悪戯で気まぐれで饒舌な、ある女の子の雑談 その3
外は酷い風だった。朝の天気予報では春一番だと言っていたから、たぶんそれなんだろう。唸り声のような、と表現するのが最もふさわしい、そんな低く響く音が窓の外を荒れ狂っていた。放課後である。本来ならとっとと帰っている時間なのだが、さっき電車が止まっているとか放送があって、帰るに帰れなくなっていた。校内を当てなく歩いていると、外の音が耳鳴りの様に迫ってくるように感じる。俺は、時計塔に登った。
埃っぽいその階は、普段人が立ち入ることなどめったにない。別に立ち入り禁止にしているわけでもないが、と言って何があるわけでもない空間だからだろう。左右に広い校舎の真ん中に各階を繋ぐ階段棟があり、その棟の最上段には巨大な時計がかかっている。それでここは階段棟とか時計塔とか言われている。時計部分が校舎よりも1階分高くなっていて、そのぶんの階段はあるものの、屋上につながるわけでもなく袋小路の様になっている。正確にはその階段の先にある踊り場には鍵のかかったドアがあり、入口に「時計制御室」とそっけないプレートが掛けてあるので、つまり、この巨大な時計を直すときには業者が入ったりするのだろう。まあなんにせよ、俺たち生徒には関係のない話である。
そして、そのドアの前、うっすらと埃の積もっているその場所に、彼女は立っていた。ドアの方を検分でもしていたらしく、最初は向こうを向いていたのだが、俺の上がってきたのに気がついて、振り返った。くるり、とこちらを見返る頭の動きに合わせて、ボリュームのあるくせ毛がふわりと広がった。耳鳴りのような風の音の中で、彼女のにやにや笑顔が奇妙に印象に残った。
「やあ、トワ君。こんな日にまで参詣とは、信心深いこと。どうしたんだい、今日は」
彼女――新荷冬芽は軽薄な口調でそう告げた。
「参詣って何だよ、お前は神か」
せっかくのこの場の雰囲気をあっという間にぶち壊しにする新荷の言葉に、俺はため息交じりに突っ込みを入れた。新荷は俺の返しに、にやにや笑いを変えぬまま、肩をすくめた。
「神、ねぇ……。ずいぶん気軽に言ってくれること。いっそ侮蔑だぜ、それは。ほめたたえているつもりか知らないけど、ね。本来の用法で考えれば、だけどね。「超」という言葉の変遷と同じさ。「神」という言葉は、今じゃ「すごい」の代わりに手軽に使っている言葉なのかもしれないが、本来、「人を超えたもの」つまり「人ならぬもの」を意味すべきものだったって知っているかい、トワ君?」
ぴ、と一本指を立てて、物知り顔にそんな風に言う新荷。どうやら調子が出てきたようで、にやにやと、つまりいつも通りの上機嫌な様子で、俺を見上げて新荷は続けた。
「神とはかつてはもっと定義の広いものだった。人の力の及ばないことはすべからく、神のみわざによるものであるとそう考えられていた。あるいはかつては人の足らざるを知っていたということかもしれないが。とかく、分からないものはすべて神がしたことだった。時代がもう少し下れば妖怪だの、宇宙人だの、UMAだの言い始めるんだけども。まあそこまで細分化されていなかったということだろうかね。鬼神とひとくくりに言われるように、神様も鬼も人間にとっちゃ、どちらでもおんなじことだったという解釈でもいいかもしれない。人のできることには限界があり、災厄や、天気や、気候は、人間にはどうすることもできない出来事でしかなかった。雨ごいなんていう実に不憫な儀式が行われたことも、その一環だと思うとわかるかも知れない。たとえばそういうわけで、天候の一つであるところの干ばつは人間にはどうしようもなくて、けれど見る間に田畑の枯れて干上がるのを見てなにもせずに見守っていられなくて、だから雨よ降れと祈るしかなかった。人間、最後には祈るしかないのさ。それがどんなにか都合のいい自分勝手な願いであったとしても、祈らずにはいられない。死にたくない、飢えたくない、生きていたい、もっと食べたい、もっと良い暮らしがしたい。願いなんて際限なくて、欲望なんて果てがないというのに。あるいはだからこそ、願い、祈るのだ。雨ごいという儀式はその表れとしては分かりやすい部類かもしれないね」
そこまで言って、ふと、新荷は窓の外をちらりと横目に見あげた。風の音はなおも響いて、収まる様子がない。時間はまだ十分にあるが、それでも帰る時間までにこれが止むかどうかはわからない。新荷につられて窓の外を見て、そんなことを考えている俺の横顔に向かって、新荷は言葉をつづけた。
「たとえば今トワ君の目下の心配事は、この風がいつ止むかということだろうけども、それもまたかつては神のなせるわざだった。人知の及ばず人の手の届かないところで運行される世界のシステムは、すべて、ね。そうしてそのうちに変容する。神の意図を考え始めるのさ。それこそが悲劇の始まりだ。今雨が降らないのは神のなせることであり、人にはどうしようもないのだ、という考え方から、次第に、神はなにか理由があって雨を降らせないのではないだろうか、に変化していく。実に無意味な思考ながら、その思考はまた強い力を持っていた。人間のどうしようもない事象に対してなにかをすることができるようになってしまったのだ。神の望むことをして機嫌を取ったら雨を降らせてくれる、という思考は、危険ながら甘美なものだった。何もできないよりは、何かできた方が人間は気が楽だからね。そうして、贈り物をささげるようになり、あるいは食料を、あるいは宝物を、そしてそのうちに贈り物はより貴重なものになり、そして最終的に人間を贈るようになる」
ぼんやりと新荷の言葉を聞いていた俺はそこでふと気になって新荷を見返した。
「つまり、えっと、どういうことだ。イケニエってことか?」
「ご名答、とでも言った方が良いかい? あんまり直接的すぎる言葉なので避けていたのだけども、その配慮はいらなかったようだね」
つまらなそうにそう答える新荷。む。どうやら機嫌を損ねたらしい。言っておくが、わざとではないぞ。
「まあ、そう、つまり、イケニエだ。そして、トワ君、今までの話で分かったと思うけれど、イケニエというシステムは、それ以前の神というシステムから生まれたものだ。つまり、こう言ってしまってもいい。人間は、ありもしない想像上の存在に対して、命をすら投げ捨て、奪うことができる、ってね。どうだい、実に残酷な話だろう。人間、何が怖いって、やっぱり人間が怖いということさ」
そこまで言って、新荷はもう一度、窓の外を見上げた。目を細め、空を見るようなその視線が気になって、俺はその視線を追ってみた。
空は相変わらず酷い風の音と曇り空で……いや、 「良かったな、トワ君。君の祈りは通じたようだ。今に晴れるだろう。そろそろ身支度をしてきたらいい」
雲はあちこちが途切れ初めて、明るい日差しが雲の隙間から差し込んで来ていた。そういえば、風の音もすこしおさまってきている。これは助かった。なんとか無事に帰れそうだ。帰りの挨拶でもしようと新荷の方を振り返った俺は一瞬、息が止まった。
雲の切れ間から差し込んだ光が、ちょうど反対側の窓から差し込んで、埃っぽい室内をきらきらと輝かせている。そして、そのスポットライトの様な強い日差しが、新荷を、半分だけ照らしていた。顔の半分を日差しにさらし、もう半分を暗い影の中に沈めている。きらきらと粒子の舞う中に、光と闇の両方があった。新荷はその両方の中に身を置いて、遠い目で窓を、空を見上げていた。俺は言葉を失った。この世のものでないような、どこか非現実的な、あるいは、嘘っぽい、とさえ言っていい、その異様な雰囲気に。
そして新荷は俺の視線に気がついて、俺を見返した。その顔に浮かぶのは、いつも通りのにやにや笑いだ。魔法は解けた。新荷冬芽はいつも通りだった。
「……うん? どうしたんだい、トワ君。間抜けな顔をして。ついに頭の中身までどこかへ置き忘れでもしてしまったのかい」
いつも通りの饒舌に俺は肩を落とした。どうやら魔法は魔法でも、幻惑魔法だったようだ。俺はありもしない情景を見てしまっただけらしい。
「間抜けで悪かったな。俺はそろそろ帰るよ。新荷も、気をつけてな」
「……くっくっく。ご忠告、痛みいる。じゃあね、トワ君」
ひらり、と手を振って、新荷は俺を見送った。風の音はもうずいぶん小さくなっていた。
お読みいただきありがとうございます。ちょっとシリアスっぽい始まりですが、だいたいいつも通りでした。