漢・田中
11月。生徒会を引退し後輩に託した東谷。受験が迫る。その冬の手前。3年生はマラソン大会がない代わりに1500m走があった。
「東谷、見ていてくれ。今日俺は、宮本に勝つ」
「おいおい。そりゃあ2位になるってことじゃねえか」
長距離走で、最初考えなしに突っ走って、すぐに息切れ。最下位に転落。そんな人、たまにいないだろうか。田中はまさにそういうやつだった。
対して、宮本はアスリート。休み時間にいつもサッカーをしている体力の塊。マラソンはいつも学年2位。田中に勝てるはずがない。ちなみに1位は寺門である。
「ま、意気込みは買ってやるよ。やれるだけやってみろ」
「意気込み? 買って?」
「あー、そのー。頑張れってことだよ」
「うん! 頑張る!」
両腕を握り締める田中。いつになく真剣な表情。その顔は宮本に向いている。彼に起こった変化。それは宮本が田中をKOした日から始まっていたのだろう。田中は強い男になるべきだと言った宮本。その言葉の通りだ。
東谷では田中に起こせなかった変化。それを、あっさり起こしてしまっていたわけだ。嫉妬してしまう。天才の多才さに。よりによって、自分が一番身近であるはずの田中についてでさえ、自分よりも上手に接することができるのだろうか。
「はっ」
そこで気付く。自分が宮本に感じていた怒りの理由。田中を奪われるという寂しさが、あったのかもしれない。あの時、田中の目が、自分ではなく宮本に向いていた。朝、自分に絡んでこなくなり、孤独を感じていた。その嫉妬、寂しさで、宮本に当たっていたのかもしれない。恥ずかしくて誰にも言えないが。
「ひゅーっ。熱いねえ。同姓のカップルはー」
と、久しぶりに井上が茶化してくる。だが、相変わらず誰も同調しない。こうなっては哀れなものだ
「お前は大丈夫なのか? 勉強ばっかりしていて。マラソンは」
「おいおい、俺を舐めるなよ。天才様だぞ。少なくとも田中には負けねえわ。真ん中より上は、余裕かな。勉強ばっかりというか、ゲームばっかりしてるんだけどな。ふははははっ」
相変わらず、自慢ばかりの井上。
「何つまんねえ自慢してんだ。バカじゃねえの」
「こいつ、強がってゲームばっかりとか言ってるんだぜ。どうせこういうタイプは、影でマラソンの練習してるんだ。本当最低なやつだぜ」
「卑劣、卑屈。嫌味なやつだよな。井上」
クラスメイトから、矢継ぎ早に出てくる悪口。笑みを浮かべていた井上の眉が、スッと緩む。そこに浮かんでいたのは恐怖。
「はあ、はあ、はあ」
乱れる呼吸。
「すー、はー、すー、はー。ふんっ。笑いの分からんやつらめ」
だが、井上は、強がった。一人孤独に、スタートラインに着く。
「よーいっ、どん!」
そして、1500m走が始まる。最初に飛び出したのは寺門と宮本。そして田中。
「うぉおおおおおおおおおおお!」
叫ぶ田中。一時的に一位へ。
「バカ田中! 声を出すな! 体力がもったいないだろ!」
東谷の声が聞こえたからかどうか。田中はすっと力を抜く。そして、ややスピードを落とし、宮本に並ぶ。そのまま、同時に並走を始めた。
100m地点。ここまで走れるのはふつうだ。よくある短距離。200m地点。ここも、可能ではあろう。短距離と言える距離。400m。陸上選手にとっては短距離。ふつうの中学生にとっては、中距離。だが田中は、宮本についていっていた。
あの運動ができない田中が、なぜ。多くの生徒が、頭に疑問を浮かべる。田中は顔を真っ赤にして、粘り続ける。
宮本に勝つ。強い自分を東谷に見せる。自分をバカにし、そして自分から東谷を奪おうとした宮本。彼に、一泡吹かせなければ、すべてを失ってしまう気がするから―――。
「なあ父ちゃん。どうすれば強い男になれる?」
あの日、田中は父親に尋ねていた。宮本に勝てる男になり、東谷に認めて貰えるように。
「そうだな。とりあえず、スポーツだな。毎朝、ランニングでもしてみたらどうだ?」
父はそう答えた。その日から、田中は毎日欠かさず、2kmのランニングをしていたのだ。今日、その成果を見せる時―――。
「くそっ、くそっ、くそっ」
だが、それも500mが限界だった。徐々に宮本に突き放される田中。もともと運動能力にも才能にも違いがあったのだ。それに、田中が走っている間に、宮本もそれ以上の距離を走っている。宮本は休み時間にサッカーをしているし、勉強の合間に個人的に鍛えてもいた。田中が勝てるわけがない相手だった。
「ぜえ、はあ、ぜえ、はあ」
600m地点。3位、4位、5位と、どんどん後退していく。
1000m地点。とうとう、東谷と並ぶ。東谷の運動能力は、上位である。1000mで並ぶというのは、田中にとって快挙であった。
「田中、あと少しだぞ。頑張れ」
「ひがし、たに…。ぜえ、はあ」
東谷は、田中と共に走ることに決めた。そして応援するのだ。彼が最高のパフォーマンスを発揮できるように。田中を気遣い、自分の全力を出さなかった場合、先生に叱られるだろう。模範的な生徒会長の姿ではない。だが、ここまで田中が頑張ったのだ。ちょっとくらい、先生に逆らってでも、田中をねぎらってやりたかった。もうすぐ、お別れということもある。頑張った彼の姿を、思い出として共有したかった。
「ぜえ、はあ、ぜえ、はあ。うぉおおおおおおおお」
「おい田中。だから声は出すなって。体力がもったいないだろ」
叫ぶ田中。咎める東谷。だが、田中の体力は、叫び声に呼応するように、もう一度活力を取り戻す。
「ぜえ、ぜえ、ぜえ、ぜえ」
「おめでとう! 田中くん! 30位! すごいことだよ! 東谷君も! 31位!」
受験シーズンで、他の生徒が体力を減らしていたこともあるだろう。しかし、30位というのは、東谷がいつも取っている順位。上位の成績。それを、スポーツがからっきしの田中が、成し遂げたのだ。東谷の心は、感動に包まれていた。
「くそっ! くそぉうっ!」
当の田中は、宮本に負けたことで、悔しがっていた。本気で勝つつもりだったのだろう。そんな姿も、東谷には眩しく見えた。
「強くなったな、田中」
「えっ、東谷…?」
田中に駆け寄り、頭を撫でる東谷。その表情は、涙でボロボロだった。
「お、おいおい東谷。何、泣いてるんだよ」
「いや、その…。何というか…。自分の子どもが立派になる姿を見るって言うのかな」
「わけ分かんねえ。なんでそれで、泣くんだよ!」
「バカっ。うれしいってことだよ!」
照れて、恥ずかしそうに言う東谷。田中は、嬉しいと言われて、喜びがありつつも、困惑してしまう。うれしいと言っているのに、なぜ泣いているのか、分からないからだ。
この時、2人を見る担任の先生も、泣いていた。若い女性である。あの田中が、ここまで走れるようになるなんて、思わなかった。無我夢中、がむしゃらに走る姿。これは、走るだけの問題ではない。心が、変わったということ。努力をし、何かに打ち込めるようになったということ。この変化が、すばらしいのだ。
東谷もよく頑張った。彼がいたからこそ、田中は殻を破ることができた。今の田中ならば、中学を卒業しても、何とかやっていけるだろう。そう思えた。そして、この最高の瞬間に立ち会えた自分。幸せに身を包まれているようだ。
担任の先生が、東谷と田中に近づいていく。
「あっ、すみません先生。田中についていっちゃって。自分で走るべきでしたよね」
先生に気付いて、頭を下げる東谷。先生は、その東谷を、田中ごと、抱きしめた。
「バカね! そんなこと、気にしなくていいのよ! ありがとう! 東谷君、田中君! あなた達、最高よ!」
笑顔で、涙を流しながら言う先生。それに釣られて、何人かの生徒も顔をほころばせる。
「すごいじゃないか! 田中!」
「負けたぜ! まさかお前がここまでやるとはな!」
「見直すって言葉、今日ほど使いたいと思ったことはない! 見直したぜ、田中!」
今までの言動が嘘のように、田中を褒め称えるクラスメイト達。女生徒も、賛辞の拍手を送っている。
その当の本人。田中は、呆然としていた。このような形で褒められたことがないのだ。頭が追い付かない。うれしいのは分かるが、そのうれしさをどう表現していいか分からない。固まってしまう。そうして固まったまま、ゆっくりと涙を流した。
「なんで!? 俺が一位なのに! 最大のライバルであり心の友であるミヤーに勝ったのに! なんで30位なんてしょべえ田中に群がるんだ! 俺を褒めろよ! お前達! おかしいだろ!」
例外は、一位の寺門。彼は、ギャーギャー喚いていた。自分が一番目立てるはずなのに、田中に取られてしまったからだ。認めがたかった。こういうスポーツでしか、自分は輝けないのに。この日は主役でいられるはずだったのに。
「俺は認めてやるよ。お前はすごかった。お前が一番すごかった」
「あっ、いや、うん。ありがとう心の友よ! だけどさあ!」
「まあいいじゃないか。ああいうのも」
「いやよくねえよ! こっちは一位だぞ一位! 俺が一番頑張っただろ!」
宮本だけが、寺門を褒め続けていた。
「ぜえ、はあ、ぜえ、はあ。ううっ。んんっ。んっ」
なお、井上は、走っている途中で過呼吸を起こした。皆に敵視される恐怖。精神の不安定さが、呼吸の乱れにつながったのだ。1000m近くで、うずくまって動けなくなった。1500m走はもちろん棄権。そのまま、病院に搬送された。