衣を身に纏っている。
本当はいつもの黒衣が良かったのだが照れ臭そうな彼女から「お揃いにしたいです、グエン様」とお願いされてしまったので、黒衣を脱ぐという一択しか無かった。彼女がこの世の全てである。
どこかしゃんとしていて、色気を漂わせた彼女を見つめると。
「あっ、何か。大丈夫な気がしてきた……!! リーファ様好き! 天女!!」
「ふふっ、それは良かったです。もう、話さないと。どうにもならないような気がして」
「そ、それは確かに……」
話し合いで解決するとは到底、思えないが。
(いや、でも。顔ぐらいは見ておきたい。そんで食事会が終わった後に)
そこで部屋の扉が開いて、あまり会いたくない人物が現れた。
「やぁ、グエン君。おはよう、とは言っても昼近くだが。用意は出来たかな?」
「えーっと、お義父さん。今行こうと思っていたところです……」
まだ結婚もしていなし、舅ではないのだが。ややこしいのでもう舅扱いをしている。もうどの道俺と彼女は結婚するのだし。何があっても。
俺の言葉に舅のタイランが優しく微笑む。こちらは何故か、黒地に金銀の刺繍が入った胡服を着ていた。リーファ様とよく似た甘い顔立ちに、その派手な服装が合っている。
「それでは行こうか、二人とも? スイランも待っていることだろうし。リーファ、準備はいいね?」
「はい、お父様。……大丈夫です」
「はは、お前ならそう言うと思った。それじゃあ行こうか?」
にこやかに笑った後、その黒い瞳がこちらを捉えてふっと無表情になって、ぞっとするような仄暗さを宿してまたにっこりと穏やかに笑う。
「グエン君も。緊張しているようだね? あまり眠れてない? どうも顔色が悪いようだが」
「えっ? あ、ああ。大丈夫です。最近何故か、体の調子が優れなくって」
「そうか、それは大変だ。今度、医者でも呼んであげようか?」
「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます……」
そのまま護衛を引き連れて、屋敷の門へと向かう。俺が以前に脅かした護衛達もいたが、流石に笑顔で話しかけてくることはない。不機嫌そうにむっつりと黙り込んで、後方を歩いている。
(ズ、ズハンで慣れているから。落ち着かねぇな~。でもこれが普通なのか? まぁ思いっきり、死霊で脅しちゃったしなぁ~、それもあるかぁ)
五、六人ほどで歩いている筈なのに、ひんやりとした屋敷の仄暗い空気がそうさせるのか。思わず汗を掻くほどに静かで、薄暗い廊下をひたひたと歩いていた。
前をすたすたと歩く義父は、そのことを気にかけていないようだが。彼女の柔らかな手を握り締め、精神の安定に努める。
ふと目が合えば大丈夫ですよとでも言うかのように頼もしい微笑みを浮かべて、こちらの手をぎゅっと握り返してくれた。
「かっ、可愛い~。今日も可愛い~、凄い!! はー、可愛いなぁ~」
「ぐ、グエン様……? あのう?」
「ははは、相変わらず。仲が良いよね、君達は」
父親のくせに他人事かよと思って、口を噤む。柔らかい口調なのにどこか、底冷えするような無関心さが横たわっている。
(何かな~、苦手だなぁ。ああ、良かった。リーファ様が優しい性格で)
彼女は一体、誰に似たんだろう。
「うん、奇跡。奇跡の産物。俺はリーファ様のことを。常々この世の宝石だと思っていて、」
「あの、グエン様。申し訳ありませんが、その。恥ずかしいので……」
照れ臭そうに言われたが、要するに「黙って歩け」ということだろうか。彼女に嫌われたくないので黙って、その手を握り締めて隣を歩くことにしたのだが。
(あー、永遠に見ていられる。可愛い、天女。好き。何でこんなに睫が長いんだろう、可愛い。好き)
真顔でじっとひたすら眺めていると、また彼女が困ったように微笑んでこちらを見上げてくる。
「あの? グエン様。落ち着かないのでやめて貰えませんか……?」
「あっ、はい。すみませんでした。それじゃあ、俺。前を向いて歩きますね……」
とは言っても、前を歩いているのは舅のタイランで。
(いや、この頭のおかしな人の背中を見るよりも俺は。リーファ様の背中を見て過ごしたい。違った、顔を見て過ごしたい。喋りたい)
何故こんなにも憂鬱な食事会に行かなくてはいけないのか。門に辿り着くと、あの恐ろしい母親と嬉しそうなシャオリンと何やら陰鬱な顔をした兄弟がいて、それを見てますます気が滅入ってしまった。
(ああ、早くも。帰りたい気分だ……何か眠いし)
「うわっ!? トアン!? えっ、何で!?」
思わず大きな声が出てしまって、慌てて自分の口を塞ぐ。
(やっべ!! 割と高級なところなのに! あー、個室で良かった!!)
柔らかな白い壁に重厚な絨毯が敷かれ、見事な細工の窓からは庭園が見える。長いテーブルの向こうにはトアンが座っていて、にこにこと嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
俺が着ている黒衣とよく似た、しかし上質な素材の黒衣を着ている。茶髪に茶色い瞳が優しげで、リーファ様そっくりの甘い顔立ちでこちらを見つめていた。
彼女の面影を感じ取っていたことを思い出し、一人でに頷いてしまう。
「あー、だからか。そっか!」
「グエン様? ……お知り合いなのですか?」
「意外だったよ、グエン君。トアンと知り合いだったとは」
横に座っているタイランが笑って、愉快そうにトアンを見つめていた。そして肝心の叔母は。
「こうして会うのは初めてかしら、リーファにグエン殿。まさか貴方が。私の息子と知り合いだったなんて」
兄そっくりの美貌で笑っていた。どこからどう見ても儚い美女にしか見えない。おそらく三十過ぎの筈だが、どこか少女のような甘い雰囲気でこちらを優しく見つめている。
黒曜石のような瞳が美しく、吸い込まれてしまいそうだった。思わず見惚れてしまう何かがそこにあって、やたらと惹き付けられる人で。
暫し見惚れていると、横に座ったリーファ様にひっそりと手をつねられてしまい。
(えっ!? 可愛い! 嫉妬!? 嫉妬!? 可愛い!!)
そう心配しなくとも俺の心はリーファ様のものである。
そして、この女は。
「初めまして、彼女の婚約者の。リン家のグエンと申します。お会いできて光栄ですよ、スイラン様。中々その機会が巡ってこなかったものですから」
ぴりりとした空気が漂い、他の者は全員押し黙っている。普段は明るいシャオリンも何かを感じ取っているのか、隅の方で大人しく座っていた。
リーファ様の兄弟は皆、美しいがどこか憂鬱そうで。黙って静かに、並べられた料理を眺めている。
(あー、俺も。早く食いたいけど。無理そうだな、これ)
テーブルの上には前菜が乗っていたが、それが黒いアヒルの卵を美しく並べ、ほんのちょっとだけ野菜を添えたものなので。
(まぁ、どの道。食いたい料理ではない。盛り付け方がせこい……!!)
皿に余白があって美しいなどとは思えん。思考が脱線していると、気を遣ってくれたのかトアンが話しかけてくる。
「会いたかったと言えば。俺もずっとずっと、グエンさんにお会いしたかったんですよ? あの時はどうもありがとうございました」
「いや、別に。構わないが。どうだ? あれから体の調子は」
そこでぴたりと笑顔のままで硬直するものだから、不思議に思って首を傾げていると、隣に座っている母親のスイランが笑う。
「まぁ、貴方。グエン殿。リーファに似て優しいのですね、貴方は。ご覧の通り私の息子はひ弱で病弱ですが。このところは調子が良いのです、ね?」
「はい、母様。これもグエンさんのお陰ですよ、どうもありがとうございます」
何故俺のお陰なんだと、聞こうとした瞬間。横に座っているタイランが低く笑って箸を取った。
「それじゃあ。そろそろ食べようか? 積もる話はいくらでもあるだろうが。子供達も腹を空かせているようだし?」
その言葉に頷いて一同は箸を取る。和やかな食事会とは言いがたいが、それでも。
(あー! 早く! この目の前の女をとっ捕まえて。解呪方法を吐かせたいんだが!?)
お上品に玉子なんぞ食っている場合じゃねぇやと思ってしょぼい前菜を睨みつけていると、ふと向かいに座ったトアンと目が合う。
目が合うとにっこり微笑んで、その白い手で薔薇色の耳飾りをわざとらしく弄んでいた。
「あれ? それ、俺のと同じやつじゃん。買ったのか、あのあと?」
「そうなんですよ、羨ましくなってしまって。ああ、でも」
そこでちらりと、意味ありげにリーファ様を見つめる。隣に座ったリーファ様がびくりと体を動かして、その身を硬くしていた。
「リーファさんが付けていないところを見ると。気に入って貰えなかったんですね? グエンさん」
「あー、そうなんだよ。何か、趣味に合わなかったみたいで。悪いな、トアン。俺が付けていて」
「別に構いませんよ、俺は。グエンさんにもよく似合ってますから」
「あー、まぁ。質素な意匠で気に入ってはいる」
黙々と食べ進める中で、俺とトアンの声だけが響き渡る。どうも彼女の両親も兄妹達も喋る気はないらしく、気まずい思いでトアンと話していた。
「そう言えば。お二人とも、式はいつ挙げるんですか?」
「あー、それは」
ここで本題に入っておくかと考えて、たおやかな微笑みのスイランを見つめる。その美しい目がこちらを捉え、ほんの僅かに口元が歪む。
「リンファ様の。生きた人間を呪具にする呪いを。解いては貰えませんかね? スイラン様」
「まぁ、ふふふ。トアンから聞いていた通り。真っ直ぐで純粋な人だこと」
白魚のような手を口元に添えてお上品に笑って、次の瞬間、すっと無表情になってぐるりと黒い瞳が狂気で満ちる。
「お兄様もお兄様で酷いわ、私の願いを。知っているくせに。娘に嫌われていても守りたいなどと。一人だけ素知らぬ振りで私のように。狂気に飲み込まれず────────…………」
そこでぐらりと意識が傾いた。
(ああ、この感覚がまた)
極度の貧血に陥ったみたいな、意識が遠ざかってしまうような、舌が乾くような。
「っグエン様!!」
彼女の悲鳴が響き渡ってまた、そのまま意識を失った。かろうじて目を開けて最後に見たものは、向かいでやたらと嬉しそうに微笑んでいる、血色の良いトアンの顔だった。
「っグエン様!? しっかりなさって下さい、グエン様!」
いきなり意識を失ってしまった彼を支えて、目の前の叔母を睨みつけると。まるで何事も無かったかのように優しく微笑みかけられる。
(ああ? どうしよう? もう、いっそのこと)
ふいに残酷な考えが過ぎって、自分を責めて彼の体を支えていると向かいのトアンが立ち上がる。
「ああ、大変だ。手伝いますよ、リーファさん。母様、奥の部屋をお借りしても?」
「ええ。構わないわ、トアン。ゆっくり休ませてあげて。顔色も悪いようだから」
「はい、それは勿論」
こちらへとやって来たトアンがぐったりとした彼の体を支えて、そのままひょいと横抱きにしてしまう。
(嘘。そんな力があるようには見えなかったのに)
背丈も私と同じくらいの、従兄弟だというトアンが何故かグエン様を横抱きにして、まるで恋人のように頬ずりをして残酷な微笑みを浮かべる。
「それじゃあ。どうしますか? リーファさん。実はこの店、母が経営しているんですよ」
「叔母様が……? お父様、それは」
「奥の部屋に。連れて行こうかと思うんですけど。貴女はどうしますか、リーファさん?」
トアンの恍惚とした微笑みに背筋が寒くなってしまう。彼もきっと、頭のおかしい人だろうから。
「私も。私も行きます。だってグエン様は。私の婚約者だから」
「うん、それじゃあ。付いておいで。色々と、聞きたそうな顔もしているし?」
元は使用人部屋だったという、粗末な狭い部屋にて。意識を失った彼を奥の寝台に乗せて、疲れた様子のトアンが深い溜め息を吐いた。
「ああ、でも。意外と軽かったなぁ。体重も減っているような気がするよ、リーファさん。ちゃんとグエン様に、ご飯をあげていますか?」
「そんな、言い方。でも確かに最近。あまり食欲も無いようで」
顔色悪く眠っている彼の頬を、何故かトアンが優しく撫でている。その愉快そうな微笑みに苛立って、さりげなく割って入った。
眠っている彼を守るように自分の両腕を広げて、目の前に立ったトアンを睨みつけてやるとにっこりと甘い微笑みを浮かべる。
そしてゆっくりと歩み寄ると、こちらへと顔を寄せてきて。
「ねぇ? グエンさんが弱っている理由。知りたい? リーファさん」
「っ貴方が。貴方が何かしたのね!? そうなのね!? まさか」
その拍子にはっと、薔薇色の耳飾りに吸い寄せられる。トアンの耳元で揺れているそれは、何だかよく分からないけど嫌な感じがするもので。
「その、耳飾りに何か秘密があるのね!? ねぇ! 一体どうしてグエン様を貴方は、」
「ああ、嫌だ。これだから。頭がよく回る女は」
ぐしゃりと顔を歪めて、がっとこちらの顎を掴んできた。リーファは慄いて、トアンの狂気に満ちた顔を見上げる。
「お前を。このまま犯して浚ってしまうのもいいが。まだ駄目だ、まだその時じゃないんだからさ?」
「何を。何を言っているの? だって私をそんな、」
「グエンさんが。思いの外、優しかった。どう思う? 彼は。今日も俺の体を心配していた。……自分だって苦しいくせにさ?」
その苦しそうな表情を目にした途端、どこかで何かが鋭く警鐘を鳴らし始める。
「貴方、まさか。トアン。……グエン様のことを? 好きなの? そうでしょう?」
「っうるさい、黙れ! ずかずかと踏み込んでくるんじゃない、虫唾が走る!!」
「ぐっ!? うっ」
すかさず首を締め上げられて、歪んでゆく視界の中でその耳飾りを奪い取らなくてはと考えて、必死に腕を伸ばして苦しく喘いでいた。
「たす、けたいの。分かるでしょう? 貴方もっ、ぐっ、好きなら!!」
「ああ、そうだ。そうなのかもしれないな? でもお前が、お前が。結婚するんだろう? 彼と」
「うっ、あぁっ……!!」
ぎりぎりと首を締め上げられ、意識が遠のいてくわんくわんと耳鳴りがする。涙を滲ませて何とか腕を伸ばして、その耳飾りをもぎ取った。
「っお前な!? くそ! このまま本当に、殺してやろうか!?怖くないのか、死ぬことが!!」
「あぐっ!? こわ、怖くなんて無いわ、ちっとも!!」
思いっきりすねを蹴り飛ばしてやって、トアンがよろめいた隙にばっと掴みかかる。私が一番怖いのは、グエン様を失ってしまうことだから。
「怖くないの、何も!! 貴方のことなんか! こんな耳飾り! これのせいで近頃のグエン様は! 私とお揃いの耳飾りをしてくれなかったのね!? 酷いわ、トアン!!」
「あっ、この野郎!!」
素早くもう片方の耳飾りを奪うと、部屋の窓に駆け寄ってその窓を開いて。
「たぁっ!! こんなものっ!!」
「あっ!? おいっ、お前! 池になんか投げ捨てやがって……!!」
「あうっ! ぐぅっ」
後ろから髪を引っ張られ、そのまま羽交い絞めにされる。背後でトアンがふっと微笑んだ。
「ああ。甘く見ていたよ、お嬢様。愛されるだけの、彼に愛されるだけの。弱くてどうしようもなくって、苦労知らずのお嬢様?」
「っ確かに! 苦労はしていないけどね!? でもずっとずっと、生きている実感が湧かなかった! 欲しい物もしたいことも! なんにも見当たらなかった!!」
「だから、許されるとでも? 甘いな、滅茶苦茶にしてやりたくなっちゃうなぁ、もう」
そのままがりりと、こちらの耳を強く噛んできて。べろりと舐められて、その気持ち悪さに涙が出てきて思わず暴れてしまう。
「っやだ!! 気持ち悪いから離れてよ!? いやだ!!」
「はいはい、落ち着いて? リーファさん? グエン様が目を覚ましでもしたら。一体どうする、」
「ん……リーファ様?」
そこで彼の弱々しい声が響き渡り、トアンがばっと離れて寝台へと駆け寄る。
「ああ! 良かった! グエンさん。大丈夫ですか? 具合は?」
「トアン? リーファ様は?」
「……そこにいますよ、ほら。リーファさん? 目を覚ましましたよ、グエンさんが」
何事も無かったように微笑んで、こちらを鋭く睨みつけてくる。あまりのことに驚いてぼんやりと突っ立っていた。
「ああ、ほら? 何をしているんですか、リーファさん? グエンさんが心配してしまうでしょう?」
「あのっ、でも。私は」
乱暴に近寄ってきて、ぐいっと手を引っ張られて耳元で甘い囁きを落とされる。
「さっきの。話したら。一生解呪方法なんて教えてやらないからね? 分かった?」
「貴方、トアン。それは」
「リーファさん? どうかしました? 貴方も貴方で具合が悪いんですか?」
ぱっと手を離して、トアンが心配そうな表情で尋ねてきた。その白々しい表情を睨みつけてから無言で頷いて、横を通り過ぎて彼の下へ向かう。
「グエン様。大丈夫ですか? 体の調子は」
「リーファ様。すみません、倒れてしまって。……トアンは?」
「どうかしましたか? ここですよ? 呼びました、俺のこと?」
すかさずやって来て、一緒に寝台を覗き込んで優しい微笑みを浮かべている。何も知らないグエン様は弱々しく微笑むばかりだった。
「ありがとうな、トアン。お前が運んでくれたんだろう? 俺のこと」
「ああ、別に。大したことは無いですよ、グエンさん」
トアンが本当に嬉しそうな微笑みを浮かべ、彼の手を握り締めている。
(ああ、私の。グエン様なのに。一体どうして。グエン様)
激しい嫉妬心が渦巻いて、どんと肩で押しのけて私もグエン様を覗き込む。
「グエン様? 大丈夫ですか? ごめんなさい、不調に気が付かなくて」
「ああ、天女かと思った……リーファ様、愛しています。大丈夫ですよ、貴女のせいじゃないんで」
恍惚とした彼の表情に心から満足して振り返ってみると、彼の手を握り締めたまま、トアンが泣き出しそうな顔をしていた。
そのことにほんの少しだけ、胸の奥がずきりと痛んでしまう。なんて醜い女なんだろう、私は。
彼の恋は報われない恋なのに。そんなことも露知らず、顔色の悪い彼が優しく微笑んでいる。
「どうした? トアン。お前もお前で具合が悪いのか? 譲ろうか、寝台を」
「い、いいえ……あっ、でも。折角だから。譲ってもらおうかな?」
てれてれと、嬉しそうに微笑むトアンを見つめて。くらりと意識が傾いてしまうような気がした。
(こっ、この男は! よりにもよって、グエン様が寝た後の! 寝台で眠るつもりだわ、許せない!!)
グエン様から生気を吸い取って、ぴちぴちと元気なくせに。あっという間に同情心が消え失せて、少しだけわざとらしく彼の前でよろめいてみせる。
「ああっ、ちょっと。グエン様? 私、何だかほっとしたみたいで、」
「大丈夫ですか!? リーファ様! 譲ります!!」
「グエン様……ありがとうございます」
彼が凄まじい勢いで起き上がって、私の体を支えて心配そうに覗き込んでくる。その距離感に胸が高鳴ってしまった。青い瞳に見つめられ、愛おしさが溢れてしまって彼の袖をぎゅっと握り締める。
「グエン様……。今ここで私に。その、口付けをして貰えませんか?」
「えっ!? 今日と言う日があっという間に! 吉日になった!! 喜んで、リーファ様!!」
「ちょっと、グエンさん? 流石に目の前で。いちゃつかないんで欲しいんですけど?」
「あっ、ああ。悪い。そんなに苛立つなって、トアン。ほら」
そこで彼が私から離れてしまって、仕方が無いなとでも言いたげに笑いつつトアンの頭をわしゃわしゃと撫で始める。
「あー、でも。残念だったなぁ。まさかお前が、あのスイラン様の。息子だったとは」
「母のことは。俺も好きじゃないんですよ、グエン様…………」
「うおっ? なっ、何だ? 一体どうした? 本当に具合でも悪いのか?」
信じられないことにトアンが、私のグエン様に抱きついていた。グエン様もグエン様でやめればいいのに、何故かそのままトアンを抱き締めて「甘えたい気分にでもなったのか? なぁ?」だなんて、呑気に笑って呟いていて。
あまりのことに世界が真っ白になってしまう。
「グエン様……? 一体、何をなさっているのでしょうか? 貴方様は」
「えっ!? なんか怒ってる!? すみません、リーファ様! 俺は貴女一筋ですからね!?」
「良かった、グエン様! ずっとずっと、私だけのものでいて下さいね?」
トアンを離した彼に抱きついて、意識して可愛らしく見上げてみるとふるふると打ち震えていたが、感激したようにばっと飛びついてくる。
「今日も俺の婚約者が可愛い!! 超幸せ! 好きっ!!」
「グエンさん……グエンさん」
「私も好きです、グエンさん。愛していますよ?」
「わ~、可愛い。吉日大安、可愛い、天女、好きっ……!!」
ふふんと勝ち誇った笑顔で振り返ってみると、流石に強く睨みつけられてトアンが口を開いたその瞬間。
「ああ、ここにいたのね? 探し回ったわ、リーファ」
「叔母様……」
「駄目ね、私も。方向音痴なものだから」
困ったように微笑んで、扉に白い手を添えた叔母が。こちらを見て、ひっそりと白魚のような手を差し出していた。
それはまるで、冥界からのお誘いのようだった。黒い瞳がにたりと歪んでいる。
「ねぇ? 私と一緒に。お庭でも散策しない? きっとお腹も空いていないでしょう? 食べるような気分では、ないでしょう? リーファ?」
「……はい、叔母様」
「リーファ様、それはちょっと」
「ああ、グエンさんは」
焦って腕を伸ばした彼を、トアンがにこやかに笑って制する。
「まだ辛いでしょう? 寝ておかなくては。……母様だって。リーファさんには何もしませんよね?」
「トアン、お前」
「大丈夫ですよ、グエンさん。リーファさんと貴方のことは。ちゃんとこの俺が守りますから。ねっ?」
ああ、またそんな。
(嘘を吐いて。私とグエン様を引き離して。何をすると言うの? この人は)
それでも、あの白い手を取らなくてはならない。
(大丈夫。トアンは。グエン様のことが好きだから。何もしないはず。殺意が向くのなら。……私だろうから)
父親によく似た美しい微笑みの叔母を眺めて、強がりだったけれどにっこりと甘く微笑み返してみせる。
絶対に絶対に、彼は渡さないのだ。
何が何でも。




