第四章:温泉回のお仕事
次の日、出勤したアラシに課長が大きな声で話しかけた。
「アラシくん! 今日は温泉回にしましょう!」
「はぁ、なんですか? 突然」
「いえね、私たちもう二回も仕事したのよ。窓際族の私たちがもう二回も!」
「大事なことですけど、『二回も』を二回も言わないでいいですよ」
「ややこしいツッコミね!」
「課長がややこしいこというからですよ」
アラシはやれやれといった表情だ。
「……まぁ、それでね、この私たちがこのまま連続で仕事したら倒れちゃうんじゃないかと思うの!」
「う〜ん。というか俺たちこれまで働いたことがないから、逆に休みをとるペースが分からないですね」
他のサラリーマンが聞いたら羨むようなことをいけしゃあしゃあと言うアラシ。
「でしょ? 何にでも加減を知らない私たちがこのまま働き続けたら過労死まっしぐらよ!」
「まぁ加減を知らないのは主に課長ですけどね」
アラシの言葉を無視して、課長が話を続ける。
「そこで、念のため早めにサボって温泉にでも行こうかなと思って!」
「……でも温泉って遠いですよ。基本ひきこもりの俺たちに行けるような場所ではないのでは?」
「そこで! VR温泉よ!」
課長は、指差しのポーズを決めてどや顔だ。
「……なんですか? それ」
「VRゲームの中には、温泉に入れるゲームもあるの」
「はぁ……。でもVRの中で温泉に入って意味があるんでしょうか?」
「ほら! このサイト見て!」
課長が自分のパソコンに映っている画面をアラシに見せる。
「え〜、なになに……『VRなら移動時間も必要なく、どこからでも、いつでも温泉に入ることができます。最新の温感再現テクノロジーにより、現実の温泉に入るのとほぼ同等の効果が得られることが科学的に実証されています。今ならVRスロットマシンで無料ご招待ペアチケットが当たります。参加はこちらから』……なるほど」
「と、いうことで、早速スロットマシンをやってきたわ!」
「ほんとこういうときは早いですね。それで?」
「当たりました! じゃ~ん!」
課長がパソコン上のチケットのページを見せびらかした。
「えっ、まじ?」
「正確には、スロットマシンに改造コードをぶちこんで勝ち取ったの!」
「……紛うことなき直接的チートですね。また部長に怒られますよ」
「大丈夫よ、今日から部長出張だし」
「……まぁ、俺としてはバレなきゃいいですけどね」
「混浴もあるらしいわ」
その言葉にアラシが素早く反応する。
「何と! 早く行きましょう! え〜と、石鹸、シャンプー、着替え……」
「いらないわよ、VRだから」
そんなわけで、二人の今日の行き先はVR温泉になった。
◇ ◆ ◇
「というわけで! やってきましたVR温泉!」
「わぁい!」
すぐに旅館の客室に到着した。全体で十五畳はある大きな和室だ。二人は部屋の中で元気に跳ね回っている。二人の服装は既に浴衣になっている。
「なかなか豪華な部屋ね! VRだから自由自在なのかしら?」
「課長と俺、同じ部屋でいいんですか?」
「いいわよ。それに倫理コードがあるから安心よ」
「倫理コードって?」
「放送コードみたいなものね。基準を超えると自動であるはずのものが無くなるの」
「いや全然分からないですけど。まぁいいや」
「早速、お風呂にする? 食事にする? それとも……」
「ゴクリ」
「卓球かしら?」
「ええ、そうくると思ってましたよ! いいですよ、やりましょう!」
卓球室に移動した二人の気合は十分だ。課長がボールをもって構える。
「アラシくん、いくわよ!」
「サァー!! サァー!!」
気合を入れて構えるアラシ。
ピン――ポン――ピン――ポン
最初はゆっくりとしたラリーが続く。
「意外とやるわね、アラシくん!」
「課長もやりますね!」
ピン―ポン―ピン―ポン
ラリーが続き、二人の気分が昂ぶってくる。
「超速・音速! もっと速く! もっとよ!」
「このVRの一等賞に――」
ピンポンピンポン――
高速ラリーに入った。目にも留まらぬスピードでボールが行き来している。
「しまった!」
ラリーの最中、ボールの当たりどころが悪かったのか、課長の手からラケットから離れ空中に――
それを見たアラシが決めに入る。
「俺様の美技に――」
激しいスマッシュがコートに叩き込まれた――瞬間、
「な!」
アラシが驚愕の声を上げた。
ボールの動きがスローモーションになっている。いや、空間全体の時の流れが遅くなったようだ。
「まだまだね――」
遅くなった時の中で課長が空中のラケットを握り直し、そのまま横に一回転し――
バシィ――
回転した勢いで打ったスマッシュをアラシ側のコートに決めた。
「ええ〜ずるい〜」
アラシが文句の声を上げてごねる。
「ずるくないわ。チートよ」
「……英語で言ったら意味がわからなくなりそうな発言ですね」
そんなこんなで二人はノリノリでしばらく卓球を楽しんだ。
「はぁ……はぁ……。温泉入るより前に卓球を全力でやってしまいましたね」
「この方が、より温泉が楽しめるってものよ」
「それじゃあ! 満を持して!」
「ええ、行きましょう!」
二人は風呂に向かった。脱衣所の前でアラシが口を開く。
「課長、ホントに混浴で良いんですか?」
「いいのよ。脱衣所で服を脱いだら、混浴と書いてある方の入り口から温泉に来て」
アラシが浴衣姿の課長の体を舐め回すように見る。子どものような性格の彼女の肌は、同じように若々しいのだ。
「……ゴクリ」
「当然、他のお客さんもいるから騒がないでね」
「他のお客さん! 余計に興奮しますね! 水着は禁止ですよね!?」
「そうね。温泉だもの」
「うぉおおお、俺、行ってきます!」
着替えを終えたアラシが混浴に足を踏み入れると――
「なんじゃこりゃあ〜!」
叫んだ。
「しっ〜! 騒がないでって言ったじゃない」
後から、課長が指に手をあてながら入ってきた。
「いやいやこれは黙っちゃいられません! 大事なところが何も見えないんですけど!」
「これが倫理コードの一例よ」
「一体何なんですか! 倫理コードって!」
「アラシくん、テレビでも女性の裸に白い光が被ったりするの、知ってるでしょ?」
「ええまぁ。アニメとかでありますね」
「それのVR版よ。自動で発動するの」
「ちくしょう! VRなんてクソゲーだぁ!!」
アラシは風呂桶を地面に叩きつけた。
「……くっそお。こうなったら想像力で脳内補完します!」
「無理しちゃだめよ!」
「こんちくしょおお……俺の妄想力を……舐めるなぁああ!」
「アラシくん、危険よ! 見えないものを見ようとすると……」
「うおぉ……お……」
バタリ――
アラシはその場に倒れた。
「人間の脳は壊れてしまう……もう遅いわね……」
課長の声はアラシには届かなかった。
◇ ◆ ◇
アラシが目を覚ますと、客室に横になっていた。
「あ、あれ。俺は一体……」
「ふぅ。やっと目を覚ましたわね」
そばに座っていた課長が声をかける。
「なんか、この前も同じようなことがあったような」
「……デジャヴよ。気にしすぎるのは良くないわ」
課長はゴホゴホと咳をしながら誤魔化した。
「……俺は温泉に入ったんでしょうか?」
「入ったわよ」
「……なぜか全然覚えていないんですけど」
「あったはずの事実は変えずに観測結果だけを変える。これも放送コード、いえ倫理コードの効果なの」
「……良く分からないですが、なんだか哲学的ですね……」
「まぁ、それは置いといて……ご飯よ!」
机の上に、豪華な会席料理がならんでいる。
「わぁい!」
その豪華さにアラシは気分を良くして元気に返事をした。
「VRのご飯もなかなか良いわね!」
「美味しいけど、これって実際にお腹はふくれるんでしょうか?」
「そうね。といっても味覚再現で満腹中枢が刺激されるだけだけ。太らなくて逆に良いわ」
「なかなか便利ですね」
次から次へと運ばれている料理に二人は舌鼓を打った。
「さぁ、お酒もあるわよ!」
課長がビール瓶を片手に持っている。
「VRのお酒かぁ。さすがにアルコールは入ってないですよね?」
「そうね。基本的には気分だけ楽しむものよ」
そういって、グラスにビールを注いだ。
「意外といけますね〜。味は本物と変わらない」
「アラシくん、まだまだあるわよ」
「お、課長グラス空いてますよ! どうぞうどうぞ」
「あら気が利くわね〜」
「こう見えて、俺もう立派な社会人ですからね!」
二人はしばらく気分良く酒を楽しんでいたが……
「うおぉおおい! もっと酒持ってこ〜い!」
「ひっく! のみすぎぃですよぉ。かちょおお!」
今は完全に出来上がっている。
「おっかしいな〜。なんでぇ、こんなぁ、酔っちゃったんだろぉ?」
「ひっく! ぼかぁ知りませんよ! ふんいきですかねぇえ?」
「さいしんのぉ、てくのろじぃって、すごぉいわねぇえ」
「ほんとぅですねぇ! すごぉい! かちょぉお、すごぉい!」
わけの分からないことを口走りながら、二人はひたすら飲み続けた。
◇ ◆ ◇
いつの間にか畳の上に横になっている二人。
「うぅ……ちょっと酔いが覚めてきた」
「うぅ〜。大丈夫? アラシくん」
かなりの時間が立ったのだろう、部屋の外は真っ暗だ。所々に小さな星が輝いて見える。
「課長、酔い覚ましに、ちょっと窓辺で涼みましょうかぁ」
「ふぅ……。そうね……」
窓辺の椅子に座った二人の間に沈黙が流れる。
しばらく静寂の中でただ過ぎる時間を過ごした後、アラシが口を開いた。
「課長、一度聞いてみたかったんですけど……」
「なぁに?」
まだ少し酔いの残る口調で課長が返事をした。
「……課長って、何で課長になれたんですか?」
「……アラシくん、それを聞いてしまうのね……」
課長は少し悲しげに顔を伏せた。
「すいません……なかなか普段聞けなかったので」
「……話すと長くなるわ……」
「いいですよ。どうせ暇じゃないですか」
「……そうね……」
彼女は昔を懐かしむようにゆっくりと語りだす。
「……私、試験は得意だったのよね……」
「……まぁそれは分かるような気もします」
「……ほら、公務員って就職のとき、テストが重視されるじゃない。あれで私、かなり良い成績だったのよ。歴代でも指折りの結果だったらしいわ……」
「……へぇ……凄いですね」
「……それで表向きには期待されてたのね、きっと。……だけどね、実際に入省のあと、この性格がバレちゃって……」
「……難があるのは理解してるんですね……」
「……そんなときにね……当時の上司がね……『碇くん、課長になりたくないか?』って聞いてきたのよ。私のために新しい部署を用意したって、ここには君のいるような場所じゃないって、大抜擢の人事だって」
「……おお……」
「……私もね、その当時の部署で浮いてたから……」
「……どこでも浮きそうですけどね……」
「……」
「すいません……」
課長に睨まれて、アラシが肩を落とした。
「それで、二つ返事でOKしたのよ。そしたら、そこには私しかいなくて……」
「……要は今の部署ですか」
「……そうよ。私の扱いに困った上司がわざわざ部署まで作って私を飛ばしたんだわ……」
「どんだけ問題児だったんですか……」
課長は悲しげな声で話を続けた。
「私……ずっと一人で寂しかったなぁ」
「……」
アラシは黙ってそれを聞く。
「誰もいない部屋で……ずっと一人っきり」
「……」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……話し相手もいないし」
「……」
寂しげで儚い声だ。
「長い時間だったなぁ……」
「……」
悲しい思い出。
「人間、何もしてないと時間が長く感じられるのよね……」
「……そうですね……」
アラシは小さな声で同意する。
「でもね、そんなときにアラシくんが来ることになって……」
「……」
ゆっくりと彼女はアラシの方向を見た。
「嬉しかったなぁ……仕事はなくても一人と二人じゃ大違いだもの」
「……」
アラシは一人だった時の彼女を想像していた。こんな彼女だからこそ一人ではとても寂しかったのだろうと思う。
「……それにアラシくん、私にちょっと似てるし」
「……否定できないところが辛いなぁ……」
そう言いながらも彼は嫌な顔をしていない。
「ふふっ、私一人っきりだったら、辞めちゃってたかもね」
「……」
小さく微笑んだ彼女を見て、アラシは少し気恥ずかしくなっていた。
「……だから……アラシくん、ありがとうねぇ」
アラシを見つめた彼女の目が潤んでいる。
「……うちに来てくれて、私と一緒にいてくれて」
「そんな――課長らしくないですよ……そんなこと言うなんて……」
アラシの瞳も少し濡れているようだ。
「ふふっ、そうね……きっと、まだ酔っ払ってるんだわ」
課長は軽く目元を拭いながら、そういった。
「……もう寝ましょうか」
「……そうですね」
彼女の言葉にアラシは名残惜しそうに小さく頷いた。
二人は椅子から立ち上がって布団に近づく。布団は少しの距離を置いて、隣り合わせに置かれていた。
「じゃあ課長はそっちで、俺はこっちですね」
「はぁい」
眠たげな表情で返事をして彼女は布団の中に丸まりながら入っていた。
彼女がそうしたのを確認してから、アラシも布団に入った。
「すぅすぅ」
すぐに課長の寝息が聞こえてくる。
アラシは少し体を傾けて彼女の方を見た。
「すぅすぅ」
澄んだ寝息が聞こえる。
そんな彼女を見て、アラシは、
「うぅ……女性の寝顔は天使というけれど……課長は普段から無邪気な分、子どもっぽくて……余計にかわいらしく見えてしまうぞ……」
そんなふうに悶々と頭を悩ませ、できるだけ課長を見ないように彼女に背を向けて寝ることにした。
彼女の寝息と深夜の時計が刻むリズム、そして時々遠くから聞こえるフクロウの鳴き声だけが聞こえる音の全てだった。
しばらくすると、アラシの横からパタンっと畳を叩くような音がした。彼は再度、課長の方に目をやる。
どうやら課長が寝返りを打ったらしく、彼女の手足が布団からはみ出ていた。
「寝相わるいなぁ。ほんと子どもみたいな人だ」
アラシは微笑みを浮かべながら、もう一度布団の中で彼女に背を向けて寝ようとした。
「……」
しばらくするとまた、課長がパタンと寝返りを打つ。
「……」
パタンパタン――
どんどん寝返りのタイミングが早くなっているようだ。
「えっ! えっ!」
アラシは音の方向からこの後の状況を想像して焦るが、体が動かない。
そして、ついに――
「ええっ〜〜!」
アラシの布団まで潜り込んできたのである。
「いくらなんでも……」
驚愕するアラシをよそに、体に課長の手足が巻き付き、抱き枕の格好になってしまう。
「すぅすぅ」
彼女の静かな寝息がアラシの耳元に届く。振り向くと彼女の顔がすぐ近くにあり、若々しい彼女の顔に見惚れてしまう。
「ひえぇぇ……」
アラシは情けない声を出した――が、すぐにあることに気づく。
「んん? 何も感触を感じない……あたってるはずのアレとかアレの感触がないぞ!」
この姿勢なら感触があってもおかしくない。
「……すいません、課長」
アラシは敢えて手を伸ばして確認してみた。
「……やっぱり何もない……。そうか、これが……倫理コード……」
そうだ、あれだ。
「何てこった……」
アラシは残念そうに、はぁっと息を吐き出した。
そうして彼女の寝顔を見つめる。
「……でもまぁ、これはこれで、悪くないかも……」
倫理コードによって体の感触はほとんどなかったが、不思議なぬくもりを感じながらアラシは眠りに落ちていった。
◇ ◆ ◇
アラシが目を覚ます。既に朝になっているようだ。
「あれ、ここは? いつの間にか現実に戻ってきてる……」
「……うぅん」
課長も小さな声と共に目をさました。
彼女は周りの様子を見渡してから、まだ眠気の覚めない声で言う。
「……どうやら、一泊コースが終わったようね……」
「なるほど、終わると自動で戻ってくるんですね」
「……アラシくん、私昨日の夜の記憶が全然なくて……」
「えっ! そうですか!」
アラシは昨日の夜のことを思い出して少し動揺した。
「……食事のあと、何があったかしら……」
課長はう〜んとこめかみに手を当てて考え込む。
「課長、気にしすぎるのは良くないですよ!」
アラシはゴホゴホと咳をしながら誤魔化した。
そうして、わざとらしいほどに元気な声を出す。
「さぁ、今日も仕事をしましょう!」
課長も吹っ切れた顔で、
「……そうね! 頑張りましょう!」
と言って立ち上がった。
「でも……」
「でも?」
「その前に腹ごしらえね!」
「確かに、VRの中でしかご飯食べてないから腹減りましたね」
「でしょ?」
というと二人のお腹がぐぅと鳴った。
「でも、業務時間が始まりますけど……」
「いいのよ! 腹が減っては仕事はできぬって言うじゃない」
「……」
「これはいわば私たちが働くための必要経費よ! さぁ行きましょう!」
といってアラシの手を掴んで外に引っ張っていく。
二人の仕事はまだ始まったばかりなのだ。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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