442.逃げろ〜エリュシウェルside
「わかっているでしょう?
グレインビル嬢が妻としてあなたの隣にいれば、あなたのしでかした事の帳じりは全て合わせられるわ」
「確かに俺の不用意な言動で、ザルハード国王家と教会との関係も、隣国アドライド国との関係も、悪くしたのは認める」
俺がしでかした事はそれくらい考えなしだ、酷かったと、つい最近もグレインビル嬢から告げられたばかりだ。
「しかし外縁の力も今や強くなり、教会や母上の後ろ盾も未だ大きい。
グレインビル家が隣国の、それも王家に認められる家だとしても、この国に与える影響は大きくもない。
むしろ外交的な側面からイグドゥラシャ国の王女を正妃に迎え、揺れる情勢の為なら、自国の貴族を側妃に娶る方が良いはずだ。
なのに何故グレインビル嬢に……いや、違う。
母上が求めているのはグレインビル家じゃない。
アリアチェリーナ嬢個人にこだわっているようにしか思えない」
母上の僅かな変化も見逃してやるものかと、顔を見ながら言葉を紡ぐ。
幼い頃から留学するまで、側には常に母上がいた。
だからこそ纏う空気の変化に気づく。
変化したのは、最後の言葉。
しかし俺が勝手に放棄すると宣言した、王位継承権を取り戻す為に、あの令嬢個人にこだわる理由がわからない。
どう考えても、腑に落ちない。
「困った子」
「俺自身に関わる事だ。
理由を話してくれ」
片頬に手を添えて、苦笑する母上に一歩踏み出す。
「本当に、困った子ね」
同じ言葉を繰り返す。
しかさ母上の醸し出す雰囲気が、また変わった?
今まで向けられた事のない、圧迫されるような感覚。
昔の俺なら、黙って従う方を選んだのかもしれないが、しかし今はあの悪魔兄弟に恐怖と威圧を与えられた経験がある。
正直、あっちの方が怖い。
「俺は母上や教皇の、個人的な私腹を満たす為に、1人の令嬢の人生に干渉などしたくない。
明確な理由があるなら、俺には教えるべき……」
ふと、言葉を区切る。
何だ?
グラリと床が揺れたような錯覚を覚える。
「困った子には、お仕置きが必要ね」
「え……」
ゾワリと背筋に走る悪寒……これは……。
『良いか?
エリュシウェル第3王子。
お前は弱い』
ふと、アドライド国第2王子の言葉を思い出す。
確か、彼が卒業した日だった。
あの日、わざわざ呼び出してまで伝えてきた言葉。
思わずカッとなって、馬鹿にするなと踵を返そうとした俺。
そんな俺の肩を掴んで、あの王子は真面目な顔で、言葉を続けた。
『聞け。
もう俺はこの学園を去る。
だからこそ、気をつけて欲しい。
俺がお前より強いから、言っているんじゃない。
あの悪魔達や魔王が怒った時の圧と恐怖を知っているからこそ、俺は自分が弱いと知っているからこそ、お前にも言っているんだ』
悪魔達や魔王が誰を差すのかは、流石にもうこの時にはすぐに理解できた。
それに彼の金色の瞳からは真摯さを感じて、大人しく言葉を聞こうと思えた。
『そして弱いと感じた相手でも、どのような策謀を張り巡らせているかわからない。
国は違って俺達の立場上、足元を掬いにくる者は多い。
特にお前は自国で刺客に襲われた経験もなく、この国においては兄上や俺、それからゼストも目を光らせていた。
だがこれからは違う。
俺も学生の時のようにはいかないし、ゼストも最終学年に入る。
卒業に向けて、常に学園にはいない。
それに俺達がよく知らない魔法を使う者も、出てくるだろう。
だからまずいと感じたら、その場を立ち去れ。
背筋に悪寒が走った時は、特にそうしろ。
仮に、自分より弱い相手だと思っていてもだ。
側に誰がいても、絶対に迷わず逃げるんだ。
良いな?』
何を思ってそう言ったのか、今ならわかる。
あの後俺は、中途入学してきたあの王女に魅了され、長らく囚われていた。
コッへもそうだ。
あれは間違いなく魔法の類だったが、未だにどんな魔法だったのか解明されていない。
あの時、洞窟の中で白い狸に襲われていなかったら、自我を取り戻せなかっただろう。
何で白い狸があんな所にいたのかわからないし、あの狸が噛みついたら解呪された仕組みも不明だ。
あれ以来、あの狸も見ていない。
もしかしたら、洞窟の守り神的な、神聖な主だったのかもしれない。
そして王女と初めて出会った時、感じた背筋の悪寒。
それを今、己の母親から感じている。
という事は…………逃げろ、俺!