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Slugger.

――1、渦螺旋(屑鉄)――


 白球が、夕空を切り裂いていく。

 沈む赤朱の太陽に向かって、夏の風を貫いて、伸びる。

 ……いい打球だ。

 思い、総髪の少年は打球から視線を切った。丘を掘り下げて作ったような塁球ソフトボール場、その右翼スタンドに立ち、緩やかな風に身を任せる。

 着崩すブレザーの腕章は三年生のものだ。CDプレイヤーの入った胸ポケットからは、イヤホンが伸びている。

 ポケットには、プラスチックプレートが縫い付けられている。雲野・此方うんの・こなたと刻まれたそれが。

 豪打の主は、彼の視線の先にいる。ヘルメットから髪の毛をはみ出させる、長身の少女だ。

 彼女が立つバッターボックスは、西日に照らされる位置にある。雲野の視力は彼女の表情まで見るには至らない。しかし、上下する肩や、ふらつき始めた下半身から疲労を見て取ることはできる。

 ……衣鶴め。

 思い、少年は観察を続ける。

 彼女は名を、海老原・衣鶴えびはら・いづるという。県内最高と謳われる、精強の強打者スラッガーだ。

 彼女はバッターボックスから一歩踏み出て、籠から球を取り出す。最初は籠四つに満杯だったそれも、今となっては残り数個だ。打球感覚を刻み付けるための練習は、この一時間半続けられている。その時間は、少年の待ち時間と等しい。

 再度の構え。手にあるのは、円周約二十三センチの硬式球に対し、円周三十センチ以上のソフトボールだ。

 彼女はそれを軽く放り投げ、

「…………っ!」

 快音。

 そのスイングは、全身の力で振りぬく動きだ。俗に言うフルスイングだが、

 ……アイツがそうでないなんて、有り得ない。

 衣鶴の試合風景を、雲野はずっと見てきている。だから、それについては誰よりも自信を持つことができる。

 高く飛んだ球は、向かい風に押され、しかしセンター側のフェンスを乗り越えた。試合であれば上々と言える打球であったが、衣鶴は打球を見もせず、次の準備を開始している。

 ソフトボール部の試合は、明日に近づいている。この県においての勝者を決定する試合が、――衣鶴にとって、おそらく高校最後となる試合が、だ。

 ……そりゃあ必死にもなるだろうが――

 眉根を寄せつつ、雲野はイヤホンを外した。漏れて来る音は、二十年近く前の、古いヒット曲だ。

 音を流し続けるイヤホンを意に介さず、彼は風に押されながら歩き出す。その足幅は広く、調子も速い。

「自分で『練習終わるまでどこかで待ってろ』とか言っといて、居残り練習するってのはどうなんだよ……」

 文句を呟きつつ進むのは、ホーム裏の方向だ。

 高校に入って二年と半分。運動らしい運動を続けていなかったため、体力の衰えを自覚する。夏の西日もあって、ホーム裏に着いた時には薄く汗をかいていた。

 背番号が見える位置に行き、左手でフェンスを掴む。

 歩く間にも、本塁打は量産されていた。自身が納得するまで、彼女の練習は終わらないことは知っている。キリのいいところで声をかけねば、ボールを回収してでも続きをやるだろう。

「衣鶴よぅー」

 気の抜けた、と自身でも分かるような声を出す。

 一際派手な音と同時、やはり一際高い角度の球が夕闇を抜けて行く。

 振り返りで現れるのは、不機嫌な切れ長の瞳だ。

「……なに」

 ……なんで怒ってますオーラ出してるんだお前は。

 心中でため息を吐き、言う。

「……あー。衣鶴、お前、いつ帰るんだ? 明日の試合に備えて今日は休めって監督言ってたんじゃないのか?」

「まだ明るい」

 彼女はそれだけ言って、口を閉じる。そこにある球は、もう二球しかない。

 ……本気で言ってるんだろうな、コイツは。

 ため息を吐くか首を振るか頭をかくか、雲野は一瞬迷う。無言から来るのは、練習の邪魔をするな、という焦りにも似た意思だ。

「衣鶴。それでキリいいんだし、もう帰ろうぜ。これ以上暗くなったら、ボール捜すのも面倒だ。着替えもシャワーもあるだろ、お前」

 彼にとっては、ごく現実的な提案だ。

 だが、衣鶴は先ほどの言葉と同じく、端的に言う。

「……手伝ってもらおうって、待ってもらってるんだけど」

 ん、と思う。素出しの言葉に脳の対応が僅かに遅れ、――二秒後に納得がきた。

 ……ああ、つまり。こいつは俺をパシるために――

「じゃあな衣鶴! 明日の試合頑張れよ!」

 笑顔で左手を上げる。

「まあ待ってよ、こなた。帰られたら、さすがに困る」

 ひどく鈍い打音が、――脅すような一音が、球場に響く。まあ帰らないだろうけど、と、雲野にはその続きが聞こえた気がした。

 見透かされている。その思いは、くそ、と悪態の呟きを生む。ここで彼女を一人で帰すほどの無情ではない。それに、自分でやったことは自分でカタをつける性格だ。自分がいなくなれば、深夜になってでもボールを捜すだろう、という予測もできる。

 良く言えば意思が固い。悪く言えば、頑固。その性格もまた、彼には分かりきっている。

 ……仕方ない。

「とにかく、だ。お前、いい加減やめろよ。もう六時半になるぞ? 今日はミーティングだけだったろ。今までの努力が疲れで徒労に終わっていいってんなら、止めないけどよ」

 ……もっとも、コイツの努力は、他人の努力を徒労と化す努力だが。

 思うが、それがトーナメントというものだ、と彼は理解している。そもそも、知り合いでない人間に心を動かせるほど有情ではない。余計な思考を切り離し、現実に意識を戻す。

「徒労になんか終わらない。勝つ」

「……言い切れるのはいい事だがな。精神が肉体を凌駕するっての、期待してるならやめとけよ。お前も分かってるだろ? こんな、一時間や二時間の延長じゃ、微々たる効果しかないって」

「ばか。微々たる効果、でもやった方がいいに決まってる」

 自信満々――否。喧嘩腰だ。自然、雲野もそれなりの対応になる。

「熱血も大概にしろ馬鹿。今の時点でもうやりすぎ(オーバーワーク)だ」

「熱血も、って――」

「とにかくだ」

 ここでの熱血は必要ない。勢いを殺ぐため、かぶせるように言う。

「とにかく、休めよ。今日はもう」

「……ん」

 衣鶴は不満げに返事をして、最後の一球を放り投げる。

 打音は、快音とは程遠い。打者の心情を如実に表すような音だ。

 その音を最後に、衣鶴はヘルメットを取る。

 整理体操を始める彼女に、雲野は声をかけた。

「先にシャワー浴びて来いよ」

 言い終わった後で、状況によっては危ない一言だ、と気付く。だが、衣鶴は気づいた様子もなく、

「……ありがと。なるべく早く浴びてくる」

 平べったくなった髪を手櫛で整えながら、衣鶴は部室棟へと歩き出す。金網の扉を開く掌は、マメで固い、と知っている。

「こなた」

 衣鶴は立ち止まり、しかし振り返らずに言う。

「……その。ごめん」

「今更気にするな。もう一桁じゃきかない付き合いだし、このくらいなんでもないさ」

 衣鶴はどういう顔をしているだろうか、と雲野は思う。化粧っ気がほとんど無い、よく日焼けした顔は、と。

 部活棟に、彼女は駆けていく。彼に残された仕事は、打ち飛ばされたボールの回収だ。

 下手に打ち損ねがない分、ボールは外周――フェンス際と客席に固まっている。

 だが、数が数だ。衣鶴が戻ってくるまでに終わることは在り得ないだろう――と、ため息交じりの予測と空の籠を持ち、歩いていく。

 ……こうやって後片付けを手伝うのも、何度目だろうか。

 高校入学以前――中学、小学でも、同じようなことがあったな、と――その時の事を思い出しながら、彼はボールを拾い始めた。



――2、明星の下で――


「暗くなったなぁ」

「ん」

 結局片付けが終わったのは、七時近くになってからだった。

 既に日は稜線の向こうに消えている。今ここにあるのは、街灯の頼りない光と、西の空に消えかける金星(明星)だけだ。

「お前、明日試合だろ……本当、馬鹿なヤツだな……」

 ため息交じりの言葉だ。衣鶴は気にした風もなく、上機嫌といった風で歩いている。

 雲野は、カバンを持った左手で頭をかく。続く言葉は、探るような語調を持っていた。

「で。明日は勝てそうなのか?」

「勝つよ」

 ズレを持つ答えに、わずかに眉を寄せる。

 ……お得意の精神論か。

 衣鶴の言葉は、決意を含みつつ続く。明日は、勝つ、と。

「……そうか」

 羽虫の焼ける音を聞きつつ、吐き出すように言う。

「……で。精神論とか抜きにするとどうなんだ。大丈夫なのか? お前以外はぶっちゃけ弱小の、我らがソフトボール部は」

 ――衣鶴が一瞬怒気を放つ。

 横から風が押し寄せてくるような――肉体を放り出して、存在感だけが膨れ上がったような感覚を、雲野は得る。

 ……仲間をけなされるとすぐ怒るのは、相変わらずか。

 今は仲間じゃないものな、と苦笑を浮かべつつ、両手を上げ降参の意を示す。

「悪い。弱小は撤回する」

「……いいよ。悔しいけど、事実だから」

 明日できっと終わる、と彼女は言う。

 ……野球と一緒だよな。

 チーム競技は、能力の総合値が高い方が勝つ。例え、衣鶴のようなオンリーワンがいたとしても、スポーツ漫画のように上手くはいかない。それに、明日の相手はこの地区での勝ち抜け常連だ、と雲野は聞いている。

 しかし、

「でもさ、」

 衣鶴の表情は、眉尻を上げたものだ。眼には決意の光があり、カバンを持つ手には力がある。

「……なんとなく。明日は、勝てそうな気がするんだ」

「なんとなく?」

 うん、と衣鶴は笑みを見せる。信頼を湛える笑みを、だ。

 ……これは――

 雲野は眉根を寄せ、しゃがみこんだ。

「お前、いくらなんでもサワヤカすぎるぞ。偽者か」

 え、と衣鶴が疑問の声を上げた瞬間、雲野は表情をにこやかな笑みへと一転させる。

「――ああ、本物か! 今時クマさんパンツはく勇気があるようなのはお前しかいねぇしな!」

 直後。地を這うような位置からのアッパーカットが雲野の意識を打ち抜いた。


 ●


「……あー。嫌われたかね、こりゃ」

 雲野は自室の窓際に立ち、呟いた。

 時刻は既に十時を回っている。部屋の光源は月光のみだ。

 その顔面には、絆創膏が張ってある。原因は拳による連続の強打だ。慈悲も手加減も容赦もない打撃だった、と雲野は回想する。

 ……試合後のボクサーみたいになっていないだろうか。

 鏡を見て確かめる勇気はない。部屋が暗いのも、窓に己の顔を映さないためだ。

 だが、息抜きにはなっただろう、とは思う。

 ……と言うか、そう思っておかないと俺がちょっと哀れすぎる。

 ため息を吐き、窓から外を眺める。そこにあるのは、衣鶴の家、海老原邸だ。

 既に、衣鶴の部屋の電気は消えている。本人が寝ているかどうかまでは分からないが、疲れをきちんと抜いて、明日の試合を勝ってくれればいい、と思う。

 ……昔々の、大切な約束を破った大馬鹿の応援なんか、要らないかもしれないが。

 自嘲の笑みを浮かべ、布団に入る。横を向いた位置にあるのは、使い込まれたグラブだ。

 ……未練がましいな。

 バットやユニフォーム、帽子は捨てたくせに、グラブだけ捨てられないのは、もっとも馴染みの深い道具だからだろうか。

 過去が噴出してくる。きっと輝かしい、しかし何よりも苦い過去が。

 自嘲の笑みを濃くし、雲野は目を閉じる。衣鶴の勝利を、誰よりも願いながら。



――3、SOFTBALLERS――


 ソフトボールは、野球を基に成立した競技だ。

 ボールの大きさやグラウンドの広さ、投球法、離塁の不許可など、様々な差があるが、しかし、見る方としては、野球と同じような感覚で問題ない。

 野球と同じような盛り上がり方で、決勝戦ということもあり、学校総出の応援だ。

 試合は現在九回裏、衣鶴達の攻撃。。二対一と一点のビハインドながら、塁には走者がいる。

 ヒットさえ出れば勝てる――俗に言う、サヨナラ勝ちの好機。それを得るべく立つは海老原・衣鶴。投手にとって、これほどの凶運はないだろう。ここに至って、こんな最悪に出会うなど。

 だが、投手もここまでを一点で抑えている。失点は衣鶴の第二打席、失投からの本塁打のみだ。走者を背負っても崩れることなく、打者を切って捨ててきた。

 そしてこの九回、制球こそ乱れてきたが、鉄腕とでも言うべき剛速球には一点の曇りもない。背負う走者も、バント球の処理ミス(仲間のエラー)によるものだ。まだ行ける、と――私以外にはこの女は抑えられない、と、その背が強く語っている。

 ……ツバが硬い。

 観客席の中、雲野は思う。

 炎天直下――倒れそうなくらいの熱気が、球場を支配する。

 ――投手が、セットアップに入る。

 両足で投手板を踏み、左足を前に出していく。

 右腕を一気に加速させ、大きく回していく。

 太ももに手首をこすり、手首のスナップを加速。

 投球は、右足による加速をもって完成する。

 ウィンドミル。

 風車の名を持つその投球法は、下手投げ故に速度は出ない。しかし、野球と比べ短い彼我の距離や、持ち上がる軌道によって、百マイル(約百六十キロ)にすら匹敵する体感速度となる。

 もちろん、この投手はそれほどの速度ではない。だが、高校生という括りで言うならば、十分にトップクラスだ。

 それを、衣鶴は討ちに行く。

 放たれた(リリース)時点で、バットは本格的な加速を開始している。

 衣鶴側の応援席――ライト席まで風が伝わってくるようなスイング。

 しかし快音は生まれず、ボールはミットの中心へと叩き込まれた。

 ワンストライク。

 レフト側、相手校の席から歓声が沸く。

 捕手がボールを投げ返す。

 投手はグラブにそれを収め、笑みを浮かべた。これが最後だ、と。紛れもない全力だ、と。満身の力を込めて、投手は打者をりに行く。

 一度、大きく肩を上下させ、セット。

 そこからの動きはすべて高速であり、その速度には強い意思が乗る。

「――――!」

 叫びと同時のリリースだ。

 当然、制球コントロールは乱れる。

 捕手は構えたところに球が来ないと見て、自ら動いての捕球に入る。

 その投球が行くのは外角低めのコース。ストライクかどうかは、雲野の眼では判別できない。

 しかし衣鶴は、やはり打撃を行う。

 吼え返す。

「らぁぁ――――っ!」

 殺気には殺気を。本気には本気を。高速のスイングはボールを捉え、

「!」

 しかし力負けし、手指からバットが飛んだ。

 ボールは一塁側のフェンスにブチ当たり、ファールとなる。

 ツーストライク。

 投手側の高校が歓声で沸き、衣鶴側の高校はもはや悲鳴じみた応援の声を発する。

 ――その全ての音を無視して、衣鶴はバットを拾う。同時、彼女は顔をしかめた。

 両腕を軽くふる。手を顔の前まで持ってきて、バットを握り、緩める。具合を確かめるよう、やり方を変えつつ何度も、だ。

 ……指を痛めたのか?

 思いは背筋の冷却と同時、そして全校共有。

 それを振り払うかのように、臨時編成された応援団が声を張り上げる。

『え・び・はらッ! え・び・はらッ!』

 相手校も負けてはいない。同じように投手の名を叫び、あと一球、と今更のような事を叫ぶ。

 総勢、千と五百。誰の声にも、熱意と同時に悲痛を感じさせる響きがある。

 声は、加速度的に大きくなっていく。行け、と、打て、と――二つの声は混ざりあう。うねる波のように。

 ――あと一球。

 その通りだ、と雲野は思う。怪我の程度は分からないが、力負けしたのは衣鶴の方だ、と。

 紛れもない不利。それを突きつけられても、衣鶴は投手から視線を外さない。

 速度が白球(弾丸)に宿る。

「らァ―――― !」

 崩れた、しかしこの試合最も力強いフォームから、剛速球が射出される。

 紛れもない最高速度。百マイルの体感速度が、衣鶴を襲う。

「で、やあぁあっ…………!」

 だが、衣鶴は怖じけずスイング。

 それは高速であり、タイミングも位置も、ただ一点を除き何もかもが絶妙。


 ――そう。敗北の原因はただ一つ。

 そのスイングは、フルスイングではなかった。



――4、青春の所在――


 試合翌日から三日間、雨が降り続けていた。湿度こそ高いが、気温の低さ故か過ごしにくくはない。静かな雰囲気のまま、朝の授業は粛々と執り行われている。

 雲野が座るのは、雨粒も見える窓側中段の席だ。イヤホンは教師の死角である左耳のみにあり、流れる曲は常通りの古い流行歌だ。

 だが、両耳とも、外の音を聴いてはいない。

 ……衣鶴。

 試合を見る限り、と雲野は思う。衣鶴はそれなりにいいキャプテンだったらしい、と。

 全員が最後まで諦めなかった。全力でぶつかっての敗北だった。力及ばず敗北はしたものの、努力の結果としては見合っている。

「青春してやがったなぁ……」

 ため息を吐いて、窓の外を眺める。

 ――一つ。くだらない疑念がある。

 右手でペンを回しつつ、確かめるように疑念を思う。

「…………」

 衣鶴が痛めたのは、右の小指と薬指だった。

 何年前にあったのか、とまでは思い出せないが、ベンチを殴って、同じ箇所を骨折した投手のニュースを見たことがあった。

 まさか、とは思いつつ、まだ少し痛む鼻を押さえる。

 人の頭や顔は意外と硬い。

 素人が人を殴ると、拳――特に小指、薬指を痛めてしまうことが多い。

 拳以外に手首を傷めることも多いが、それはインパクトの衝撃が手首に来るためだ。故に、殴る瞬間に手を握りこみ、手首を固める必要がある。

 そして、衣鶴は、と雲野は考える。手首は打者故に強いが、その手指はどうか、と。

「…………」

 くだらない、こじつけのような考えだ。

 だが、否定しきれないのは――まるで泥のように疑問がまとわりつくのは何故か。

「……くそ」

 ため息を吐いて、教室に視線を移した。

 夏の大会時期。一部のクラスメイトは全国大会のために県外に出向いている。普段よりも目立つ空席は、教室の静かさと明らかな因果関係を持つ。

 その静けさが、雲野の心を僅かにささくれ立たせる。

「……すかー」

 雲野の隣では、衣鶴が全力で寝ていた。右手、薬指と小指には湿布が巻かれている。

 動かさなければ痛まない、と言っていたが、

 ……枕にするのは大丈夫なのか?

 疑問を抱くが、その寝顔は安らかだ。普段なら机を軽く蹴って起こすが、

「……まあ、頑張ってたし、いいか」

 んぬー、となにやら寝言が聞こえてくるが無視。思考を続行する。

 ソフト部は今日にでも引継ぎを行い、新人戦に向けて新たな努力を重ねていく。

 来年は有望な新人が入ってくるだろうか。それとも、来年からは逆に緩くやっていく部活になるだろうか、と。過去所属していた少年団を思い出しながら、ソフトボール部の未来予想図を描く。

「…………」

 試合について、衣鶴が言っていたのは指の事のみだ。

 負けた事についての感想は無く、故に雲野から聞く事もない。昔馴染みの、歯がゆい距離感だった。

「俺が女だったら、話聞けたんだろうかな……」

 もしくは、衣鶴が男だったら、か――と、深く嘆息して、窓の方に顔を向けなおす。

 昼には晴れる、と天気予報は言っていたが、

「……信じられんなぁ」

 強い雨音に意識を集中すると、睡魔が来た。

 衣鶴と同じような姿勢になり、目蓋を閉じる。

 眠りはすぐに来る。逆らうことなく、雲野は意識を手放した。


 ●


 ……で、なんで夕陽が見えるんだろか。

 時計を見ると、時刻は三時二十分。ちょうど放課後、HRが終わった時間だ。眩しさは天気予報が的中したことを訴えている。

 気配があったので隣を見ると、そこにはモップを持った女子が仁王立ちしていた。眉は浅く立っている。苛立っているらしい、と、あまり交流のない雲野でも分かるような表情だ。

「起きたかな、雲野? 掃除の時間だよ」

「……おう。悪い」

 既に己の席以外は後ろに下げられている。ばつが悪い、と思う程度には恥の意識がある。

 立ち上がり、左手一本で机を下げる。その腕でカバンをつかみ、

「……あ」

 ふと、小さな疑問を抱く。常ならば、帰るときには自分を起こす筈の彼女は、何故起こして行ってくれなかったのか、と。

「どしたのさ、雲野」

「いや、いづ――海老原はどこにいるか分かるか?」

「ん? 海老原さんなら、今日はソフト部の引継ぎがあるとか何とか」

 そういえばそうだった、と睡眠前の思考を思い出す。帰るときに起こすつもりだったのだろうか。

 ……普通に起こしていってくれればよかったのになぁ。

 まだ間に合うだろうか。とりあえず見に行くだけ見に行くか、と思いつつ、礼の言葉を送る。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 返ってくる言葉は明朗なものだ。切り替えが早いのか、それとも細かいことは気にしないタイプなのか。僅かな笑みを浮かべながらの言葉に、じゃあな、と別れの挨拶を告げ、雲野は教室を、さらには校舎を後にする。

 地には水たまりがあり、空には朱に染まる雲があるが、空気は澄んでいる。

 涼やかな風が、僅かに木々を揺らした。

「……さて」

 足元に注意しつつ、部活棟へと歩いていく。

 部活棟は、いわば部室の集合体、体育会系部活のロッカールーム兼倉庫だ。全体的に古いが各部活兼用のシャワー室もあり、一般の生徒にも開放されている。

 と、グラウンドを横切る雲野の耳に、よく通る声が聞こえてきた。

「これで、あたしたち三年生は引退するけれど――テキトーに頑張っていくべし!」

 そこにいるのはソフトボール部の面々だ。衣鶴を先頭に三年生が立ち、その前に一、二年生が整列している。

 もう下級生も適応してしまっているのか。テキトー極まりないシメの挨拶に対し、ごく普通に、ありがとうございました、と礼を言って終わる。

 ……もう少しかかるか。

 間に合った、とは思うが、ソフトボール部は女子の集まりだ。一般的な野郎の部活のようにキレイサッパリお別れ、とはならないだろう、と諦めに近い思いも得る。芝生にでも座って待ちたいところだが、生憎地面は塗れている。仕方なく、しゃがんで彼女たちを眺めることにする。

 下級生が花束を渡したり、色紙を持ってきたり、お菓子を持ってきたり――その辺りは、さすがに女所帯だ。来年こそは勝ちますから、とか色々と声が聞こえてくる。

「……ホント、青春してやがるなぁ……」

 苦笑をしつつ、イヤホンを耳に入れる。右手でパネルを操作し、過去のヒット曲を流す。女性歌手故だろうか、どこか儚げな雰囲気がある、青春を謳った名曲だ。

 ……衣鶴に薦めたこともあったか。

 アイツはどんな風に言っていたかな、と胸ポケットにプレイヤーを入れ、夕日の光景を眺める。

 と。三年生の一人が衣鶴の肩を叩き、雲野を指差した。

 ……余計なことを。

 雲野は顔の前で平手を振り拒否を示したが、衣鶴は一直線に雲野に歩み寄る。

 表情は、口端を僅かに持ち上げた静かな笑みだ。

「何? 用? 一緒に帰る?」

「何にもない。ただ見に来ただけだ。……ほら、引退なんだし、泣くくらいして来いよ。ってかまだ誰も帰ってないだろ。主将が最初に帰るとか言ってんじゃない」

 いや、と思う。もう主将ではないか、と。

「あたしも、もう用はないよ。それに、泣くことなんてないし。あたしが帰らなきゃ誰も帰らなさそうだしね」

 それもそうか、と取り残された集団を見る。

 ソフトボール部の面々は、いつまでも名残惜しそうな顔をしている。会えなくなるわけではないが、受験勉強などで忙しくなるのは目に見えている。

 ……後ろ髪を引かれるのも当然か。

 しかし、中心人物さえいなくなれば、あとは各自解散するだろう。頷き、

「分かった。じゃ、帰るか」

 ん、との頷きに、ゆっくりと立ち上がる。

「カバンは?」

「部室」

「待ってる」

「あーい」

 軽い返事と同時に、衣鶴は部活棟へと小走りに向かう。

 仲間達とすれ違い様に、常と変わらぬ別れの挨拶を。海老原・衣鶴は、それ(・・)がなんでもない事だ、とでも言うかのように振舞っている。

「……大馬鹿め」

 あれで隠しているつもりなのか、と思う。

 ……あの顔。

 表情を、思い出す。力無い、寂しげな笑みを。

 雲野は笑みを浮かべ、呟く。

「駄目だなぁ、俺は」

 笑みは、悔しさによって形作られている。

 右腕を、無造作に空へと向ける。顔をしかめつつ、ゆっくりと空気を握り締めた。

 そのまま、雲野は右腕を上げ続ける。明星の見える方向に、拳を突きつけるように。


 ●


 周囲には音がある。

 遠く、車が車道を行く音、見えぬところ、風が草木を撫でて行く音、そして足元、二人の靴裏が砂を噛んで行く音、だ。

 雨が降ったせいか、夕陽がくっきりと見えている。

 そんな中、雲野は、数分前の出来事を回想する。

 ……いやはや、まったく。何をガンバレと言うのだろう、ソフト部の皆さんよ。

 疑念の原因は、正門に向かう途中、背後からの声だ。

 ……『がんばれー、こなたーん、いづるぅー……』と、な。

 何のことやら、と考えるのは、現実逃避の面もある。

「こなた。どうしたの?」

「んー? ああ。ほら、午前雨降ってただろ。そのせいで芝生が濡れてたんで、靴に水がしみこんで気持ち悪い」

 さらりと嘘を言って、再び雲野は身体を意識の外に持っていく。

 ……現実逃避、か。

 それをしている自覚はある。だが、なぜそれをしているのか、となると――。

「そう言えばさ、こなたは進路どうするの?」

「俺? ……どうするかな。決めてない」

 この時期になっても決まってないなんて、と笑う衣鶴の声には、僅かな、しかし確かな楽の色が見える。そうだな、とだけ言って、ため息を吐く。

 角を曲がると、大きな水たまりが見えた。左右に分かれ、二人はそれを迂回する。

 雲野は、足元を確かめるため下を向く、――フリをして、衣鶴の右手に目をやった。湿布が巻かれた二指に。

「気になる?」

 水たまりの向こうから、見破りの声が来る。

「……まあ、そりゃあ、なんだ」

 雲野が視線を上げると、笑みがあった。誤魔化しはきかないよ、と言うかのような、得意げな笑みが。

 ……付き合い長いとこういう所がなぁ。

 悔しいと思うが、その感情はどこか心地よさを含んでいる。別に強がる場面でもない、と、素直に肯定をする。

「そうだな。気になってる」

「……ひょっとしてさ、アンタを殴ったから手を傷めちゃった――とか、言うと思ってた?」

「考えてはいた」

 水たまりを突破し、再度二人は合流する。

 衣鶴は右手を顔の前まで寄せ、囁くように言う。

「……ううん。多分、万全の状態でも、あたしは負けてたよ。だから、いい」

 強かった、と彼女は言う。

「球が、すごく重かった。実は、二球目のあと、手首にも違和感があったんだ。寝たら治ったけど」

「…………」

「あれだけはっきり負けたら、悔しいって気持ちも、……あんまり、無いかな」

 衣鶴は、言外に言う。気にすることはない、と。――敗北は全て、己の責任だと。

「……嘘言うなよ」

「……ん。嘘じゃないよ」

 日焼けした顔にあるのは、緩い笑みだ。

 ……ああ、と思う。

「……衣鶴。すまなかった」

「だから謝らないでってば」

 衣鶴はくすぐったそうな表情で言う。あんたってばやぁねぇ、と右手を頬に当てた、おばちゃんくさい動作つきの言葉だ。

 再度、雲野は右手を見る。小指と薬指を動かせないため、動きが不自然なその手を。

 ノートはきちんと取れたのだろうか、とか、箸を持てるのか、だとか、そんな小さな心配が浮かぶ。自然、雲野の眉は寄る。

 先ほどと同じくそれを見取った衣鶴は、ゆっくりと口を開いた。

「……こなた。あたしはさ、今、すっごい満足してるよ。あたしも彼女も、全力だったからさ」

 そう言って、衣鶴は大きく伸びをした。

 ――確信を抱く。

 ……もう、これ以外考えられない。

 その笑みから、思わず視線を逸らす。痛々しい、と思いながら。

 ……コイツが目ざとく俺の視線を感じ取ったように、俺にもコイツの心情が分かる。

 長い付き合いだ、と、改めて思う。最初の五年は姉と慕い、次の五年は好敵手と見据え、この五年は――

「……衣鶴」

 きょうだい同然に育ってきた。それ故に、この現状を許せない。

 ……コイツは、己を、そして俺すらをも騙し通せると、本気でそう思っている――。

 その感情を抜くように嘆息し、空を見上げた。

 沈みかける西日の上空。宵の明星が、妙に輝いている。



――5、疑問、自問――


 一週間が――試合が終わってから十日が経った。

 今日の天気は晴れ。夕焼けの校庭では、一週間前のソフト部と同じように、引退する三年生が挨拶をしている風景がある。

 ごく一部の有望な選手は、スポーツ推薦のため部活を続けている。だが、有望株の筆頭たる海老原・衣鶴は、何もしていなかった。

 一瞥すらせず、衣鶴は校庭を、正門を通り過ぎた。隣を行く雲野に対し浮かべるのは、不満も何もないような笑顔だ。

「こなたー、今日さ、ゲーセン寄ってかない?」

 その距離は近い。一歩ほど開いていた距離は今、手が当たるほどに狭まっている。

 ……進展とも言えるのかもな。

 雲野がそれに気付いたのは、衣鶴本人より、周囲の反応が大きい。あの囃し立てるような視線や囁き声に今まで気づかなかった自分の方がおかしいんじゃないか、とも思うが。

「いいぞ。今日はお前にドット単位の見極めを見せてやる」

 しかし、表面上、雲野は行動を起こさない。部活は終わり、高校生活におけるイベントは残り少ない。青春の別面を満喫したいという気持ちも理解できる。

 ……近づきたいならそれもいい。

 その思いは、自分に対して、プライド準拠の誤魔化しがある。

「……格ゲー? あたし太鼓のがいいなぁ」

「太鼓は駄目だ。お前リズム感ないくせに反射神経とスナップで無理やり叩くからな。三々七拍子叩けるかリズム欠如人間?」

「うわぁUFOキャッチャーに千円突っ込んどいてそのセリフ!?」

「悔しいからって千五百円連コしたお前には言われたくないぞそれ」

 会話はほとんど反射による。お互いの笑みは間違いなく本心からで、言葉にも嘘はない。しかし、思考は遠い場所へと走る。

 その想いは、今の自分では思うことすら許されない。故に、雲野は意識を現実へと戻す。

 右手を胸まで持ち上げ、薬指と小指を握った。

 一週間で、衣鶴の薬指は湿布を必要としなくなっていた。小指の方も、薄い湿布を医療用テープで巻いている程度だ。あと一週間も経てば完全復調する。

 ……あのスイングは完璧だった。

 この十日、何度も再生した記憶が蘇る。指が完全であれば、勝っていた筈の場面が。

「……余計なコト、しちまったんだな」

「ん? なに?」

「……いや、なんでもない。ちょっとさ、嫌なことを思い出しただけだ」

 ……嫌なこと、か。

 口に出したことで、その認識がはっきりした。

 彼女は許すと言っていた。だから、俺も俺を許していいはずだ、と――その背を見せるような思考に、己でも気づいている。

 ……俺の方こそ、自分を騙すべきだろう。

 ため息を吐いて、試合の前夜を思い出す。キレイだった彼女を。

「……なあ、衣鶴」

 ……そういう気持ちが、ないってワケじゃない。

 昔馴染みとは言え――いや、昔馴染みだからか。彼女の存在は、あまりにも大きい。

 だからこそ。雲野・此方は、自身を許せない。

「なに?」

「……いや。悪い、なんでもない」

 変なこなた、と笑う衣鶴を、彼は見ることができない。

 歩調は徐々に早くなる。影が、長く伸びている。


 ●


 夕飯を胃に納め、二階、自室に上がる。

 雲野家の夕食は、帰宅とほぼ同時だ。蓄光の針を持つ時計は、ようやく六時を示している。

「……ん」

 カーテンを閉めようとして、僅かな違和感を得る。窓から見える衣鶴の部屋、その電気が点灯していない。

 海老原家にとっては夕食の準備中、といった時間だ。雲野が知る衣鶴は、夕食の準備を手伝うような器用さを持っていない。

 おかしい――とは、思う。だが、不自然でもない。居間にいるのかも知れないし、器用さを獲得しようとしているのかもしれない。最近の衣鶴を思えば、決して不自然ではない。

「……メールしてみるか」

 用件は、と考え、なんでもいいか、と結論する。『今何してる?』などと、単純な、しかし探るような文面を送りつける勇気はないので、適当に『明日宿題とかあったか』と一文だけを送った。

 ……ああいや、まさかアイツこのハートまでみすかさねぇだろうか。

 頭を抱えもだえつつ待つも、返答はない。

「……で、電話だ電話」

 適当な言い訳を考えつつ、電話帳から番号を呼び出す。

 発信音の後に流れてきたのは、電源が入ってないか電波の届かないところに、という決まり文句だ。

 電源切って熟睡中か、とぐーたらな可能性も考えたが、カーテンくらいは閉めるだろう。

 あるいは、電波が入らないところにいるのか、携帯を持たずに出かけたのか。

「……ぬ」

 アイツだって子供じゃないが、と思う。

 ……大丈夫……だろう……か?

 頭を抱え、少し迷った。

「……ぬああ」

 ……なんとなくだ。

 そう、なんとなく――雲野は行動を開始する。

 まだ着替えを行っておらず、ブレザー姿。時刻は六時十五分、学校までは走ると十五分、腹はきちんと八分目。

「……よ、様子を見に行くとか心配とかそういうのじゃないんだからな」

 ケ、と毒づきながら、家を飛び出した。

 夏は真っ盛り。夕陽はまだ、その光を残している。



――6、幕間――


 何をやってるんだろう、と思う。

 海老原・衣鶴は、校庭の端で、ただグラウンドを眺めていた。

 野球部と、ソフト部、ラグビー部――様々な運動系部活が、まだグラウンドに残っている。とは言っても、練習は既に終わっている。行われているのは片付けだ。

 視線を切り、空を見上げた。

 既に六時を回っている。真夏とは言え、既に星々が見える時間だ。

 ……未練かな。

 静かな笑みを湛えつつ、嘆息する。

「……は、あ」

 十五年来の幼馴染だ。歩き方からですら簡単な心情を読める。その上で、距離は近くなった。――一週間は、その心を知るには十分すぎる。

 おそらく、という確信付きで想う。きっと、彼は自分を受け入れない、と。少なくとも、しこりが解決するまでは。

 そしてその解決は、自分が行わなければならないものだ。

 ――不可能だ、と。彼女は結論する。

「……結構キッツいなー……」

 失恋フラグだろうか、などと冗談めかして思い、無意味に笑ってみたりもする。

「はは、は……」

 ――笑えない。本当に笑えない。

 最初の五年は、親友だった。次の五年は、なんだか気になるばかだった。それから――この五年は。

「…………」

 明星が輝き始める。陽が落ちる。人がいなくなる。だからこの眼も見られないだろう。

「……うん。帰ろう」

 未練を振り切るよう、己に言い聞かせるよう、呟いた。

 明日からは仕切りなおしだ、と考えを切り替えようとした瞬間、足音が近づいてきた。

 ――反応してしまう己が恨めしい。

 理性はそんな筈がないと叫ぶが、感覚はこう言っていた。

 彼が、――雲野・此方がやって来た、と。



――7、渦螺旋(再臨)――


 やはり、と言うべきか――それとも、予想通りと言うべきか。

 学校。校庭の端で、海老原・衣鶴を視認する。

「衣鶴」

 息を整えつつ、睨みつけた。

 ……なんて顔を、――

「衣鶴ッ、」

 ……なんて顔を、してやがる……!

「馬鹿、」

 気が済まないのでもう一度。

馬鹿ッ、」

 息が切れて腹から声が出なかったのでテイクスリー。

「こ・の・超絶馬鹿ッ……!」

「な、なにそれ……!」

 どうもこうもあるか、と言おうとしたが、十五分間の全力疾走と、その上での叫びの連続だ。横隔膜がうまく動いてくれない。

 今度からきちんと運動しよう、と思いつつ、地を踏みつけるように近づいていく。

「な、なに? 用?」

「当たり前だこの馬鹿っ」

 痛む腹筋を無視して背筋を伸ばし、試合以来一度も背筋が伸びていない衣鶴に言う。

「お前に、言う事と、言わせる事がある」

「……え?」

 眉をひそめる彼女の眼前、手を伸ばせば届く距離まで肉薄する。

 言うのは、ただ一言だ。

「……衣鶴。すまない」

「だから、それはもういいって――」

「嘘を言うな」

「嘘って――」

「お前の言葉は、俺に届いていないんだ。そんな言葉が、真実である筈がない」

 ぐ、と彼女が一歩引く。その分だけ距離を詰め、勢いに任せて口を開く。

「衣鶴。――知ってるか。世の中にはな、誰かが自分自身を貶めると、傷つく人間だっているんだ」

 俺はお前だけだが――と、思いつつ、言葉を続ける。

「嘘はやめろ。その笑みもやめろ。俺は、お前をそんな風にしている俺を許せなくなる」

「な、なんのこと……?」

「衣鶴」

 ぐ、と眉に力を込める。

 彼女の視線は顔ごと下にあるが、雲野は視線を切らない。

 ……それから、言わせることがある。

 届け、と。強く願った言葉は、衣鶴に届く。

「…………ぅ、」

 前髪の下から、小さな声が聞こえてきた。

 震えた、弱々しい――しかし、感情を伴う声が。

「……たんだ、」

 その感情を色で表せば青になる。

 人がいない静かな場所だから聞こえるような、細い声だった。

「……負けたんだ、……あたしのせいで」

「三年間、頑張ってきたのに」

「みんなでがんばろうって誓ったのに」

「あたし以外の、みんなが全力を尽くして――あたしだけが違って、」

「負けちゃったんだよぅ……」

 一言と同時に、彼女は後ろに下がっていく。

 三言目で膝から力が抜け、その後は、もう声音が震えていた。姿勢は正座に近いものになる。

 今日の昼までとは違った意味で、見ていられない姿だ。

「……衣鶴。近づくぞ」

「…………やだ。だめ」

「……分かった。無視する」

 宣言し、衣鶴の前にしゃがんだ。

 鼻をすすり上げる音が雲野の耳に届く。

「衣鶴」

「……来ないでよ……」

「黙れ馬鹿。……下手に我慢しやがって。本当、馬鹿だな」

「ばかばか気安く言うなばか」

「気安くじゃないぞ。心を込めて言ってる」

 振り回すような左拳が来た。

 威力は弱く、しゃがんだ姿勢を崩す事すらできはしない。

「……さいあくだ」

「ああ。最悪だな」

 雲野は、右手を衣鶴の頭に乗せた。僅かな痛みに、雲野は顔をしかめる。

 今彼に出来る最大級の努力だが、効果を確認することはできない。

「……応援、してくれなかったしさ。実は、結構、期待してた。待っててって言ったのも、実はそれを期待してだったし」

「朴念仁で悪かった」

「……いいよ。それが、こなただから」

 衣鶴は、足の間に頭を埋めていく。顔を隠すように。

「……こなたがふざけなければ、――こなたが応援してくれれば、あたしも全力を出せてた、って思う。力を出し切れなかったのは、あたしの問題なのに、此方に責任を押し付けてる」

 本当最悪だよね、と、小さな自嘲の声がついてきた。

 雲野は、衣鶴の頬に手をやり、少し強引に顔を合わせる。

 視線は一瞬正面を見たが、しかしすぐに逸らされた。

 己に不安を抱く目だ。何かに助けを求めるように、落ち着きなく周囲を見回している。

「いいぜ」

 彼は、笑いながら言う。

「恨め。それは正しい。全くの正当だ。俺が許す、お前は俺のせいにしろ。それが俺の責任だ」

 一拍置き、俺は言葉を続ける。

「……届いたか? お前に」

「…………」

 首は横に振られた。だが、直感する。衣鶴は、この言葉に嘘を感じていない、と。

「だが、衣鶴。この責任を果たさせてくれ。――昔の約束を」

 ゆっくりと、衣鶴の顔が持ち上がる。頬には涙があり、表情には覇気が無い。

 唇の動きも微小だ。吐息はしゃっくり交じりで、疑問の投げかけも雲野の耳にほとんど届かない。

 だが、雲野は理解する。

「……簡単だ、衣鶴。……やり直しだ」

「……え?」

 眉が上がり、何を言っているのか分からない、といった顔になる。

 ……立場が逆なら、俺だってそう思う。

 突拍子もないような一言だ。

「だから、やり直すかって言ってるんだ。最後の打席を」

「で、で、も、二人じゃ――」

「真似事くらいならできるだろ。ピッチャーとバッターさえいればな」

「ピッチャー、なんて、いない、右腕は、三年前に――」

「忘れた。――で、他に文句はあるか?」

 強く視線を送ると、その目線はまたも外れた。

「……今更、すぎるよ」

「ああ今更だ。だが俺は、もう三年も放り出したままなんだ。もうこれ以上伸ばすことはできない」

 返答は、迷いながらの首肯だ。

 ……話は決まった。

 立ち上がらせよう、と脇に手を入れて力を入れた瞬間、素直な感想が出た。

「……うわ、意外と重いな、お前」

 ――立ち上がる動きの頭突きが来た。


 ●


 雲野は、念入りに手指を伸ばす。その表情はわずかに暗い。何故なら、

 ……できるのか。

 己に対する疑念がある。だが、これは己にしかできないだろう、とも思う。

 一度拳を握り、開く。

 ……大丈夫だ。

 彼女が己を必要とするなら――と。そう思いながら、ゆっくりとグラブを拾い上げる。左の手指を差し込んで感じるのは、ただ、懐かしい、という思いだ。

 ……三年前は、左手の甲に四角く日焼け跡があったんだよな。

 今は見分けが付かないその日焼け跡を思い出し、僅かに苦笑。グラブの中に白球を収め、立ち上がった。

 視線の先にいるのは、同時に準備を終えた衣鶴だ。

 ――勝負は三球。それが、約束だ。

「それじゃあ、――はじめるか」

 暗闇の中。誰もいないグラウンドで、対面する。

 衣鶴の姿は、制服にヘルメット、とミスマッチ極まりないものだ。だが、彼女がバットを正しく握り締めた瞬間、その違和感は消失する。

「――うん」

 そこにいるのは、過去八年、最高と呼ばれた――最高と呼ばれ続けたバッターだ。

 例え意気を失っていても、その圧は本物以外の何者でもない。

「――は、」

 グラブの中。白球を握り締め、雲野は笑う。多少調子を取り戻しはしたみたいだが、と。

 ……まだだ。まだ、衣鶴は寝ぼけている。

 その想いが、三年前の己をフラッシュバックさせる。

 ――息を大きく吐き出す。

 まずは呼吸を整える。己の拍を思い出す。

 身体に刻み込んだ技能が、――錆び付いていた機能が軋みをあげる。

 三年の空白期間ブランクに対し、三年の過酷な練習ハードワーク。技量の差は、最早絶望的だろう。

 日常生活に限れば問題はない、と言われたその肩を、一度ぐるりと回した。そこから来る感覚は、決して『問題ない』とは言えない感覚だ。

 ……医者なんか信用できないな。

 雲野は足元をならしつつ、はっきりと苦笑を浮かべた。三年前、野球ができないと告げられた時にも同じことを思った、と思い出したからだ。

 ……だが、いい。

 思う。三球に限るならば、何の問題もない、と。

「…………」

 グラブ位置を調節し、マウンドを踏んだ。

 状況は過去を呼び覚ます。投球のための機械であった己を。

 懐かしさが、己を支配する。

 ……ああ、そうだ。


――――今、この場。ただ三球の間だけ。

雲野・此方は、昔と同じく、海老原・衣鶴の好敵手だ。


「――――」

「――――」

 目線が合う。身長はほぼ同じ。互いの準備は完了し、最早是非もなく勝負は開始される。

 対峙しても変わらぬ衣鶴の弱い眼に、グラブの内で、白球を握り締めた。

 ……いつだったか。前は、こんな風じゃなかったな。

 思い起こすのは、最後の風景。三年前――右肩を壊したその日だ。

 両手を背に持っていく。

 あの時の結末はどうだったか。あの時、腑抜けた目をしていたのはどちらだったか。

 立場は逆転している。

 今、意が無いのは衣鶴だ。だから、

 ……俺が、叩き起こしてやる。

 ヒュ、と呼気を吐いたのは昔のクセから。呼吸はそれで最後、次に行うのは、左足の振り上げだ。

 左足と両手がつくほどまで、身体を引き絞っていく。衣鶴に背を見せるほどに、だ。

 肩越しに、視線を送る。覚えているか、この投球法を、と。

 昔の漫画のように、派手で大仰。彼女のスイングと同じく、全身を使う投球法。その名を渦巻トルネード。――かつて日本を沸かせた、大エースの投球法だ。

 左足を加速。

 スニーカーがマウンドに食い込み、速度が関節を伝っていく。

「……ッ!」

 ――振り抜いた。

 速度は精々六十マイル(約九十六キロ)。

 投げた右手は止まらず、引かれるように体全体が斜めを向く。右の足裏が砂を噛んだ時には、既に第一の勝負は決していた。

 衣鶴は振り遅れた。外角狙いの球は、彼女のバットの上を抜け、フェンスにめり込み止まる。

 ……ワンストライク。

 息を大きく吸い、自身と同じように全身を振り抜いた彼女を見る。

 衣鶴は呆然とした顔で、

「回転が、昔よりも速くなってる……」

 ここが地球上である限り、空気抵抗と重力からは逃れえない。ボールは抵抗を受け速度を落とし、重力に引かれていく。だが、その影響を少なくする方法はある。

 螺旋ジャイロ回転。ライフル弾のような回転は、過去、野球を続けたいと願った少年の遺産だ。

「今は、調子がいいのさ。昔より力もついてるし、手足も伸びてる」

 二球目を、左手、グラブで拾いながら、故に、と言う。

「今のは調整だ。回転はもっと速くなるし、速度も昔以上に引き上げる」

 笑い、

「打ってみせろよ、衣鶴」

 セットポジションに入り、

「そんな意気で、打てるものなら――!!」

 投球動作は開始される。

「――――!」

 衣鶴の瞳孔が開く。

 渦巻く螺旋が、衣鶴を襲う。

 球速は八十マイル(約百三十五キロ)に到達する。一般レベルで見れば十分な速球だ。

 宣言通り、過去の己の最高速度を超えているが、

 ……今なら。

 思う。この好敵手が相手ならば、まだギアは上がる、と。だが、

 ……今の衣鶴には、この球すら打てはしないだろうか。

 不安とでも言うべき疑念が、雲野を支配する。

 果たして己は、彼女を起こしえるのか、と。――そしてリリースの瞬間、ビジョンが見えた。


右の蹴り足、意気がないまま彼女は自動的に動き、その身に刻み込んだ動作だけでこの速球を打ち砕く、


「ッ、」

 奇妙な確信が背筋を走る。その光景は、刹那の後の現実だ、と。

 ……冗談じゃない。そんな状態の衣鶴に打ち砕いて欲しい球じゃない。

「――お、」

 既に力の伝達は指先に至っている。勢いに負け僅かにたわむ指に、無理な力を込めた。

 更なる回転をかける。

 結果は、一球目とは比べ物にならない剛速球の成立だ。

 彼女のスイングは、ボールの頭をかすって、このマウンドまで風を送ってきた。

 ボールがベースの向こうに激突して跳ね、勢いを失いつつ転がっていく。

 ……ああ。ようやく、衣鶴も起きたらしい。

 本気が来る。打つ、と。殺気に近い、その意志が。

 夏の夜。生暖かい筈の風が、身を切るように冷たい。

 ……ああ、そうだ、思い出した。この女は、投手に殺気をぶつけるタイプだった。

 爪は僅かに割れたし、右肩にも鋭い痛みが芽生えているが、あと一球ならまったく問題はない。

 たとえ、再度砕けようとも。この投球さえ完遂できればそれでいい――。

 痛みに霞む意識を、ただ敵への集中で保つ。

 二度失敗しながらも三球目を拾い、静かに宣言する。

「行くぜ」

 いつだったかの勝負――燦然たる強打者スラッガーと渦螺旋の投手トルネードジャイロの、最初で最後の一戦は、どう終わったのだったか。

 鮮やかな走馬灯を見つつ、ゆっくりと、両手を背へと持っていく。

 集中コンセントレーション。呼気を鋭く吐き出して、腹筋を締めた。左膝を胸につけるように持ち上げていき、同時に背を見せるほど身体を捻る。

 スニーカーの裏から、砂が風に零れていく。左膝が頂点に達し、一瞬停止した。

 一連の動作は、拳銃のイメージに似る。弾丸を装填し、撃鉄を下ろすそれと。

「お、」

 左足を前へ。つま先から指先へ。地からの速度は関節を経由し白球に集中する。

 体重移動、精神集中、関節駆動――紛れもなく過去最高。

 その螺旋弾丸は、確かにフォームの主へと肉薄する。

「おぁあああ…………!!!」

 ――瞬間。明確な幻視が、意識を包んだ。


 ●


 ――ふと。昔を思い出した。

 リトルリーグでは、戦友だった。

 同じチームで、投打のエース。

 リトル独特の連投規制ルールがあるため、全国までは行けなかったが――それでも、俺とアイツさえ出場すれば、どんなチームにだって勝てると信じていた。

 だが、中学で、彼女は野球をしなかった。

 野球部顧問の頭が異常に固かったせいもある。

 ソフト部が、彼女を欲しがっていたのもある。

 だが、一番の原因は彼女自身だった。『……ほら。あたしは、やっぱり女だから』

 そんな風に、穏やかに笑っていた。『ソフトボールも、元々は野球だしさ』

 知っている。その笑みを知っている。『約束、破ってゴメンね。ずっと一緒に野球やるって約束さ』

 いい。そんなもの関係ない。どうせ俺も、お前がいたから野球を続けていた。だから構わない。お前がいないなら、すぐやめてもいい。

 ただ、俺は――そんな顔をさせない、と。もっと昔に、――もう記憶の彼方に消えた小さな頃に、約束をした。

 少し、遅れた。だが、まだ間に合う。

 ……ああ、と思う。それを果たすのは、きっと今だ、と――――



――8、渦螺旋(燦然)――


 正面、グラウンドからは元気な声が聞こえてきている。三年生がほとんど引退したその場所は、瑞々しさを増して輝いている。

 ……まったく、元気なヤツらだよなぁ。

 左手で頭をかきつつ、視線を右手側に移す。三年前に壊し、そして数日前に無理をした右腕は、肩以上に上がってくれない。しかし、今右手が上がらないのは、別の理由だ。

 ……弁当ができたから学校に来て、ってなぁ……

 今日は土曜日であり、当然学校はない。別にピクニックでもよかったんじゃないか、と今更のように思うが、

「……まあ、こういうところもコイツらしいよなぁ」

 右手を掴んだまま眠る昔馴染みに苦笑する。

 身動きは取れないが、不思議と退屈は感じない。流れていく時間は、穏やかさを増やしていくかのようだ。

「――――」

 雲野は、天に向けて何かを囁いた。

 約束だ。

 意志を込めた、心からの。

 ――きぃん、と、グラウンドに打音が響く。

 白球が、青空を切り裂いていく。

 昇る黄金の太陽に向かって、夏の風を貫いて、伸びた。





end.

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