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ある後悔

 私には、ある後悔がある。

 それがあんまりにも重いものだから、私は、前に進もうとしても、進めなかった。

 だから、そう。その後悔が何だったのかなんて、私は忘れてしまった――。


/


 秋口だって言うのに、今日も今日とてお天道様は元気に働いている。

 木枯らしどころか風も吹かない九月中旬の道を、学校目指して歩いていく。

 生活リズムが崩れているせいか、どうも調子がおかしい。

 体内時計と実時間のズレはどうか、と左手首を見て、……時計をなくしたことを思い出す。

 ため息を一つ。諦めの念で空を仰ぐ。

「はぁ……まあでも、いい天気よね」

 雲は全天の一割以下――晴天だ。この天気は心地がいい。気分はそう、生鮮死体<ゾンビ>を日光が煮沸消毒する感じ。

 そんなわけで気分よく歩いていたら、背後から真田の呼び声が聞こえてきた。

「浅間」

「ん」

 振り返り、ひらひらと手を振る。

 真田は、何と言うか、無駄に爽やかな男だ。暑苦しいと言い換えてもいい。

 中学時代、おおよそ四年前に隣に越してきた頃から、真田家と我が浅間家はそれなりの友好関係を築いてきた。

 幼馴染、と言うには年月が浅い。が、それなりに気心が知れているのは確かだった。

 いつもは寝坊野郎の真田なので、こんなところで会うのは結構珍しい。

 まあ、仕方ないといえば仕方ない時期でもある。

 私の部活<剣道部>は、目下テスト休み中だからだ。

「その……大丈夫、か?」

「ああうんとても大丈夫。心配するならさ、真田、アンタの成績をだね」

「……そうだな」

 そうして、真田は黙ってしまう。

 まったく、何を言いたかったのか。正直、何を心配されていたのかも、よく分からない。

「部活もテストで休みだからね。気合入れて勉強しないと、お金出してくれてるおじさんに申し訳ないし」

「……いいな、その覚悟。俺、そんな風に思えても実行はできないんだよなぁ」

「そりゃアンタの意思が薄弱ってだけでしょ」

「うわキッツー……」

「そりゃ、アンタの心配なんて、私がするものじゃないもの」

 真田はむっとした顔で黙る。少し言い過ぎただろうか。口が悪いのは、昔からよく×××に言われ、


『お姉ちゃんは――――』


 くらっ、と来たが大丈夫。

 私は頑丈なのだ。

 真田の表情を見れば、さっきみたいな沈んだ顔ではないので、まずは一安心だ。

「……やれやれ、アンタもよく私についてくるね」

「ん?」

「いや、私も言い過ぎたってコト。御免ね」

「……いや、最初に会った時から、色々諦めてる。五分もしたら忘れるよ」

「さすが暗記系科目赤点常習者」

「一々お前の言動全部覚えてたら俺今頃脳の血管千切れてるなぁハハハ」

「全部覚えておくだなんて不可能なことを言い出すなんてまた馬鹿だなぁハハハ」

 二人で和やかに笑いつつ歩く。

 次に出すのは、テスト前恒例の話題だ。

「ところで真田、アンタは今回、どうするの? テスト後」

「葛桐たちとボーリングかな。それがどうかしたのか?」

「葛桐君が行くなら委員長とか鹿島とかも行くのかな。よし、私もくっついてく」

「やめろよノーコン。点数一桁とか俺初めて見たぞ」

「黙れガーター三往復。ボーリングはパワーじゃないって分かってる? その無駄な筋肉そぎ落として自給自足生活してな。地球環境に優しくさ」

 ……と、そんな風に、和やかに互いを罵倒しながら歩いていたら、そろそろ人が多くなってきた。

 学生服とセーラー服の、同じ学校に通う生徒たちだ。

 知った顔を見つけたのか、真田が駆け出す。

「……お。おーい、葛桐ー! お前宿題やってきたかー!?」

 駆け寄った先にいるのは、長身の同級生だ。呼びかけから宿題目当てと分かる真田に嫌な顔一つせず、爽やかな笑顔で応対している。

 一つ、あくびをする。

 テスト前で浮き足立っているのは確か。けど、それも日常、今日も日常。平常運転だ。

「……さて。宿題、かぁ……」

 出てるのなんて知らなかったなぁ、と呟きながら、私は校門を抜ける。


/


 ……暗い淵から、彼女の呼びかけが聞こえた。

『お姉ちゃん、いつも眉毛逆ハの字だねぇ』

 ……うるさい。顔に文句つけたって仕方ないじゃない。分かる?

『お姉ちゃん、笑おうよ。口への字にしたら可愛くないよ?』

 ……うるさい。笑って敵が弱くなるものか。

『お姉ちゃん、髪伸ばしてみようよ。剣術小町って言ったらポニーテールじゃない?』

 ……うるさい。邪魔なだけだ。

『お姉ちゃん、あんまり口が悪いのもどうかと思うよ?』

 ……うるさい。媚を売ってどうにかなるなら苦労しない。

『お姉ちゃん、お肌も髪もきれいなのに、もったいないなぁ』

『お姉ちゃん、指とか細くてうらやましいなぁ』

『お姉ちゃん、剣道強いんだね』

『お姉ちゃん、どうしてそんな体であんな大きな人と戦えるの?』

『お姉ちゃん、眉毛とかきれいなカタチしてるよねぇ』

『お姉ちゃん、プレゼント何がいい?』

 ……うるさい。うるさい。うるさいうるさいうるさいうるさい。

 頼むから。夢の中でくらい――静かにしていてほしい。

 ああ、思い出してしまう。記憶が再生されてしまう。

『お姉ちゃん、私ね、お姉ちゃんのこと――』

 ……お願いだから、その先を、言わないで、ください。

『――大嫌い』


/


「――っゃめろぉっ!!!!」

 跳ね起きると、教室の視線は全て私のものだった。

「……あ、その」

 総勢三十八人、七十六の視線が痛い。

「……ええと」

 周囲を一望し、とりあえず謝った。

「……御免ね?」

 あははー、などと笑ってみるが、大して効果はなし。

 が、一つの契機にはなったようで、周囲がやっと動き出す。

 教諭が一つため息を吐き、黒板をごつごつとノックする。

「浅間。この問題を解きなさい」

 見れば、……ああ、一昨日やった箇所だ。

 まだ夢の残滓が残る脳を、軽い首振りでアジャスト。立ち上がって、黒板まで歩いていく。

 いつの間に寝たのだろうか、とは考えない。が、寝たと言うよりは意識を失ったと言う方が正しい眠りだった、とは思う。

「あー……と。2x+5y=0に平行な直線で……」

 歩きつつも呟きで問題文を読み、脳に計算式を放り込む。

 粉で汚れたチョークを握る頃には、暗算を確かめる段階にまで至っている。

 ガツガツ白粉をこぼしながら式を書き連ね、図示する。

「ここが……こうなるんで、こうだと思うんですけど」

「解き方はあっとるが足し算まちがっとるなー」

「……うわー」

 しかも一番最初のが。こりゃあ、真田の馬鹿を笑ってられない馬鹿さ加減だ。

「ま、休み明けにしちゃ上々だ。よく勉強しとるな」

「これくらいしかやることなかったので」

 素直に礼を言わんか、とぎこちなく笑う教諭の言葉を背に受けつつ、私は席に戻る。

 ……視線が痛い。三十七人、七十四の視線が。

 唯一こちらに視線を向けていないのが一人。真田だ。

「…………分かってるじゃないか」

 お隣として、そのくらいの機微は期待したいところだった。

 とりあえず席に座って、口元を軽く指で触ってみる。

 よだれは出てなかったようで幸いだ。ため息を吐いて、外を見る。

 窓際からは程遠い席なので、広い空が見えたりするわけでもない。慰めのように申し訳ない、小さな、切り取られた空だ。

「……ん」

 頷き、思う。寝よう、と。

 朝真田に語った覚悟なんかとは程遠いけれど、家に帰ってから取り戻せばいい。いざとなったら誰かに頼ってもいいだろう。

 それに、いくら私が頑丈だとは言っても、休息もしないと潰れてしまう。悪夢を見るとしても、寝なければもっと長い夢を見ることになる。それは嫌だった。耐えられない。あんな幸せでこわい夢に、私は耐えられない。

 とにかくあれこれと言い訳を自分にして、私は腕で枕を作った。

 そう、寝よう。深く、夢も見ないくらいに。

 起きたらきっと、もう少しマシな現実になっているだろうから。


/


『お姉ちゃん』

 ……私を呼ぶな。

『お姉ちゃん』

 ……私を、その声で、呼ぶな。

『お姉ちゃん』

 ……私を、その声で、その姿で、呼ぶな。

『お姉ちゃん』

 ……私を、その声で、その姿で、その笑みで、呼ぶな。

『お姉ちゃん』

 ……私を、その声で、その姿で、その笑みで、その香りで、呼ぶな。

『お姉ちゃん』

 ……私を、その声で、その姿で、その笑みで、その香りで、その温もりで、呼ぶな。

 私はアンタに呼ばれる筋合いなんてない。

 私はアンタとは違う。まったく違う、ぜんぜん違う。かけ離れている。

 そう、間抜けなアンタとは違う。

 いつもいつも私に頼りきりで、何もしなかったアンタとは。

 おじさんの家に行こうとせず、ひどく泣くばかりで家に留まりたがったアンタなんかとは。

 親が死んだときも、泣くばかりで、いつまでも死んだと信じなかったアンタなんかとは。

 何度邪険にしても、私に懐いてきたアンタなんかとは。

 ばかみたいに誰かについていって殺されたアンタなんかとは――!


/


 次の目覚めは放課後、ちょうどホームルームが終わった辺りで、担任が出て行くところだった。

 ちょっと信じがたくて、左手首の時計を見、……頭を抱えた。時計はもうない。クセとは恐ろしい。

 教室、黒板の上に設置された時計を眺めて、今が間違いなく放課後であることを確認。

 とりあえず、もうすぐテストなのだし、真田を捕まえて授業について聞くべきだろう。

 悪夢を見た脳を別の情報で洗い流すように、周囲を見回す。

「……ってあれ、真田?」

 隣の席の男が、親切にもその呟きを拾う。

「真田なら体調悪いって保健室だよ。寝不足で貧血だってさ」

「あれ、そうなの?」

「ここ最近体調悪そうな顔してたしね」

 ふぅん、と頷く。

「顔色なんてよく分かるね」

「そりゃ、ウチのクラスはみんな健康だからね。そうじゃない顔色くらいは分かるよ」

「ああ、大体馬鹿っぽいしねぇ、皆」

「それは暴言じゃないか?」

「じゃあ類人猿っぽい。妙にサカってるのとかたまにいるしね」

 彼は、はぁ、とため息を吐いた。

「口が悪いのは変わらないんだな……どうしてそんなにぽんぽんと出てくるのか、不思議でならないよ」

「皮肉を言えれば、後は素直になるだけだから簡単」

「僕はそんなに素直になれそうにないね」

「そう。……仕方ない、君、ちょっとノートとかプリントとか見せてよ」

「脈絡がないね」

「素直になっただけ。思ったことを忘れないうちに言ったってコト」

「……字汚いけど、それでいいなら」

「オッケー、ありがとう。まじめだね、君」

「これしか取り得がないからね」

「謙遜しないでよ、お坊ちゃま……ってごめん、つい皮肉が。貸してもらう立場だってのにね」

「……あ、ああ、うん」

 手渡しでノートを借り受けて、私は立ち上がる。

「それじゃ、私図書室にいるから。今日中に写させてもらうつもりだけど、やっぱり今日中に返した方がいい?」

「今日じゃなくてもいいよ」

「分かった。お優しいね」

「ありがとう。それじゃあ、また」

「ん」

 ……と、女子十人、総計二十の視線が痛い。

 どうも最近、他人の視線に敏感になって困る。まあ仕方ないといえば仕方ないだろうか。

 目の前のお坊ちゃまは確かにいい男だが、好き同士そんなに気が合うなら互いでヤってればいい。

「……ああいや、それは生産的じゃなくてマズいかなぁ」

 まあ、愛なんてものは基本的に生産性がない。内輪で閉じている。同性ならなおさらだ。

 両親がそれぞれ同性愛趣味で偽装結婚していた(後々本気になって私が生まれたらしい)とかそんな感じの家庭だったので、その辺あまり抵抗がなくて困る。

「さて」

 宣言どおり、図書室に行こう。

 テスト前には図書室に集まるのが学生の倣いだ。しかし、この学校の図書室は酷く寂れている。クーラーなんて文明の利器がない上に、近場に大きく新しい図書館があるせいだ。

 今日はどんな具合だろうか。体調的に、できれば暑くないといいんだけど。

 まあ、ノートを写すぐらいの時間、耐えられないわけはない。

 この心臓の痛みに比べれば、どんな苦行だって、きっと楽なのだし。

 ……と、教室から出ようとした刹那、真田が入ってきた。

「と」

「わっ」

 ぐ、と踏みとどまった。反動でお互いによろけ、私は右横の机に、真田は扉に掴まって体勢を立て直す。

「すまん」

「……いや、いいけど」

 真田は変に笑みながら言う。

 その表情と裏腹、と言うべきなのだろうか。顔色が悪く背が曲がっていて足取りに力がなく、……つまり、体調が悪そうだった。

「真田?」

「いや、皆まで言うな浅間。俺は平気だ大丈夫だ。ただちょーっと最近体調が悪くて夢見が良くないだけだ」

「いや、邪魔?」

「うわキッツー! 半病人に対してその物言いはねぇよ!」

「私は早く帰りたい」

「夕方になってもわがままですね姉御! どうかそのままの君でいて……!」

「…………」

 なんか妙にテンション高いなコイツ。保健室で先生とウフフなことでもあったんだろうか。

「そんな顔するなよ浅間! 浅間・ナズナ!」

「…………」

「さらに表情を濃くするなゲパァ」

 とりあえずみぞおちに拳を入れた。

 そろそろ本気でうざったいし。耐えれるといっても、暑くて面倒なことには変わりないし。できれば、早く帰りたい。

「アグラォ……」

「あー面白い擬音語ー。それじゃまたね、真田」

「ままま待て浅間」

「何?」

 唐突に、慌てた、しかし真面目な声を出してくる。とりあえず歩き出した勢いをそのままに、首だけで振り返った。

「……校門に警察がいるぜ」

「……ん」

 警察は、嫌いだ。色々と、はがれたり、こぼれたりしそうになるから。

 人が多い今のうちに出た方がいいかもしれない。その方が、色々誤魔化しになる。

 ……となると、ノートを写す時間はないだろうか。まあ、家に帰ってからやればいい。今日でなくてもいいと彼は言っていたし。

 ああ、それと、真田に礼を言わなければならないだろう。素直に言うのはプライドが許さないけれど、教えてくれた事に対しての礼は必要だ。

 口を開いた瞬間、馬鹿は余計な一言を言った。

「黒でレースが派手なのはもう十年経ってから履いたほうがいいんじゃねぇかなー」

「……ふんッ」

「うわらば!」


/


 警察を避けるため、校門には近寄らない。向かうのは裏庭の隅にある植え込みだ。

 ……勿論と言うか、私は犯罪を犯していない。

 いや、まあ、信号無視くらいはちょくちょくやっているし、市の条例だかの、学生もしくは十八歳未満は十時以降出歩いちゃいけません云々は記憶の片隅に引っかかっているくらいだけど、……少なくとも、警察に追われるようなことはやっていない。故に、追われる原因は外部にある。

 カバンからピンと伊達眼鏡を出して、申し訳程度の変装を。

「……よっこいしょっ」

 と、私は伝統的脱出路たる植え込みを潜り抜け、奇異の目で見てくる周囲を無視して歩き出す。

 肩口に付いた葉を取って、怪しい車に――と言っても、彼らはこれ以上ないくらい『怪しくない』人たちと言えるか。とにかく、警察に見つからぬよう、バレぬよう、警戒網を抜けていく。

 駅に向かう生徒とバス停に向かう生徒に分かれ、道行く人が私一人になった辺りで、朝と同じ声が来た。

「……なに、アンタ、ストーカー?」

 振り返っての第一声に、真田は少し傷ついたような顔をする。

「うわ、ひでぇな」

 心配してきてやったのに、とでも言いたげな顔だ。悪い気はしない。が、こそばゆかったり、恥ずかしかったりもする。

 故に憎まれ口が出た。伊達眼鏡を外しながらの、照れ隠しじみたものが、だ。

「誰も頼んでないってのに……お節介焼きだね」

「ああ、」

 一瞬真田はそこで口ごもり、

「……お前の妹から、色々聞いてるからさ」

 妹、

 ……妹?

「あ、」

 声が黄泉還る。

 姿が黄泉還る。

 香が黄泉還る。

 熱が黄泉還る。

「うぷ」

 逆流しそうになる胃液を喉と口を絞めることで耐える。

「ぎ、」

 体をくの字に折って、それでも膝はつかないよう耐える。

「お、おい!? 大丈夫か!? 俺が、ユーキの話をしたからか……!?」

 口の中に溢れた胃液を飲み下す。

 下唇の裏を千切れるくらい強く噛んで、口から何も漏れないよう耐える。鼻から何かが漏れだしそうになるのを、鼻骨が折れそうな勢いで握り止める。

 大丈夫。

 そう、私は大丈夫。

 妹の話を聞いてもなんでもない。

 思わず吐きそうになんてなっていないし、ほら、こんな風に冷静に思考できる。

 ああ、そう。だから、おまえは、早く、一刻も早く、とにかく早く、今すぐ、今すぐに、今、即、その口を、閉じろ……!

「おい、浅間、浅間!」

 と、ばたばたと足音。

 二人分のスーツと革靴の足元が目に入る。

「大丈夫か!?」

「??っ!」

 鼻から漏れ出そうになるものを押さえ込みながら、必死で頷く。

 サラリーマン? ……こんな平日の昼間に都合よくサラリーマンが? そんなはずはない。こいつらは警察だ。きっと警察だ。

 だったら私の敵だ。真田と同じく。

「ぐ、ん、……ぐっ!」

 当面の敵である私自身をねじ伏せ、右手で乱暴に口元をぬぐう。

「御用ですか、警察」

「ああ、……大丈夫かね?」

「どこに目があるんですか? もしかして後ろに三つとか付いてるんですか、それとも脳と視神経が繋がってないんですか? 平気ですよ。馬鹿馬鹿しいっ」

 身の内の不快感を唾棄するように言う。

 警察官は、ドラマでよく見るような、初老と青年の二人組だ。

 周囲を見回せば、いつの間にか私の家のすぐ近くだ。おそらくこの警察官たちは、私の家に張っていたのだろう。

 卑怯だ、と思う。同時、その想いで反吐が出そうになる。

「で? 任意同行でも望んでるんですか?」

「ああ、君たちに、聞きたいことがいくらかあってね」

 冷静に、カバンを地面に置く。それからもったいぶりつつノートと筆箱を取り出し、鉛筆を用意。さらさらと文字を連ねていく。念のため、裏返しもう少し。書き終ってから、表の面を見せる。

『あなた方の口が臭いので筆談でもよろしいですか?』

 初老の警部の眉がピクリと動き、……ああ、青年の警部はと言えば、今にも殴りかかってきそうな気配だ。

 が、初老の警部が、ぐ、と腕で彼の前傾姿勢を抑えた。

 ……残念。裏面が無駄になった。きっと殴りかかってくると思ったのだけれど。

 ページを一枚引きちぎり真田に受け取らせ、それからもう一度、今度は宣言を行う。

『私は協力しません。する義務はありませんし』

 青年警部が再度前傾姿勢になる。

 煽る様にくすくす笑いながら、次の文言を書いていく。

『私色々平気ですが、あなたがたの顔を見ていたら吐きそうになって来ました。さっき口臭とか言いましたがきっと違いますね。単に体臭です。ワキとか耳の裏とか。小汚いニオイがします』

 真田が、ぐ、と私の肩を掴む。

 ……静止するなら筆談の辺りでやるべきだった。この馬鹿さにも反吐が出る。

「真田ァ」

「やめろよ、浅間」

 意外と目が真剣だ。

 馬鹿のものとは言え、真剣は真剣。ああ、そう。だから、踏みにじってやらなきゃいけない――が、そろそろ青年警部の青筋がまずい。まだ成り立てなのか、職業意識が薄いみたいだ。挑発のしすぎのような気もする。つまり、そろそろ潮時ってことだ。私自身にとっても。

 肩の手を振り払い、歩き出す。

「おい、」

 かかる手を避け――ようとして、肩口にヒットした。

 竹刀よりずっと遅い腕なんかに当たるとは、これはテスト開けには特訓が必要かな、と思った瞬間だ。

「あっ」

 唐突に、足に力が入らないことを自覚する。

 結果は崩れ落ち。膝が地面にクリティカルヒット。硬度的に、私の膝に深刻なダメージ。鋭く、しかし鈍く残る痛みが心臓の痛みを少しだけ和らげる。

 警部の手が、私の腕を掴んで引っ張り上げる。

「だいじょ、」

 ……そこで、警部の表情が変わる。青白く、信じられない、といった表情に、だ。

 どうしたのだろうか、と思うが、別に関係ない。

 腕を思いっきり振り払い、一歩、家へと足を踏み出す。

「……お引取りを。ここから一歩でも家に近づいたら訴えます。心的外傷を穿り返された、突き飛ばされた、と」

 未成年でも訴えられるのかは知らないが。

 青年警部の目を見ると、二秒ほどして目線がそらされた。初老の警部はといえば、じっと、静かな目で私を見ていた。……初老の警部は目をそらさない。これが経験の差、と言うものだろうか。

 つい、と家へと向き直る。それから、ゆっくりと、しかし限界近い大股で歩き出す。

 とにもかくにも、こんなやつらからはさっさと離れないといけない。

「じゃ、じゃないと、」

 じゃないと、私のメッキがはがれてしまう。

 ……そうだ。私は大丈夫なんかじゃない。

 頭から排除しているだけで、夢を見てしまうと死にたくなってくる。

 ちょっとした後悔を抱え込んだだけで、ただそれだけで、私と言う強いはずの人間は砕けかけている。

 ああ、だからつまり、私はもう駄目になりかけているんだろう。

 背後からの警部の呼び止めも、真田の制止も聞き取れない。聞き取るだけの余裕がない。

 歩みは徐々に加速していく。気がはやり、家までまだもう少しあるのに、カバンから鍵を取り出し右手に握り締めた。鍵にはオットセイのアクセサリーが付いている。くだらない、しかし柔らかな、彼女がつけた、おそろいのそれが。

 泣きそうになりながら、必死で走って、家にたどり着いて、そこで、手がかじかんだように鍵を放さないのに気づく。

「あ、あか、開かないっ、開かないよぅ……!」

 涙目になりながら、手をこじ開ける。

 それから鍵を、手が白く、そして間接が軋むくらいに強く握って、鍵穴に差し込んだ。

 あと二十秒、いや、十五秒でいい。震える手でガチャガチャ鍵を開けて、そしてその中に入って扉を閉めるまで。涙腺、もう少しだけ、待ってください。お願いします。弱さを見せられるのはもう家の中<私>しかないんです。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

『お姉ちゃん』

 ああ、うわ、あああ、ああああああ、ああ、こんなときに呼ばないでください。出てこないでください。呼ばないでください。成仏してください。頭の中に住まないでください。どこかに行ってください。やめてください。私にかまわないでください。

「ひ、ひぐ、ひ、ひぃ、ひぃい?っ……!」

 噛んだ唇が痛い。あごを伝うのは涙か涎かそれとも血か分からない。

 鍵が開く。

 扉を開ける。

 飛び込む。

 転ぶ。

 痛い。

 泣く。

 ひ、と、甲高い声で、子供のように、誰もいない玄関で泣き続けた。

 立ち上がることも出来ず、足腰が萎えたまま、亡霊におびえ続けた。

『お姉ちゃん』

 現か幻か、それすら分からないような幻視。幻聴。

 丸まって子供のように泣いた。

 悲しい。悲しい。ここには私しかいない。言ってもいい。悲しい。悲しい。すごく悲しい。とても悲しい。胸が張り裂けそうなくらい悲しい。痛みがよく分からないくらい悲しい。

 私は独りになる瞬間しか悲しみを表現できない。

「ひぃ、いいいいいいいいっ、いいいああああ、うあああああああああっ、あ゛ああああっ」

 メッキがはがれて地金が見える。

 喉ががらがらと音を立てる。

 さび付いている。

 涙の塩水で、全身がさび付いている。

 血でも吐きそうなくらいに悲しみを吐き出す。

「つぁ、あひぃ、いああっ、あ、あっ、あおっ、あひぃいいいいいいい?っ!」

 ごつん、ごつんと床に額を叩きつける。

 こんな頭蓋、砕けてしまえばいい。そうしたらこの苦しみだって抜けてくれるはずだ。そうじゃなきゃ違う。やってられない。

 私は、頑丈なんかじゃない。

「な゛んで、なんで死んだの゛よぉっ! どうじてよぅ、やめ゛てよぅ、生ぎ返ってよっ! 死なな゛いでよ話そうよっ、寂しいよ苦しいよ痛いよぅもうこんなのやだやだやだぁああああッ!」

 あーあーと泣きながら、私は、悲しみが徐々に吐き出されていくのを自覚する。

 それすらも嫌で泣いた。

 ここは私の家だ。私自身だ。だって言うのに、誰かが私を冷静に観察している。醒めている。

「どこの私だ、死ね。死ね。死ね。早く死ねさっさと死ねとっとと死ね可及的速やかに死ねッ! ああもう、いいから、私ごと、死んでしまええええええっ……!」

 口の中に血の味が蔓延する。

 舌でも噛んだか。だが、私は止まらない。

「会いたいよぅ、ユーキ……ユーキぃ……」

 泣き続け、暴れ続けた。


/


「あー……喉と目と、ご近所さんの評判予想が痛い……」

 ……ひとしきり泣いて、頭が少しすっきりした。正確には、泣くだけの体力が脳にも体にも残っていない。

 本当はもっと泣いていたい。体力の続く限り、衰弱死するギリギリまで、いやそれ以上に泣いて、泣いて、泣いて、この傷を埋めたい。それが出来ないのなら、全てを吐き出して抜け殻になってしまいたい。

 ……そう、外では取り繕うしかない傷も、家でははっきりと認識できる。痛いけれど。本当に痛いけれど。

『お姉ちゃん』

 そう呼んできた存在はもういない。

 ユーキは、私のたった一人の家族である浅間・夕姫は、誰かに誘い出されて、頭蓋骨を叩き割られて、内臓をぐちゃぐちゃにされて、無残に殺されてしまった。

「…………は」

 一息。

 そう。それだけの話だ。

 私たち姉妹は、両親を早くに亡くした。姉である私は、まだ幼かった妹を守れるよう強く育とうとして強く育った。

 そう、強さを得た。妹を守るために。

 猫を殺す好奇心。逃げ水に誘われた愚かな旅人。そんな妹のために、私は無敵になった――そのはずだった。

「……っあー。うん……顔、洗おう……」

 思考を言葉にして、目的をしっかりと持つ。

 その後で水を飲んでうがいをして、夢を見ないような深い眠りを期待して寝てしまおう。

 正直、消耗している。ひぃひぃ泣いたせいだ。喉はしゃがれて、打ちつけた手や額はまだひりひりと痛む。顔を洗う前に、何かを飲みたい気分だ。

「……牛乳、まだあったかな……」

 ふと思い出す。――牛乳は妹が好きだった。

「……ぎ、ひ、ぐっ、」

 こんなことで泣くな。

 鏡の前に立ち、みっともない顔を睨む。

 やつれている。

 きっとあの青年警部がぎょっとしたのもこの細い腕のせいだ。

 ほとんどご飯を食べていない。……いや、食べられない。

 自分では、吐いた後の掃除が面倒だから、なんて理由をつけているけれど、単純に胃が受け付けてくれない。

 元々筋肉は最低限以上のものはつけていなかったけれど、それでも、皮が少したるんでいるのが分かる。内から押し上げる筋肉がなくなったためだ。

 髪をかき上げて、さっき散々打ち付けた額を見る。……腫れてはいるが、血は出ていない。

 これ以上同情されるのは耐えられない。死にたくなる。今以上に。

 一息。口を開き語るのは、自己暗示だ。

「私は強い、私は強い、私は強い、私は強い、私は強い」

 強ければ泣いたりなんかしない。だから駄目だ。もう駄目だ。泣いちゃ駄目だ。

 妹のことはもう過ぎ去ったことだ。これからの私は、独りだ。

『お姉ちゃんは、強いものね』

「……ひ」

 がつん、と鏡に額をぶつける。

 もうこの無様な顔を見続けることは出来ない。

 さっき流しつくしたはずの涙がまだ残留している。再生産かもしれない。どちらにせよ、今の私にとってはもう関係がない。

 鏡に当てた額がすべる。

 引っかかった右手が蛇口を開ける。

 尻が床に付く。

「ユーキ、」

 頬を水滴が伝っていく。

「辛い、よ……」

 そしてそのまま、い、と声が漏れかけた瞬間だ。チャイムの音が背後から来た。

「…………あ」

 誰が来たにせよ、こんな顔を見せることは出来ないな、とだけ思った。

 ひとまず顔に水を叩きつけ、タオルで乱暴にぬぐって、どすどすと玄関口に向かう。

 ……玄関は全開だった。ドアによしかかるようにして立っているのは、鍵を手にした真田だ。

 そう言えば、泣き終えたときに、置いていってしまったような気がする。

 なぜ忘れたんだろう。馬鹿じゃないのか。死ね。

「無用心だぜ」

「返せ」

「せ、セメントだな」

「返せ。死ね」

「直か!?」

「返せ。消えろ」

「か、会話しようぜ会話!」

「返せ今すぐ消えろ馬鹿返せ今すぐ返せ死ね返せ不良品今すぐ潰れろ返せクソ返せ下種返せ死ね返せ返せ! 死ね! 死ね死ね死ね! 死ねぇ!」

 ひぇ、と真田は鍵を手にしたまま扉を閉める。

 開かない。体重を乗せて閉めているらしい。なので、がつ、と扉を殴った。

「開けろ! 返せ! 死ね! クズ! 下種! 返せ! 豚! 豚! クズ! 返せ! 聞いてンのか!? 返せってんだろドカス! クソ豚! それは私のものだ! 私のものだ! 返せ! 返せよぉッ!!!」

 そのまま蹴りを入れて恫喝する。

 拳から血が出た。右足先からいやな音がした。薄い金属板で形作られた扉がわずかにへこむ。

「返せ! 返せ! 開けろ! 落ちろ! 死ね! 消えろ! 殺す! 殺す! 殺す殺す殺すッ!!!」

 扉が激しく振動する。

 だが開かない。どうしても開かない。

「開けろ、開けろッ!! 殺す! 殺すから開けろって、開けろ! 聞いてンのか!? 聞けよ、開けろ! 返せ、返せ、返せぇっ! 鍵! 鍵返して! 鍵ぃ、鍵ッ!! 返せ! 返して! 鍵! 開けろ! 殺さないから開けろ! 開けろよ! 開けろって、だからさぁっ! お願いだからさぁっ! 頼むからぁっ! だから開けて、開けてよぉっ! 開けろっ、……たの、いや、お願いッ! あっ、おっ、おっ、お願いしますッ! 開けてください! 返してください! お願いします! 私の鍵なんです、私のなんです! 開けて! 返してください! お願いします! お願いします! 返してください! 鍵返してください! 鍵を、返してください! 真田、真田様! 真田様ッ! 真田様ぁッ! なんでも言うこと聞きます! お願いします! なんでもしていいです! だからお願いします! 返してください! 返して、返してください、お願いします、ほんとにお願いします! お願いします! だから今すぐ返してください真田様ぁあああ、あ、ぐっ、げ、ほっ!」

 叫びが、喉の限界で途切れた。

 それでも、お願いします、と言葉を続ける。いや、続けようとしたけれど、もう言葉にならない。

 げほげほと咳き込んで、扉をだんだんと叩く。

「それ、妹、からの、プレゼントがついてるんです……返してください、お願いします、お願いします、返してください、もう妹いないんです、死んじゃったんです、殺されちゃったんです、だからおねがいします、ほんとにかえしてください、なんでもします、なんでもしますから……だから、これいじょう、わたしから、ユーキをうばわないでくださいぃい……」

 手足が痛みと疲れで動かないので、頭突きをがつがつと加える。

 と、がしゃん、と、新聞受けに音がした。

「!」

 そこにあるのは、銀色に光る鍵と、それにくっついた、ちいさなちいさな、オットセイのぬいぐるみのアクセサリーだ。

 手を叩きつけるようにして鍵を握り締める。あたたかい。ユーキのぬくもりがある。ユーキがいる。

「あ……! ありがとう! ありがとうございます! ほんとにありがとうございます! かえしてくれてありがとうございます! ユーキをかいしてくれてありがとうございます! ありがとうございま、」

 そこで、がつんと、扉が外から震えた。

「……黙れ、黙れッ! なんだ、外で聞いてればお前ッ! そんな情けねぇッ!!!」

 真田が、真田さまが怒っている。

 分からない。

 どうしよう。

 どうして、なんで、怒っているのか。わからない。こわい。

「あっ、っご、ごめんなさい! え、……ええと! ええとええと! あっ、殺すとか言ってごめんなさい! ごめんなさい、だから怒らないでください! ごめんなさい! ごめんなさいっ!! ごめんなひゃいっ!」

 震える指先で扉の鍵を閉めようとしたけれど、上手く回らない。手の中でドアノブが回り始めたので、必死で握り締める。

 両手で押さえなくちゃ。でも、オットセイの暖かさが、私の手から逃げてくれない。手が開かない。

「開けないで! 開けないでください! ごめんなさい! やめてください! おねがいします! こわい、怖いです! やめてください、ひどいことしないでください! やだっ、やだぁ! たすけて、だれかたすけて! おねがい! こわいよ、こわい人が! いる、ひどいよ、なんでわたしこんな目にあうの!? やだぁっ、だれか助けてください! ユーキ! ユーキ! ユーキぃ! きてよユーキ! たすけてよぅ、あやまるから、だれか、だれかたすけてよぅ、」

 と、汗で、手が、

「いやっ、やだっ、引っぱらないでください! ああっ、ぬけっ、とれっ、にぎれっ、あっ、あああ、ひやぁあああああああああああああああっっっ!!?!」

 ドアノブが逃げていく。

 こわい人が外にいる。

 にげなくちゃいけない。

 どこに? 家の中に?

 どこに隠れればいい?

 ああ、でも、ここはもうわたしの中だ。どこにも隠れられる場所なんてない。

 そもそも、足が痛くて、手が痛くて、頭が痛くて、喉が痛くて、目が痛くて、心臓が痛くて、心が痛くて、どこもそこも、なにもかも、全ての場所が冷たくて、もう動けない。

 握り締めた鍵だけが暖かい。

 ユーキのこころがある。

 だけど、ユーキのこころだけでは、私は立てない。

 手からドアノブが抜けた勢いで、どたり、と腰を打ち付ける。

 外の、暑い、しかしこれ以上ないくらい冷たく厳しい風が入ってくる。

 そこには、こわい人がいる。顔は、逆光で見えない。

「……浅間……」

 こわい人は、がたがたと震える私を見ても、名前を呟いただけだった。

 ひっ、ひっ、と鋭く早く浅い呼吸を繰り返す。

 腰は抜けたままで、足だけが悪趣味な機械みたいに蠢いて、靴をこわい人に蹴っている。

 きっとこわい人はわたしを傷つける。きっとそのためにきたんだ。わたしを、殺しにきたんだ。

「……ひ、」

 そして、その言葉を言った瞬間、こわい人が、もっと怖くなった。

「ひと、ごろ、しぃ……」

 空気が重くなった。

 雰囲気が変わった。

 殺される。

 殺されたくない。

 殺す殺す言っておいて、私はもう死ぬしかないって局面になると死にたくないと、そう思った。

 もう駄目だ。

 五、四、三、二、一、私壊れます。ばいばい今までの私。さようなら。さようなら、

「…………クソッ!!」

 そして、こわい人は、唐突に扉を閉めた。

 扉の向こうでどかどかと足音。それは遠くに、どこかに去っていく。

「あ……?」

 助かった、と思う。

 瞬間、足元が濡れているってことに気が付いた。

「あ……」

 掃除をしなきゃいけない。でも、どうせ、ユーキが死んでから、掃除も何もしていない。とにかく、次に誰かが来るまでに掃除をしておけばいい。

 ……そう思考した後で、わずかに、冷静さが戻ってきていることに気づく。

 きっと、あのこわい人が、……真田が、いなくなってくれたおかげだ。

「あ……シャワー……浴び、ないと……」

 まだ腰が抜けたままだ。

 玄関の鍵をのろのろと掛けて、私は風呂場に這っていく。


/


 疲れ果てて、消耗して、裸のまま居間のソファーに飛び込んで、深い眠りに落ちた。

 それでも夢を見た。


/


「お姉ちゃんはさ、まず、努力をしようよ」

「……努力ぅ? なに、また素材を活かせとかそんな話?」

 ちゃっちゃと髪をくくりつつ言う。髪留めもユーキが見繕ったもので、私の好みで言えば不自然にかわいらしい。

 ……夢の中にいるせいだろうか。何もかもが、幸せの底にあるように重い。

 ユーキは、小柄で、表情がくるくると変わる、可愛い女の子だった。

 姉の贔屓目は、多分、入っていなかったと思う。……正直なところ、私はユーキが羨ましかった。

「お姉ちゃんはさ、もしかして、自分嫌い?」

「……男に生まれればよかったと思うことはあるよ」

 男に生まれていれば、剣道だって、きっと今のような避けるスタイルじゃない。どちらかと言えば、私は剛剣好みだ。

 力仕事だってもっとできた。手っ取り早く稼ぐとなれば、やはり肉体労働だ。

 両親が死んで、おじさんの養子みたいな扱いになって、私たちは生きてきた。

 そんな境遇だから、おじさんにこれ以上迷惑はかけられない。高校に通わせてもらって、おじさんの家ではなくこの生家に住まわせてもらっている時点でもう過分なのだ。

 大学に入っていい企業に就職して、なんて悠長なことはできない。それでも、ユーキには大学にきちんと行ってほしいと思う。

「お姉ちゃん、私思うんだけど、美人ってのはそれだけで結構なアドバンテージなんだよ? 分かってる?」

「耳タコ。たとえ私が本当に美人になれたとしても、アンタがいなくなったら維持できなくなる美貌なんて要らないってのも、アンタ耳タコじゃない?」

 時計を見る。……ああ、もう結構危ない時間だ。私自身の準備を終えて、学校に行く前にカバンの中身をチェックする。

「こればっかりはお姉ちゃんでも譲れないよ。お姉ちゃん自身のことだしね。……ところでお姉ちゃん?」

「ん?」

「その腕時計、誰から貰ったの?」

「……? なんで?」

「ええと、似合ってるから」

「似合ってるって……」

 女性が付けるにはちょっとゴツい時計だ。

 選んだ馬鹿のセンスには辟易しているけれど、携帯電話で時間を見るのはあまり好きじゃないから重宝はしている。丈夫だし。

「最近よく付けてるし、見るとき、少しにやけてる、気がする」

「にやけてはいないよ? 確かに、最近よくつけてるけど」

「何と言うか、こう、……男が選んだ感じ? もしかしてこの前の誕生日に、……真田さんちのお兄ちゃんから?」

「……そ、そうだけど」

「……そうなんだ……」

 は、と、ユーキはため息を吐いて、今まで見せたこともない目で私を睨んできた。

「お姉ちゃん、私ね、お姉ちゃんのこと――」

 ……あ、と、夢の外にいる私は思う。

 その先を言わないで、と。

 でも、これは過去だ。

 大嫌いと。そう言われた過去を、そこから喧嘩になった過去を、最後の会話になった過去を、私は変えられない。

 そして彼女は時計を私から奪って走り出して、殺され――


『――大好き』


 ――と。彼女は、確かにそう言った。

 くるくるとよく変わる表情の中でも、一番の笑顔で。

『あ、でも、お兄ちゃん取られるのは悔しいかな。その辺やっぱり嫌いかも――ああでも、どうなのかな。流石に無理なのかな。色々と』

 そのまま彼女は、困ったような笑みを浮かべて、深刻な悩みに表情を変えて、

『ま、それも色々、人生よ! ね?』

 『ね?』じゃない、と。そう思った瞬間には、意識が目覚めの気配を感じ取っていた。

 行かないで、と、私は願う。

 必死でいなくなれと懇願していたくせに、いざこんな時になると、私は情けなくも、それとは逆の本心をさらけ出す。

 とても寂しい。もっと話していたい。残念でならない。

 けれど、私ももう、目覚めなくちゃ。

 ユーキの呼びかけを、やっと正しく聞けたから。

 ゆっくりと、穏やかに、しかし確かに、意識が浮上して行く――――


/


 起きると、背に毛布がかかっていた。

 ここ最近は窓を開けて換気するなんて建設的なことはやってないので、家の鍵は全てかかっている。そして、たとえおじさんや真田でも、鍵がなければ入れない。そして、鍵は私の手の内にしかない。ある意味ホラーなのかな、と思いつつ確認した時間は朝の七時で、気分は極めて爽快だった。

「……吹っ切れたって感じ……かな、やれやれ」

 特に何があったかと言われると、泣きまくったことが原因と言えるのかもしれないし、思いっきり叫んだことが原因なのかもしれない。ユーキの呼びかけなんて幻想なのかもしれないし、外に出ればまた自分が薄い殻の中にいることを自覚するだけなのかもしれない。

 だけどまあ、多分、どうにかなる。

 悲しい。

 とても悲しいけれど、それでも、どうにかできると、そう思えるくらいには前向きになった。

 そして、

「…………はぁ」

 色々、思い至るところもあった。

 ため息を吐いて立ち上がる。

 背から毛布がズリ落ちる。

 今日は木曜日の平日。

 だからまあ、補導されないよう、できる限り大人っぽい服装に袖を通す。

 道は覚えている。

 心に航路は刻まれている。あの場所は、きっと一生忘れない。

 爽やかな川原の不吉な一角。何に使われていたのかも知れない、ぼろぼろの小屋。

 そこに、ユーキは打ち捨てられていたのだから。


/


 散歩する人影すら見えない川原道を歩いて着いた小屋は、やはりボロボロのままだった。

 扉は開け放たれたままで、そして、

「中に人が……」

 誰だろうか、と一瞬考えたけれど、それが欺瞞だってことは分かりきっている。

 そう、私はその人影を知っていた。夢から、目覚めたときに。

「真田」

 なので、呼んだ。

「出ておいでよ。どうせなら、外で話そう」


/


 昨日の警官は、時計について話に来たのだ――と、真田は言った。

「俺がやった時計だよ。気に入ってもらえてたみたいで、俺、すっげー嬉しかった」

 真田は素直に全てを話している。

 なので、私の方も、素直に全てを話した。

「……うん、結構、気に入ってた。ユーキにも、似合ってるって言われてね。大嫌いって言われたけど、その部分だけは嬉しかった」

 喧嘩の結果、彼女は、私の時計を奪って駆け出した。

 そしてそのまま、真田に殺された。

 ここに捨てれば見つからないと、そんな風に誘われて小屋に連れ込まれ、石で頭を砕かれ、彼が持参したナイフでハラワタをぐちゃぐちゃにされた、……らしい。

「ああ、昨日聞いた。幽霊って本当にいるんだな」

「そうね」

 ……今もいそうだし、と言う言葉は飲み込んだ。

 背後からはわくわくとしているような気配が漂ってくる。

「俺な、お前のこと好きなんだ」

 すぱっと、彼は唐突にそんなことを切り出した。

 普段なら、きっと皮肉の一つも言う。だけど今だけは、私も本気で返すべきだろう。

「私もわりと好きだよ」

「そーかそーか、ありがとう」

 真田は一つ頷き、笑むような、泣くような表情を浮かべた。

「俺は、……失敗したんだな。お前があんまりにもユーキに依存してたから。ユーキを殺せば、きっとお前は俺を見てくれると思った」

「馬鹿」

「そうだなー、馬鹿だなー。……あー、うん、どうかしてたんじゃないか、俺」

 は、と、真田はため息を吐いた。

「……ずっと、お前のそばにいたんだってさ。ユーキ。色々話したかったけど、話し方がよく分からなくって御免ってさ。俺も、お前の近くにいたから色々話しかけられてて、でもどう話せば上手く伝わるのか分からなかった。……上手くってのは、俺にとって都合のいいように、ってことだが。この期に及んでも、俺は、お前が欲しかった。騙そうとしてた」

「そっか」

 風が吹いた。

 河川敷の草原に波ができる。

「……どうするの?」

「お前を殺して口封じ、とかも考えたけど、そしたらユーキが今度こそ俺を殺しそうだ」

「私が先に殺してやる」

「ああそれそれ。それがないとやっぱりお前らしくないな」

「そう? じゃあもっと言って上げる。全力で死ね。それから、……全力で生きて」

「矛盾してるな」

「上等。それが人間よ」

「そっか。それじゃあ、自殺はしない」

「そうして」

 会話が途切れた。

 そのまま陽が暮れるまで動かないかな、と思った瞬間、真田が立ち上がった。

「……俺、おまえのこと好きでいいか。ユーキ、殺したのに、ムシが良すぎるけど」

「……いいよ。私も、まだ、嫌いじゃないよ。殺したいけど」

「ぶぶぶ物騒ですね」

 おびえるポーズをする真田に笑いかける。

「だから、殺意がなくなった頃でも見計らって、会いに来てよ? アンタが、自分を許せたときにでも」

「分かった」

 笑いあって、それから、真田は、なんでもないことのように言った。

「それじゃ、ちょっと自首してくる。時計については、色々言っといてやるよ」

 そうして彼は歩き出し、……数歩進んだところで止まった。

「……そうそう。ユーキな、死んだ後も、俺に恨み節はほとんどぶつけてこなくってな、のろけみたいな姉自慢で寝不足になったんだ。お前から言っといてくれよ。シスコン大概にしやがれ、って」

 ユーキは、幽霊になってまで、シスコンのままだったか。

 真田の背に、礼と、別れの言葉を継げる。

「……ありがとう。それじゃ、また」

「ああ、また」

 普段どおりに別れて、それで、その姿が見えなくなるまで手を振った。

 ……ゆっくりと座り込む。

 私には、ある後悔がある。

 妹が死ぬ前に、喧嘩別れしてしまったコト。

 忘れようともがいて、ないものとして扱ったら破綻しかけるような、強い後悔だ。

「……ユーキ」

 背後に背中合わせで座る気配に、言う。

「……ごめんね」

 頷く気配がして、……背が軽くなった。

 いなくなった。

 小さく、ポケットの中で、オットセイのアクセサリーが揺れた。

 その音が消えるまで私は待って、一気に立ち上がった。

「……さて!」

 この胸には、まだ悲しみが停滞している。

 だけど、動き出すきっかけぐらいは見えてきた。

 だったら動かなきゃいけない。

 ユーキに心配かけるなんて情けないことを、姉として行うわけにはいかない。

 胸には後悔の方向舵。

 心には悲哀の羅針盤。

 そんな様でも、お姉ちゃんならきっと前に進める――と。

 暖かな、ユーキの声が聞こえた気がした。







THE END

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