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BIRTHDAY

――――Monochrome.



 それは。愚かしい、憧れだった。



 深夜、濃淡で表される視界。背後、たった五メートルの位置にある街灯が、こんなにも心細い。

 温度は熱帯、三十一度。まるで無数の蛇にまとわりつかれているかのよう。ぬめるような大気が、この場に停滞している。

 ……街灯が明滅する。羽虫が焼ける音すら聞こえない。

 生命の色なき静寂は、この場を深海と錯覚させる。ここが地上だと想う根拠すら曖昧。ただ現実味のない荒い吐息だけが、静寂に響く。

 大気には、二つのニオイがある。

 ひとつは、ぬるつく鉄のニオイ。もうひとつは、ひどく生臭い、ケモノのニオイだ。

 入り混じったニオイは、脳を撹拌するかのように渦巻く。その流れの元、元凶とでも言うべきものが、目線の先、路地裏の奥にある。路地裏特有の埃のニオイなど、とうの昔に追いやられて風に散っている。

 眼前と言えるほど近くはない距離の向こう。そこは、彼岸ほどに離れた場所だ。

 月光が、そこを照らす。

「――は、あ。は」

 月と夜に惹かれての気まぐれ散歩。悲鳴につられて見に来たら、この様だ。恐怖と好奇心と本能と狂気が意思と無関係に拮抗して、行くも退くも叶わない。

 海だって飲み干せそうなくらい、からからの喉。肌にはぴりぴりとした電流が走り、がくがくと震える足は、逃走の意思を受け取ってそのまま捨てている。

 ……それも、そのはず。体は、理解している。

 彼女は、ヒトを超越していた。

 己は今まで、ヒトを殺すだなんてコトを、あんなにキレイにできるだなんて、想像だにしなかったのだ。

「はぁ――はぁ――は」

 グチュリグチュリ蠢く。

 かろうじてニンゲンらしいシルエットは見える。

 ギチギチ噛み切る。

 ソレは多分、ニンゲンの類似品。

 ガチガチ震えている。

 だって、ニンゲンなら、そんな無駄なくニンゲンを食べられない。

「は――ア」

 止めなくてはならないと、想った。

 だけど同時に、止めたくない、とも想った。

 そうだ。彼女ならできる。きっとできる。やってくれる、絶対に大丈夫だ。そう思うと、歓喜で背筋が震えた。

 ああ、蹂躙している。脳髄で絶頂のスパークが起こる。

 陵辱している。花開くようにアレンジされた人体は、あんなにもキレイ。

 暴食している。アレは、本当に自然に、ヒトというモノを否定している。

 ひどい衝撃で、人格が砂の城みたいに崩れていく。

 波にならされたように、己が自然なカタチに変わっていく――――



  ぎ ろ ん 、とソレはこちらを見て、



 ……気付けば、自分の部屋にいた。

 汗だくで、足が痙攣していて、頬が色々な汁でべとべとだった。

 さらさらと、夢みたいに零れていく記憶を回想する。辛うじて、走って逃げたことを思い出した。

 アレも、追ってこなかった。

 生きて帰れた。

 言葉にしてみると、驚くほど短い。それでも、心は本当に安堵を得ていた。

 怖い。死ぬのは、本当に怖い。

 だって言うのに、今でも繰り返す。繰り返す。繰り返す。万を超える反芻は、それを脳裏に刻み込むには十二分。

 そうだ、それは――

「――まるで、恋心」

 泣きたいぐらいのおかしさが、腹の底からこみ上げてくる。ああそうだ、きっと彼女ならできる、彼女ならやってくれる。でもまだ足りない、あれじゃあ足りない。もう少し――熟成させないと。きっと自分を、ここから出してくれる、助けてくれる。

 くふ、くふと笑いながら、ベッドに寝転んだ。

 そうして、いつも通りの朝が来て――自分は、彼女に、出会うのだ。












――――Sun Rise.


 朝が、部屋に蔓延している、と、ふと思った。

「……ってか夏だな」

 頷きと呟きは、天井を見上げながらのものだ。

 仰向けなので腹式呼吸。身体準拠のリズムであるせいか、意識が落ちそうになる。

 だが、

「……起きねェと、マズいよな」

 くはー、と、息を長く吐き、腹筋一発。オレは身体を確認するように、意識して身体を制御していく。

「ねっみィ……」

 一言を最後に、万年床にお別れを。寝巻き代わりのタンクトップを脱ぎ捨てて、着替えを開始する。

 下着を替え、ズボンと靴下をはき、ワイシャツを肩に羽織り、ベルトを少しきつく締めて、ネクタイを突っ込んだカバンを廊下に蹴り出す。

 一息。忘れ物がないかを軽く確認して、オレはドアを抜ける。

「ヒゲそる必要がないってのは、ホント、楽だよな……」

 親父はヒゲが濃いからな、と頷きながら、廊下を歩き、暖簾をくぐって、居間へと入る。

 居間の中央には、大の字になって寝る人影があった。

 我が親愛なる駄目親父だ。

 また腹出して寝てやがる、と。ため息を吐いた瞬間、台所から声が届く。

「おはよう、クーヤ。時間大丈夫――ってアンタ。またそんな格好で」

「いいじゃん、マイマザー。今は夏だしオレは暑い。……で、弁当できてる?」

 台所にいるのは、居間で眠る駄目人間と同じく、我が親愛なる馬鹿母親だ。

 朝の常たるエプロン姿であり、その口の端には常の常としてにやにやとした笑みがある。

「まずは顔洗ってきなさい。そんな顔と頭、氷見歌(ヒミカ)ちゃんに嫌われるんじゃない?」

「そいつは困る」

 ……まあ、この頭を直す時間はないか。

 思い、くせっ毛を撫で付ける。

 しかし、この髪型は昔からだ。別に今更乱れていたってどうということもないし、ワイルドさ満点で格好いい髪形でもある、と、ポジティブに考えておこう。

 んむ、と頷いて、オレは洗面所へと向かう。

 鏡を見れば、目の下にはとんでもないクマがある。髪の毛はいつもどおり、実にワイルドだった。

 参ったな、と思うが、どちらもどうしようもない。

 とりあえず洗面一発。もう十年以上も毎日繰り返した動きで、歯磨きに入る。

 歯ブラシを繰る右手の動きは乱雑かつ高速。そして左手は、高校に入ってからの習慣で、羽織っただけのワイシャツのボタンをほとんど自動的に留めていく。

 ……鏡から視線を切る。

 口の端からは歯磨き粉の泡がこぼれそうになっているし、目はまだまだ半開きだ。こんなところをヒミカに見せたら百年の口説きも無駄になっちまうだろう。

 全く気を抜いた姿だ。見てられん。

「んがー……」

 まあ、しゃあないのである。

 ねみィのである。

 疲れてんのである。

 ……そんな状態でも、動作は進む。とりあえず口の中をすすいで、歯ブラシをいつもの場所に放り投げる。

 居間に入って、欠伸を一発。そこで、背に声がかかった。

「クーヤ、……あんまり喧嘩するんじゃないよ」

 半分夢の中状態の己を醒ますのは、どこか鋭さを持った言葉だ。

「……喧嘩ァ? オレ、中学とは違って真面目だよ?」

 ここ一週間を回想するも、

 ……殴るときには軍手してるから、手に傷とかはついてないはずだけどな。

 靴もきちんと血反吐拭いてるし、と思っていたら、言葉が続いた。

「そうじゃなくて、そろそろ恋人の一人でも連れてきたら、ってコト。そんな物騒生活してたらだーれも寄ってこないよ。かーさんなんか、あんたの年頃にはもうアンタ生産したんだから」

「……生産って。やな言い方だね、マイマザー」

 言葉を一度切り、欠伸もう一発。終わり際を噛み殺しながら言うのは、承諾の言葉だ。

「まぁ、うん。今度連れてくる」

 だがしかし、言葉には即座の反撃が来る。呆れたような、一言の返しだ。

「……クーヤ。ヒミカちゃんは駄目よ」

「え、いいじゃないかヒミカ。美人だし。おっぱい大きいし」

「だまらっしゃいマイ生産物。もう少し現実見なさい」

「最近増えてきた小じわを見てみぬふりするマイマザーには言われたくないかなぁ」

 ふ、と、マイマザーが笑った。その声はフフフと連続し始めて、途切れず、低く、居間に充満し始める。

 視界の端で、こそこそと居間から逃げ出す父親の姿が見えたが、

 ……狗は去れ。この場に在るは、狼のみよ……!

 故に、オレも去らずに笑う。フフフ、と、静かに、殺気を込めて、だ。

 しかし、その場を乱す音がある。

 家の外から届く、涼やかな声だ。

「クーヤー。クぅーヤぁー。……舞弥(マイヤ)お姉さーん! クーヤ起こしてくださーいっ!」

「テメェいつの間にオレの嫁に年齢査証呼称吹き込んでやがる!」

「いいじゃないまだ三十五いってないんだから! ダブルスコア超えまではお姉さんよ! ギリギリオッケなのよ! ――それと!結婚は双方の合意が必要なのよ!?」

「いいんだよオレの脳内ではすでにあんなことやこんなことも全て検閲無しで許可済みだァ――!!」

 乱された空気は一気に激発し、しかし、

「あ、クーヤ起きてる。おはよう」

 居間、窓からその姿が見えた瞬間、マイマザーが笑顔になって、勢いが外される。

 ころころと笑って、すっかりとおばちゃんじみた雰囲気になる。

「あ。ヒミカちゃんおはようー。芳江(よしえ)さんの様子はどう?」

「あ、元気なもので、病院で歩き回ってますよ。足が折れたって言うのに」

「あら、明日にでもお見舞いに行きますって伝言、頼める?」

「はい、もちろんです。母さんも喜ぶと思います。母さん、マイヤお姉さんのこと好きですから」

「あー、マイマザー。弁当は?」

「そっち。……って、芳江さんが? あらあら、それはもう身にあまりすぎて私はもうどうすればっ……!」

「マイマザー。ちょっと気色悪い」

「マイ生産物はもうちょっと静かになるといいわ。具体的には心臓の音から」

「マイマザーはたまにたまらなく馬鹿になるなぁ」

「アンタの親だもの。――ああでも成長的に考えてクーヤの方がよりたまらなく馬鹿よねぇ」

 血液が心臓によって一気に上に来たが、

「クーヤ、そろそろ時間が」

「げ」

 それ以上に厳しい現実によって、血が理性の方に行く。

 結論は一つだ。

「……覚えてやがれマイマザー! 帰りはあまり遅くならないと思うから飯はきちんと用意してくれよ!?」

「はいはい。――死ぬんじゃないわよー」

「不吉なこと言ってんじゃねぇよ!」

 ひゅほほほほ、とか悪役のような笑い方をする馬鹿母親を背に、弁当を引っつかんで駆け出した。

 蹴り出しておいたカバンとネクタイ、玄関先にかけてある上着を手にとって、オレは家を飛び出す。

「チッ、馬鹿母親のせいで時間を……! 悪いヒミカ、走るぞ!」

 眩し、と太陽を忌々しげに見上げるヒミカの手を掴んで、走り出す。

 そうして、今日も彼女と会えた、と、その幸せをかみしめた。

 いつもの風景。常と同じ、しかし何よりもいとおしい、その姿を。

 朝永(あさなが)・氷見歌。ウチ――白洲(しらす)家のお隣さん一家、その一人娘だ。

 身長はそう高くない。オレよりも十センチ下、百六十センチと言ったところか。お隣さんは、白洲家とは逆に晩産で、ヒミカはその分かわいがられて育った。そのせいか、顔立ちから何から、どこかぽやぽやとしたおひさまのような印象がある。剣道をやっているせいか、身体自体はわりと引き締まっている(しかし出るところは出ている)が。

 うんうんと頷いていると、ヒミカが胸を押さえて一歩引いた。

「どうしたヒミカ」

「な、なんだか怖気が」

「そうかそうか。――全く気のせいだから安心して欲しい。オレは何よりプラトニックだ」

「…………そう?」

 彼女はため息を吐き、ゆっくりと歩き出す。

「早くネクタイ結んで、学校に行こう? そろそろ、バスの時間危ないから」

「ん」

 オレたちは高校二年生って身分だ。つまり、この制服を着るのも二年目で、ネクタイを結んだ時間はそれと等しい。もはや無意識に近い動きで、歩き出しながらネクタイを結んでいく。

 と、腹から轟音。

「……ぐお」

 そう言えば朝メシを食べてなかったなぁ、と今更のように思い出す。

 しかし、このオレは見栄っ張りなのであった。腹が減っただなんておくびにも出さず、エネルギーが足りないまま歩き出す。胃の中に風が入ってくる感触が満点。

 昨日の晩メシはたくさん喰ったってのに――オレの胃はぐるぐるなんて愉快な音を立て始める。

 横をチラリと覗けば、そこには苦笑するヒミカ。顔の赤さは、朝の太陽の前ではどうやったって隠せるものじゃない。ビバ成長期。死にたい。

 しかしヒミカは、心優しい美人さんなのであった。

「……クーヤ。ほら、おにぎり」

 横から差し出される細い手。その手のひらに乗っているのは小さめのおにぎりだ。

「な、なんと言う都合のよさ! まさかオマエ予言者だったのか!?」

「違いますー。それ、私のお昼」

「ぬあ心優しいなヒミカ!」

 一口、二口、三口とおにぎりを胃の腑に叩き込みながら涙を流す。

「美味なりやおにぎり……! まさかオレ今ヘヴン在住ですかよ!?」

「朝からテンション高いねー」

「冷静に言わないでくれ!」

 はぁ、と彼女はため息を一つ。

「……マイヤお姉さんとクーヤって、本当によく似てるよね」

「そうかな? 全ッ然似てないだろ」

「うん、似たもの親子って認めない辺り、特に似てる。……クーヤが昔より男っぽく……って言うか、荒っぽくなっちゃったから、その辺りも似てるのかなぁ」

 ああ、確かに、そこだけは似ているかもしれない。母親は昔スケバンだったと言うし。

 ため息を吐きながら、ふと、テンションが高い理由を思い出す。

「……いやいやいや」

「なにか?」

「いや、なんでもない」

 その理由は、昼間考えてはいけない類のものだ。

 おにぎりを、ごくん、と飲み込んで、ヒミカに向き直る。

「ありがとう、恩に着るよ、ヒミカ」

「クーヤがバスの中で無様な音奏でるよりはずっといいと思う」

「無様……」

 ここ最近ヒミカの口調が鋭くなっている気がするのは気のせいだろうか。

 と、横をバスが走り抜けていった。

「お」

「……あ」

 一瞬の停滞の後、疾走はスタートする。

「や、――やべぇっ! 今日に限って早いだと!? 馬鹿な……!」

 ヒミカの手を引いて、ひた走る。

 その光景は、きっと騒がしい日常。慌しくも幸いな、普通の日々。

 あんな夜があったばかりだっていうのに、朝は眩しく、世界はこんなにも爽やか。

 それでも。裏側に――逆側に。この全てを否定するものがあるのだ、と。それを理解しているせいか、いつもどおりに笑えなかった。



 ●


 『殺人鬼』。

 新聞なんかではよく見るくせに、実際に耳にすることは滅多にない言葉。日常的でありながら非日常的、だなんて矛盾した単語だ。

 しかし、現在――この守春(もりはる)市では、そう突飛な言葉でもない。

「知っているかい、シラス」

 授業直後。窓際のマイ座席でまったりしていたら、背の高い女が話しかけてきた。

 姓は花鏡(はなかがみ)。名は(いずみ)。アダナは花鏡(カキョウ)。泉鏡花とかいう昔の作家を逆さまにした偽名とは本人談。金髪で細い目をしてるせいか、イメージは狐、しかもとびっきりの妖狐。ウルトラ派手好きなくせに、臭うから、って理由で香水をつけないのも動物っぽい。

 まあ、クラスメートからは一歩進んで、テスト明けには一緒にカラオケに行くくらいの仲だ。これで巨乳であれば放っとかないが、残念ながらコヤツは貧しい(プア)胸なので、オレのストライクゾーンからはダダ漏れなのであった。

「……何が?」

 主語なしの会話スタートはいつものことだ。とは言え、流石にヒントがない。半秒考えたが分からなかったので疑問文。親切なことにカキョウは(嘲笑しつつ)疑問に答えてくれた。

「また、殺人鬼が出たそうだよ」

「……へぇ。最近頑張るね、殺人鬼」

 ……そう。今、この街には、未曾有の殺人鬼が跳梁している。

 噂によれば、

『ライオンかワニがよってたかってオブジェ作ったみてぇ』

 ――だそうだ。なるほど、そんなオブジェなら、こんなウワサが蔓延るのも仕方がない。

 ――曰く。犯人は、オオカミニンゲンである。

「犯人の手がかり、いまだにサッパリなんだって? 日本の警察さん、いつのまに無能になったんだか」

 カキョウをおだてるために言ったが、この言葉、正確じゃない。証拠自体はあるのだが、それに合う人物がサッパリ。でもまあ、印象を語るなら、この言葉は真実をついているように思う。

 頭髪らしき毛は、ニンゲンの女性のもの。ただしあからさまに毛髪らしくない毛もアリ。地面、壁、天井、縦横無尽に刻まれる爪痕。当然ながらヒトがコンクリートに深々と爪痕を残せる筈がない。殺害方法は、おおよそ十五センチの深さを持った口による、強烈な噛みつき。どこのクッキングお父さんだ。そこまでアゴの大きな人間がいるなら、お目にかかりたいものだ。

 まるで幻、まるで蜃気楼。妖怪か化け物か、とにかく、そんな連続殺人犯(シリアルキラー)さんが、この街にいるのである。恐怖するのも仕方ないってモノだろう。多分。

「学校と言うのは、どうにも危機感が足りないものだね。……君はどう思う?」

「オレもそう思うよ。ホント、休んでもお咎めなし、とかにしてくれねぇかなぁ。ほら、オレ、ヒミカに教えてもらえるからさ」

「ヒミカ……ああ、君の恋人か」

「よせやい照れるぞってか大声で言いやがってブチ殺すぞもうお前ってばぁ」

「ああそうか、公然の秘密と暗黙の了解は口にしてはいけないのだね。ははは悪かったなぁシラス。今度のカラオケ代はぼくが全額持とう」

「言ったな? よし今度二十四時間耐久するか!」

「いいだろう。せいぜいレパートリーを増やしておくんだな、シラ――」

 ス、と、そこでチャイムの音。カキョウは腕時計を見て嫌そうな顔を作り、

「ふむ、もう休み時間が終わるか。一日が三十時間あればいいのにね」

「仕方ないだろ、カキョウ。一日は二十四時間で、休みは十分しかないんだからさ」

 彼女の笑いは、いつも、嘲笑う、という形容に近い。

「その通りだな。ぼくが愚かだった」

 そしてカキョウは常どおりに笑い、斜め前の席へと腰掛ける。

 その背を見ながら、どうにかして長くならないものか、と考えてみる。

 学校ってのはある種のサービス業だ。こちら金と時間を払う。向こう勉強教える。ついでに、卒業の暁にはランクに応じたステータスを卒業者に付与する。このシステムがあるから、私立の学校は数多い。あちらさんもオレたちに学業を叩き込むために契約しているワケだが、勉強教えてくれなくていいからもう少し休み増やしてくれないかなぁ。いや、マジで。

 無駄なことを考えていたら、カキョウの声が耳に入ってくる。質問の形を持ち、キツネみたいに胡散臭い口調の、おそらく本命の話題が。

「ところでシラス。大丈夫かね?」

「ん? 何が?」

「……いや。どうにもきみ、ぼくの目には、死にそうなくらい体調が悪く見えるのだけどね」

 ――――。

「あっははは、心配要らないって。こう、将来について悩んでただけだから」

「君はそんなことで寝不足になるのか? ぼくはきみの心臓に毛が生えていると信じていたのだけど」

「ぼ、――暴言だ! 撤回と謝罪と賠償となんかもうその他もろもろをオレに捧げろ!」

「ははは。……と。先生だな」

 今度こそ、カキョウはきちんと前を向く。

「……カキョウ。お前なんか、殺人鬼に喰われちまえ」

「留年しろ、シラス」

「えらく現実的な破滅を言いやがるなテメェ……! だから嫌いだ!」

 ケッ、とそっぽを向いた先――窓、それを透かして見える校庭。そこでは、体育が行われていた。

 グラウンドを周回する野郎どもと少女たち。その中に、見覚えのある巨乳が走っている。

「ん」

 ジャージ姿の、ヒミカだった。

 体力がないのか、やる気がないのか。体育会系部活の現職だってのに、よたよたと走っている。ついでに、ゆっさり揺れるチチがやたら眼福。うむ、アレで十六とか信じられねぇ。

 ……幸せをかみしめていたら、眠くなってきた。春眠の季節は過ぎ去ったが、

 もうじき昼だ。太陽は高く、温度も上がっている。

 本当に、いい陽気だ。

 机に突っ伏して、教師を完璧に無視。

 まぶたを貫通する陽光を味わいつつ、眠りに落ちていく。

 ……ぐぅ。





――――JUNK.


 ……今日も夜の散歩に出かけた。

 己にとって、これは既に日課。寝不足になるのも仕方がない、と素直に諦める。

 ――そう。この程度、なんでもない。彼女に会うためなら、きっと、自身だって殺せる。

「は、はぁ、ひ、はぁ、は」

 足元は、靴下履かずのスニーカー。熱病に侵されたみたいな脳みそで足に命令を下す。

 探せ。探せ。探せ。

 まるでブリキ人形。歩くたびに関節が軋む。

 それもまた、仕方がない。疲労は不眠によって蓄積されている。人間じみた挙動など、可能なだけで僥倖だ。

「は、ヒ……ァ、ハア、あ――」

 ギチリギチリ。笑ってしまう。ギチリギチリ。こんなにも無駄をしている。ギチ、リ。根性でも気合でも命令でも、何をしてももう足が動かないから、道に寝転がった。昼間は熱かったアスファルトも、深夜二時になれば冷えている。

 ゆっくりと身体が冷却されていく。呼吸が徐々に規則的になっていく。また走れる、と、その実感が頭をもたげる。

「あ、は――」

 彼女についての手がかりは一つだけ。『どこにいるか分からない』――その程度だ。

 冷却された脳に残る言葉は一つ。

 だから走る。故に走る。走る以外の選択はありえない。走って、彼女を、探し出す。それから、

「それから――」

 夢見るようにその続きを呟いて、数瞬のまどろみ。数秒待って、起き上がる。しばしの休息で得た全ては足と心臓へ。口元に浮かぶのは笑みで、吐息には喜悦が乗る。

「ハァ、はあ、は、は、ぁ、はは、は」

 なんて無様な姿、と思う。もし鏡があったら即座に自殺しているだろうに、と。

 心だけは天馬のように、身体は駄馬のように。ボロボロで、走り続ける。











――――In the Day.


 そして今日も寝不足だった。

 さえずる鳥の声が耳に心地よい。今日も今日とて、とてもイイ朝なのだった。

「あー……やっぱ、夜出回るのはいかんね、うん」

 頷きながら、昨夜の出来事を思い出す。何もなかった、と結論すべき夜を、だ。

「まったく、オレとしたことが、本当に馬鹿みたいだ」

 あんまりにも眠くて、逆に起きた。布団から抜け出て、首を手でゴキンガキン回す。

 それで身体と脳味噌がようやく繋がった。行動を脳が定義付ける。

 次に行うことは、いつもどおりの行動。服を脱いで、ブレザーを着込むこと、それから飯を――

「……っと。やべぇやべぇ」

 一瞬意識が飛んだ。落ちていた膝が何よりの証拠だ。

 本格的に駄目だ。もうすぐ起きたまま夢見そうだ。今だって、起きてるっていう確信がない。もしかしたらずっと前から色々間違えてるんじゃないか、とも思う。

 とりあえずまあ、今は目先の生活第一。起き抜けだって言うのに、オレの胃は元気だった。

「うぐぅ」

 ヒドい音を立てる腹。その空腹で目的意識をきちんと脳に刻む。

 よし、と意識を確かにして、ブレザーを着込む。鞄に勉強道具を詰め込んで、手で無理矢理弁当を入れるスペースを作っておく。

 と、そこで時計が視界に入る。

 あれ、と思った瞬間だ。

「クぅーヤぁー。……クぅーヤぁー? まだ寝てるのー?」

 外から聞こえてくるのはヒミカの間延びした呼び声。

 時計を見ればバスの時間。

 そしてガスガス鳴る部屋の扉。外には怒気を孕んだガスガス音の主がいることだろう。

「や、」

 やべぇ、と発音する間も惜しんで全力。やるしか、と思う間もなく気合注入。オレは一気に準備を追え、外へと駆け出していく。


 ●


 結局、学校には、絶望的に遅れたバスでしか行けなかった。

 普段なら寝不足のオレを励ますヒミカの方も寝不足だったようで、道半ばにしてどちらも諦めた。

 学校に着いた時間は、一時間目の半ば。事務室側から回って遅刻届けを出し、二階、踊り場でヒミカと別れ、そして今、教室の前に立っている。

 遅刻だ。それも大幅な。流石のオレも、教室に入りにくい。

「……ええい」

 どうせ、入らないわけにもいかない。扉にガッ、と手をかけて、スパーンとばかりにかっ開いた。

 あっけに取られる野郎どもと少女たち+一(先生)。

 睥睨。そして咆声一発。

「ぅ遅れましたぁあッ!」

「開き直るなバカモン!」

 流石先生、先に生きてると言うだけはある。復帰もダントツ、返ってきたのは反射的とも言える怒鳴り声の叩き付けだ。

「大体だな、白洲、なんだその服装は!?」

 ただし内容は全くの的外れ。故にオレも、大人しく怒鳴られるままではいられない。

 先公を見下しながら、一歩を進む。

「おいおいそりゃないぜ、知ってるか!? オレ、校長から許可得てるぜ? つまりアンタに言われる筋合いはゼロだ! それを責めるって了見はないだろ、ティーチャー!」

「阿呆、そっちじゃない! ボタンやらなにやらだ!」

「……あ? ……いっ。……ううう、」

 ボタンのかけ違えがとんでもないことになっていた。この状態でバスに乗って遅刻届を出してきただなんて、流石のオレも羞恥心がヤバい。ついでに腹も鳴った。

 周囲を見回すと、どうにも気まずそうな野郎どもの沈黙。

 ……この空気どう打破するか、と一瞬悩んだが、ここはわざとらしくしなを作って、叫んでみる。

「み、――見せモンじゃねぇぞっ!?」

「いいからさっさと着なおせバカモンがぁ――!」



 てなわけで服装を整えて戻ってきたら、カキョウに大笑いされた。

「はは、ははは、はーっはっはっは……はぁあーっはっはっはっは……!」

「黙れ自称生粋の金髪碧眼日本人! 犯すぞコラ……!」

「はははさすが永久に童貞の人間が言う台詞だ、どうにも小物臭いね……!」

 二人して、当てられ(被弾し)ないように頭を下げながら、小声で怒鳴りあう。器用な真似だが、やろうと思えば人間結構色んなことが出来るもんだなぁ、と少し感動する。

 チャイムまでもう少し、秒にして三百秒弱。出席判定どうかなー、と思いながらカキョウと会話を続ける。

「……そうそう。寝坊したようだから教えてやろう。最近大活躍の殺人鬼、オオカミニンゲンだが、昨晩は活動しなかったらしいよ。――何があったのだろうね?」

「さぁ? オレには分からんよ。人がいなかっただけじゃないのか?」

「ふむ。それもありえるが」

 カキョウはそこで言いよどむ。

「ありえるが? なんだよカキョウ。ってかさ、オレに喋って何になるんだ? ワケわからねーぞ」

「なに、ヒマな授業中の簡単な暇つぶしだよ。……犯人がケモノだと言うなら、きっと鼻もいいのだろう。――昨夜はきっと、悪い獲物しかいなかったのだろうね」

「……ケモノってんなら、それこそおかしいだろ? なんでそれが我慢するんだよ。構わず喰ってもおかしくないと思うんだけどな」

「シラス。殺人鬼の彼女の異名は何だ? ――オオカミニンゲンだ。ニンゲンだよ。えり好みもするだろうさ」

「そういうもんかね……?」

「ああそうだろうさ。好いもの以外は要らないだなんて傲慢、ニンゲンくらいしか持ち合わせていない」

「……ふぅん。えらく、知ってるみたいな口振りだな、カキョウ」

 ここでチャイムの音。ヒートアップし始めているので、チャイムはちょうどいい時間帯に鳴ったと言うべきだろう。とにかくカキョウは止まらず話し続ける。

「まあ、似たようなものだからね。しかし、所詮生態が違うさ。キツネとタヌキ、狗とオオカミは圧倒的に違う。ニンゲンと人間が全く違う生き物であるように、イヌ科でも同じようなものってことだよ」

「オレにはよく分からんなぁ……なんだよ、にんげんとにんげんが違う生き物だって」

 ため息を吐いて、立ち上がる。

 せっかくの休み時間、トイレにくらい行っておかないと勿体ない。

「ってワケで連れションなんかどうよ、カキョウ」

「……どういうワケだ? とにかく、ぼくは遠慮するよ。美少女はトイレに行かないんだ」

「誰が美少女だこの貧乳。二十センチほど増量してから言いやがれ」

「ヒミカちゃんのようにかね?」

「ああ、ヒミカみたいにだ。アイツ中学時代から大きくってなぁ」

「セクハラ発言はもう少し控えた方がいいとぼくは思うよ、シラス」

 へぇへ、と頷いて、オレは歩き出す。

 ……実際のところ、オオカミニンゲンに関する意見には賛成だ。

 犯人がケモノとニンゲンを併せ持つと言うなら、腹が減っても、美味いもののためなら我慢できるだろう。

「――ハ、は」

 理由をつけると、どこか安心する。その辺、オレもニンゲンらしい。

 カキョウから視線を切り、鳴る腹を抱えて、前を睨む。

 ……さて。今日も、夜を歩こうか――。










――――Night of souls' betrayal.


 今日も走った。走った。走った。

 夜の街は、ケモノのニオイに覆われている。そうだ、彼女はニオイなんて隠そうとしていない。なぜなら、彼女はどうしようもないくらいの狩人だから、だ。

 天敵なんていないと信じるが故の傲慢。事実そうだから始末が悪い。脊椎を引っつかんで本能を揺り動かされる感じ。脳髄がニオイでシェイクされる。

 今宵の自分は、どうやら彼女のニオイのせいで、ケモノ寄りらしい。ヒトからは失われた、鋭い嗅覚が復活している。テンションが脳を突き抜けて頭上、月まで至る。理性は脱落、身体と本能の、どうしようもないデッドヒート。ランナーズハイなんて生易しいものじゃない。化学物質の起こす馬鹿みたいな興奮でもない。本能準拠の昂ぶりが身体を支配する。

「あは、は、はははは――!」

 もう、駄目だ。凄い楽しい。見つかったら殺される(デッドエンド)、見つけられたら殺される(デッドエンド)、見つけられて殺される(デッドエンド)、未来はそれだと分かっているのに、一途な狂愛を抱く思考回路は走れと命令を下す。

 夜だから元気になる。元気になりすぎて、死にそうだ。

 ――と、眼前に人影が降ってきた。

 音も無く着地したそれは、月下、スレンダーなシルエットだけを見せている。

 きれいだ、と素直に思う。少女らしいその細さは、下品さがまるでない。ただ、幽玄とでも言うべき色気がある。だが、それは今、この足取りを止める要因にはならない。押しのけることはできないけれど、迂回くらいはまだ可能だ。

 避ける様子はないので、横をすり抜けろと震える足に指令。進路を変えるも、人影はそこに立ちはだかる。

 しかたなく立ち止まり、睨みつける。

 鼻孔をくすぐるのは、清冽でいながらどこか妖艶なニオイだ。

「――帰りたまえ」

 と、その影が言う。

「…………」

 首を振り、否を示す。

「……どうしてもか」

 影が広がる。ざわざわと、毛が生えるように、だ。

 今度は頷き、是を示す。

 影は最早問いを口にしない。

 人と言うよりは、ケモノに近いシルエット。尻で揺れるのは四本のふさふさとした尾。白銀の月光下、金色に光る体毛は人間では在り得ない。どちらも人外の証。

 そう。この影は――キツネだ。

「ならば――ぼくが先に、きみを、」

「駄目だ」

 否。否否否。

「失せろ駄種! この身は、この身体は、全て、全て、全て――彼女のものだ! キツネなんて卑しいモノに食べられるワケにはいかない! この身は――気高いオオカミにのみ喰われるべきものだ!」

 叫び、キツネを殴り倒す。疲れもあって、力も弱い。キツネは僅かによろめくのみで終わる。

「――そうか。なら、ぼくはもう何も言わない」

 そう言って、キツネは踵を返した。

「ただ――残念だ。とても、残念だ。ぼくは、友達だったつもりだから。……オオカミくんはきっと、人間には戻れなくなってしまうだろうね。もう二度と、昼の世界には戻ってこれないだろうね」

 それは、とても悲しいことだ――と。そう言って、キツネはどこかへと飛んでいく。

「……は」

 キツネを侮蔑しながら、夢見るように思考する。

 こんな無様な生物でいるくらいなら、オオカミの糧になりたい。そう願う。

 オオカミだって、人間になんかなりたくないだろう。人間のままでいるなんて、耐えきれないだろう。

 だから走る。故に走る。この身は供物、喰われるためにだけ存在する――





 ――それが、さっきまでの覚悟(妄想)。




「あ、はっ、ハッ、ハッ、はっ、ハァ、は、ひ――!」

 ――追って来ている。オオカミが――背後に、いる。

 今、自分が狩られているということを、心臓の痛みで再認する。

 ニンゲンとしての本能が、性的欲求をはるかに上回る生存を訴えている。

 発端は数分前。

 ほのかに香る、ケモノのニオイ。モトは路地裏、キツネの甘いニオイとは全く異なるそれに誘われた。ふらふらと近づいたら見事にビンゴ。そこは真っ赤な噴水の上がる場所でした。

「はぁ、ハァ、ハひ、はあ、だ、れか――だれ、か……!」

 恐怖で洗浄されていく自己。悪寒は神経細胞に取って代わり、スパークを全身に運んでいる。無駄な助けを求めて、肺は全力で叫びを上げている。ああしかも、とんでもない大馬鹿。なんで自分の足は、人気のない路地裏から、もっと人気のない工場地帯なんかに紛れ込んでいるのだろう……?

「うわぁ、あはあぁ、ひぃ、ひ、はぁ、ぐ、ぅ……!」

 あんまりにも走るものだから、胃がひっくり返って内容物をブチ撒けようとする。

 駄目だ、止まったら絶望的なまでの希望的観測でも死んでしまう。そんなことは考えなくてもいいのに、ニンゲンが、叫んで足を動かしている。だから込みあがってくるものを飲み込んで、一生に一度と自分自身に頼みこんで、乳酸を無視する筋肉酷使。

「はぁ、は、ひ、ひぃ、」

 そんなザマだって言うのに――なんで、自分は。

「ひぃ、ひ、ひひひひ……!」

 ――こんなにも、笑っているのだろうか……?

 と、足元に石。

「ふ、ぎゃぁっ!」

 無様に転んで三回転半。頬とか脛とか擦りむいてもう大変。結果的に、仰向けの大の字になった。

 ……工場の高い屋根で切り取られた上空。その真ん中には、ぽっかりと丸い(アナ)が開いている。

 どうしようもないくらい、それがキレイで――削げ落ちた理性に、ゆっくりと、雪が降ってくるように、修復が加えられていく。

 夜の狂熱が終わる。

 理性の静けさが、戻ってくる。

「追いかけっこは、終り、か?」

 ……視界の上、つまりは後ろ側。そこに、ケモノの影が見えた。

 かろうじてヒト型、それも女性。とは言っても、そのシルエットは、直立歩行したオオカミに近い。

 ああ――やっぱり、オオカミニンゲン、ってのは、言いえて妙だ。オオカミとニンゲンを併せ持っている。

「少しだけ――待ってもらえる――かな」

 そうして――私は、息を整えた。

 殺してもらうために。

「……クーヤ」













――――Wolf.


 ――そもそも。このオレ、白洲(しらす)久弥子(くやこ)は、先祖返りという代物らしい。

 昔々、ジジイから聞いた話によると、ウチの家系は、神社を管理していて、狼を奉っていたんだそうだ。その原因は、なんと狼が先祖にいるからだそうで。

 笑い飛ばすには少しジジイに悪いから、変な迷信、ぐらいにしか思わなかった。……身をもって真実だと知るのには、ちょっとばかり重かったが。

 だけど、なってみるとそう悪くない。本能が理性を消し飛ばすだけで――気分は爽快ストレスはゼロ、銃弾だって撃たれてから避けられるくらい体も動くようになったし、人体どころか車とか建物とかだって解体できる。なにより、狩りは途方もないくらい楽しい。

 ――だから、その晩も、オレは走り出したのだ。

「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、」

 窓を開けて、裸で飛び出す。

 仮にも、この白洲・久弥子は女である。恥ずかしいと思わないでもなかったが、そんなことを思う理性はすぐに消えるし、何より、隠す必要も無いくらい獣毛が生えてくる。

 オオカミみたいに俊敏。効率のいい酸素補給は、無様なニンゲンの呼吸様式とは似ても似つかない。これは狩りのため――獲物を追うための、狩人の呼吸。

 四肢は屈強。速度は稲妻。意識は風のように鋭く。

 実際、この体になって悪いことって言ったら――それこそ。何かを狩らないと耐えられなくなったコト、くらいだろうか。

「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、」

 消失した理性は、満月を見ることでさらに融けていく。

 もしかしたら、もう、真っ当な人間に戻ることはおろか、ニンゲンにすらなれないんじゃぁないか、って――そんな風にすら、思考してしまう。

 そうして駆けるうち、顔見知りを見つけた。

「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、」

 いつもは、顔見知りを襲わないことにしている。

 人間になったとき、もしも罪悪感を覚えた時――それはきっと、オレの終焉だ。

 オレは、この感覚をきっと捨てるだろう。それは、嫌だった。

 でも、それも今日までで、きっと罪悪感なんて覚える前に、理性が死んじまうだろう。

 オオカミみたいに狡猾な狩り。オレの心はもはやオオカミそのものに追い込まれている。

 ……ああ、でも、それだけは、ほんとうにイヤだった。

 ヒミカと、一緒にいられなくなる。

 依存度は、まるで麻薬。無くても大丈夫なものが無理矢理に這入ってきたせいで、人間が削られていく感じ。

 だけど――どうしようもなく。腹が減っていたのだ。

「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、」

 そうして追い詰めた。

 お隣さん、朝永・ヒミカは、眼をつぶって、大の字で倒れている。

「追いかけっこは、終り、か?」

 ケモノが少しだけ後退して、顔が僅かにニンゲンらしさを取り戻した。

 オオカミの血が慈悲心でも出したのか。なんにせよあり得ない、ありがたい。だから、無駄にしないよう声を出す。

「少しだけ――待ってもらえる――かな」

 ヒミカは呼吸を整える。……狩る側として言うなら、それは最高だ。簡単に覚悟をしてもらえると、楽でいい。

 それに、これ以上の狩りを楽しむべきじゃない。それは、ただ獲物をいたぶること。それだけはしてはいけないと、ケモノが吼えている。

「……クーヤ」

 ああ、とだけ返事をした。

 どうやら、向こうさんも正体に気付いていたらしい。

 ……満月。明るい夜は、彼女の表情にまで白さに浮かび上がらせている。

「ヒミカ。なんで、笑ってるんだ?」

「だって、死ねるんだって、分かったから。私、昔から、どうしても死にたくて死にたくて、たまらなかったから」

「……なるほど」

 獲物としての覚悟もすぐに定まるはずだ。元から、朝永・ヒミカは、死んでいたってわけだ。

 どうしてか、なんて理由を考えたがる『クーヤ』がフェイドアウトしていく。ギチギチと顔がケモノに戻っていく。ちょっと我慢してたけど、まあ、やっぱり駄目だ。この美味そうな獲物を放っておくことは、生物としてできないらしい。

「ヒミカ。それじゃあ、そろそろハラがへってきた。くうぞ」

「……ん。できれば、止めを刺してから食べてね。痛そうだから」

「……もういたぶらない。そのくらいのケモノの誇りはもってる」

 ――振り下ろす。

 それだけで、ヒミカの首は前半分ほど千切れて、地面とミンチになった。振り切った爪から、血が壁へと飛んでいく。ざば、と血がコンクリートを紅く染め上げていく。首に口をつけて、ごくごくと紅い血を飲んだ。

 水分。甘露。ああ――美味しい。嚥下して、ひとまず胃の中に収める。

 しばらく飲み続けて気が付いた。……少し、フライングしてしまった。だけど、瞼を裂いて紅い瞳孔を見ると、既に散大を始めている。時間を無駄にしなかったということで結果オーライ。って言うか、ほぼ即死だっただろうし。

 まあ、まずはその豊満なおっぱいさんから頂こう。が、と口を開いて一言。

「い た だ き ま す」

 ぞぶり、と牙が柔肌に食い込む。あ、美味い。瑞々しさで言ったら、今までの獲物の中でもダントツ。駄目だ狂う、オレっち、もうイッちゃいそうですよ? 仮にも女がこんなこと言うのははしたないってヤツかもしれないけどさ。

 三口で、甘くとろける左乳房を完食。肋骨をベキ折り、その下の心臓を――

「……あ?」

 ――心臓が、動いていた。

 瞬間、全身のケモノが吠え出す。血の中に混じるオオカミ。それが、飛びのけと、だがしかし、


 ぞぶり、と。内側から抉れる胃袋が、それを阻止した。


「■■■■■■■■■■■■■■!?!!??」

 駄目だもうなんか自分でも声になってないって分かる。

 音にするならぎゃわわわわーん。犬っころみたいな声を上げて、オレはのた打ち回る。

「ふ、フフフ、あはは」

 そうして立ち上がるヒミカ。

 お、と肺を絞ってうめきを上げるオレを見下して、あざ笑う。

「あーあ、あーあ、あーあ。今度こそ、死ねるかと、思ったのになあぁ!」

 心底残念そうに、ヒミカは語る。

「ニンゲンの子供なんかに封じられて、そんなざまで生きてらんなくて! クーヤなら殺してくれるかと思ったのになあぁ! 駄目、全然駄目、単なる美術品、――内側から触ってみたら、なんだ、ただのケモノじゃない! わざわざ陽の下を歩いて弱ろうとしてたのが馬鹿みたい!」

 痛い痛い痛い。血管が裏返って肉をかき回してる。それは感覚ではなく事実その通り。

 ああ、と思う。さっき、気付くべきだったのだ。せめて、彼女の瞳孔が紅いって時点で。

 ――彼女の瞳孔、色は紅。血を操る性能。不死身性。

 ああ、そうか、と血液で理解する。

 彼女もまたニンゲンではなく――吸血鬼だったのだ、というコトに。



――――Happy Happy Birthday.


 クーヤと『朝永・氷見歌』は、それこそ小さい頃からの付き合いだ。

 頼もしいひとだったし、大分ズレてたけれど、友情もあった。恩や思い出は、それこそ数えきれない。

 だけど、こんな犬っころなんかにかけてあげる情はない。

「……本当に、残念。クーヤ、実は、こんなに醜かったんだ」

 獲物になって、よく分かった。

 こんなモノは、ちっとも美しくない。

 だって、乱暴すぎる。人体を切開するのなんて、血が飛び散っていかにも無駄だ。

 憧れが急激に冷めてしまった。百年の恋が終わったような感じ。見た目だけにとらわれた私の失敗だ。

 あはは、と笑えば、連鎖反応のように、内臓から哄笑が湧き出てくる。

 それでも、私は我慢した。

 だって、わざわざおびえさせるのは可哀想だし。

「せめて我慢してあげなくちゃあ、ねぇ」

 自分で自分がおかしくなって、クスクス笑った。

「う、ァ、ああ、あ……!」

 彼女は尻餅をついて、泣きそうな顔で後退している。まるで小動物。本当、カワイイひとだ。

 だから。私は、終らせてあげることにした。


 ●


 ――ズルリ、ズルリと。血液が飲まれていく。

 瞬時に八割。それだけ吸われれば、生命は死滅する。

 ケモノもニンゲンも。停止は即座、まるで熱で圧し延ばされていく感じ。

 死んでる。とても死んでる。生命力とかそういう問題じゃない、生命である時点で、この状態は死んでいる。

「あ、ひ――ハ――――あ」

 だって言うのに、オレはまだ生かされていた。

 痛い。痛い。痛い。泣きたいっていうのに、オレはニンゲンじゃないから泣けないってことに、今更気が付いた。

 どこでオレは、こんな風になってしまったのだろう。

 どこでオレは、道を違えたのだろう。

 ……最期だからだろう。いつもは回らない脳に、悪魔が手助けをくれた。

 最初から間違えていた。

 こんな風になりたくなかったのなら、オレは、オオカミなんか捨てて、人間になるべきだったのだ。

 だが、もう遅い。白洲・久弥子が吸われ尽きる。

 もう手足はミイラ同然だ。心臓も停止している。思考は奇跡の結果だ。

 ……当然、奇跡は終わる。魂が、夜色に漂白されていく。

 間際、まるで神さまが悪戯したように、視覚が黄泉還(よみがえ)る。

 そこにいたのは、どうしようもないくらいのクリーチャー。朝永・氷見歌であったはずのもの。オレが好きだったもの。

 自分で殺して、眠れる怪物を呼び覚まして、そうして殺される。

 こんなにひどい話はない。

 こんなに愉快な話はない。

 最期に、祝福を送る。

 こんな怪物。

 豚は潰されるだけだ。

 民衆は喰われるだけだ。

 狩人は皆殺しにされるだけだ。

 そんな化生の誕生に、祝福を送らずしてどうするのか。

 ごちそうさま、との声に合わせて、最後の力を振り絞る。

 ――さようなら現世。

 地獄から、新たな地獄を眺めています。





「ハッピー、バースデイ。バンパイア」







DEAD END.

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