ゲスト・プレイ
/2009.06.22 ――魚散市駅前の喫茶店にて
――その事件のずっと後。
あの辺りの伝承に詳しいという大学教授と話す機会があった。
「……五行の鬼? ああ、あれか」
その教授はそう言って頷き、薄い記憶を引っ張り出すように話し始めた。
「昔々、五行という村に、鬼と呼ばれる存在があった。
鬼は人々を喰らい生きていた。だが、そこに一人の僧が現れ、鬼を調伏し、問うた。
"鬼よ、おまえは何故殺生をするのだ"。
鬼はこう答えた。
"あなた方とて、生きるために獣を狩るでしょう"。
僧はその答えに、然り、と言い、また、こう告げた。
"鬼よ、ならばお前は――」
「ありがとうございます。そこまでで結構です」
「……なに? あと少しなんだが?」
「そうですね。多分、あと少しでしょう」
ですが、と俺は言葉を続ける。
「……そこから先は、俺にとって、真実ではありえないから」
/
『通り魔殺人、また――魚散市』
魚散市五行町で通り魔殺人が発生した。
犠牲者は磯和名・夕月さん(二十一歳)。
磯和名さんは六月十五日に起きた轢き逃げ事件の容疑者として浮上しており……
/2005.06.22.16:22
その日は、雨が降っていた。
季節は初夏――と言うより、梅雨。この地方ではあまり雨が降らないが、やはり鬱屈とした雰囲気が漂う。
雨粒は天から降るうちに速度を増し、槍のように長くなっている。
それらはアスファルトに跳ね、そして排水溝へと流れていく。
傘があっても、ひどく濡れることを覚悟しなければならないほどの豪雨だ。私の足元も、ずいぶん塗れてしまっていた。歩むたびに靴下と靴がいやな音を立てて水を吐き出し、また吸い込んでいく。
時刻は四時頃だろうか。太陽は雨と雲によって覆い隠され、大雑把な推測しか許されない。
時計代わりの携帯電話は、先ほど水溜りに落としてしまい、機能を停止している。
この携帯電話という道具。あまり好きにはなれないが、確かに便利だ。
「……もう過去形ね」
ため息を吐き、便利だった、と思考を訂正する。やはり、一つに頼りすぎるのはいけない、と。リスクマネジメントの初歩の初歩を痛感する。
……フードが壊れたオープンカーしか持っていないのも問題か。
「……今考えても意味がない、か」
足を速めながら、余分な思考を凍結する。
井草君は、もう来てくれているだろうか。私の携帯電話に連絡が取れないとなったら、次に電話が行くのは事務所だ。メモでも取ってくれていたら、昇給させてあげてもいいかもしれない。
……が。彼の身分は、高校生だ。この時間に来ているはずがない。
傘の縁から、空を見上げた。
……雨足は、終息の気配を見せない。雨は嫌いではないが、雨に濡れるのは嫌いだ。かと言って足を速めれば、跳ね上げる泥水は余計に足元を濡らすだろう。
手慰みに、漆黒の傘をくるくると回転させた。鋼の傘骨の先から水滴が飛び散り、僅かに軌跡を残す。
どこか懐かしい、とは思う。だけど、子供っぽいと思って止めた。
本当に、こんな日に出ることも無かった。色々な意味で馬鹿らしい。
……決めた。もう足元の事は気にしない。水溜りがあっても最短経路で事務所に行く。
そう決断すると、少しだけ心が晴れた。その心のまま、晴れの勢いで、足を大きく踏み出す。
冷たい、と思う。足音も当然大きくなる。どちらも正直不快。傘を傾け、前傾姿勢でさらに急ぐ。
――と。大きくなった足音の中に、奇妙な水音が混じった。
「……ん」
眉を寄せ、周囲を見回した。
雨の、どこか静かな音ではない。足元、早足で水溜りを避けながら歩く足音でもない。
言うなれば、腐敗物を投げたような、泥沼を歩くような、血抜きをしていない肉を踏みつけたような、――そんな、粘着質の、どこか生臭い音だ。
……聞こえた方向は左。そこには、闇に伸びる道がある。
「……路地裏」
顔を向けると、音がはっきりと聞こえてきた。
皮を抉るような音。肉を裂くような音。骨を砕くような音。髄を啜るような音。
……雨の中。ニオイは届かない。
……そこは暗い。何があるかなど、見えはしない。
/2005.06.22.16:36
外は大雨だ。
昼から降り続けているが、バケツをひっくり返したような、なんて比喩も通用し続けている。
梅雨とはいえ、この雨はやりすぎというものだ。風が弱いのが救いといえば救いだが、この大雨では些細な慰めでしかない。
「……うわぁー……こりゃ、すごいねぇ」
後ろに座っている女子――真波・南実が、見れば分かることを改めて言う。
僅かに茶色を入れた髪の、ツリ眼の女だ。最初の席替え以来二連続で俺の前の席に来ているので、自然、仲良くなった。馴れ馴れしい性格をしている、ってのも多分に影響している気がするが。
「そうだな」
雨が止む気配はない。これからのことを思うと、少し気が滅入る。
「玖廊……さんだっけ? 事務所行くん?」
「ああ」
ふーん、と彼女はつまらなさそうに言う。
「この雨の中を?」
「お前が明日の飯を奢ってくれるなら行かないが」
窓の外を眺めたままで言う。道路は、川か何かのようだった。
排水溝はとっくに役目を放棄し、水を噴き上げてすらいる。
「行ってらっしゃい」
「……少しは止めろよ。俺もできれば行きたくないんだから」
「やぁよ。ええ、と。まあ、その、ヘンな関係みたいじゃない」
さらりと傷をつけるような事を言うが、冗談めかした口調は、それが本気かどうかを判別させない。
お前なぁ、と言った瞬間、担任が来た。
HRだ。
「戻れよ、真波。今日そこのヤツ休んでるけどよ」
「名前、覚えてないの?」
「まだ三ヵ月も経ってないんだ、当たり前だろ」
「へぇ……可哀想ねぇ、日下さんも」
真波は強くため息を吐く。
視線には哀れみの色がある。誰を哀れんでいるのかは、よく分からないが。
HRは、真波を無視して開始される。
担任もさっさと帰りたいのだろうか。その口調は、早いくせにどこか腑抜けている。
「……はあ」
まったく、と思う。疲れるな、と。
●
HRが終わっても、やはりと言うべきか、希望は潰えたままだった。
「どーすんの、井草」
「どうしようっても、……帰るしかないだろ。この中を」
「……この中を?」
「条件はみんな一緒だろ。文句言うな」
「……私、普段自転車だから足腰が弱くって」
「さらりと嘘を言うな、陸上部期待の長距離エース」
ため息を吐きながら、二人で外を眺めた。
「……いいや。俺は出る、お前も気をつけて帰れよ」
「んー」
ひらひらと手を振る薄情な真波を、前に出ることで視界から消す。
「……さて」
一息気合を入れ、走るか、と脳内で意思を言語にする。
真波ほどじゃないが、俺も走るのは早い方だ。
事務所まで二キロほど。教科書なんかは学校に置いてある。濡れて困るものはない。せいぜいが携帯と財布だ。
革靴なのが多少心配だが、この天気では足元なんて関係ないだろう。
カバンを胸に抱え込み、濡れないようにかばいながら、俺は走った。
●
「井草君? いるの?」
冷たく、高い声が階下から来た。
いますよ、と返事をして書類を置き、洗面所にタオルを取りに行く。
タオルを手に取り振り替えるのと同時に、車庫に繋がる扉から、女性が――俺の雇い主が入ってくる。
黒い傘が無いから出ているのかと思っていたが、それにしては、ちょっと濡れ過ぎなように思う。
「……傘は?」
タオルを出しながら聞くと、彼女は不機嫌な顔でタオルを奪い、赤黒の髪をぐしゃぐしゃと拭き始めた。
……傘が飛んだかどうかしたんだろうか。それとも、車に水をかけられたのか。どちらにせよ、機嫌をこれ以上損ねないでおこう、とだけ思っておく。
「あー、玖廊さん。そんなにしたら髪が……」
「着替えてくるから。私の留守中にあったコト、まとめておいて」
彼女は(俺の言葉を無視して)そう言い放ち、三階――居住スペースへと向かっていく。
階段は急だが、彼女はロングスカートを非常に好む。見えるのは精々足首だ。……勿論、覗こうなんて気はない。念のため。
同じ服を十枚以上持っているらしく、今の服装――黒い長袖シャツにロングスカート――が彼女の常の服装だ。好みすぎ、と言っても過言ではないように思う。
とりあえず、シャワーを浴びてくるだろう。猶予は十数分程度か。
「……まとめておけ、か」
かなりアバウトな指示だ。
まあ、彼女が饒舌になるのは俺をからかう時だけなので、言葉少ななのはむしろいい事だ。
「とりあえず、ファックスと、電話してきた相手と……だけ、か?」
下手にまとめたら給与カットとかしてくれそうなので、選択は慎重になさなければならない。
誰も来なかった事は、ちょっとした救いだ。コーヒーを淹れるくらいしか、バイトにできる事はない。待たせておくのも気が引けると言うものだ。
A4紙に、電話相手とその簡単な用件をまとめる。
木製の、大きな仕事机の上にそれを置き、猫舌である玖廊さんのために、少し冷めることを予見して普通の温度でコーヒーを淹れる。
「……よし」
時計を見ると、十二分が経っていた。
玖廊さんは身だしなみにかなり無頓着なので、そろそろシャワーから上がってくるだろう。
……昇給があるかもしれないので、仕事をしながら待つことにする。
仕事とは、彼女が面倒くさがるもの全般だ。
例えば、宛名書き。資料整理。張り込み。写真現像。掃除。洗濯。目覚まし。料理。ついこの間は、床屋の真似までさせられた。
給与も基本的に彼女の気まぐれであり、この一週間で二十円ほど下がっている。雨が降り続いていることと関係があるのかもしれないが、俺にできるのは、機嫌を損ねないよう、給料を上げてもらえるよう、仕事に励むことだけだ。
今、この場合は、掃除、もしくは資料整理になる。とりあえず手近にある資料整理を選択した。本格的な整理ではない。手に取った山を仕事の種類、日時、それから五十音順に並べるだけの単純作業だ。
しかし、玖廊さんの想像を絶する掃除・整理嫌いのせいで、その作業すら難航することがある。
それでも集中が軌道に乗れば、手を動かすだけの作業になる。そうなれば、思考は勝手に一人歩きをする。
玖廊さんは引きこもりなので、今日出歩いたのも実はかなり珍しいことだった。
「……用事があるって昨日言ってたか」
依頼人と外で会ってきたんだろうか、と思う。
彼女は何も言わない。シフトを決めることもしない。来れる時に来て仕事をしなさい、と。ただ鍵を渡して、俺がいてもいなくても変わらないような仕事と生活を続けている。
まあ、その辺りは俺が干渉するべき部分ではない。資料整理に励むべきだ。
「とりあえず、資料をあちこちにフッ飛ばすのはやめてほしいんだよなぁ……」
ため息を吐きながら、半年前の資料を整頓していく。
玖廊さんの年齢は分からないが、せいぜい二十代半ばに手が届くかどうか、というところだろう。
しかし書類は十二年ほど前のものからあり、……実は玖廊さん大変な若作りなのか、と疑ってしまうこともある。童顔だし。
推測年齢だって、『五年前に運転免許を取った』という発言からの薄弱な根拠からだ。
と。
「怠けてないみたいね」
「っ、」
唐突に、肩甲骨の間辺りで声がした。
振り返らなくとも分かる。玖廊さんは、こんなユカイな悪戯が大好きだ。
「……玖廊さん。気配を断たないでください」
「嫌」
振り返ると、赤黒の髪と、冷笑を――そうにしか見えない笑みを浮かべる玖廊さんが見えた。
女性としては、平均より少し下程度の身長。服装はやはり黒一色のセーターとロングスカートで、童顔が俺を見上げている。
……そう。童顔。顔自体に威圧感や迫力は無い――と言うか、目を閉じさせたなら、むしろ優しそうな風貌ですらある。しかし、その印象は、冷たく冴えた青眼で覆る。夜の中で光るような、空を背景にしても際立つような――そんな、鷹のような眼だ。
「……どうしたの?」
「……なんでもありません」
手元の資料を置き、笑う玖廊さんに向き直る。
「玖廊さん。髪ぐしゃぐしゃですよ」
「誰に会うわけでもないし、いいじゃない。出かけるときには梳るから」
「痛みますよ」
「大丈夫。髪も肌も強い方だから」
「……だからと言って、前みたいにボディーソープで洗うってのはやめてくださいね」
「分かってる」
井草君がうるさいからね、と言う彼女は、右手にメモとファックスの束を、左手にコーヒーを持っていた。
機嫌は悪くないようだ。彼女はコーヒーを口に含み、ゆっくりと嚥下していく。
「……うん。いつもどおり、不味くはないわね」
まあただのドリップコーヒーですが、と心中で呟く。
俺も彼女もコーヒー党なので、できれば豆からこだわってみたいが、玖廊さんはこれでいい、と現状で満足している。欲があまり無いのはいい事かもしれないが、こういう所で、彼女は頑固だ。
「そう言えば、また出たんですよね。――『人喰い鬼』」
「そうね」
視線の先、たたまれた新聞――その一面には、犠牲者の顔写真とこれまでの経緯がでかでかと書いてある。
数ヶ月前から連続して起きる殺人事件。『人喰い鬼』とは、その事件の犯人のあだ名だ。
殺害方法は実に単純。
――喰いちぎる。
その箇所は喉笛であったり乳房であったり四肢であったり顔面であったりと様々だ。
昨日で犠牲者は十二人。この県において、戦後最悪の犯罪――早くもその名をほしいままにする事件だ。
「あ。今日も犠牲者が出てるから」
「今日もですか!? どこからそんな情報を――」
「だって、まさにその場を通ってきたもの」
……固まる。
玖廊さんは真顔で嘘を言うが、この嘘は少し悪質すぎる。
「い、いや、そんな――」
「信じないなら信じないでもいいけどね」
浮かぶ笑みはキレイなもので、――しかしやたら性悪なものだった。
……どうやら、と自分の理性に対して言い訳をしつつ、本当らしい、と結論を下す。
「自分の身には気をつけてください。そういう所に行かないとか……」
「あら? バイト代が心配?」
「そりゃ、その通りですけど」
建前も何もかもをすっ飛ばした物言いだ。
無意識のうちに眉根が寄るが、
「分かった。これから気をつけるから」
でも、そこでイエスと答えるのもどうかと思う、と。その冗談めかした口調で、眉尻が下がる。
「……それじゃあ、整理お願いね」
「分かりました」
頷き、僅かに笑みを浮かべる玖廊さんを見送る。
彼女は机につき、少し苦そうな顔をしつつ、コーヒーを嚥下していく。
「さて」
それじゃあ。明日のご飯のため、今日も仕事を頑張るとしよう――。
●
事件は、物理的には近くても、心理的には空の彼方にあった。
学校で聞いた噂も、霞か何かのように遠い。
……勿論。これは、完全な錯覚だったのだが。
/2005.06.22.19:00
夜道を、少女が歩いている。ビニール傘をくるくると回しながらの歩みだ。
雨足は強く、いまだやむ気配を見せない。
だが、彼女の顔は上を向き、眉尻も下がっている。雨音に混じって聞こえてくるのは鼻唄だ。
「いい雨……」
足元は革靴だ。最初は冷たかったが、今は己の熱で、生暖かい、と言えるほどになっている。
傘をくれた教師に感謝をする。
教師二年目、と新任の女性教師で、陸上部の顧問に即立候補してくれた、という。
……ホープが風邪をひいちゃいけないからね、か。
強引な教師のことを思い出しつつ、頷く。
「やっぱ努力はしておくべきだわー」
同級生の顔を思い浮かべる。一年だというのにブレザーを着崩した少年のことを。
きっとぐしょ濡れになって帰ったのだろう、と思うと、自然に頬が緩んだ。
その緩みは、優越感などによるものではない。もっとキレイな――
「と、と」
三歩後戻りして回れ左。
そこは、クリーム色の外壁を持つ一軒家だ。庭には取り込み忘れの洗濯物がいくつかかかっており、二階やリビングからは電灯の明かりが漏れている。雨音に混じって何か大きな音も聞こえた。
表札には、真波、とある。表札には四つの名があり、その中には、真波・南実の名もある。彼女自身の名だ。
ドアに近づくと、なにやら階段を転げ落ちているらしい音が聞こえた。さらに、やたら鈍い音が追加で届く。
「……法が何かやらかしたかな」
まったくあの子は背ばかり高くなって、と、ドアを開いた瞬間、
●
……傘は、どこに行ってしまったんだろう。あの、頑固な先生からもらった、安物の、だけど、とてもあたたかな――
がつがつと、音が聞こえた。
場所は腹部だった。
……そう。探して、明日、返しに行かないと。
寒かった。汗や風呂上りの気化冷却のように、表面から奪われていく寒さではない。骨髄からの寒さ、――命が抜けていくような寒さだ。
……ああ、だから。傘を、取りに、行かない、と。立ち、あがらないと。
全身に力を込めても、最早その身は痙攣すら起こさない。指先が、微かにかりかりと音を立てるのみだ。
彼女に、もう外は見えていない。要因は、二度とモノを見れないほどの損傷だ。
……明日は、傘を三本持って行く。先生に、傘を返して、私と、アイツで――
呼吸が止まる。
途切れていく。
/2005.06.23.08:16
朝。学校に着くと、髪の長い女生徒が俺の机に座っていた。
静かな、しかしどこか張り詰めた雰囲気を持つ、いまどき珍しい大和撫子さんだった。
「あー……おい? 日下……だっけ?」
彼女がこちらを見る目は、いやにぼぅっとしている。
「あー……ぅー……」
生鮮死体みたいな声が来た。
低血圧なのか、寝不足なのか、その両方か。とりあえず、事実を告げる。
「そこ、俺の机なんだが」
「あー……はー……い。ごめんなさい。寝かせてください」
返ってきたのはなにやら日本語としてというか文脈的におかしい答えだった。
「話をつなげる努力をしろよ……」
ため息を吐き、仕方なく日下の席に座る。
「私……この三日……」
……寝息が聞こえてきた。
「何を言いたかったんだろうか……」
ううむ、と唸ってはみたが、寝てない、以外の続きを思いつくことはできなかった。
きっと日下にも事情があるのだろう。放置、と決定を下し、日下のつむじを眺める。
……それにしても、と思う。
「真波、おせぇなぁ……」
アイツは基本的に健康優良児らしく、子供のように早寝早起きだ。まだ数ヶ月程度の関係ではあるが、彼女が寝坊したと聞いたら腰を抜かす自信がある。
外は曇り。昨日までの雨は無い。雨で動けないなんてこともないはずだ。
と。
「……聞いたかよ」
そんな声が、届いてきた。
「……ああ。――が――だって噂か? ああ、それなら、聞いたさ」
「さっさと捕まればいいよな、人を殺すヤツなんてさ」
――その声には、悲しみと、正しき悪意が乗る。
「…………」
思ったよりも、衝撃が少ないことに気づく。
誰に対する断りか、沈黙を数秒交えてから理由を口にする。
「嘘くせぇ」
まったくその通りであった。
この町の人口など知らないが、そうなる可能性など数千分の一だ、という事ぐらいは分かる。宝くじに当たるようなものだ。
いやうんそうだよな、と頷き、つむじの観察作業に戻る。
「…………」
……正しき悪意。その悪意は、義憤とも呼ばれるものだ。
檻より外れたモノへの煮えたぎる哀切。檻より逃れたモノへの冷え切った憤怒。
感情は渦を巻き、檻(教室)を支配する。
観察していたつむじに手刀を入れ、日下を起こす。
「……はい。寝てませんでしたよぅ……」
そういう日下のまぶたは開く気配がない。諦め、日下の机に肘をつく。
暗い、昏い衝動に呑まれぬよう、俺もまぶたを下ろした。
●
「こんにちはー」
明るい声で、挨拶をした。
玖廊さんは視線を手元の書類から外さず、機械か何かのようにすらすらと命令をする。
「ああ、こんにちは。井草君。早速で悪いんだけど、コーヒーを淹れて頂戴」
『早速で悪いんだけど』って言葉はいつからただの枕詞に成り下がったのだろうか。労いの視線も意思もない。当たり前のように使役される俺の立場に心中で涙しつつ、コーヒーを淹れる為に台所へ。
いつものように、インスタントコーヒーだ。古く大きいコーヒーメーカーもあるが、『うるさい』との理由で、動いているところは一度も目撃していない。
「……豆はあるのになぁ」
こってみたい所ではある。が、今は目先のインスタントだ。
やかんに水を入れ、コンロにかける。基本的に玖廊さんは機械が苦手なので、ポットも置いていない。
テレビだって、未だにカラーになり立ての骨董品を使っているのだから驚きだ。
「……ここだけ二十年前って言われても信じるぞ、俺は」
無ければ無いで困らないものだが、あった方が便利なのは当然だろう。
「……携帯電話も最近買ったらしいからなぁ」
しかも老人用の、画面が大きく、いちいちヘルプがうるさいアレ。本人が言うには『これで十二分』らしいが。
ため息を吐き、五月頭の惨状を思い出す。掃除機すら使えずにいて、埃だらけだったこの事務所を。
それでも仕事があったのだから、不思議と言えば不思議だった。
「……そういえば玖廊さん」
……ふと。いずれ知ることになる事実を、問うた。
視線の先には、古いくせに歴史が浅そうな台所が、ある。
「なに?」
「また、事件起こったんですか?」
「事件? ――ああ」
あの事件ね、と。その言葉と同時に、椅子が動く音がした。
スリッパの軽い足音が、ぱた、ぱたとこちらに向かってくる。
「今回はどこの誰が? 俺、こっちには引っ越してきたばっかりなんで、知り合いとかは少ないんですけど――」
自分で言っていて思う。笑えない冗談だ、と。
……足音が止まる。俺の真後ろで。
「被害にあったのは、真波家。四人全員が死亡してる」
あなたの友達の、と。駄目押しのように、暗い声が来る。
「…………へぇ。アイツが。詳しく教えてもらえますか?」
ん、と彼女は一瞬間を置いた。思い出そうとしたのか、それとも躊躇したのか。それは分からないが、出てきた言葉はよどみない。
「犠牲者は、真波家。家族四人全員が殺害されていた。警察が調べたところ、母親は真波・法の部屋で失血死、真波・法は、逃げようとしたのか、玄関先で首裏を食いちぎられて死亡。父親は居間で失血死。真波・奈美は、犯人が持ち去ったのか、遺体こそ見つからなかったものの、庭先に内臓が引きちぎられて放置されていたこと、大量――致死量の血痕が確認されたことから、死亡した、と考えられている。雨のせいで血痕が流されて捜査は難航。それでも、警察としては、久しぶりのきちんとした証拠で喜んでいるみたいね」
「ありがとうございます」
ふと思う。葬式は誰がやるのだろうか、と。
まあ、親戚ぐらいいるだろう。それにアイツは、父母妹の四人家族で、祖父母とは暮らしていない。祖父母が全員亡くなっているのも可能性の一つだが、別に大丈夫だとは思う。
アイツの家には何度か行ったことがあるが、……思えばそれはそれでいいのだろうかとか思ったりもする。男女的に、と。ああいや、良かったのか、か。今はもう過去形だ。
話がズレた。誰に話しているわけでもない、……いや、これはきっと、日記と同じだ。未来の己に対して話している。
とにかく続けよう。どこまで考えたんだったかしばし黙考。……ああ、『アイツの家には何度か行ったことがあるが』からか。
仏間を見ても、モノクロの写真しかなかったように思う。このご時世、モノクロ写真と言うのも珍しいので、多分、大丈夫だ。
アイツの家族といえば、その妹がまた強烈だった。インパクトが。法、と書いて、のりと、と読む妹だ。あれで十四歳と言うのだから恐れ入る。将来は間違いなく八九三の姐御さんだろうと思ったものだった。
何で妹ばかり言っているかと言えば、アイツの家族で、一番見知っているからだったりする。俺が末っ子なので、実は羨ましく思ったりもした。そのせいもあるだろう。
両親もまた、面白い人たちだった。あんな暖かい家族を知っていて、ちょっとうざったそうにする真波を羨んだりもしたものだ。
ああ、俺は彼女を本当に羨ましいと思っていた。
きれいな生き方をしていると思っていた。
男女間での友情を確立したと思っていた。もしも同性であればマジ親友だ。真波が男ならばおそらく共に夜を出歩き、俺が女ならばふざけてチチ揉んだりしたんだろう。
……こんなときにエロいことを考える思春期の脳に絶望する。
思えばアイツは中々いい体をしていたように思う。胸は無かったが尻はよかった。嘘だが。エロい目で見れるほど、アイツは色気があったわけではない。健康的な色気なんて言うが、それはつまり誤魔化しで、正直アイツがこれからの時期たとえブラジルのカーニバルみたいな水着を着ていてもちっとも欲情しないだろう。
そう。アイツは男みたいに……と言うと男女差別だろうか。まあとにかく、ひどくさっぱりとしたヤツだった。恋愛感情だったかどうかは分からないが、少なくとも、一緒にいて楽しかったのは確かだ。楽しかった。
……何度も繰り返すが。これはもう過去形でしか語れないことだった。
「井草君?」
気づけば、俺はコーヒーを飲んでいた。
舌と唇が僅かに痛い。
あち、と感想を持ったからには、多分、熱いコーヒーを飲み下したせいなのだろう。
「……ああ、その。ぼーっとしてました。すみません」
駄目だなぁ、と頭をかいて、またコーヒーを飲み下した。
「それは誰に淹れたコーヒー? 私もコーヒーが欲しいんだけれど」
「あ、ええと、すみません今淹れます」
二重に間抜けだった。
玖廊さんの方を見れば、はぁあ、と深いため息を吐くところだった。
「今日はもういいから、帰って休みなさい。クラスメイトが被害者になって、ショックを受けるのも分かるけど――」
「あー、はい。そうさせてもらいますね。さすがに調子が悪いです」
ははは、と自分らしくないサワヤカな笑顔を浮かべた。コーヒーを機械みたいな動作で排水溝に捨てて、新たなマグにコーヒーを注いでいく。いやまあインスタントだが。
「井草君」
「言われたことぐらいはやっておかないと」
スティックシュガーを三本とシロップを二つ、スプーンを付け加えて、玖廊さんの机に歩く。
「……井草君」
三度の呼称は、玖廊さんが故障したみたいにひどい響きだった。
玖廊さんが崩れているのか、俺の耳がイカレているのか。
どちらにせよ。そろそろ、限界が近い。
「それじゃあ、また来ます。今日はすみません」
「いい。きちんと帰って、ゆっくり休んで頂戴」
はい、と笑顔で返事をする。
軽いカバンを手に持って、スリッパのまま応接間から出た。
ドアの先には、コンクリートを打ちっぱなしの冷たい階段がある。狭い踊り場には、申し訳程度の靴箱とマットしかない。
夜気と冷気が、階下から上ってくる。
「……雨かぁ」
皮靴を履き、階段を下りていく。
一階、車庫のシェルビー・コブラにカバンと上着を乗せる。時計を外し、携帯をカバンの上に置いた。
せめて、と靴紐を結びなおし、雨の中に歩み出る。
雲は重く垂れ込めている。雨は冷たく、その勢いは痛いほどで、六月とは思えないほど気温が低い。
「…………」
この感触も、アイツは最早味わえない。
「…………」
もう、言葉は出ない。肺は走るために機能する。
――燃える。燃える。悪意が燃える。
忘れるなと、忘れさせるなと、犯人を――『人食い鬼』を捕らえろと、心が吼える。
夜気を裂くように、疾走を開始した。
/
行ってしまったか、と彼女は思う。
窓外には激しい雨音。僅かに混じるのは、強く踏み込んでいく足音。
行かなければならない、と思う。
……コーヒーは冷めてしまいそうだけど。
熱くて飲めないそれを、机に置いた。
彼女は静かに、上階へと向かう。
……行かなければ、ならない。
何故なら、
「この身は――――」
/6.【逢魔ヶ刻】
――結果として。激情に任せた疾走は、実に良好で最悪な成果を残した。
逢魔ヶ刻。逢魔ヶ辻。
誰も出歩かない寂れた十字路の真ん中で、俺は女性を押し倒す存在を見つけた。
押し倒しているのは、男とも女とも分からない――夜闇よりも暗い黒。影のような、存在だった。
人影、と言うにも、シルエットが怪しい。胴体が虫食いだらけで、腕らしきものが欠けているわりに、触手のようなものが何本も出ている。
「……クゥアアアア」
影が、息を吐き出す。雨だと言うのに、周囲は生臭さで満ちている。
雨に混じって、赤黒い液体が落ちていく。
それが落着するのは、貌を亡くした女性の喉奥。真っ赤に汚れた服装から類推するに、女子大生か何か、か。
影が伸びる。おそらくは、立ち上がった。
……触手だと思っていたもののうち、二本は違うものだと思い知る。こちらに貌を向けたその影は、真っ赤な口腔と、黄金に輝く濁った目、歪に捻じ曲がり伸びた角を持っている。
影は一歩を踏み出そうとしている。だが、その動きはひどく遅い。だが、爪も牙もない身、どう考えても殺される――筈だが。ふと、意外に冷静である自分に気づく。女性の死体は、それはもう無残だった。まず、頭の前半分がない。噛み砕かれたのだろうか、少し大きな頭蓋骨のかけらが落ちていた。内蔵は既に食い散らかされ、腸が長く伸びて流れに乗ってゆらゆらと揺れていた。死に顔は想像することしかできないが、一生浮かべたくない種別のはずだった。そのグロテスクさは、この異常状況下にあって、ひどく自然な風景だ。
「――――」
あれ、と口にしようとして、ひどく緩慢であることに気づく。影は一歩を踏み出そうとしている。だが、その動きは、ひどく――おそ、い? 一歩の間に何文字考えているのだろうか、俺は。テンションが高いと、確かに頭脳はひどく激しく稼動する。だが、今の俺は、疲労困憊だった。疾走の代償は、脳に渡る酸素の不足である。酸素がなければ、それを糧にする脳が高速稼動できるはずがない。
……ようやく、影が一歩を踏みしめた。そこで悟る。
「ああ」
――影が――『食人鬼』が来る。人間の動体視力と反射神経を超越した動きで。よく聞く話だ。死を直感した肉体が、体感時間を引き延ばす。この場合は、全くの無駄だったが。衝撃。肩ごと右腕を引っこ抜かれるような感覚。顔がアスファルトをこすり、そして削られた。
「、」
息が出る。だが、食人鬼は止まらない。そのまま俺をアスファルトに押し付け、その真っ赤な真っ赤な口腔をがぱぁと開く。止められない。右腕には感覚がない。多分折れている。左腕は食人鬼に押さえつけられている。そもそも、そんな人間の対応が間に合うタイムスケールではない。
死ぬ。殺される。紛れもなく。間違いなく。食人鬼は、俺を、食い散らかす。
「ぁ、」
恐怖で思考が無駄クロックを刻む。
意気を持って飛び出した。
意志を持って駆け出した。
結末はどうだ。何もできず。何も言えず。ただ、餌になりに来ただけだった。
ぐはぁ、とケモノの吐息が、肩口の辺りから聞こえてきた。
鎖骨が握り折られた。名前を知らない肩の骨も少々。同時、首筋に、ブツリ、と牙が入る。
視界が裏返る。目蓋の上に行き黒く、痛みで白に。
――喰われる、と。その恐怖が来るが、動けない。
食われる恐怖と痛みに神経と心が凍る。
「ま、なみ――」
駄目だった。
無謀だった。
諦めるしかなかった。
逆転の手なんて何もない。
俺はどこまでもただの人間で、錯乱していただけだった。
叫びはおろか、祈りすら届かない、その絶望の中で。
鬼は確かに、そう言った。
「い、ぐさ、――」
握り締められる、砕けた肩。人生最大級の痛みで、あっさりと意識が落ちる。
最後に。
水溜りを踏む、靴の音を聞いた。
/7.【闇】
――ぱしゃん、と水溜りを踏む音。
食人鬼は、その音を聞いた。
黒い傘。黒いスカート。黒い靴。
白い手。白い首筋。白い顔。
赤黒の髪を翻しながら、その女は歩く。黒い傘をくるくると回し。モノクロ写真のように色のない笑みを浮かべながら。
彼女は、緩慢な動作で、懐から、面を取り出す。
――鬼の面。
その髪と同じく赤黒く染まったソレを、彼女は面前に備えた。
「…………ぐぅうううう」
食人鬼が、握り締めていた肩を離し、獣の構えを取った。
その姿は、人のモノではなく――最早、鬼ですらない。
が、と吐いた呼気。黄金の瞳に獣の理性――本能が宿る。
「……は」
しかし、モノクロの女は、獣を恐れない。
濡れた裾を押しのけるように、一歩を踏み込む。
「……あなたは、行方不明でなくてはならない」
小さく。囁くように、彼女は言う。
「彼のために。彼と契約を交わした私のために」
なにより、と、彼女は口を噤む。
……食人鬼は、僅かに震えた。
言葉の先を知ったからか。それとも、恐れぬモノクロの女を恐れてか。
――食人鬼が駆け出す。
高速。
動作開始から最高速度。飛沫を信号機の上まで叩き上げて、食人鬼は奔る。
同時、
が、
と、粘着質の水音がぶちまけられた。肌を引き千切る音と肉を噛み千切る音と骨を折り千切る音が連鎖し、食人鬼の左半身が消失する。黒い血がばら撒かれ、無様に転げた。が、すぐさま右手右足だけで飛び上がり、呼気を吐き出す。その生臭さに対応し、影が、ぞる、と蠢き、欠けた四肢を補完した。
一瞬の停滞すらなく、食人鬼は再度の突撃を行う。
対し、モノクロの女は鬼の面を下ろし、傘を閉じた。
あまりにも緩慢でありながら、その動作は突撃よりも早い。
それでも獣は止まらない。退却は無い。なにより、逃げられないと本能が悟っているが故に。
両者の口が開く。言葉を紡ぐために。敵を喰うために。
「さようなら、――――。光ならぬ身は、闇へと還りなさい」
――――鬼が出た。
鷹の眼を持つ、伝説の、人食い鬼が。
/8.【事務所】
梅雨の切れ間。よく晴れた午後。
学校が午後から休みだったので事務所に顔を出すと、がきがきひどい音が聞こえてきた。
「…………」
何の音だろうか、と。音の出所である台所を覗いてみた。
原因は単純。コーヒーメーカーが動いていた。
その前に腕を組んでたたずむのは、誰あろう、コーヒーメーカーに文句をぶちまけていた玖廊さんその人である。
「……こんにちは、井草君」
「こ、こんにちは」
……珍しいこともあるものだ。
玖廊さんが、面倒くさいことを、自分からやろうとするだなんて。
たとえ俺が来たから『後はやっておいて』と言われるとしても、この成長は実に感動できる事実である。
「……もうちょっと待ってて。多分、インスタントより美味しいから」
耳がおかしいのか脳がおかしいのかそれとも声を伝達させる大気がおかしいのか疑ってみた。確かめる術はないので、大丈夫なものとして話を進める。
「ありがとうございます」
「あなたのエンゲル係数を聞いて心配になっただけだから気にしないで」
……そうなのだ。
「車に轢かれたっても、まあ、意外と怪我なかったから大丈夫ですよ。ここに――」
俺は、飛び出して行って車に轢かれ、あっさり入院した。
打ち身と擦り傷ばかりだったが、検査入院で俺の財布の中身はほとんどすっ飛んでしまった。
意識も無かったものだから、アイツ――真波・南見の葬式にも、出れず終いだった。
「――しばらく傷は残るみたいですが」
ひどくすりむいた頬を押さえながら言い、ソファーにカバンを置いた。
特に強く打った右肩が、少し痛む。
「……ん。よし。取りに来て」
分かりました、と台所へ、歩んでいく。
味に期待を持ちつつ、きれいに晴れた空を見る。
「玖廊さん」
「なに?」
「人食い鬼は――どうなりましたか」
「もう出ない」
学校で、いつの間にか流れていた噂だ。
――曰く。『食人鬼は、殺された』。
警察に処理された、鬼に殺された、誰に殺されたのか、は定かではないが――とにかく。人食い鬼は、もう出ない。
俺が仇を討てなかった――と思わないでもないが、結果的にその仇を取れたなら文句はない。
「……そう、ですか」
僅かに、頬がほころぶ。
せっかくなので、砂糖を多めに入れて、ゆっくりと飲んでいく。
……盆には、墓参りに行こう。
梅雨にも晴れ間はあるし、明けは必ずやってくる。
きっとそうなのだ、と。今は、信じられる気がした。
/9.【幕切れ】
ざぁざぁと雨がうるさい。
地に落ちた死体は、眼窩にたまる雨水を、口腔に這入る雨水を、腸に混じる雨水を、全て受け入れていく。
それは、影を全て食われ、背骨で辛うじて接続していた下半身を消し飛ばされた、少女だ。
「……なにより。救われないあなたのために」
降りしきる雨の中。
口元に血の紅を付けた女、――玖廊・静は、少女――真波・南見の最期を、見届けようとしている。
……これはきっと、彼の役目だ。
思うが、もう間に合わない。もう数分の猶予もない。彼が目覚めるための時間とは、希望のような壁がある。
「……わたし、は」
こぽこぽと、奇跡のような発音が、雨を僅かに乱す。
「ひとを、たべたくなんて、なかった」
「……ええ、分かっている。だって、あなたはまだ―― 一人目なんでしょう?」
真波に言葉は届かない。既に耳なんて器官はそぎ落とされている。
「……あなたの妹が発現したのは、本当に不幸な事故だった」
それでも、玖廊は言葉を紡いでいく。
「きっかけは――多分、私のせいだけれど」
その声音は、雨音よりも平坦だ。
「……さようなら。あなたが少し、羨ましい」
真波のまぶたを閉じ、玖廊は、井草・仁に歩み寄る。
手を当てて行うのは、二度目となる、治療と略奪だ。
真波・南見を捕食して得た生命力を分け与え、傷を癒し、同時に、記憶を奪っていく。
憤怒の記憶が、胃に入る。黒く、しかし正しい、強い感情が。
小さく――本当に小さく。彼女は、ごめんなさい、と、謝った。
「……それはそうと」
帯の下、へその下辺りから、くるる、と音がする。
「ごはんを――食べに行かなきゃ」
――五行の人食い鬼は、罪人と敵のみを捕食対象とする。
またどこかで、罪人が生まれた。
原初の罪人(自分自身)を無視しながら――五行の鬼は、夜の街を往く。
この地の人々を守るため――客人である、井草のため。
ぱしゃん、ぱしゃんと。水たまりを、子供のように踏みながら。
→To Be Continued...?