12.おぞましいあの日の夜と一時的な安らぎ
気持ちの悪い描写があります、ご注意ください。
今でもあの時のことを夢に見る。
暗く暗く深い闇の中にて、温かな泥沼に浸かって。手や足の先も曖昧でひたすらまどろんでいるみたいな。
意識が浮上してはまた、ゆるゆると解けて。時の流れも曖昧で、何も疑問に思わずひたすらに浮かんでいた。
後にこれが、魂だけの状態であったと知る。
『大丈夫かい、グエン? 薬湯でも作ってやろうか?』
『いい。不味いから……熱もきっと、じきに下がるだろうから』
あの日は高熱が続いていて、寒気も吐き気も酷かった。でもとびきり苦いあの、奥様お手製の薬湯が飲みたくなくて。奥様が心配そうな表情でこちらを覗き込んでいた。
『ああ。ショウリンがいてくれたらねぇ。あの子はまた、どこかで夜遊びでもしてるみたいで』
『いいよ。母さんには別に。何の期待もしていないから』
『グエン。……大丈夫だよ、私がいるからね』
乾いた手で握り締められて、母らしい体温に笑って両目を閉じていた。体も胃も熱くて重たくて。
『ありがとう。そんじゃあ、俺。寝るよ、おやすみなさい』
『ああ、おやすみ。グエン。そうだ、明日。熱が下がったらあんたの好きな。栗饅頭でも作ってやるよ。嬉しいだろ?』
『嬉しい。ありがとうございます、奥様』
その言葉に悲しく微笑んでいた。奥様が黙って部屋を出て行った後に、少しだけ後悔していた。
母の想い人であり、屋敷の奥様だから。
(昔は。素直にちゃんと。母さんって、そう、呼べていたのにな……)
十四歳の頃から何となく意地を張って、母さんと呼べなくなってしまった。
(まぁ、いいや。明日にでも謝ろう。ああ、そんで。川遊びがしたいって言ってたな、あいつら。この熱が治まったら行こう、来月は、そうだ。グンロンの誕生日だ、何を贈ってやろうか)
この先のことを考えて眠ったのに、そのまま俺は死んでしまったのだ。
ふっと誰かに強く呼ばれて意識を引っ張られて、明るい上を向くと母さんの声がした。産みの母親の。
『ごめんよ、グエン。許してくれな、あたしのつまらない矜持で。お前には苦労をかけるけど』
何を言っているんだよ、母さん。
(俺を長い間、放っておいて。別に今更。気にはしないけど一体どうして?)
まどろんでいた意識に、ぱぁっと閃光が炸裂して。光の向こうで何かが残酷に奪われて、誰かの断末魔が響いてぶっつりと途切れてしまった。
その靭帯が切れたような、途絶えてしまう音に背筋がぞっとして寝台から飛び起きる。
『っは、母さん? ここは、これは、一体……?』
『グエン!! グエン! 良かった、ああっ、グエン!!』
『わあああああっ! お兄ちゃん、お兄ちゃん!! 本当に生き返ったよ、お兄ちゃんが!』
悲鳴と喜びの声が飛び交って呆然として、泣きじゃくる奥様に抱き締められていた。
『え? 何? 何の騒ぎ? 俺。お前ら、なぁ?』
『兄ちゃん!! 良かった、本当に。良かった…………!!』
訳が分からないまま、見覚えがあるような一人の少年を見つめていて。
『誰だ? お前。いや……グンロンか?』
『分かんないよね、兄ちゃん。俺もう、十六歳になったんだよ』
『えっ? だってお前。来月には誕生日で。えっ?』
背筋が冷たくなって、呆然としたまま家族に揉みくちゃにされていた。
『……母さん? 母さんは!?』
『ショウリンなら。自分の部屋で。術の行使を……』
嫌な予感がした。あの、途切れてしまうような音を聞いていたから。部屋を出て走って走って、母さんの部屋へと辿り着く。
『っ母さん! あんた』
ああ、もう駄目だった。やはりそうだった。そこには喉を掻き毟って嘔吐して、白い泡を吹いて倒れている母さんの死体があって。
全身から血の気が引いて、あまりにも重たい事実にただただ呆然と突っ立っていた。
『っショウリン!? 嘘でしょう!?』
胸が張り裂けるような絶叫と共に、背後で奥様が泣き崩れる。
(話して。いなかったのか。それなのに、一体。どうして)
思考が混乱して、へなへなと床に座り込んだ。胃がふわふわと揺れていて、母の死体の前で胃液を吐いていた。
涙が滲み出て、心臓が嫌な音を立てている。どっ、どっ、どっと、おぞましい音が聞こえてくる。
『あんたは。どこまでも自分勝手だよ、母さん』
罵りの声すら届かないけど。あまりのおぞましい現実にただただ、泣いていた。強く強く拳を握り締めて、床に打ち付けて泣いて蹲っていた。
『どうしろって。言うんだよ、俺にさぁ……!!』
ただひたすらに、これからを生きて行くしかない。それはそうなんだけど上手く飲み込めない。
『俺は。……もう一度。死ぬべきなんじゃないのか?』
『馬鹿なことを。言わないでちょうだい、グエン』
奥様が俺の背を擦って泣いている。
(ああ、生きて行くしかない。この人のためにも、母のためにも)
自分は生きていてもいいのか、死んだほうがいいのか。死ぬことこそが自然な流れだと理解しているのに。
(これから先を。楽しくなんて、生きて行けるわけが無い)
自分は死人だ、だから。
(なるべく人との交流を避けて。生きて行くしかない、よく分からない)
母も罰せられ、若返って戻ってきた。
『閻魔大王の。思し召しだよ、グエン。……あんたに』
若返った母がにやりと笑う。自分にそっくりな少女で、同じ青い瞳を持っていた。
『死霊使いの仕事を教えてやろうか? お前だってこれからは。暗がりで生きて行くしかないだろう? 元々はそういうもんなんだよ、あたしらはね』
やめろ、あんたと一緒にするなよ。自分勝手にも程がある。やめてくれ。
(報われない恋に身を投じて。俺ですら、彼女に対する捧げ物で)
変な意地を張って、自分の矜持のために蘇らせて。
(一体。いつまであんたに振り回されてればいい? 恋だの何だのとくだらない)
俺は絶対に絶対に、そんな愚か者にはならない────────…………。
『リンファ!? 何をしているの!? 一体、貴方は!!』
桃の花が舞って、彼女が泣き出しそうな表情でこちらへと駆け寄ってきて。全ての時間が止まって、涙の浮かんだ黒い瞳に釘付けとなっていて。
『貴方がグエン様でしょう? 解呪をなさろうとしていたのは、見ていてよく分かりました。ですが』
甘く澄んだ聡明な声に全てが奪われたみたいで、その瞬間母の全てを許せた。ああ、こういうことだったのかと。
確かに俺もあんたによく似てるよ。俺だって彼女のためなら子供だって産むだろうさ。どんなおぞましいことにも手を染めよう、彼女が望むのなら。
たとえ彼女が俺の愛を望まなくても。どこまでもずっと。
「グエン様!? グエン様、大丈夫ですか!?」
「…………リーファ様? どうしてここに。いるんでしょうか?」
優しげな美人がこちらを覗き込んでいる。可愛い。ほっとしたように黒い瞳を潤ませて、優しく微笑んでいた。
「うなされていたのですよ、グエン様。でも大丈夫です、私がお傍にいますから」
柔らかな手に握り締められて初めて、自分の体が硬直していて汗ばんでいることに気が付く。
「っは、リーファ様。昔の、嫌な夢を見ました。幼い、頃の」
「幼い頃? でも、蘇ったのは二十四歳の時でしょう? そして死んだのも」
「そうですね、でも。何だか遠い遠い、昔のように思えるんです」
あの時あのまま、時間が止まっているみたいで。
「記憶もおぼろげで。俺って。生きていてもいいんだろうかって。ずっと、そう」
「嫌です。生きていて下さい、グエン様。生きて、私の傍にいて下さい…………!!」
泣き出しそうな表情で彼女が俺の手を握り締めている。柔らかな感触に笑って、そのまま彼女の頬を撫でる。
「大丈夫ですよ、リーファ様? 貴女が望むのなら。何だってします。だから、」
「しなくていいです、何も。ただただ私は。グエン様が生きて、笑っていてくれたらそれで」
優しく微笑みかけられて、息が止まりそうになる。
「はー、可愛い。今日も、天女かな……?」
「ふふっ、さぁ。起きて下さい、グエン様。一緒に朝餉でも食べましょう?」
彼女が機嫌良く、俺の黒髪を梳かしてくれる。さらりと白い指が、こちらの黒髪を梳かしてその丁寧さに頬が緩んでしまう。
「好きです、リーファ様。きっと、ずっと。どこまでも」
「なら、その。いいんですけど。でも、グエン様は」
そこで口を噤んで、ぱっと寝台から離れてしまう。不審に思って起き上がると、彼女がこちらに背を向けて悲しそうに佇んでいた。
今日は俺が好きだと伝えた、淡い桃色の襦裙を纏っていて。思わず手を伸ばして、その黒髪に触れようとしたら。
「本当は。その、嫌になっていませんか? 私の、ことが……」
「一体どうして? 嫌になんかなりませんよ、絶対に」
「だって私のせいで、連日。グエン様が危ない目にあっているから」
「誰かに。何かを言われたんですか?」
「それは」
そのまま黙ってリーファ様を後ろから抱き締めてみると、彼女がそっとこちらの両腕に手を添えてくれる。
「何も。気にしなくてもいいんですよ、リーファ様。貴女が一番、お辛いでしょう?」
「でも、グエン様は。最近、やつれたような気がします……」
「そうですか? 俺としてはむしろ、調子が良いぐらいなんですが」
不思議に思って聞き返すと、彼女がこちらの腕から離れて振り返って悲しげな表情で見上げてきた。
(うわっ、可愛い! 生きてる宝石みたい!!)
あまりの可愛さに驚いてしまったが、真面目な表情を保っていた。でも口元が緩んでしまいそうで辛い。
「目の下のクマも。濃くなっています。勿論、グエン様はその。どんな時でも格好良いんですが」
「えっ、好き。つらい、可愛い……!!」
思わず抱き締めると、彼女が照れ臭そうに笑って抱き締め返してくれる。幸せすぎて涙が滲んできた。可愛い、好き。
(あんだけ誰かを。好きになんてなるものかと。ちょっとだけ女嫌いなところもあったのに)
今ではもうすっかり、彼女の虜になっていて。それがとんでもなく居心地が良くて、ずっとずっと甘い酒に酔っていたい気持ちとよく似ている。
「ああ、リーファ様。好きです、お慕いしています。大丈夫ですからね? 本当に」
「はい、あの。グエン様?」
「何ですか? ……わっ、リーファ様?」
伸び上がって頬にふにっと、くちびるを押し当ててきて。あまりの可愛さに心臓が破裂してしまいそう。好き。天女。
「あっ、あの。私、朝餉を持って来ますね? グエン様の!」
「いいです、そんなの。もっとリーファ様と、いちゃいちゃしていたいです!」
「もう、グエン様ったら。駄目でしょう? ちゃんと食べないと」
「え~、いらない。もっとこうしていたい~」
ぐだぐだと甘えてみると、もうっとでも言いたげにリーファ様がこちらの頬を撫でてきて。
「ねっ? グエン様? その、時間はたっぷりあるんですから。身支度を整えて、ご飯も食べて」
「はい、リーファ様!! はー、可愛い! ねぇ、俺のこと。その、好きですか?」
事ある毎に、俺ばかりが好きと言っているような気がして。不安な気持ちを吐露すれば、彼女が嬉しそうに微笑んでそっと甘えるように抱きついてきて。
「私ね、グエン様。実は嫉妬深い女なんです。だから私だけを見て可愛いと言って下さいね? そんなことを思ってしまうぐらい、貴方のことが好きなんです。ねっ?」
「はっ、はい!! かわっ、かわ、かわっ、かわわわわ……!!」
ふと気が付けば、彼女はどこにもいなくて。ぱたぱたと忙しない足音が聞こえてきて、赤い顔で呆然と身支度を始める。
「ああ、そうだ。これ。あー、片方。どこにやったっけ? ああ、あったあった」
何故か床に落ちていた薔薇色の耳飾りを拾って、自分の耳に付けて鏡台でその色合いを眺める。とろりとした薔薇色の石が、艶やかな光沢を放っていた。
「女物なのに。馴染むよな、不思議と」
最近ではこれをしていないと、どうも落ち着かなくなってしまった。そこでふと自分の顔に目がいく。
(あれ? 確かに。目の下のクマが濃くなったか。おかしいな、ちゃんと寝てるんだけど)
ちりんちりんと鈴の音が鳴って、足元で少しだけ成長した子猫のファファが鳴く。
「にゃ~」
「はいはい、おはよう。っとと、何だ? 甘えただなぁ、お前も」
「にゅう、にゅん」
ごろごろと喉を鳴らして腕の中に収まって、リーファ様が扉を開く。
「グエン様? 持ってきましたよ? まぁ、ファファ。ここにいたのね? 見当たらないと思ったら」
「おはようございます、グエン殿。まぁ、そう、嫌そうな顔をしないで下さいよ? すぐに出て行きますから」
「ならいいんだけどな。ズハン……」
「ふふっ。それじゃあ、一緒に食べましょうか? グエン様!」
「ああ。次はどうしようかな? どうすればいいと思う?」
「何でも。貴方の好きな通りに。トアン様」
「ああ、どうしよう、かな……」
彼女の黒い脚を撫でて、その中に佇んでいて背後のしゅうしゅうという音を聞いている。ざわざわと空気が揺れて、こちらの黒衣に無数の蜘蛛が這って動き回っていた。
首筋にもちくちくとした、黒い毛が当たってむず痒い。背後の蜘蛛女が手を伸ばして、こちらの頬を撫でてくれる。
「可哀想に、トアン。私があの女を、絞め殺してあげましょうか?」
「駄目だよ、姫。俺は別に、そんなことを望んではいないから」
「まぁ、トアン。貴方って子は」
妖艶に微笑んで「優しいのね、本当に」と呟き、それに呼応するかのように腕や足元で這いずり回っている大きな蜘蛛たちが「きぃきぃ」と不気味な声を上げ始める。
「トアン様……いつまで、続けるおつもりですか?」
「駄目だよ、君も。勝手な真似をしちゃ」
「ですが、スイラン様の。命でしたので……」
目の前には白い糸で縛り上げて洞窟に吊り下げてみた、生気の失った表情のユウロンが佇んでいる。その口元は血で汚れていて、虚ろな黒い瞳がこちらを見つめていた。
「トアン様……気は。もう、済んだでしょう?」
「まだだよ。ユウロン、君。グエン様を悲しませる所だったから」
「駄目よね、それは。ふふっ、お仕置きしなくっちゃ。ねぇ?」
背後で女が笑って機嫌良くもたれると、すぐさま黒い脚がこちらへと伸びてくる。無数の黒い脚に閉じ込められつつ、目の前のユウロンを眺める。
どこかでぴちゃんと、水の滴る音がした。
「母様には言っておいたから。もうあの呪具を。殺す必要は無いよ、ユウロン」
「分からない。貴方の考えの、何もかもが…………」
「分からなくていいよ、理解されたくもない。ああ、どうしようっかなぁ?」
まさか、こんなことになるだなんて。苛立って爪を噛んで、彼とお揃いの耳飾りを付けてにやりと笑う。
「ああ、気が付いていないんだろうなぁ。あの人は。ふふっ、俺に。生気を吸い取られているだなんて」
「本当に。良い考えだったわ、トアン様」
「……トアン様、それは」
手で弄くりまわして薔薇色の石を楽しんでまた、微笑みを浮かべてしまう。
「もう少し楽しまなくっちゃ。ああ、でも。そろそろ、叔父上と従姉妹殿に会いたいかもしれない」
「浚ってきましょうか、トアン様? この私が」
「いいよ、もう少し考える。だってだって。早く終わらせてしまったら。勿体無いでしょう? ああ、どうしようっかなぁ」
彼はきちんと大人しく、この耳飾りを付けている。
(そう仕向けたのは。この俺だけど。ふふっ)
彼も彼で中々に爪が甘い。
「妖魔の術は気付かれにくい。何だっけ? ショウリン様だっけ? あの女も気が付いていないから」
「あの女に手を出すと。……貴方も痛い目に遭いますよ、トアン様?」
「そこはきちんとよく分かっているよ、ユウロン。俺に忠告、どうもありがとう」
「何を…………ぐっ」
彼女の糸で締め上げて、立ち上がってそちらへと向かう。山奥の洞窟は暗く、楽しいことをするにはお誂え向きの場所で。
ユウロンの頬を撫でてやると、心底怯えた顔をしていた。思わず嗜虐的な笑みが浮かぶ。
「ふふっ、あーあ。やっぱり殺しちゃおう。あの女。俺の子を産ませた後ならきっと、母様も文句を言わないよね? 好きなようにしていい筈だろう、あの体も心も」
「トアン様……貴方は人間じゃない。化け物だ」
「どうだっていいよ、そんなことは。煩わしいにも程がある」
そのままくちびるを合わせて、舌を捻じ込んでやって唾液を流し込む。苦しそうにそれを飲み込んで顔を背けて、ユウロンが咳き込んだ。
「っは、もう少し。楽しんでみようか? ユウロン君?」
「もう。もうやめて下さいよ、トアン様……ぐっ」
「うるさいな、もう。黙っててくれないかな」
耳障りなので首を軽く絞めてやると、苦しそうに端正な顔立ちを歪めていた。その表情にまた笑って、優しく顎を掴んでやると黒い瞳に涙が浮かぶ。
それは虚ろで。何もかもを穢されて滅茶苦茶にされた人間の、何の意志も感じ取れない瞳だった。
「いっそもう。殺してくださいよ、トアン様。このまま玩具にされ続けるのなら」
「駄目だよ、ユウロン。命は大事にしなくっちゃ。君のお母さんだって悲しんじゃうよ?」
「トアン様……」
次の言葉が出てこないらしく、そのまま項垂れて静かになってしまった。背後から白い腕が伸びてきて。
「ねぇ、トアン様? 私とも遊んでくださる?」
「うん、勿論。姫。折角だからこのまま、三人で遊んでみようか。きっと、それも楽しいだろうから……」
でも、一番楽しいのは。
(グエン様とリーファちゃんだよね。ああ、楽しい。特に彼が楽しい)
あの海のような、神秘的な青い瞳は優しげで。
「死んで蘇ったくせに。綺麗な目をしていたんだ、彼は」
「そうね、それは。私も思っていたわ、影から覗いて。ふふっ」
「ねぇ、ユウロン? 君もそう思わなかった? 彼は、俺達に無いものを持っている。純粋だ」
「っぐ、トアン様」
どさりと湿った地面に落とされて低く呻いて、自分の両腕を擦っていた。しかしふと、その身に纏っている黒衣を見て苛立ってしまう。
「ああ、脱ごうか。ユウロン。よく考えたら。今の俺達はお揃いの格好をしているね?」
「トアン様、俺は」
「ああ、聞きたくないな。何も。やっぱり、彼も殺してやろうかなぁ……」
でも彼は、潔く両目を閉じてしまいそうだ。それで「リーファ様が助かるのなら」と呟いて、呆気なくその命をこちらに預けてくるのだろう。
眉を顰めて、つまらないなと考える。
「俺がしたいのはそういうことじゃなくって、もっともっと、魂と胸が抉れるようなものを。血の底から震え上がるみたいな、彼が、吐き出してしまうみたいな」
「トアン様……お願いです、もうやめてください」
すすり泣くユウロンの腰を掴んで突いて黙らせると、蜘蛛女が嬉しそうに笑う。無数の蜘蛛が「きぃきぃ」と、嬉しそうに笑っていた。
「ああ、大丈夫だよ。グエン様。また会いに行こう。きっときっとね、楽しいよね?」




