アゲハ蝶が煙草の香りを運ぶから
何度目だろう、俺は彼女に自己紹介をして、いつからか同じ笑顔を張り付ける。
その笑顔をしたのはいつが最初だったかなあ。もうずっと、何かを見失っているような気はしていた。
例えるなら、今まで当たり前過ぎて気にしていなかった、肩に止まる綺麗なアゲハ蝶が飛んでいってしまったような。必要のないものと割り切れるのに、不意に惜しくなる少年時代。そんな感じで。
彼女は明日も俺に自己紹介を求めるだろう。俺は同じ笑顔を浮かべるだろう。たったそれだけ。平和だ。まるで平和とはこのことだ。
出会って、食事をして、ずっとそばにいて、そして次の日にはハジメマシテ。
変化が起こる兆しもなく、そして俺は、変化の芽を今日も摘み取る。
「街に出たいです」
それはね、できないよ。危ないところだから。
君は自分で思っているよりも、ずっと大人であることを求められる姿なんだ。
君にとって俺は大人だろう。「おじさん」とも呼ぶだろう。敬語でも話すだろう。
でも案外君は俺と変わらないんだ。君の目から見た君と同年代の子は、君のことをおばさんとまでは行かなくてもお姉さんとして見るんだよ。
そんなことを、言えるわけがなかった。俺には彼女に現実を見せる勇気がない。
そんなある日、あれは夏の夜のことだったと思う。
月が綺麗だったことは覚えているのに、何かがひどくおぼろげな夜だった。ひどく大きな月。そして、
聞こえてきたのは彼女の歌声だった。
それはいつだったか、俺が教えた曲。
そんなはずがない。彼女は一日の終わりに、全てを消してしまう。だから、彼女がこの曲を知っているはずがないのに。
治るのかもしれない。完治とまではいかなくても、記憶を積み重ねられるようになるのかも。
そうだとしたら。
彼女は病院に行くべき。この生活は終わらせるべき。
俺は、消えるべき。なぜなら俺は、彼女が同じ日々を繰り返すことを望んでいる。
そう。今まで彼女を大切に大切にかごの中に入れ、愛でてきたんだ。彼女の自由を奪ってきたのは、きっと俺だった。
「もう、」
煙草に火をつけて。
白い煙が薄い暗闇に溶けるのを見ている。
「もう終わりにしようぜ。女々しいよ、お前」
すうっと心が軽くなった気がした。
例えるならそう、いつかの日に見失ったアゲハ蝶と再会したような気分だ。
(お帰り。またきっと、自然に笑える。そうしたら、今度こそ)
《like》
大きな手。あったかくて。それからかすかに煙草の香り。
「もう……ことは……けれど」
聞こえないよ。もう少し大きく、耳元で言って。
「……うか、……ないで。忘れないで」
忘れないよ。忘れるわけない。だけど、聞こえないの。もう一度。
うっすらと瞼を開ける。天井。夢は終わり。
なんの夢だったのか、よく覚えていない。なんだか全てがぼんやりしている。
カーテンをめくってちらりと窓の外を見れば、今夜はとても月が綺麗だ。
少しだけ、外に出たくなる。
そんなに寒くはないけれどガウンを羽織って、私は外に出た。
私は一体、いくつになるのだろう。
少しずつ大人になっていく。身体だけではなく心も。人よりもかなり遅れて、大人になっていく。
これも、混乱を抑えながら私を導いてくれたお医者様と、支えてくれる使用人の方たちのおかげだ。
でも、空白が埋まるわけではなくて。少女時代から大人に変わる年月がごっそりと消えているのは変わらない。
お医者様も使用人の方たちも、一体いつからいるのかわからない。それに私は、お金を払った覚えもない。そのことを尋ねても、みんな困ったような顔で「いいんですよ」と言うだけだ。頭が痛くなる。もう少しだけ、考えずにいたい。
月を眺めると、自然に歌が口をついて出た。
ピアノの伴奏が耳の奥で弾けて、私は思わず閉口する。
この曲を教えてくれた誰か。そう、ピアノの音色。微かな煙草の香り。
「私なにか」
月を見上げる。
「私なにか忘れているの」
知っているのに。私が何かを忘れていることなんて、私が一番知っているのに。
だけど約束を。
この世で一番大切な約束を、私は踏みにじり続けている。
そんな漠然とした不安を抱え、私は歌う。
明日も明後日もきっと歌う。
私は一体いくつになったのだろう。一つ一つ歳を取るということを、私は彼に教えてあげたいと、心から思っているのだった。だからずっと歌う。
この歌は、一つずつ増えていく私の思い出の歌だから。
空にはアゲハ蝶が、月に寄り添うようにひらひらと飛んでいた。
これも慌てて書いた話です。
夏も終わりますね(遠い目)