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第1話

     一


「社長、出来ました。ちょっと見てもらっていいですか」

 スタッフが俺の方を見た。携帯を机の上に置き、スタッフの方へ向かった。キーボードを叩いてシステムをチェックすると、やっぱり不具合が見つかった。

「ほらこれ。ここで止まっちゃうだろう。もう一回チェックしろ」

 そう言うと、自分の机に戻り、また携帯を手にとった。

「あれ?この女誰だっけ。まあいいや、削除してしまえ」

 椅子に浅く座り、その女の名前を携帯から削除した。独身だし、別に残しておいてもいいのだが、もうあっちこっち女の尻を追っかける年も過ぎたので、少しばかりためらいを覚えながらも、他の女の番号も全部削除した。

「おっと、加奈はだめだ」加奈は、今俺が付き合っている、ブランド好きな普通のOLだ。俺も今年で三十三才。お袋から「まだなの?」と言われて、笑ってごまかすのも辛くなってきた。加奈も口には出さないが、結婚を考えているようだ。

俺も結婚するなら、加奈だと思っている。そう思わせる人間的な魅力もある女性だ。ただ、酔うといつも「あなたは私がいないとダメになるから」と言われるのには閉口していた。そう言われたときは「自分でなんとかするさ」そう心の中で反論した。

 俺は、五年前にコンピュター会社を立ち上げ、若さゆえの暴走もあったりしたが、なんとかここまでやってきた。ただ、最近はこの不景気もあり、売上も頭打ちになってきている。

「この不景気じゃ、才能だけじゃだめなんだ。運がなくちゃ」

 スタッフと酒を飲むと、いつもそう言っていた。ただ、自分では会社を立ち上げた時のガムシャラさがなくなってきて、今に満足してしまった自分にも、その原因があることは分かっていた。そう言って、自分もごまかしているのだ。


「あら、ユウさん。今日は一人?」

「みんなまだ仕事をしているよ。明日休みだから、きりのいい所まで仕事をしたいんだろう」

「まあ、社長がいない方がせいせいしていいかもね」

「しかし今日は誰も客がいないじゃないか。これも不景気のせいなのかな」出されたオシボリで手を拭きながら言った

「ユウさん。今何時だか分かっているの?こんな早い時間にこの店に来る人なんていないわよ」

 時計を見て頭をかいた。そう言えば、店の看板にも明かりが灯っていなかったかも知れない。それに、このおしぼりも冷え切っておらず、ぬるいビールのような変な温かさが残っている。

ちなみに「ユウさん」と言うのはあだ名だ。別に石原裕次郎に似ている訳ではない。似ていれば良かったと思うが、残念ながら目も鼻もちっとも似ていない。二年くらい前からそう言われている気がする。自分ではそう思ってはいないが、なんでも優柔不断のくせに、態度が悠々としているから「ユウさん」らしい。当時はちょっと抵抗感もあったが、今では、あだ名をあれこれ言うつもりもないし、友達も親近感を持って使っているから、別に目くじらを立てる必要もないかと思っている。

「今度はいつ旅行に行くの」

 グラスにビールを注ぎながら、自称俺と同い年の店のオネーサンは聞いた。

「明日行くよ」

「えっ、明日。週末台風が来るっていう話だけど」

「さっきテレビで見たら、朝鮮半島にそれるらしい。たぶん大丈夫だと思うよ」

「それならいいけど。で、どこに行くの」

 グラスのビールを一気に飲み干して俺は言った。

「内緒」

「もうケチなんだから。教えてくれたっていいでしょう」

「そうだな、じゃあ、お土産を買ってきてやるよ。それで、どこに行ったか当てることにしよう」

「分かった。当てたらなにかご馳走してくれる?」

「この店の近くにすし屋が開店しただろう。そこはどう」

「いいわよ。でも、ちゃんとそこの特産品買ってきてよ。コンビニのチョコっていうのはなしね」

「そんなことはしないさ」そう言って、二杯目のグラスも一気に飲み干した。


 店を出て自宅に向かった。明日の旅行の準備をしなければならない。準備と言っても、一泊二日の一人旅に大きな荷物がいる訳ではない。早く寝るのが準備だ。

 何故かここしばらくは、あちこち旅行に行くのが好きになった。それも一人で。加奈を連れて行くときもある。けれど、女の買い物につき合わされるのは疲れてきたので、二回に一回は、仕事関係の「出張」という名目で、あちこち好き勝手に行っている。

 別にあそこに行ってみたいとか、あれを食べてみたい、というので旅行先を決めている訳ではない。ネットで見て、「ここにしよう」と軽い気持ちで決めている。どちらかと言うと、その場所に行って、いろいろ探すのが自分の性には合っているのだろう。

 本当になにもない町がある時もある。しかし、そんな場所でも、夕暮れ時に高校生の若いカップルが手を繋いでいるのを見て、自分の青春時代を思い出し黄昏てみたり、飲み屋で、地元の親父の「お国自慢」を延々と聞かされ、ウンザリしながらも、しばらくすると「あの親父、元気だろうか」と思ったり、そんな、普段の生活ではあまり気付かなかったり、思わなかったことが感じられるのも、旅の魅力だと思っている。

加奈に言わせれば「コンビニだって、走っている車だって、どこに行ってもまったく同じ。住んでいる人間も変わらないし、わざわざ旅行しなくても、そんな気持ちになれるんじゃない?」だそうだ。俺に言わせれば、東京のヴィトンも大阪のヴィトンも、パリのヴィトンも同じなんだが・・・それは言わないでおくのが賢明だ。


 それにしても、今回は失敗だった。台風は朝鮮半島にそれずに日本を直撃してしまった。最近の天気予報は、昔より随分当たる確立が高いと思っていたのに、今回は外れてしまったようだ。おかげで帰りの飛行機は飛びそうにない。明日の仕事は俺がいなくても大丈夫だとは思うが、初めて来た町に閉じ込められるのは心細い。

 空港カウンターは、問い合わせの客でごったがえしている。夏の台風が運んできた暖かい南風と、この人込みで、空港は汗ばむようなムッとした空気で満たされていた。がやがやとした音が耳に響き、ときおり目の前を、ガラガラと音を出して、キャスター付きのスーツケースが通り過ぎた。地方の空港なのに、成田空港にでもいるような感覚を覚えながら、椅子に座って辺りを見回していた。

 みな一様にあきらめた表情をして椅子に座ったり、ボーッと外を見たりしていた。中には、はしゃいでいるアベックもいる。それはそうだろう、台風で観光はできないかも知れないが、今日も恋人と一緒にいれらるのだから嬉しいはずだ。

 まだ午後二時前だというのに空は暗く、木々は風に大きく揺られ、水しぶきを飛ばしている。そんな中、防水服を着て建物の点検をしている職員が見えた。仕事とはいえ大変だろう。

 しかし、台風というのは飽きもせず毎年日本にやってくる。そして、水害や土砂崩れなどの被害を残して去ってゆく。しかし、それだけではない。雨といった恩恵を与えることもある。それに、台風の去った後は、目にしみるような青空が広がる。空の暖かさ、広さ、偉大さを感じさせてくれるものでもある。

 そんな風に考え事をしながら外を見ていたら、不意に黒い影が目の端っこに写った次の瞬間、左のこめかみに鈍い衝撃を受けた。本当に、ロビーの椅子から転げ落ちそうなくらいの衝撃だった。外の景色が斜めになるのを感じながら、かろうじて体を支えると、その犯人に目を向けた。

 そこには、緑色のバックをパンパンに膨らませて、一人の少女が申し訳なさそうに立っていた。そのバックの端の固い部分が俺の頭に当たったのだろう。

「すみません・・・大丈夫ですか・・・・」

 俺は、目に星らしいものがちらついていたが、冷静に言った。

「たぶん、大丈夫だと思う」

 おそらく、その時の俺の目は焦点が合っていなかっただろう。

「・・・すみません。あの・・・全然気がつかなくて・・・」少女は、小さい声で謝った。

「ああ大丈夫。気にしなくていいよ」

俺は何事もなかったように、また前を向いた。本当はまだ頭が痛かった。一人だったら頭を抱えて床を転がっていただろう。しかし、いたいけな少女を責めるような気持ちを持ってはいない。やせ我慢をして、何事もなかったように前を向いた。

 少女はペコリと頭を下げると、空港カウンターに向かって行った。そのうち目の焦点も合ってきたので、まだ痛む頭を左手で抑えながら、その少女をぼんやりと見ていた。

一言二言、空港職員と話をして、その少女はキョロキョロ辺り見回したと思ったら、空港の隅に向かった。どうやら公衆電話で電話をかけるらしい。しかし少女は財布を見ると空港売店に向かった。たぶん、小銭がなかったので両替でもするのだろう。いまどきなら携帯を持っていても不思議ではないが、おそらく親が持たせてくれないに違いない。

中学生か高校生くらいで、少女特有の少しふっくらとした顔と、細身で、やや高めの身長をした体がアンバランスに見えなくもないが、大きな瞳には純粋な光が宿っており、おそらく、クラスの中にも密かに思いを寄せている男子もいるだろうと思えた。首まで隠れる黒いサマーセーターに、ジーンズといった服装も派手ではなく、仕草もごく普通の少女だ。ただ、サマーセーターから伸びている細い腕と、やや寂しさを伴ったような瞳を見ていると、なんとなく自分の胸に、はかなさが込み上げてくるのを感じた。

 少女が向かった空港売店は、カウンター同様に混雑していた。少女はレジまでの列に並ぼうとしているようだが、次から次と人が交差し、いつまでも並べないようだった。最初はそれを面白がって見ていたが、そのうち見ていられなくなった。

ついに俺はその少女のもとに向かった。そして、紳士的に話しかけた。「電話をおかけになりたいのですか?」

少女は「えっ」といって振り向いた。そして無表情のまま言った。

「・・・あっ・・・はい・・・あの・・・家に電話をかけたいんですけど・・・」

笑顔を作って携帯を差し出した。

「急いでいるなら、この携帯を使っていいよ」

少女はちょっと驚いたような表情をした。

「・・・えっ・・・あの・・・でも・・・」

妙に一言一言考えて話す子だなと思いながらも「困っている時はお互い様、気にしなくていいよ」と言って、もう一度携帯を彼女に差し出した。

「・・・はい・・・じゃ・・・すみません・・・」少女は無表情のまま携帯を受け取った。

少女は、電話番号を打ち込んだ後、携帯を耳に当て、しばらくしてこっちに顔を向けた。

「・・・あの・・・どこを押せば・・・電話がかかるんですか?」

驚いた。だが、そんなことは顔に出さずにやさしく言った。

「そこの緑色の、電話の絵が書いてあるところを押せば、電話がかかるよ」

少女は家に電話して、飛行機が飛ばないので帰れそうにないことを話していた。親戚の家にでも泊まりに来ていたのだろう。しかし、家族とは俺に対する話し方と違って、普通に話しをしていた。この年頃の子は見ず知らずの男性には警戒心でも抱くものなのだろうか。

 そういえば俺の妹も、この位の時には親父でさえ毛嫌いしていた。見ず知らずの男性だったらなおさらそう感じるのかも知れない。

しかし、その妹も結婚してからは、毎年、父の日にはプレゼントを贈っている。親父も親父で、しいたげられた時代があったことも忘れて、プレゼントの若々しいシャツを嬉しそうに着ている。そんなことを思い出して、つい笑ってしまった。

少女は電話が終わると「・・・ありがとうございました」と言って、相変わらず無表情のまま、俺に携帯を返した。ペコリと頭を下げると、その場を立ち去って行った。

 空港では、今日は全便欠航になることと、希望者にはホテルを手配するアナウンスが流れた。

「やれやれ」もう一日、一人でゆっくりできることよりも、退屈な一日を想像し気が滅入った。会社のスタッフに、今日帰れないことを連絡してホテルへのバスへ乗り込んだ。


 指定されたホテルは、この町ではまずまずのレベルのホテルのようだ。ベージュ色の外壁で、ロビーは落ち着いた色調のインテリアや、ソファーが綺麗に配置され、花も手入れが行き届いていた。結婚式もできるらしく、一階にはウェディングドレスが何着か飾ってある。その脇にはガラスで囲まれた喫茶室もあった。スタッフも丁寧で、混雑していたにもかかわらずそれを感じさせない応対だった。

 チェックインを済ませて「本屋にでも行ってくるか」と外に出ようとしたが、とても旅行用の折りたたみ傘では、防ぎきれそうにない土砂降りだったので、それはあきらめた。

 仕方なく部屋に戻り、ノートパソコンを取り出しネットを始めた。明日の天気を調べるためだ。

一人旅では、あまり持ち歩かないようにしているが、今回は天気が気になったので持ってきたのが正解だった。携帯でも天気くらいは調べられるが、スピード、情報量ともパソコンにはかなわない。それにこれさえあれば、会社のスタッフとメールである程度の仕事のやりとりもできる。

「あれ、今回の台風はずいぶん速度が遅いな。もしかして明日も帰れないかも知れない」

 俺は明日加奈と会う約束を思い出した。「だから言ったでしょう」と言われるのが嫌で、電話はせず、携帯のメールで明日も帰れないかも知れないことを送信した。

メールを入れて、ホテルの部屋の窓から外を見た。雨が激しくホテルの窓を叩きつけていたせいで、外の景色はひどくゆがんで見えていた。なんとなくホテルという建物の中にいる自分が、小さい頃、母親に抱かれていたような安心感を覚えたのは、気のせいではないだろう。それ程までにひどい土砂降りだ。

「さて、本でも読むか」

普段、本はあまり読まない方だが、旅には本は欠かせない。今回は夏目漱石の「坊ちゃん」を持ってきた。最近は明治時代の文豪の本を旅に持ってくることが多い。理由は二つある。一つは、知的な人間と思われたいこと。もう一つは文豪各位には大変失礼な話ではあるが、眠くなることだ。そんなものだから一日十ページが限界だ。

 本をバックから取り出し、ベットに仰向けになった。気のせいか、最近ベットに横になると腹の肉がプルンとするような感じがする。高校、大学とテニスに打ち込んでいた時期の体重を、特にダイエットもせず維持してきたが、腹の周りに脂肪がついてきたのだろう。身長百七十八センチで、七十キロだから、まだまだ大丈夫と思っていたが、若い頃と違い、筋肉が地球の重力に逆らえず、脂肪に形を変え、腹の回りに集まったのだろうか。まあ、そのうち水泳でも始めて体を絞ればいいさ。そんなことを考えて、いつものようにベットに横になって本を読んでいたが、やはり眠くなってきた。ホテルの窓ガラスに雨が当たる音が気になったが、いつのまにか眠ってしまったようだ。


目が覚めたとき、その雨音は一段と激しさを増しているようだった。もう一度パソコンの天気予報の画面に目を通し携帯を手に取った。加奈からメールの返事がきていた。「こっちもすごい天気です。無理して帰ってこなくていいよ。羽を伸ばして、どうぞ素敵な夜を」と入っていた。

「飛行機は俺が操縦する訳じゃないから、無理したくても無理できないじゃないか」ブツブツいいながら外を見た。

「いつになったら、この台風は、青空を持ってきてくれるのだろうか」退屈な明日を想像しながら、ホテルのレストランに向かった。


 予想通り、欠航の影響でレストランは混雑していた。さらに、客のほとんどは、この天気で外に出れずに、ここで夕食をとるしかなかったこともこの混雑の一因だ。結構広いレストランで、こぎれいな感じだったが、窓から見える重い天気と、人の混雑が、ジメッとした、いやな感じを与えていた。

 キョロキョロしているとウェイターが来た。

「お食事でございますか。申し訳ございません。本日は大変混み合っておりまして」

「一人なんだけど、座れそうにもないね」

「お一人様でございますか。合い席にはなってしまうのですが、お一人様専用のテーブルもご用意しております。そちらであれば、席はすぐご用意できると思いますが」

ウェイターに案内されるまま、一人用のテーブルに腰掛けた。隣ではワイシャツ姿の中年男性が、雑誌を読みながら、ビール片手にクチャクチャ音を立てて食事をしていた。

目の前では、ビジネスマンと思われる若い男性が、携帯を左手に持ち、ときおりニヤニヤしながら、顔で皿を舐めるように食事をしていた。こういったホテルではよく見る光景ではあるが、あまり気持ちのいいものではない。

ぼんやりしていると、前の若い男性が席を立った。席を立っても相変わらず携帯を左手に持ってなにか見ていた。

すばやくウェイターが食器を下げると、別の客が案内されてきた。

「あれ、君はさっきの」目の前にいたのは、空港で合った少女だった。

「さっきは・・・どうも・・・あの・・・頭大丈夫ですか?」少女はちょっと驚いた顔をながら言った。

「頭は、そうだな、もう痛みもないし大丈夫だと思うよ」

少女はホッとしたのか、ふと笑顔を見せた。やっぱり女の子には笑顔が似合うなと思ったが、またすぐ無表情な顔になった。

「一人でこの町にきたの?」笑顔を作って聞いた。

「・・・はい・・・隣町の・・・親戚の家に・・・遊びに来てたんです」

この少女は、あまり口を開かず、はっきりしない話し方をするようだ。ただ、この少女の顔からは、若い子に見られる、力強さが感じられなかった。自分と同じで、冷め切ったような、なにか諦めているような、そんな感じが伝わってきた。

「君一人じゃ、家族の人も心配しているんじゃないの」親父くさいことを聞いた。というかこういうことしか話すことがない。

「・・・あの・・・明日まで・・・泊めてもらおうと思ったんですけど・・・隣町に行く道が土砂崩れで・・・それで・・・しょうがなくて」

「ああ、それは大変だね。でも明日も台風で飛行機が飛ぶかどうかわからないよ」つい余計なことを言ってしまった。

「・・・」少女は黙ってしまった。飛行機が飛びそうもないのは本当のことだが、余計なことを言って、妙な心配をかけてしまったようだ。それからは、俺も他に話すこともなく、ただ時計を見たり、他の宿泊客を見回しながら、黙っていた。

 そうこうするうちに食事が運ばれてきた。少女の食事も同じく運ばれてきた。

「・・・いただきます・・・」少女はボソッと呟くように言って食べ始めた。

俺はその言葉を久しぶりに聞いた気がした。「いただきます」なんて最近俺も言ってない。会社のスタッフも食事のとき「いただきます」なんて言う奴はいない。言うのは「乾杯」くらいだ。

 そして、しばし少女を見ていた。箸の持ち方も食べ方も上品だった。その上品さは、大人の女の色気さえ感じさせるものだ。それに、なかなか綺麗な顔立ちをしている。俺は初恋の人を思い出した。たぶんこの少女も同じくらいの年齢だろう。

初恋の人は、今で言うスポーツウーマンだった。同じクラスでテニス部の部長を任されていたが、しかし出すぎた所はなく、一生懸命テニスに打ち込んでいる姿は、俺の心を捉えて離さなかった。もっとも、当時は奥手だったこともあって、ただその人を見ていただけだったが。そんなことを思い出し、ほろっとする感じを味わいながら食べ始めた。

 しばらくして、また、少女に目が行った。少女も顔を上げたので目が合った。

「君はなかなかしっかりしているね。きっと、ご両親の教育がいいんだろうね」

「・・・両親はいないんです。・・・今・・・おばあちゃんと・・・暮らしています」

少女は表情を変えずに言った。まあ会話がかみ合わないときはこんなものだろう。

「ああ、それは悪いことを聞いてしまったね。それにしても、きみの食べ方はきちんとしていて、見ていて、こっちまでおいしく食べられるよ」

それは気を遣って言ったこともあるが、嘘ではない。

「・・・そうですか・・・ありがとうございます」少女は答えた後、ちょっとはにかんだ。意外な反応だ。初めて少しだけ会話が成り立ったようだ。

 他に話すこともなく、先に食事を終えて「それじゃ」と言って、ロビーに下りていった。外では相変わらず雨が激しく降っていた。

ロビーでぼんやりと外を見ていた。雨が降っていなければ酒場に行って一杯やるところだが、この天気じゃとても外に出れそうにはない。

 しょうがない、今日は「坊ちゃん」を完読するか。そう思って立ち上がりかけたとき、ふと、例の少女が食事を終え、ウェディングドレスに見入っているのが目に入った。

やっぱり女の子はウェディングドレスには惹かれるらしい。なにか想像しているような遠い目をしていた。きっと、愛する男性と結婚式を挙げているところでも想像しているのだろう。俺と話すときの無表情な顔ではなく、笑みをたたえ、自分の結婚式で、このドレスを着ているかのような表情をしていた。

なにげなく少女を見ていると、少女も視線を感じたのかこっちを見た。そして俺と目があった瞬間、少女はなにか悪いものでも見られたような顔をした。それは、長年隠し通していた嘘が、突然ばれた時のような顔だった。

 俺はその表情が気になった。たしかに、事故かなにかは知らないが両親はいない。そんな不幸な過去はあるにせよ、あの少女はしっかりしている。しかし何かが気になる。別に、あの少女をどうこうしようと思っている訳じゃない。ただなんとなく気になる。今の顔といい、話をするときの少女が見せるわずかななにかに。一種好奇心を伴った憐れみのようなものを感じていた。

 軽く手を上げて少女の側に行った。少女はその場に固まったまま動かなかった。動けなかったのかも知れない。顔は下を向いたまま、裁判の時、被告が判決を待っているかのように微動だにしなかった。

「さっきは悪いことを聞いてしまったね。謝るよ」

 少女はなにも言わず首を横に振った。

「どうだろう、罪滅ぼしにケーキをご馳走させてくれないか。そこの喫茶室から出てきた若い女の子が、とてもおいしいって言ってたのを聞いたんだ」

自分で言って笑いそうになった。いい年してケーキをご馳走させてくれっていうのもどうかと思うが、ま、相手の年齢からして、それもしょうがない。

「えっ・・・あっ・・・はい・・・」

もっと警戒されると思ったが、すんなり応じてくれた。少女は何かホッとしたような表情を見せながら、後について喫茶室に入ってきた。

ホテルの喫茶室は、以外に空いていたこともあり、さっきレストランで感じた、ジメっとした感じはなく、心地よい適度に乾いた空気が肌を包んだ。照明はちょっと暗かったが静かな曲が流れ、椅子やテーブルもなかなかのものだった。喫茶室の端にはピアノが置かれており、全体的に落ち着いた感じを醸し出している。

 ケーキが来るまで、俺は一通り自己紹介を済ませた。少女はただ表情を変えずに、背中をピンと伸ばして、ときたま水を飲みながら頷いていたが、一人旅が好きだといったときは、うらやましそうに呟いた。

「・・誰も知らない場所って・・いいなあ」

「毎日、パソコンを眺めて、会社の人間関係や、取引先との接待で疲れたときには、一人旅は最高の薬だよ。君も、もう少し大人になれば、一人旅ができるようになるよ」

少女はこくっと頷いた。少し心を開いてきたようだ。

「ところで、君の名前を聞いていなかったね」

少女は一瞬とまどったようだったが。間を置いて口を開いた。

「・・・ジュンです」

「ジュンか。どういう字を書くの?」

少女はまたちょっと間をおいて答えた。

「・・・純情の純・・・です」

「純という字は、純粋、純愛とかいい言葉が多いよね。純金もそうだし純米酒っていうのもある。あと純潔っていうのもあるな」

「・・ジュンケツ?」少女は聞き返した。

「あ、いや、汚れがないということだよ」・・・ちょっと調子に乗りすぎたようだ。たぶん分からなかったとは思うが。

 ケーキとコーヒーが運ばれてきた。少女はケーキとオレンジジュースを頼んでいた。少女はケーキを一口食べた。

「・・おいしです」少女は言った。

「君くらいの女の子は、みんな甘いものが好きだな。俺の妹も、食後の甘いものは別腹とかいいながら食べていたもんな。今もそうなのを見ると、きっと女性は甘いものが好きなんだと思うよ」

「でも私、甘いものはあまり食べないようにしてるんです。これ以上太るといやだし」

少女が初めて俺にまともに話をしてくれた。

「君は今も太ってなんかいないよ。友達も、君が太っているなんて言わないだろう」

「・・・そうですね・・・」少女は一瞬無表情になった。しかし

「でも、このケーキ本当におしいです」とまた一口食べた。それを見て俺もケーキを食べ始めた。

 オレンジジュースを飲み干して少女は外を見た。外はさらに雨風が強くなってきていた。

「明日も台風なのかな」

それは意外にも、明日も台風だといいなというニュアンスに取れた。

「ああ、さっき、パソコンで天気予報を見たら、どうやら明日も台風は通り過ぎてくれないらしい。飛行機も欠航になると思うな。そうなると、明日もまたこのホテルに、閉じ込められることになるだろうね」

「パソコンって天気予報も見れるんですか?音楽は聴けるって聞いたことはありますけど」驚いて少女はこっちを見た。

おばあちゃんと住んでいれば、パソコンがなくても不思議ではない。しかし、今、学校でもパソコンくらい、授業の一環で勉強しているはずだが、少女には興味のない分野なのかもしれないと思った。そこで分かり易く話した。

「そうだよ。天気予報だけじゃなくて、もちろん音楽も聴ける。アーティストのライブだって見れる。日本人だけじゃなく、外国の人とメールのやりとりもできるんだ。映画も観れるし」

「映画も観れるんですか」少女は大分興味をもったようだ。「私、映画が好きなんです」

「映画は観れるけど、画面が小さいからね。映画はやっぱり映画館で観たほうが好きだな。君の住んでる町にも映画館はあるんだろう?」

「私の町にはないんです。となり町にはあるんですけど」

「どんな映画が好きなの?」

「ラブストーリーが好きです」少女は、ちょっと恥ずかしそうに言った。

少女はさっきと別人のようだ。俺の目を見て、口を開けない話し方は相変わらずだったが、まるで俺を昔からの知り合いと思っているようだ。その笑顔は、触れがたいほど純真なものだった。

いつの間にか、この少女に感じていた憐れみのような感情は消え失せていた。そしてほっとしていた。どうやら普通の女の子のようだ。それからは、俺も映画が好きだったので、映画談義に花が咲いた。コーヒーもジュースもおかわりをした。


どのくらい話をしたか分からないが、店員がやってきた。

「申し訳ございません。そろそろ閉店でございますので」

時計を見た。「もうこんな時間になっちゃったね。そろそろ部屋に戻ろうか」

「はい。今日は本当に・・・あの、ごめんなさい。その頭の傷・・・」少女は俺のこめかみに目をやった。

俺はこめかみ辺りに手をあてた。たんこぶができていた。そこを触って「いてててて」オーバーな仕草をした。

「大丈夫ですか」本当に心配してくれているようだ。そのやさしさが、さっきこの少女に対してもった好奇心を罪悪感に変えていた。こんな少女を疑った自分が恥ずかしい。

「冗談だよ。たんこぶはできてるけど、痛くもなんともない。飛行機に乗るころには直ってるさ」笑って答えた。少女は、ほっとしたようだ。そして席を立とうとした時、俺は言った。

「明日も飛行機が飛ばないときは、一緒に食事をしようか。どうせ俺も一人だし、君も特に予定はないんだろう?」

「いいんですか。それじゃ、明日もいろいろ話を聞かせて下さい」

変な下心がないから警戒しないのか、少女はあっさりとした口調で答えた。

これが大人の女だったら、酒を飲ませて、泣ける話で女を口説いただろう。しかし目の前にいるのは普通の少女だ。しかも触れがたい純粋さを持っている。心が洗われるというのはまさにこんな感じか。いや、自分も初恋のころに戻った気持ちになっているだけなのか。まあ、どっちでもいい、この少女といると、言い様のない気持ちになったのは事実だ。

 喫茶室を出るとき、入ってきたときから、ちらちらと興味深々にこちらを見ていた、茶髪の、グラマーとおぼしき女性店員と目が合った。

「君にはこの子の純粋さと、俺のこの気持ちは分かりっこないよ」そう目で言ってやった。その女性店員はキョトンとしていた。


ウェディングドレスが飾られている、ショーケースの前を通ってエレベーターに乗った。俺は少女がウェディングドレスを見入っていたことを思い出し「そういえばさっき・・・」と言いかけたところで、少女が言った。

「私の部屋、703号室です」

「なんだ同じ階じゃないか。俺は708号室だよ。じゃ明日、朝食のとき迎えにいくよ。ノックはトン、トントン、トントントンってのが合図だ。それ以外は開けちゃダメだ。狼に食べられるかも知れないからね」

少女は笑って頷いた。ハタから見れば、俺も狼に見えないこともないが、今はこの少女を守っている正義の味方のつもりだ。

 エレベーターが七階に着いた。

「じゃまた明日」

少女は笑顔で、ペコリと頭を下げると「おやすみなさい」と言って部屋に入っていった。それを見届けると、自動販売機で缶ビールを買って部屋に戻った。

考え過ぎのようだ。今どき珍しくしっかりした少女だ。両親をなくしたとはいえ、健気に生きている。こんな出会いも一人旅の魅力だ。

それにしてもすごい風雨になってきた。パソコンの天気予報を見ると、間違いなく明日も台風で飛行機は飛べそうにない。しかし今は、明日もあの少女と会えることを思って、なんとなく嬉しかった。

携帯を見た。加奈からの着信が何回かあったようだ。そういえば、携帯は部屋に置きっぱなしだった。メールには

「さぞかし楽しい夜をお過ごしのことと思います。楽しいおみやげ話を期待しております」とあった。

これじゃ、常に監視されてるのと同じだ。言い訳を考えてメールを送った。こういう時はメールの方がいい。嘘が声でばれる心配がない。それに今は相手の感情を推測する必要もない。間違いなく加奈は怒っている。

 メールを発明した人に感謝しながら、缶ビールを飲み干すと、シャワーを浴び、ゴロンとベットに横になった。その時少女のことを思い出した。

「やっぱり普通の少女だよな。でもあの時、ウェディングドレスを見ている少女と、その姿を俺に見られたときの少女は、まったくの別人のようだった・・・いや、たぶん気のせいだろう」

眠気のせいで俺は思考を停止した。相変わらず、部屋の窓に雨が当たる音がしていたが、今は気にならなかった。



     二


 目が覚めて、まず緑色の遮光カーテンを開けた。目に飛び込んできたのは、昨日と変わらない天気だった。今日は昨日より風も強そうだ。

「これは無理だな」一応、空港に電話を入れたが予想通りの回答だ。

身支度を整えると、待ちきれなかったように、室内に備え付けられている電話で「703」と入力した。5,6回コールしたあと

「はい」と少女が出た。

「ごめん、起こしちゃったかな」

「いえ、もう起きてました。今日もひどい天気ですね」

「ああ、さっき空港に電話したけど、今日も飛行機は飛ばないらしい」

「そうですか」少女はあっさりとしていた。

「じゃ、これから朝食を食べようか、迎えに行くよ」

「はい」

 俺は部屋を出て少女の部屋に向かった。そして昨日言った合図でドアをノックした。

少女はすぐ出てきた。昨日と変わって、女の子らしい服装をしていた。首にさりげなくスカーフをまとい、昨日と違って、スカートをはいていた。髪には・・・俺にはなんと言うか分からないが、いわゆる髪飾りをしていた。

「昨日と、雰囲気が全然違うね。似合ってるよ」心底そう思った。

「ありがとうございます」少女はちょっと照れくさそうだ。

 朝食会場は、昨日、夕食を食べた場所と同じところだ。しかし、今日はそんなに混雑していない。おそらく、今日も飛行機が飛ばないのを知って、みんな、まだ寝ているのだろう。

朝食は、バイキングのようだ。俺と少女は、それぞれトレーを持って、好きな料理を取り分け、窓際の席についた。

「君は、洋食が好きなんだね」少女の皿の上に盛られた料理を見て言った。

「そうでもないんです。おばあちゃんは、朝はいつもご飯と味噌汁を作るんですけど、こういうところでは、洋食が食べたくなって」と笑った。その笑顔は、昨日映画の話で盛り上がった時以上に、明るかった。

「おばあちゃんは、やさしいのかい?」

「とても、やさしいです。私もおばあちゃんは好きです。でも、しつけはちょっと厳しいんですけど」

それを聞いて安心した。両親のいない少女が、家で不幸な生活を送ってはいないことが分かったからだ。そして、この少女の食べ方や、マナーの良さは、おばあちゃんが、きちんとしつけをしているからだろうと思った。

少女は「いただきます」と言った。それを聞いて「いただきます」と言って俺も食べ始めた。

 食事が終わって、コーヒーを飲みながら二人で外を見ていた。相変わらず、窓ガラスに雨が激しく当たって、向かいのビルがゆがんで見えていた。

「今まで、どこに行ったことがあるんですか?」

「そうだな、日本では、行ってない所はないよ」

「海外には行かないんですか?」

「年に二回位行っているよ。いままで、アメリカとヨーロッパ、あと中国にも行ったことがある」

「一人でですか」少女は驚いたようだ。

「いや、ツアーだから、一人じゃないよ」本当は加奈とツアーで行っているが、彼女の名前は出さないでおこう。現実に引き戻されそうだ。

「海外は、一人じゃ不安だよ。言葉も通じないし。それに習慣も違うからね。なにげなくやっていることが、実はとっても失礼だったりすることもある。まったく日本人はって言われるのは嫌だしね。だからツアーで行くんだ。現地に明るいスタッフも一緒で安心できるからね」

「そうなんですか」

「君は、どこか行ってみたい国はあるのかい?」

「私、アメリカに行ってみたいんです。将来住んでみたいと思ってます。なんとなく、明るい感じで、自由な感じが好きなんです」笑顔で答えた。

「じゃ、英語を勉強しなくちゃいけないな。英語は得意かい」

「はい、毎日・・・毎日勉強してます」少女はふと、何か考えたようだった。

俺は、大学の友達がアメリカに留学したことを思い出した。友達は、俺と同じ程度の会話レベル、中学・高校と一応習ってはきたが、聞けない、話せない、レベルだった。しかし、一年後帰ってきてからは別人のようだった。そのことを少女に話した。

「留学は無理かな。おばあちゃん一人になっちゃうし」

「英語は、生きた英会話が一番勉強になるはずさ。留学ができなくても、最近は、日本に外国人の先生が来ている学校があるって聞いているよ。君の学校には外国人の先生はいないの?」

少女は一瞬、無表情になった。

「・・いないです・・」しかし、その後、すぐ、笑顔で、

「でも、頑張ります。勉強してアメリカに行きます」

それは、何かを振り払って、まるで自分に言い聞かせているような感じだった。

「そうだ、千里の道も朝ごはんからだ。まず、やる気が大事だ」

俺は冗談を言った。しかし、心の中で、いや、やっぱり、この少女にはなにかある。この少女は、なにか心に傷を負っているんじゃないかと思った。本当は、おばあちゃんとうまくいっていないのか、それとも、学校でいじめられているのか。そして、昨日と同様の憐れみを感じた。昨日と違うのは、安っぽい好奇心でなく、もしこんな俺でも、何か少女の役に立てれば、と思ったことだ。

 そうこうしているうちに、ホテルのレストランも混雑してきた。席を立って、二人でロビーに向かった。

ロビーでは、この町の観光名所や、おすすめのレストランが載ったガイドブックを、ホテルのソファーに座りながら二人で見た。この町は「花の街」として売り出しているようで、あちこちに、そういった花を見せてくれる場所があるようだ。

「綺麗ですね」少女はにこやかに言った。

「花のことは、よく分からないけど、確かに、こんなところにいたら心が癒されそうだね。この花はなんていうんだろう。分かる?」 

「これはカトレアです。花言葉は(純粋な愛)です」少女は答えた。

「なるほど、これがカトレアか。これは、カーネーションだね、これなら俺も分かる」

「カーネーションの花言葉は(純粋な愛情)です」少女はまた、すらすら答えた。

「たいしたもんだ、よく花言葉が分かるね」俺は感心した。

「花言葉も、本当はいろいろあって、本によっても違うんですけど」

「将来、花屋さんにでもなりたいの?」

「そうなんです。だから、花には興味があって」少女は嬉しそうに答えた。

「じゃ、将来はアメリカに行って、花屋さんになるのが夢なんだね」

少女は笑っただけだったが、当たっているらしい。

 しかし、この少女は不思議だ。今はまったく普通の少女だ。そして、その目に心の傷を感じさせるものはない。やっぱり、俺の思い過ごしかもしれない。

 ガイドブックをペラペラめくっていくと、おすすめのレストランが載っていた。

「あれ、このレストラン、このホテルのすぐ近くじゃないか。どう、お昼は、ここで食べないか。このホテルの近くだし」

「でも、ここ、けっこう高いみたいです」

「大丈夫、俺がご馳走するよ」

「でも、いつも、ご馳走になってばかりじゃ・・・」

「気にしなくていいよ、ヴィトンのバックよりは全然安いよ。それに、ここで出会ったのも、何かの縁だし」

「うん」少女は遠慮がちに笑顔で答えた。

「じゃ、いったん部屋に戻るよ。会社に連絡を入れなくちゃいけないんだ。そうだな、お昼過ぎに迎えに行くよ」

 ホテルのフロントに、ガイドブックに載っているレストランのページのコピーをお願いし、少女と別れて、部屋に戻ると会社に電話を入れた。あれこれ仕事の指示をしたが、何通かの書類に目を通して欲しいというのがあったので、パソコンにメールを送ると言ってきた。その書類を見て、いろいろ修正してメールを送った。

 そうこうしているうちに、お昼を大分回ってしまった。

「もうこんな時間だ」

レストランに電話をして、店が開いていることを確認すると、急いで少女の部屋に向かった。そしてトン・トントン・トントントンとドアをノックした。

少女はすぐ出てきた。

「遅くなってごめん、さあ行こう。だいぶ遅くなったから、お腹空いたでしょう」俺は言った。

 少女は「はい。とっても」と言って笑った。

エレベーターの中で、少女は俺に聞いてきた。

「こんな日まで、お仕事大変ですね」

「そうだね。でも、これがないと、食べていけないし、スタッフだって食わしてやらなくちゃいけない。連中にも家族はいるからね」

「やさしいんですね」少女は俺の目を見て言った。少女は、俺にちょっとなにかいいたげな目をした。しかし、それ以上は何も言わなかった。

 外は土砂降りだった。二人で店の場所をもう一回確認して傘を開くと、ホテルの外へ出た。歩いている人はほとんどいなかった。車が物凄い水しぶきを上げて脇を通り過ぎ、二人は「うわっ」と言いながらそれを避けた。傘をさしているとはいえ、風が強く、真横から雨が降ってくるようだ。ホテルから借りた傘は、まったく役に立たなかった。かえって邪魔だ。俺たちは目を合わせた。一呼吸置いて「行くぞ!」俺たちは走った。

俺は少女の後ろを走った。少女は結構足が速かった。運動会ではいつも一番だったが、ついて行くのが精一杯だった。ちょっと息切れを感じた時、レストランに着いた。着いた頃には服も頭もビショ濡れになっていた。

二人、建物の入り口のところで雨を払った。しかし、服の中までじっとりと濡れていて、そんなことをしても無意味だった。肉体的には不快だったが、少女が楽しそうに俺に向けた笑顔は、そんなことを忘れさせてくれた。

「やっぱり濡れちゃいましたね」

「この雨だ、しょうがないよ。でも、これだけいやな思いをして、もしこの店が美味しくなかったら、ガイドブックを出してるところに文句を言ってやる」

「大丈夫です。きっと美味しいですよ」

 レストランは、大きなバイパスに面したビルの二階の一角にあった。ガイドブックにはおすすめとあったが、どこにでもあるレストランのようた。ま、ガイドブックは大概そんなものだが。一階には、百円ショップと本屋、レンタルビデオの店があった。

俺たちは階段を上った。店はやはり誰もいなかった。この天気では、客が来る訳はなく貸切状態だ。俺たちは窓際の席に座り、この店お奨めのランチを頼んだ。

「結構、足速いね」水を飲みなが言った。「リレーの選手でもやってたの?」

少女は、ふと俺から目をそらし、

「いえ・・そんな・・足は速くないです」と言った。

その時気付いた。それを確かめたくて、再び聞いた。でも、それは好奇心からではなかった。

「でも、運動神経よさそうだよね。なにか、学校でクラブに入っているの?」

「・・・特に・・・なにもしてません」少女は、俺に目を合わせずに言った。俺は確信した。この少女は学校がいやなんだ。おそらく、友達にいじめられているんだろうと思った。

 俺が中学生のとき、いじめられている友達がいた。体が不自由で、そのせいでいじめられていた。俺はその友達をいじめたことはなかった。だが、いじめているのを止めるのはしなかった。決して、正義感がないほうではないと思う。だけど、いじめを止めて、逆に、自分がいじめられるのが怖かったのだ。他のみんなもそんな感じで、ただ見ているだけだった。

だけど、そのいじめられている友達が、消しゴムや鉛筆を忘れたとき、なにも言わずに貸してやった。友達は「ありがとう」とも言わなかったが、俺にできたのもそれくらいだ。その友達は卒業文集で、将来画家になりたいと書いた。俺が大学のとき、その友達に町でばったり会ったことがある。友達は、大きなキャンバスを持っていた。

「そういえば、将来画家になりたいって卒業文集に書いていたよな」と聞くと嬉しそうに友達は言った。

「よく覚えているな。今、大学で勉強中なんだ。画家になるのもいいけど、絵を描く素晴らしさをみんなに教えたくて、今は美術の先生を目指しているんだ、ところで、君は、今なにしてるの」

「ああ、俺か、俺はコンピューターの勉強をしているよ。そっち方面にいい就職先があれば、死なないサラリーマンにでもなるよ」

それから、ちょっと立ち話をしたが、友達の変わりように驚いたのを覚えている。夢は人をこんなに変えるのかと思った。

そして、別れ際に友達は言った。

「君には言っておきたいことがあったんだ。僕が鉛筆を忘れたとき、いつも貸してくれたよな。あれ、すごくうれしかったんだ」

俺は、そんなことは忘れていたが、そういえばそんなことがあったなと思い出した。いじめられて、それこそ、暗い闇の中、普通の人には豆電球のような明かりでも、その人にとっては、明るく輝いて見えるものなのかも知れない。

 この少女も同様に、暗い闇の中にいるんだ。俺は少女に学校の話は聞かないことにして、少女の好きな花の話をした。

「ところで、君は花に詳しいけど、俺は花にたとえるとなにかな」

少女は俺に顔を向けて答えた。

「胡蝶蘭です」

「胡蝶蘭!ああ、なるほど。というか、どうして?」名前は聞いたことがあるが、実はよく花は知らない。

「それは秘密です」いたずらっ子のような笑顔で答えた。

「じゃ、君は?」

少女はしばらく考えていたが

「・・・今は朝顔かな」

「朝顔?どうして?」

「それも秘密です。でも、朝顔は知ってますよね。色は、そう、白が好きです」

「君は、白がすきなの?」

「なんとなく、純粋な感じがして」

「じゃ、君の名前と同じだな」少女は、また一瞬その目に憂いを見せたが、運ばれてきた料理を見て「おいしそう!」と言って、笑顔を俺に向けた。

「本当だ、久しぶりのご馳走だ」

そして、二人は「いただきます」と言って食べ始めた。

 少女は、ナイフとフォークを使っても食べ方は上品だった。また、感心してそれを見ていた。

「おいしい」少女は嬉しそうだ。俺も同感だった。

食事をしながら、とりとめのない話をしていた。

「君の町は、なにか珍しいものはあるの?」

「私の町にはなにもないんですけど、隣の町はお城があって、よく歌にもなる町なんです」

その町の名前を聞いて驚いた。

「そこには、毎月一回仕事で行くんだよ。ああ、あそこはいい町だね。緑も多いし、なんといっても人がいい町だ。今度行ったときは、君においしいところでも、案内してもらおうかな」

「いいですよ、すごくおいしいお店を探しておきます」彼女は笑った。冗談のつもりだったが、少女も真に受けた訳ではないだろう。

 そんな明るい少女を見て、もしかしたら、少女にとって俺が光なのかも知れないと思った。まさか。そんなはずはない。でも、普通の少女だったら、こんなオヤジと一緒に食事をするはずはない。しかし、学校でいじめられて友達がいないのなら、それも分からないではない。少女の過去、現在が全て分かった訳ではない。おそらく、なにも分からないままで別れるだろう。せめて、俺といるときだけでも、この少女が明るい笑顔でいられれば・・・。

「おいしかった」少女は満足そうに言った。俺も同じく満足していた。

店員はテーブルを片付けると

「よろしかったら、デザートもいかがですか」とデザートのメニューを差し出した。

少女の顔を見た。少女も俺の顔を見た。

「じゃ、俺はこれを」

少女もメニューを指差した。

デザートを食べ終わると「ああ、また甘いもの食べちゃった」と少女は言った。

「このくらいは大丈夫。明日は、重い荷物を持って歩かなくちゃいけないんだから」

「明日は晴れるのかな」

その口調は晴れて欲しくない口調だった。少女は、現実に引き戻されるのがいやなのだろう。

 

店を出て、俺たちは暇つぶしに、一階のレンタルビデオショップに行った。少女は、キョロキョロしながら奥へ歩いていった。俺もキョロキョロしながらその後を追った。

少女はあれこれみていたが

「あっ、これ、まだ観てない」と一本のDVDの前で立ち止まった。それは、アメリカ映画のラブコメディーで、それなりに売れた映画だったが、俺も観たことはない。

「いいなあ、観たいなあ」少女は呟いた。

「俺も観たことはないな。それに観れないことはないよ」

「え、本当ですか」少女はこっちを振り返った。

「ああ、パソコンで観れるよ。画面は小さいけどね。借りていこうか?」

「うん」少女は嬉しそうだった。俺は、会員登録をしてDVDを借りた。

そして俺たちは、ビショ濡れになりながらホテルに帰ってきたが、また、その肉体的な不快さを、少女の笑顔が忘れさせてくれた。

エレベーターに乗って考えた。パソコンで見るといっても、まさか俺の部屋で見る訳にはいかないから、少女にパソコンの使い方を教えてやって、部屋で一人で見てもらうしかない。その間、俺は一人になるが、それはしょうがない。

 部屋に着くと、少女を部屋の前に待たせて、パソコンを持ってきた。そして、使い方を教えてやった。すると少女は、キョトンとした顔をして「一緒に観ないんですか?」と聞いた。

「へ?いや、その、別にいいけど・・・」と少女の顔を見た。別になにも気にしてないらしい。そして、少女を部屋の中に入れた。少女は気にする素振りもなく部屋に入ってきた。そして、二人でDVDを観た。アメリカ映画にありがちな、涙あり、笑いあり、そして最後はハッピーエンドというお決まりの終わり方だった。

少女は、その間、笑ったり、泣いたり、感情豊かに、本当に映画を楽しんでいるようだった。俺はそれを見ながら、少女が帰ってから、学校でいじめられるのを想像して胸が痛んだ。ここにいる間だけでも、この少女には明るいままでいて欲しい、そう思った。

 映画を見終えると、少女は言った。

「私、DVD返してきます」

「いいよ、まだ土砂降りだし、明日返しにいけば大丈夫だよ」

「でも、店が開くのが十一時って書いてありましたから、飛行機に乗る時間に遅れるかも。今、返してきます」と言って部屋を出ようとした。

「俺も行くよ」と言ったら。

「お世話になってるお礼です」と言って、そのまま一人で出て行った。ちらっとパソコンを見ると、会社からメールが入っていた。俺がパソコンを叩いているのを見て、外から帰ってきた少女は言った。

「じゃ、私、部屋に戻ります」

「夕食のとき、また迎えに行くよ」俺は振り返った。

「うん」少女は俺の目を見て、部屋に戻った。

まったく、気の利かない連中だ。こんな資料誰だって作れるじゃないか。文句を言いながらも、会社とメールのやり取りをし、時には電話も入れ、ようやく仕事が終わった。そして、天気予報を見て加奈に電話を入れた。しかし電話には出なかった。また、俺はメールを入れた。「明日は帰れそうだ。着いたら連絡する」。

しかし、あの少女は本当に屈託のない少女だ。少なくとも俺の前ではそうだ。だが、少女の心には影がある。それは、学校でいじめられているからだろう。しかし、それを、俺にはどうすることもできない。時間がなさ過ぎる。外を見た。外はまだ土砂降りだったが、少し明るさが戻ってきたようだ。それを見てため息をついた。そして少女の部屋に向かった。


 トン・トントン・トントントン、ドアをノックした。少女はすぐ出てきた。

「また、遅くなっちゃったね。ごめん」俺は謝った。

少女は、なにも言わなかったが、笑顔を見せて首を横に振った。

 ホテルのレストランは、昨日と同様に混雑していた。キョロキョロしていると、昨日と同じウェイターがやってきた。

「お一人様ですか」

「いや、二人なんだけど」

ウェイターは席を探していたが、ちょうど、客が席を立った場所を見つけて「今、片付けますので、少々お待ちください」と言って片付けを始めた。俺たちは席に着いた。

「さっき、テレビを見たら、明日は天気が回復するって言ってました」少女がちょっと寂しげに言った。

「そうみたいだね、俺も君と別れるのは寂しいよ」少女はふっと笑顔を見せ、俺の目を見て、何か言おうとしたようだった。しかし、またなにも言わなかった。そして、一瞬寂しい目をした。

俺は、さっきとなにか違う少女を感じ取っていた。それは、明日、現実に引き戻されることへの恐れだろう。しかし、他に、別な何かも感じ取っていた。学校でいじめられているだけではない、深い何かがこの少女にはある。だが、それを知るには時間がなさすぎる。でもとにかく、少女を勇気付けたい。そう思い、思うままに言った。

「いいかい、人間には、どんなに辛くても、どんなに悲しいことでも、はね返す力があるんだ。時を待たなければ、解決できないようなこと、そして、耐えなければならないような時もある。しかし、それを乗り越えたとき、その、つらさ、悲しみはその人をたくましくしてくれる。たしかに、心の傷は消せないかも知れない。しかし、それは、他人対する思いやりになってくれるはずだ。君は、アメリカに行って花屋を開くのが夢だと言ったね。その夢を持ち続けて、精一杯頑張るんだよ」

俺は、自分の安っぽい人生論を話した。話さずにはいられなかった。話の中身じゃない、少女に、とにかくエールを送りたかった。

少女は口をぎゅっと結んで話を聞いていた。そして、俺の目を見た。

「・・・あの・・・」と言ったところで、料理が運ばれてきた。少女が何を言おうとしたかは分からない。だが、なにか助けを求めているかのような目をしていた。

俺たちは「いただきます」といって食べ始めた。食事中は、昨日のように映画の話で盛り上がった。というか、映画の話しにもって行った。少しの時間でも、少女の笑顔を見たかったし、笑顔でいて欲しかった。どうやら少女はハリソン・フォードがお好みらしい。

「でも、ハリソン・フォードはもう七十才近いよ。君からすればおじいちゃんだよ」

「映画の中のハリソン・フォードです。なんとなく、頼りがいがあって、包み込んでくれそうな気がするんです」

「じゃ、俺はハリソン・フォードにはなれないか」俺は冗談ぽく言った。

「無理だと思います・・・」少女も笑った。

席を立つとき、少女と俺は外を見た。雨はやみ、風も大分収まってきたようだ。明日は間違いなく飛行機は飛べるだろう。

「ここで君と一緒に食事ができるのも、明日の朝食が最後だね」

少女はまた一瞬、悲しげな、何か助けを求めるような目で俺を見た。俺はそれが気になった。しかし、助けたくても助けられない自分、そして、あまりにも時間のない現実。その二つが俺と少女の間に、厚い壁のように立ち塞がっていた。


 俺たちはロビーに向かった。ウェディングドレスの前を通りかかったとき、昨日の少女の顔を思い出した。この少女は、なにか、ウェディングドレスに特別な思い入れでもあるのだろうか。そうだ、昨日のあの嘘がばれた時のような少女の顔は、尋常じゃなかった。それに、あれ以降あんな顔を見たことはない。やはり、なにかウェディングドレスに、この少女を解く鍵があるに違いない。それに、今日の少女は、なにか俺に助けを求めているような気がする。もし、この少女の謎が解き明かせれば、助けてやれるかも知れない。そう思って聞いてみた。

「そう言えば昨日、ウェディングドレスを眺めていたね。やっぱり女の子は、将来ウェディングドレスを着てみたいと思うんだろうね」

反応を見た。すると、少女はその場に立ち止まったまま、下を向いた。肩が小刻みに揺れ動いたと思ったら、手で顔を隠して泣き始めた。

俺はどうしていいか分からなかった。想像以上の反応にしばらくなにも言えなかった。

「何か、悪いことを言ったかな・・・」

少女は首を横に振った。そしてエレベーターの前に走った。俺は周りの客の好奇な視線を浴びながら、その後を追っかけた。エレベーターの中でも少女は泣いていた。そんな少女を俺はどうすることもできなかったし、なにも言えなかった。

エレベーターを降りても、少女は俺に背を向けて泣いていた。そして少女は、背を向けたまま、小さい声で、心の中から絞り出すような声で言った。

「・・・私も・・・将来・・・ウェディングドレスが着たい。でも、でも・・・一生着れないんです」

「そんなことはないよ。君みたいな子は、他の男が放っておかないさ」

「・・・いいえ・・・でも・・・本当に一生着れないんです・・・私・・・私・・・本当は・・・・・・男なんです」

「!」

「・・・私・・・病気なんです・・・心は女なんです・・・だから・・・みんなに・・・変態・ううっ・・・」自分が言われて一番いやな言葉を口にしたからだろう、少女はしばらく声が出なかった。声が出ないのは俺も同じだった。

「・・・こんなに優しくされたことがなくて・・・でも・・・だから・・・あなたには・・・本当のことを・ううっ・・・」

「・・・」

「・・・昨日と・・・今日は・・・ありがとうございました!」

そう言うと少女は、泣きながら部屋に向かって駆け出した。

「ちょっと、待って!」俺は少女に向かって言った。しかし、仮に待たれても、なにも話すことはできなかったろう。その告白は、俺の常識、いや、俺が想像できる全ての可能性からも、まったく想定外のことだったからだ。


 俺は動揺していた。しばらくその場から動けなかった。酒を飲んで落ち着こうと自動販売機に向かった。自動販売機で缶ビールを三本買った。一本で良かったのだが、動揺していたせいで、部屋に着くまで、三本買ったことには気付かなかった。しかも、おつりを取り忘れてきたようだ。もう一度、自動販売機に戻っておつりを取った。

少女の部屋の前を通ったとき、ドアをノックしようかどうか迷った。しかし、何を話していいのか思いつかず、右手を握りしめたまま、ただドアの前に立っていることしかできなかった。エレベーターが開いて、他の宿泊客が降りてきた。怪訝そうな顔で、こっちをちらりと見ると、部屋に入って行った。しばらくして、また、エレベーターが開いた。気まずさを感じ、何も思い浮かばない自分の頭を、その右手で叩くと部屋に戻った。

 決して広いとは言えないホテルのシングルルームの部屋を、うろうろと歩きながら、フタを開けて缶ビールを一本、グイっと飲み干した。そして、ベットのすみに腰掛けると、もう一本缶ビールのフタを開けて、一口飲んで、現実と自分の気持ちの中を整理した。

いや、まてよ、少女はどう見ても女の子じゃないか。俺に嘘を行っているんじゃないか。そうだ、明日までの付き合いなのに、今更自分は男だなんて言う必要はない。俺になにかされると思って、嘘をついたんじゃないか。

しかし、それでは、さっきの行動の説明が付かない。あれは、嘘なんかじゃない。やっぱり、少女は男だ。正確にいうと少年だ。それに話し方もそうだ、男と気付かれないように、ああいう話し方をしてたんだ。そういえば服装も・・・。やっぱり少女は男だったんだ。

それでは何故、少女は、俺に本当のことを話したんだ。言わなければ分からなかったのに。さっきの少女の言葉と、今日の少女を思い出した。その時気付いた。少女は俺に助けを求めていたんだ。

 俺は、それで、少女に対してどう思ってるんだ。答えはすぐ出た。いささかも少女に対しての気持ちは変わっていない。なんとかして救ってやりたい。ヒーローになることはできない。ただ、かすかな光でも与えてやりたい。

しかし、今、少女のところに行っても、何を話していいか分からない。変なことを言えば、更に傷つけるだけだ。なんて言えばいいんだ、俺には分からない。だめだ、それに時間もない。

いつの間にか、また、缶ビール片手に部屋をうろうろと歩いていた。心の中は、その現実を打ち破れない悔しさと、少女が負っていた傷の深さを思って、のこぎりで切られているような痛みを感じていた。


 次の日は朝早く起きた。いや、正確にいうと寝ていないのかも知れない。遮光カーテンを開けると、まぶしい光が入ってきた。空港に電話を入れた。今日は飛行機が飛ぶらしい。旅が何事もなく終わっていれば、間違いなく、待ちに待った青空だっただろう。しかし今はそんなことは思っていなかった。

 朝食の時間まで昨夜と同じようにうろうろと部屋を歩き回った。どうせ、二度と会うこともないし、しかもなにもしてやれないんだから、このまま、少女に何も言わずに帰ろう・・・いや、そんなことはできない。なんとかしてやれないか。別に人助けが趣味な訳ではないし、あの少女に恋をした訳でもない。ただ、このままでは少女はダメになってしまう。旅先でたまたま会っただけの人間である俺に、少女が昨日本当の事を言ったのは、俺のどこかに何か感ずるものがあったからなのだろう。あんな純粋な心を持った少女を見捨てることは出来ない。俺が心の支えになるならなんとかしてやりたい。今まで感じたことのない正義感のようなものが、むくむくと心を支配し始めた。しかし、現実的にどうすればいいか、それは、全く頭の中に浮かんでこなかった。

その時、ふと、昨日の昼食の話を思いだした。そうだ、少女は、俺がよく出張する町の近くに住んでいるんだ。まだ終わった訳じゃない。出張した時に時間を作って少女に会い、温かく見守ってやることだって出来る。俺の中にも、わずかながら光が見えてきた。

 ところで、少女は少女でいいんだろうか?・・・いや、少女は少女でいいんだ。昨日言ってたじゃないか、「心は女なんです」。少女を知っている、他の人間がどう思おうと、俺にとって少女は小女だ。

 しかし、朝食に迎えに行って、出てきてくれるだろうか。出てきたとして、なんて話しかければいいのだろうか・・・思いつかない。

 いろいろ浮かんでは、いつしかそれは消えていった。こんな思いをするのは初めてだ。自分の聞いたこともない事実を突きつけられて、頭の線が繋がらなかった。

まだ、初めて物理を教わった時のほうがマシだ。分からなければ先生に聞けばいい。しかし、今、それを聞く人間はいない。この問題は自分で解かなくてはいけない。それに、これだという解答はない。人間の心は、物理のように公式がある訳じゃない。


 朝食の時間になって、俺は電話の受話器を取ったり置いたりを繰り返した。そして、スーッと息を吸い込むと「ええい、行くしかない」と部屋を飛び出した。少女の部屋の前に立ち、一呼吸置いて、トン・トントン・トントントンとドアをノックした。

返事はない。しかし、ドアのすぐそばに少女がいるような気がした。いや、間違いなく少女はドア一枚隔てたところに立っている。そう感じた。少女は俺を待っているんだ。そして、もう一回ノックをした。

「トン・トントン・トントントン」ガチャっと音がして、ドアが開いた。そこには、少女が下を向いて立っていた。

俺は昨日のことなどなかったように話した。

「さあ、朝食に行こう」

少女はゆっくり顔を上げた。しかし、俺と目は合わせなかった。そして言った。

「・・・あの・・・昨日のこと・・・」

今の俺には、気の利いたことや、かっこいいことは話せなかった。

「俺は、君を守りたいんだ。ただ、それだけなんだ」俺は、静かに言った。そしてそれは間違いなく自分の素直な気持ちだった。

少女は俺に目を合わせた。その目は腫れていた。昨日、ずっと泣いていたのだろう。服装も昨日のままだった。

少女は、俺の目をしばらく見ていた。それは、俺の言葉が信じられなかったからかも知れない。少女の今までの経験の中で、こんなことを言ったのも俺だけかも知れない。であれば、にわかに信じられないのも分からないではない。だが嘘は言っていない。今言ったことは本心だ。俺も少女の目を見つめて言った。

「俺は君の味方だよ・・・さあ、朝食に行こう」

少女は、コクっと頷いた。

「すみません。ちょっと着替えをしてきます」

 少女は一旦ドアを閉めて、しばらくすると出てきた。今日はジーンズをはいていた。おそらく、少女は普段はあまり、女の子みたいな服装はしないのだろう。自分のことを誰も知らないこの町で、昨日は、自分の好きな服を着たんだ。女の子らしい服を。


 エレベーターを待っている間に少女は俺に話しかけた。

「・・・あの、私、本当の名前・・・」

「純だろ。そう、純だ。君は俺といる間は純だ、それでいい。俺のことはユウさんと呼んでくれ。あだ名なんだ。ところで、どうだろう、俺が君の町の隣町に出張したとき、時間を作るから君に会えないかな」

少女は、ちょっと間を置いて俺の顔を見た。そして頷いた。口は固く結んでいたが、それは泣くのを我慢しているようだった。

「ハリソン・フォードになれるかな」俺は言った。

少女は泣き笑いしながら、首を横に振った。しかし、その涙は昨日俺に見せた涙とは違うものだった。


 今日の朝食会場は混んでいた。みんな、早く飛行機に乗りたくて、先を急いで席に着いているようだ。

 二人で、レストランの入り口付近に用意された椅子に座って、席が空くまで待った。純は、昨日一緒にロビーで観光案内を見ているときより、俺に寄り添うように座った。

別に、さっさと朝食を済ませてしまおうなんて考えなかった。二人このままで、一番最後の最後に、ゆっくり朝食を取りたい気持ちだった。しかし、そんなことが分からないウェイターは「どうぞこちらへ」と言って、二人を空いた席に案内した。

 今日は二人で洋食を食べた。いつもは和食と決めているが、今日は純と同じものを食べたかった。

「今日は洋食なんですね」

「ああ、たまに洋食もいいものさ。それにこのパン焼き立てだよ。この匂いに惹かれたんだ」

「昨日も美味しかったですよ。とっても柔らかくて、自然な甘さもあったし」

「俺は前からこの自然の甘さが好きなんだ。だから、ジャムとかはあまりつけないようにしている」

「だから、太ってないんですね」

「いや、見た目はね。でも一部分、肉が落ちないところがあってね。それが最近の悩みの種なんだ」腹を触りながら言った。

「でも、お腹出てるようには見えないですよ」

「そう見える?」

「そう見えます」まあ嘘でもそう言われて悪い気はしない。

「純、帰ったらきっと連絡するからね」

「うん」

今の純の俺に対する瞳は、昨日のものとは全然違っていた。昨日、瞳の奥に見え隠れしていた憂いは、今日は全くその姿を見せなかった。今、純が見せている瞳は、そのさらに奥にある純粋なものだ。

 

 朝食後、そそくさと荷物をまとめ、ロビーで純を待った。純は、しばらくたって、ロビーに降りてきた。当然あのバッグも一緒だった。

「この角に俺の頭が当たったんだな」

「そうですね」と笑って、純は俺のこめかみを見た。そして、その手で、おそるおそるたんこぶを触った。

「まだ、腫れてますね。直るのかな」と心配そうに言った。

「大丈夫、もう痛みはないよ。しばらくすれば、なにもなくなっているはずさ。さあ、バスが出発するよ、乗ろう」二人はバスに乗り込んだ。

俺は純に携帯に残っていた、純の自宅の電話番号を見せた。

「この番号に連絡すればいいんだね」

「えっ、私、教えましたっけ?」と純は不思議そうだった。

「携帯は、一回電話すると登録できるんだよ」笑って言った。

「なんだ、せっかくメモしてきたのに。じゃ、この下にある、会社とか加奈さんというのも、登録してあるんですね」純は感心したように言った。

「ああ、そうだね・・・まあ・・そういうことだ」純の口から加奈の名前がでるとは・・・別に、加奈に悪いことをしているつもりはないが、ちょっと違和感と言うか罰の悪さを感じた。

空港へは、町から一直線に道路が伸びていて、ところどころに大きなショッピングセンターや、車のディラー、ファミリーレストランが並んでいる。確かに加奈の言う通り、どこに行ってもそう変わらない風景ではある。しかし、今日はなんとなく新鮮な気持ちで、バスの中からその町並みを眺めていた。

予想外に道路が込んでいて、空港へは予定より大分遅れてバスは到着した。純が乗る飛行機は、もう、客が乗り込み始めていた。

「もう、いかなくちゃ」純は搭乗カウンターの中に入って行った。

「ありがとうございました」純は振り返って、手を振った。

俺も「必ず、連絡するよ」と言って手を振った。そして、純の飛行機が見えなくなるまで見送った。


 俺が空港に着いたのは午後三時頃だった。空港に着いて、まず、加奈に電話を入れた。

「もしもし、今着いたの?」加奈は電話に出た。どうやら休憩時間らしい。

「ああ、何だか疲れたよ」

「それはそれはお疲れでしょう。じゃ、いつもの店で七時に待ってるから。じゃね」と言って勝手に電話を切ってしまった。今日はこのまま休みたかったのに、まあ、しょうがない。

「どうだい、なにか、あったか?」俺は会社に電話を入れた。

「いえ、今日は特になにもないです。いたって順調です」

「そうか、じゃ、今日は疲れたから真っ直ぐ帰るよ」

「分かりました。じゃ、ごゆっくり」

「ちょっと待った、来月の俺の出張の予定を教えてくれ・・・うんうん、そうか、じゃ、十二日の金曜日が出張か、分かった」

出張が十二日だから、十三日の土曜日だな。よし、それをもう一度確かめると、純の自宅に電話を入れた。予定ではもう着いている頃だ。

「もしもし」ちょっと年配の女性が電話に出た。ああ、これが純の言っていたおばちゃんだな。そして、俺は名前を名乗って「あの・・・あれ?」純ちゃん?純君?純さん?しまった、純の本当の名前は聞いてなかったんだ。俺としたことが・・・あのときカッコつけずに聞いておけば・・・。

「もしかしたら、うちの孫がホテルでお世話になった方ですか。さっき聞きました。なんだかご迷惑をお掛けしたみたいで、いろいろありがとうございました。今、居りますので変わります。ちょっと、待って下さい」ああ、よかった。それに、人の良さそうなおばあちゃんだ。ちょっと間があって、パタパタパタと足音が聞こえた。

「もしもし、こんなに早く電話くれるなんて思ってなかったです」

「俺はこういったことは早い方なんだ。なんといっても年季が違う」

「今、どこですか?」

「今、空港に着いたよ。ま、これから、自宅に帰るまでは、大分時間はかかると思うけどね」

「そうなんですか。これからお仕事ですか」

「いや、ちょっと人と会う約束があってね。自宅に帰るのはそれからだ。ところで、来月の第二週にそっちに行く予定なんだ。来月の十三日、土曜日に会えるかな」

「うん、大丈夫です」と純は言った。待ち合わせ場所は、駅の前の大きな時計の下と決まった。

「じゃ、楽しみにしているよ」

「あの、いろいろと、本当にありがとうございました」

「いいんだよ。そうだ、今度も映画を観ようか」

「そうですね。楽しみにしています」純は明るい声だった。

「それじゃ」と言って電話を切った。

純の声は、今朝聞いた声と同じだったが、妙に懐かしい響きがした。二人の物理的な距離がそう感じさせるのか、それとも、現実に引き戻された自分の気持ちがそうさせるのか。ただ、その明るい声を聞いて、俺は嬉しかった。

「良かった、おばちゃんも人が良さそうだし、それに純は明るかったし。あとは、純を少しずつ勇気付けて、自分の夢に向かって頑張るように、応援してやらなくちゃ」

駅に着いて、時計を見た。「加奈との約束の時間まではちょっと時間があるな。コーヒーでも飲むか」喫茶店に入って、コーヒーを飲みながら考えた。

今回の一人旅は、いろいろ経験させてもらった。純との出会い、純の告白。一人の人間に対する、今まで感じたことのない自分の思い。ただ、間違いなく言えることは、今の純には頼りになる人が必要だということだ。人の心の悩みの多くは、人との間に生まれるもので、それを解消できるのは、やっぱり人しかいないはずだ。時には、羅針盤となり、そして時には灯台となり導いてくれる人も必要なときがあるだろう。俺は、純に対してそういった存在にならなければならない。

ふと、純に対して、一種、愛情を感じているのに気付いた。それは、男と女のものとはちょっと違う、純粋なものだと思った。そして、今回の出来事で、自分自身もなんとなく変わった気がしていた。


 加奈との待ち合わせの場所には、七時ちょっと前には着いた。加奈には、純のことは黙っておくことにした。たぶん、加奈の性格からして、純のことを話せば、電話に出れなかったことも許してくれるだろう。しかし、俺が純に対して思っていること、純の現実を、加奈が理解できるかどうか、それは疑問だったからだ。それに、俺は純を言い訳の材料にするつもりは全くない。

 加奈はベージュのブラウスと黒いズボンといった、いかにも仕事帰りの服装をして七時十五分頃店に現れた。そして「お待たせー」と言って加奈は椅子に座った。いつもはほっそりとした顔に、切れ長の目をさらに横に伸ばしながら笑っているのに、今日は、眉間にしわを寄せながら顔を近づけた。

「心配してたんだよ。今度は私も連れてってね。もう、こっちで一人で心配するのいやだから」加奈は俺の顔を見ながら言った。

「ああ、ごめん。まさか二日も飛行機が飛ばないなんて思わなかったよ」

「もう、電話して出なかった時は、なにか事故にでも会ったんじゃないかって、本当に心配したんだからね」

あれ?今日は随分とやさしいな。

「なんだ、俺は浮気を疑われているのかと思った」

「今日、あなたの顔を見たら、それはないって確信したから大丈夫」

まあ、確かに浮気はしてない。それに、本当に浮気をしても、それは言うはずはない。ただ、いつも加奈が、俺の顔でそれを判断しているのはちょっと怖い気がする。

酒を飲んでほろ酔い気分になってきたとき、純のことを思い出して、加奈に聞いてみた。

「性同一障害って聞いたことある?」

「性同一障害?そうねえ・・・おなべとか、おかまちゃんとか、ニューハーフってくらいかな」

予想通りの回答だ。通常の人にはこの程度の認識しかないだろう。

「で、なんで急にそんなことを聞くの?」加奈は俺を見た。

「・・・いや、その、ホテルで暇つぶしにネットを見ていたら、・・・若い頃、そういったことで苦しんだ人の話しが載っていたものだから・・・」

「そうだよね、思春期には、そういう人って、すごく辛いと思うよ。でも、私のまわりには多分いなかったと思うな」

「その人は、体は男、心は女なんだ。その人は苦しんでいたみたいだよ。そういう時って、周りの人はどう接するのがいいのかな?」

「なんで、私にそんなことを聞くの?もしかして、会社の誰かがそうなの?」

「いや、例えばの話だよ」

「そうだよね。そうねえ・・・たぶん、心の方が、その人の本当の姿だと思う。その人は、女として見て欲しいんだと思うよ・・・よく分からないけど」

「そうだよな」俺は呟いた。

「ところで、やっぱり女というのは、ウェディングドレスには興味があるんだろう?」

「当たり前でしょう。どうしたの今日は。もしかしたらプロポーズ?いやだ、そうだと分かっていたら、もっとおしゃれして来るんだったのに」

「いや、それは、また、いずれ、その・・・」


 加奈と別れて、しばらく一人で歩いていたが、考えることは純のことばかりだった。純は、体は男、心は女だ。加奈のいうとおり、女として自分を見て欲しいのだろう。だから、昨日は服装も女の子が着るような服を着ていたんだ。だが、周りがどう思うと、純に対しては、少女として接していくつもりだ。純もおそらくそれを望んでいる。

 純のことをいろいろ考えながら歩いていたせいか、どうやら、自分のマンションの周りをグルグル回っていたようだ。さっき街灯の下で寄り添っていたアベックが、俺を不審な目で見て去って行った。

確かに、俺の行動は不審者のようだ。医者でも、カウンセラーでもないのに、性同一障害の少女を助けようとしているのも、ハタから見れば十分不審者かも知れない。だが、俺が純に対して抱いているものは純粋なものだ。それは間違いない。


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