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もみじの季節に

小5の時にA罫ノート2ページ(裏表びっしり)分に書いたものを加筆、修正したものです。

語彙力や知識が乏しいため、設定など曖昧な部分が多いですがご了承下さい。

「ねえ」

 もみじ散る、秋のある日。               

 十歳の娘が後部座席から身を乗り出して、運転席と助手席に声を掛ける。

 助手席の私が「なあに?」と訊き返す前に、横から夫が「運転中に訊くな。ちゃんと座ってろ」と言った。

「お母さんに訊いたのに」                            

 娘は口元でそう言い、「ねぇ、お母さん」と、訂正して再度訊く。

「なあに?」

 私は、先程夫に遮られた言葉をいやに気持ちを込めて夫の方を向いて娘に言った。夫はちょっと嫌な顔をしながら、運転を続ける。

「これからどこ行くの?」

 どこへ行く? 決まってるじゃない。

「ねぇ、ドライブ?」

 そんな事で、お父さんは休日なんかに車を走らせてくれたりしないのよ。

「ねぇ、ホントどこ行くの? 楽しいトコ?」

「楽しいかどうかは微妙かな。でも、大切な所だよ。ね!」

 最後の「ね!」は、夫に向かって言った。

「ああ」

 前を向いて、安全運転しながら、彼は答える。

「とりあえず前向いてて。お父さんに任せておけば、着くから」

「はあーい」

 娘は納得したのかシートに体を埋め、目を閉じた。

 寝るつもりか。今時の子って、そんなに疲れやすいのかな? もしもあの子がまだ生きていてこの子とここに同じようにいたら、あの子だって、この子のように寝ちゃったのかな。

 後部座席の娘の寝顔を見ながら、私は思う。

「あいつが生きてたら、今頃は十八か」

 横からいきなり、夫が言った。

「ええ、そうね。……ねぇ、和也(かずや)

「ん?」

「この子に、話すべきかしら。チイのこと」

 私が言ったその言葉に対してうーんと少し唸ってから、彼は口を開いた。

「まあ、あいつ自身は、自分はずっと一人っ子だって思って生きてきただろうから、いきなり『実はお前には姉ちゃんがいるんだぞ』って言われたら、少し戸惑うだろうなあ。まあ、俺だったらなるかな」

「だよねぇ」

 ――そう。あなたにはお姉ちゃんがいるの。だけど、お姉ちゃんはもうこの世にはいないの。この空の、ずうっと上。私達が行けない所へ、お姉ちゃんは行ってしまったの。

 もう、ずいぶん昔。

 ミナミ。

 あなたが生まれる、ずっと前にね。


       

 十三年前のちょうど今頃。

 その時は、そばに和也はいなかった。でも、彼はチイの実の父親だった。彼と離婚したのは、チイが五歳の時。彼の仕事のことで上手くいかなくなり、別れることになって彼の方が出て行った。

 チイが生まれて、彼が出て行くまでの間は、私達の家は毎日笑顔で溢れていた。私たちが共働きのため、平日はずっと保育園にいるチイは私達に甘える機会が少なく、特に父親とは本当に甘えられる時間がなかったから、休日、彼はチイとずっと遊んでくれた。それこそ一日中、朝から晩まで笑顔が絶えなかった。

 父親にずっと遊んでもらっていたせいか、チイはパパっ子になった。母親の私の方が、ヤキモチを妬いてしまうくらい。

 彼が出て行った日の翌朝、チイが聞いた。

「お父さん、まだ帰って来ないの?」

 本当に、お父さんの事が好きなのね。

 その時思った。

 どうして彼は、こんなにも自分を好いてくれる人を置いて、出て行ってしまったんだろうって。

 本当の事を言える自信がなかった。だから、

「お父さんはね、遠い所へ、お仕事に行ったの」

 としか言えなかった。

「……へぇ」

 そう言った保育園へ行くための準備をしに行く娘の足取りが以前よりも重くなったのを見て、その理由が大好きな父親がいないから寂しい、ということだというのは明らかだった。

 お兄ちゃんもお姉ちゃんも、弟も妹もいない一人っ子のチイにとって、「父親」というのは唯一の遊び相手のような存在だったらしい。

 だからだろうか。

 その日の夕方、こども園へチイを迎えに行った時。

 保育士さんからこんな事を言われた。

「何かあったんですか? チイちゃん、今日はずっと元気がなくて、一日中ずっと独りで遊んでたんですよ。私達が話し掛けても何も答えてくれなくて。ゆいちゃんも無視で。本当にどうしちゃったんですか? 私、心配で」

 保育士さんが言うように、本当にチイはどうしちゃったんだろう。あんなに仲が良いゆいちゃんさえも、無視するなんて。

 横でしょんぼりしているチイを見て、私は思った。

 「遠くへ行った」と言うだけでここまで落ち込むなら、本当のことを言ったら、この子はどこまで落ち込んでしまうんだろう。

 ますます本当のことが言えなくなってしまった。

 

 それからずっと、チイは暗かった。

 周りの友達は徐々にチイから離れていき、そしてとうとう、ゆいちゃんも、チイの側を去った。

 

 

「ねえ、お母さん。お父さん、いつになったら帰って来るの?」

 チイの六歳の誕生日の日。チイにそう訊かれた。もちろん、その場に和也はいなかった。

「ねえ、お母さん! お父さん、いつになったら帰って来るの!?」

 父親が本当に遠い所へ仕事に行っていると信じて言っているのか、それとも両親の離婚に感づいて言っているのか。

 その時の私には、チイがどういう気持ちで聞いているのかわからなかった。

 わからなかったけれど、本当のことは言わなければいけないと思った。

 いずれ言わなくちゃいけなくなる。

 なら、この子が必要に、父親のことについて責めてきている時がいい。

 それは、今だ。

 私はそう決心し、静かに口を開いた。

「チイ、あのね」

 吹き消されたケーキの蝋燭の煙が、ゆらゆらと上に向かって昇っていく。それを挟んだ向こう側に、チイの真剣な眼差しが私だけを見つめている。

「あのね」

 私も、チイを見つめる。

「お父さんね、本当はお仕事なんて行ってないの。ほんとはね」

 言葉が続かなかった。それでも、彼女は私の次の言葉をじっと待っているように私を見つめている。

「ほんとは、お母さんとお父さん、離婚したの」

「……」

 すぐに沈黙が訪れた。当たり前だと思った。いきなりこんな事を言われたら、誰だって動揺する。

「りこん、ってなに?」

 少しの沈黙のあと、チイがゆっくりと口を開いて私に尋ねた。

「……ああ、離婚っていうのはね」

 六歳が離婚の意味を知らないことを忘れていた。

 どう伝えれば、チイが意味を理解できるだろう。

「離婚っていうのは、お父さんとお母さんが別々の家で暮らすこと。だから、お父さんは遠くへお仕事に行ってて帰ってこないんじゃなくて、もう違うお家に住んでいるから、チイのいるこのお家にはもう帰ってこないんだ」

 私の説明を聞いたあと、チイはその場で静かに泣いた。

 この説明でチイが離婚の意味を理解したのかはわからない。

 でもたぶん、父親が自分の元に帰ってこないというのは理解したのではないかと思った。

 それからのチイは、予想していた以上に、前よりも落ち込んでしまった。

 そんなチイに近づく人はいなく、いつしか、チイの隣に私以外の人間がいる事はなくなった。

  


 明るかったチイが暗いチイに変わってしまってから数ヶ月が経った、ある日の休日。

 チイと私が住むマンションに一人の女性がやってきた。

 ピンポーン

 インターホンが鳴り、その音を聴いて私は一目散に玄関へと向かった。

「やっほー、元気してる?」

 その声を聴いて、私はドアを開けた。そこに立っていたのは、姉の早頼(さより)だった。

「お姉ちゃん、待ってたよ」

 そう言って、私は姉を部屋に入れた。


「で? 何なのよ、いったい。私をわざわざ呼んだ理由は」        

 椅子に座り、姉はキッチンでお茶を用意している私の背中に問い掛けた。

「……」

「何か言いなさいよ。理由もなしにわざわざ呼んだの?」

「……」

「離婚して落ち込んでるのは分かるけど、何か言ってよ。言ってくれなきゃ分かんないじゃん」

「……」

「ねぇ、美久?」

 二人分のお茶を早頼の前のテーブルに置き、私も(姉と向かい合わせの)椅子に座った。

「どうしたのよ?」

 私が持ってきたお茶を啜りながら、姉は訊いた。

「離婚したことがショックだったとか?」

 何も返せなかった。

「じゃあ何で離婚したの?」と、姉は勝手に自分で解釈して話を進める。「何か言ってよ」

 口から言葉が出てこない。

「何もないなら私帰るけど。せっかく来たんだから何か買ってかないとねー」

「え? あ、いや!」

 そう言って立ち上がろうとした姉の手を取って私は引き止めた。

「違うの!」

「じゃあ、何?」

 優しい顔で姉はまっすぐ私を見つめる。

「チイのことよ」

 少し涙目になりながら、私は言った。

「チイちゃんのこと? 何で?」

 私の手を取りながら姉は椅子に座り直した。

「和也と離婚したって言ったら、あの子凄く落ち込んじゃって。元気になって欲しいんだけど、何をやったら良いか分からなくて」

「そう」姉は少し力を込めて、取っている私の手を握った。「チイちゃんは?」

「疲れたから部屋で寝てると思う。さっきまで、そこでずっと一人で遊んでたから」

 私は窓の方のカーペットの上に出しっぱなしのおもちゃを指差した。

「部屋はどこ?」

「あ、こっちよ」

 私はリビングを出てすぐの左にある部屋に姉を案内した。

 ゆっくりとドアを開けるとチイがベッドでスヤスヤと眠っているのが見えた。

「〜……〜…・・」

 何か言ったようなか細いチイの声が聞こえた。

「寝言かしら? ちょっと入ってみてもいい?」

 そう姉が言うので私は首を縦に振って了承した。

 程なくして姉が戻ってきて私たちはまたリビングのテーブルに向かい合って座った。

「ちーちゃん泣いてたわ」

「知ってる。お父さん、お父さんって言ってたでしょ?」

「うん」

「離婚のことを言ってからずっとああなのよ。ねえお姉ちゃん、どうしたらあの子、前みたいに元気になってくれるかな」

 無意識に目に涙が溢れていた。

「やっぱり、和也に引き取ってもらうべきだったのかな……」

 私なんかより、和也の方がずっとあの子を笑顔にできる。

「ちーちゃんを元気にできるのって和也君だけなの?」

「え?」

 突然の姉の言葉に私はふっと顔を上げる。

 姉は私の前に来て、私の目を見て言う。

「あなたちーちゃんの母親なんでしょ? 和也君は、ちーちゃんの父親なんでしょ?」

 なぜ姉はこんな当たり前の事を言ってくるのだろう。

「う、うん」

 戸惑いながらそう私が言うと、姉は笑って言った。

「同じじゃない。父親も母親も。父親である和也君ができたことを、母親であるあなたができないはずないじゃない。もうここに和也君はいないのよ。今、ちーちゃんを元気にできるのは、美久、あなたしかいないのよ」



 あの時の姉の言葉が、その後の私の人生をちょっとだけ変えてくれたような気がする。

 十二年前のあの時を思い出しながら、私は思った。

「メンマ!」

 後ろから、ミナミの声が響いた。

「ま? ま、ま……、マリモ!」

 今度は和也の声が響く。

 しりとりをやっているのか。

 そう思っていると、

「も? もお……、もみじ!」

 と、また娘の声が響いた。

 もみじ

 またなんてタイミング良く、この言葉が出てくるんだろう。

 目を閉じて、二人のやり取りを聞きながら、私は思った。

「じ……、じ?」

 横で和也が「じ」という課題に悩んでいると、

「お母さん、寝てるの?」

 ミナミが身を乗り出して言ってきた。

「こら、座ってろって。危ないだろ」

「はーい。お父さん早く次言ってよ」

「あ、ああ。えっと、じ、だろ? じぃ? もう散々言ったしなあ。他にあるか? ねーだろ」

「あるよ」         

「何があんだよ」

「それ言ったらあたしが負けんじゃん」

「えー、もー。ないだろー?」

「あるよぉ」

「ああ? うーん」

「ふふっ」

 本気で悩む夫の横で、私は微笑んだ。

 

 もみじ

 

 それは、両親の離婚で落ち込んでいたチイと、その落ち込んでいる姿を見て悩んでいた私に元気と明るさを取り戻させてくれた、唯一のモノ。

 その奇跡を起こしてくれた「もみじ」は、今も大切に、寝室の、あの子の写真の隣の小さな額の中で、あの子と一緒に並んで、私達をいつまでも見守っていてくれている。

 そして今は、ここにいる。

 私は自分の両手の中の二つの写真立てを見る。

 あの「もみじ」がなかったら。あの「もみじ」に出会わなかったら。

 今のこの、幸せな時間が訪れることはなかっただろう。

 ――そう。

 あれは、チイが七歳の時だ。

 私とチイを元気付けるために、姉が誘ってくれたお出掛けの帰り道でのこと。

 デパートの中で、もう帰ろうと姉の車がある駐車場に向かおうとした時。

 姉に急な仕事が入り、すぐに仕事に行かなければならなくなって、家までそう遠くはなかったから、私は歩いて帰ると言って、仕事に行く姉を見送り、チイと一緒に並木道を歩いていた。


     

 風が強く、頻りにヒューヒューいっている。

 紅葉の時期も終わろうとしているのか、並木道のもみじの木のもみじはほとんどが落ち切っていて裸の木が多い。

「もう、落ちちゃってるね」

 そう言ったチイは、なんだか悲しそうな顔をする。

「そうだね。もうちょっと早い時期に来てれば、キレイなの見れたかもね」

 ああ。私は、この子に悲しい思いしかさせてやれないのか。何をすれば、この子は元気になってくれるんだろう。何をすれば、もう一度、この子の笑顔が見られるんだろう。

『今、チイちゃんを元気にできるのは、美久、あなたしかいないのよ』

 姉が言ってくれたあの言葉が、脳裏をよぎる。

 でも、理解できない。

 なぜ私だけがチイを元気にできるの?

 逆にこの子を悲しませているだけじゃない。

 悔しさが込み上げてきた。

「ねえお母さん」

 横からチイが話し掛けても、私は自分の無力さを心の中で嘆いているのに夢中だった。

「ねぇえ!」

 チイに服の裾を引っ張られて、やっと気付いた。

「へ? 何?」

「あれ」

「え?」

 チイが裾を引っ張っている手と逆の方の手で指差した方向を見ると、そこには一本のもみじの木が立っていた。

「何? どうかした?」そう呼び掛けてもチイはもみじだけを見ていてこっちを向いてくれない。

「ん?」

 何がどうなのか分からないまま、私もチイが一心に見つめている方向を見る。

 普通のもみじの木。だけど、その木は他の木とは少し違っていた。風がヒューヒューいっている中、その木には、落とされないように踏ん張っている生き残りのもみじの葉が一枚あった。

 でも風が吹いて、そのもみじの葉は力尽きたのか、ひらひらとチイの目の前に落ちた。

「あ、落ちちゃった」

 チイはもみの葉を拾おうと手を伸ばした。すると、また風が吹いて、もみじの葉はチイから離れた。チイそれを拾おうと、再度それに近づいた。すると風が吹き、もみじの葉はまた、チイから離れた。

「待ってよ!」

 そう言って、チイはもみじの葉を追い掛けた。

「あ! ち……、ま、いっか」

 一旦娘を引き止めようとしたが、帰る方向とチイが葉を追い掛ける方向が同じなので、静かに彼女の後を歩く事にした。

 今、少しだけだけど、チイが笑った。そんな気がした。

 そのうちに、家であるマンションに着いた。

「あ」

 チイが追い掛けようとしたので、私はチイの手を掴んだ。

「さ、家に着いたわ。帰りましょ」

「う、うん……」

 もみじの葉に少し未練を残しながら、それでもチイは仕方なく私と階段を上り始めると、風が吹いて、もみじの葉がチイの後ろに来た。

「あ、もみじ」

 執拗にもみじを気にかけるチイに少々呆れ気味になりながら、私はチイの手を引いて言う。

「ほら、来なさい。今日は寒いんだから、こんな所にずっといたら、風邪引いちゃうわよ。さっ」

「うぅ」

 チイは私に手を引かれ、家に戻った。

 家に入り、リビングのソファに腰を下ろした私に、チイが言った。

「お母さん、何かチイ、妹欲しくなっちゃった」

「……え?」

 一瞬びっくりした。

「何でいきなりそんな事言うの?」

 びっくり顔で、チイに訊く。

 でもチイは答えなかった。

 次の日。

 この日は朝から風がヒューヒューいっていた。

 私は、チイを朝の散歩に誘った。

 折角の二日間の休み。

 いつも一緒にいてやれない分、この二日間は思いっきりチイと一緒にいようと思って、チイが少しでも元気になってくれたら良いと思って、誘った。

 そんな誘いに、チイは喜んでついてきた。

 マンションから出て、寒いわねー、と私がカイロを手に思わず言うと、

「お母さんの息、真っ白」

 私を見上げてチイが言った。

「チイの息も真っ白じゃない」

 そう言われたチイは、もう一回息を道に向かって吐いた。

 私の言う通り、真っ白な息だ。その吐いた息の向こうに、もみじの葉が一枚、ぽつんとあった。

「ねぇ、チイ。そう言えばさ、何で昨日、突然妹が欲しい、なんて言っ――」

「あ!」

 横から突然、チイが言った。私の言葉が、チイの「あ!」という言葉に掻き消された。

「昨日のもみじだ!」

 私の言葉を掻き消してしまったのにも気付かず、チイは明るい声で言った。

 そしてもみじを手に取って「ほら!」と言いながら、私に見せて渡した。

「ん?」

 首を傾げながら娘が渡してくれたもみじを手に取って見た。でも、それはただの、この季節ならどこにでもあるような、ごくごく普通のもみじにしか見えなかった。

「ただのもみじよ。昨日のやつとは限らないわ」

 指先でもみじをくるくると回しながら、私は言った。

「でも、昨日のもみじだもん。チイが言うから嘘じゃないもん」

 ほっぺたをぷくっと膨らませて自分を見上げているチイを見て、私は「うーん」と唸った。

「じゃあさ」

 しゃがんで、チイと同じぐらいの背丈になって胸ポケットに(仕事柄癖で)入っていたサインペンを手に取って、チイに訊いた。

「このもみじに何か書く? これがもしも昨日のもみじだったら、明日もここにあるかも知れないわよ」

 冗談まじりにそう言って、チイに持っていたサインペンを渡した。

 チイはもみじに、渡されたサインペンでよく読めない(解読不可能な)字を書いた。

「これ、何て読むの?」

 もみじに文字を書き終えたチイに訊いた。

「ミイ。本当はミナミだけど、チイはミイって言う」

 チイは答えた。

「ふぅ〜ん(まあ、まだ子供だからしょうがないか)」

 そう思った。

 そして、その場にもみじを置いて、私達は散歩に出掛けた。

 帰って来ると、もみじはちょこんとあった。

 お帰りなさい、と言っているような気がした。

 次の日。

 昨日と同じようにチイと外に出た。すると、そこには例のもみじがあった。

 昨夜凄い風が吹いて周りの木々の葉は沢山落ちてそこら中に散らばっているのにも拘らず、そのもみじだけは元の場所にあった。

 もみじはぽつんといた。その存在は、周りに散らばっている落ち葉とは違っていた。

 そのもみじは不思議だった。本格的に冬に突入しても、雪が降っても、桜の花びらが舞う季節になっても、周りの木々の葉が緑色になっても、その場所にあった。

 見守るような優しい顔をして、そのもみじはずっとそこにいてくれた。

 そのもみじのおかげか、チイは元の明るいチイに戻っていた。

 

 確かにチイは明るさを取り戻してくれた。でも、時々寂しい顔をした。

 チイが八歳になったある日、私はチイに聞いた。

「ねぇ、チイ」

「なあに?」

 妹同然のような存在になったもみじが風に吹かれながら舞うように踊っているのと遊びながら、チイは訊き返す。

「今、楽しい?」

「うん」

「お父さんがいた時とはどう?」

 唐突な質問だと、自分でも思った。でも遠回しな表現をすると、本心が聞けないと思ったから、思い切って和也の事を言ってみた。

 「お父さん」という言葉を聞いて、チイの顔が急に寂しそうな表情に変わり、もみじと遊ぶ手を止めた。

 やはり、和也の事は忘れられないらしい。

「どう、って?」

 顔をこちらに向ける事なく、チイは訊く。

「お父さんがいないと、やっぱり寂しい?」

「そ、そんな事ないよ!」

 やっぱり寂しいのか。

 チイのその言葉を聞いて、私は思った。

 だけど、どうする事もできなかった。

 

 

 夏が深まったある日。

 チイを保育園に迎えに行くために、私は仕事場の建物から出た。

 その日は雨が降っていた。

 天気予報が久しぶりに当たったなと思いながら、私はバッグの中から折り畳み傘を取り出して広げ、外へと出た。と、横から足早に人が駆けて来た。しかし傘を差している私はその人影に気付かず、次の瞬間に、私達はぶつかった。

「「すいません!」」

 二人同時に言って、同時に互いの顔が見えるくらいに傘を上げた。

「「あ」」

 また二人同時に言った。

「美久……」

「和也……」

 私がぶつかったその人は、三年前に別れたはずの夫だった。

 チイを迎えに行ってそのまま姉のマンションに行ってチイを預けた私は、その足で和也と待ち合わせた喫茶店に向かった。

 あの後和也の方から久しぶりに話さないかと言われ、それも良いかなと思ったのでOKした。

 古風な店だなと思いながら店の中に入ると、彼は既に来ていて、コーヒーを啜っていた。

「待った?」

 待ってないよと言い、私は彼の向かい側に座った。

「ゴメンな。疲れてるのに、こんな所に呼び出しちゃって」

「ううん。別に」

「三年ぶり、くらいか?」

「そうね」

「あれから、どう? 色々」

「大丈夫。何とかやってるよ。あなたこそ、久しぶり。離婚した(あの)後転勤したって聞いたから、何か変な感じ」

「ああ。一昨日帰って来たんだ。でもまだ仕事が中途半端で、またすぐ戻らなきゃいけないんだ」

「そう」

「うん……」

 一分ほど沈黙があり、和也が口を開いた。

「あのさ、今更で何なんだって思うかも知れないけど」

「何?」

「あの日の事を、謝らせて欲しい」

 彼の口からこんなことを聞くとは思わなかった。

「俺の気まぐれで勝手なことをして、それで君と別れることになって、君とチイを置いて出て行ってしまって。本当に悪かったと思ってる」

「……」

「その上転勤なんかしちゃって。三年間、何の連絡もしないで……。ごめん」

「そんな軽い言葉で謝らないでよ」

 下を向いたまま、私は言う。

「あなたが三年間どこに行って何をしてたとか、そんなことはどうでも良いの。一つだけ、どうしてあの日に家を出なければならなかったのか、それだけが知りたいの。五歳のチイを置いて、家を出て行かなければならなかった理由を!」

「家を出て行く二週間ぐらい前に初めて大きな仕事を任されたんだ。それは色んな所を回る仕事で、日本に限らず、世界も回ることになるかも知れないって言われた。一つの所に転勤っていうのだったら、君とチイも連れて行こうと思った。でも、不規則で何度も何度も繰り返すかも知れない引っ越しを君達にさせるなんてできないと思ったんだ」

「それ、本心?」

「そうだよ」

「何で? どうして? 理由をちゃんと言ってくれれば、あなたについて行ったし、離婚とかそういうことになんてならなかったはず」

「離婚にまで発展しちゃったのは俺もビックリしたけど、でも別れたことで俺は君達を振り回さずに済むんだって思って少しホッとした」

「離婚して良かったってこと?」

「ううん。本当は離婚したくなかった。離婚という形で、君と別れることになってしまったのは残念だった」

 あの時、もっとちゃんと彼と向き合っていればと後悔した。

 なんで離婚まで行ったんだろうと不思議に思った。

 その彼の本心を聞いて私は少し混乱した。と、その混乱している頭の中へ再び彼の言葉が流れ込んできた。

「だから、もし、叶うのなら。美久ともう一度やり直したい、って思う。やり直してくれないかな? 俺と」

「え?」

 唐突にその言葉を言われたので、私は思わず面食らってすぐに返すことができなかった。

「・・・・・・うん」

「ありがとう」

 すぐには返せなかったけれど、ワンテンポ遅れてその言葉が出た。

 自分でも意識せずに出た返事ではあったけれど、その言葉に後悔はなかった。

 思えば、あの日雨が降っていなくて、彼にぶつからずにそのままチイの迎えに行っていたら、彼は今隣にはいなかっただろうし、ミイがいることもなかっただろう。

 きっと神様が私達を再び巡り合せてくれたのだと、その時は思った。

 長い間幸せを感じていなかったから、もう一生、幸せを感じることなんてないと思っていた。

 

 次の日、彼はまた仕事先に戻っていった。

 昨日彼がこっちに戻って来たのは急に社長に呼ばれたからで、仕事の方はまだかなりバタバタしているらしく、いつまた戻って来られるのかは分からないらしい。でも、彼はその後もちょくちょく時間を見つけては会いに来てくれた。チイに会わないのかと聞くと、本当に戻って来られるようになったら会うつもりだから、その時までの楽しみにとっておくと言って、彼は去った。

 本当に帰って来た時に結婚しようと、彼は言ってくれた。

 それから数ヶ月が経って、私は自分の体にある違和感を覚えた。

 それはチイが生まれる前にも来た違和感だった。

 まさかと思って病院に行ってみると、

「秋山さん。良かったですね、おめでたですよ」

 医師のその言葉を聞いて、思わず嬉しさが込み上げてきた。

 嬉し過ぎて、涙が出そうだった。

 チイの願いを現実にする事ができるなんて。

 もうすぐまた、あの時の様な幸せが戻ってくると思うと、嬉しかった。

 嬉し過ぎた。

 ――そう思い過ぎたからなのかも知れない。

 この時は、すぐにまた、あの時のような幸せが戻ってくるものだと、そう思っていた。

 

 妊娠を知ってからそんなに日も経っていない頃。

 あの不思議なもみじを見つけてからもう一年かと思いながら、私はチイともみじのミイと一緒に保育園までの道を歩いていた。

 ミイは一年前と何も変わらず、変わったことと言えば、まるで懐いている犬のようにチイの後をついて来るようになったことぐらい。風の仕業とはいえ、随分とまあ器用な風だなと思う。

 風のイタズラで時々ふわりと舞い上がるミイとじゃれ合いながら、チイは歩いていた。チイもミイも、喜んでいた。

 横断歩道に来ると赤信号だった。

「いい、ミイ。青は渡る。赤は止まるのよ」

 口の利かないミイにチイはしゃがんで教えた。

 だがミイは、チイの言うことも聞かずに道路に飛び出した。突風が吹いたのだ。

「ミイ、ダメよ!」

 チイはミイを追って道路に飛び出した。すると、車両用の信号が黄色になり、何とか行ってしまいたいと思ったのか、一台の車が猛スピードでチイとミイめがけて突っ込んで来た。

「チイ、危ない!」

 私がそう叫ぶと、また凄い突風が吹いて、チイとミイが空に舞い上がった。舞い上がったミイは、反対側の本来チイ達が行こうとしていた道に着地した。

 だが、その後でキキーッ! という大きなブレーキ音が聴こえ、すぐ後にドサッ!と音がして、何かが道路に落ちた。

「いやー!」

 辺り一帯に、悲鳴が響いた。

 その声を発したのは私だった。見つめる先には、私がこの世で一番愛する一人娘のチイの変わり果てた姿があった。

 その体は、猛スピードで突っ込んで来た車の凄まじさを物語っているかの様だった。

 全身血だらけでピクリとも動かない小さな体に駆け寄って、私はたった一人の愛娘の名前を呼ぶ。

「おか……あ……さ、ん……」

 チイは辛うじて口を開き、私を呼んだ。

「チイ!」

 ピーポー、ピーポー

 と、誰が呼んでくれたのか、遠くから救急車のサイレンが聴こえ、だんだんそれは近づいてきて、チイから少し離れた所で停車し、中から救急隊員が数名降りてきた。

「娘を助けて!」

 そう連呼する私を落ち着かせながら、隊員の一人が私や周りから状況を訊き、後の隊員はチイをすばやく担架に乗せて救急車に運んだ。

「お母さんも乗ってください!」

 隊員の言う事を訊き、私は救急車に乗り込み、ドアが閉められ、近くの病院に向かって救急車は走り去った。

 救急車が走り去ったすぐ後にまた突風が吹き、難を逃れたミイはまた空高く舞い上がった。ミイはそのまま地上に降りる事なく、風に乗ってどこかへ飛んでいった。

 救急車の中で、チイはまた口を開いた。

「お……か……さ……ん」

「チイ! 頑張って! 絶対助かるから!」

 両目に涙をいっぱい浮かべ、チイの手を握りながら、私は言う。

「……チイ、し、死んじゃうの……かな」

「何を言うの! 大丈夫、助かるから! 絶対助かるから!」

「でも……ゆ、夢の中で、あの人が言ってたんだ……。キミは、もうすぐ死ぬんだよ……って」

「夢?」

「う、ん……。ミイを見つけた日の前の夜に見た夢に……その人が出て来て……夢の中のチイに、言ったの。キミはもうすぐ死んでしまうんだよ……って。死ぬってなあに? って、チイが、聞いたら、その人は、言ったんだ……。キミがこの世から永遠にいなくなる、キミがキミのお母さんに、二度と逢えなくなることだよ……って」

 私は、チイの手を一層強く握り締めた。

「そんなの嫌だ……って、チイはその人に言った。でも、うっ……その人は、これはもうチイが生まれた時から決まっていることだって……。どうしようもないことだって。だから、チイ、その人に頼んだんだ……。だったらせめて、お母さんが独りぼっちにならないように、お母さんを、お父さんに……逢わせてあげてって」

 私の目が、大きく見開いた。

「その人は、分かった、って言って、どこか、きらきらひかる所に行っちゃった……。でも、チイ、その後で後悔したんだ。何であんな叶うはずもないこと、言っちゃったんだろう、って」

「……え?」

「お父さんは、もう帰ってこないんだって、もういないんだって気付いた。お父さんはもういないのに、これでチイが死んじゃったら、お母さん独りぼっちになっちゃうのに、何であんなこと、言っちゃったんだろうって……。その時に、思ったんだ……チイの代わりに、妹を作って、その妹をお母さんの側に置いてあげてって……何でそう言わなかったんだろう……って。そんな時にミイが現れて。あのもみじを、ミイを、チイの代わりに、お母さんの側に、ずっと、いさせてあげられないかなって。そうすれば、チイがいなくなってもお母さんが寂しい思いをしないで済むかなって」

 チイのその言葉を聞いて、あの時、チイが「妹が欲しい」と言ったのはこういう理由からなのだと分かった。

「でも、だめ、だね。やっぱり、できっこないことや、頼みもしてないことを願ったって、叶えてもらえる訳、ないよね。お母さん、やっぱりお父さんと逢ってないみたいだし、ミイも、チイと一緒に轢かれちゃ……」

 チイの目が閉じた。

「チイ!」

 救急隊員同士の間で、様々な言葉が交わされる。

「お願い、目を開けて! あなたが夢で私のために望んでくれた事、ちゃんと全部叶ってる! ミイだって無事よ!」

 その言葉に反応したのか、チイの目が微かに開いた。

「……え? ほ……ん……と……?」

「そうよ! あなたがその人にお願いしてくれたから、お母さんはお父さんにまた逢えた! あなたが願ってくれたから、お母さんのお腹には今、あなたの妹がいるの! 全部チイのお陰なの! なのに、なのに! どうしてあなたが死ななくちゃいけないのよ!」

 救急車はようやく病院に着き、チイはすぐに手術室に運ばれた。

 私はチイの血が自分の服や手に付いたまま手術室の前で「手術中」のランプが消えるのをずっと見ながら、ひたすら娘が助かるのを祈っていた。

 でも、八歳の小さな体にもう力は残っていなかった。まるで、一年前に落ちてきたもみじのように、その小さな命は、静かに消えていった。

 

 

 チイが死んだ。

 葬式で最後に見た娘は、全ての役目を終えてホッとしているかのように笑っていた。

 その笑顔は、自分の知らない所で絶対叶うはずがないと思っていた願いが叶った事に喜びを感じているような、穏やかな笑顔だった。

 葬式の後、私は外に出て空を見上げ、涙を流した。すると風が吹き、流れた涙を空へ送った。

「チイ、天国でずっと見ててね。妊娠してること、黙っててごめんね。お父さんに逢ったことも」

「美久!」

「和也」

 建物から出てきた和也が私の名前を呼びながら駆けて来た。

「何してるんだよ」

「チイに色々黙ってたことを謝ってたの」

「謝ってばかりじゃ、あいつが悲しむぞ」

 私は、え? と言って訊き返す。

「あいつは、お前の幸せを願ってくれたんだ。自分を犠牲にしてまでそれを叶えてくれた人に謝ってばっかりなんてダメだろ?」

 そう言うと彼は、私の肩を抱いて私と同じように空を見上げて言った。

「チイ。父さんな、母さんともう一回やり直す事にしたんだ。母さんから、お前が父さん達をもう一度逢わせてくれたって聞いて、あの再会は決して偶然に起こった事じゃなかったんだって知って嬉しかった。お前にはとても感謝してる。その代償にお前を失う事になってしまったのはとても残念だったけど、父さんは、お前が夢の中で話した人に願ってくれた願いを壊すような事は絶対にしない。誓うよ。母さんを独りぼっちになんかさせないから。安心しろ」

「和也」

「お前を独りぼっちになんかさせない。絶対に」

「ありがとう。あ、そう言えば、あなたには伝えてなかったわね」

「何だよ?」

「チイに妹ができること」

 今度は和也が、え? と言う。

「チイ、生まれてくる子の名前、どんなのが良いかな?」

 私はまた空を見上げ、訊く。

「お前……」

 不意に風が吹いて、空から一枚のもみじの葉が落ちてきた。

 そのもみじの葉には、よく読めない(解読不可能な)字が書いてあった。

 私はそれを拾い、

「ミイ(ミナミ)、か。良い名前ね」そう言ってまた空を見上げ、「チイ、離れていても、あなたはずっとずっと私達の娘よ。いつまでも、私達を見守ってね」

 数ヵ月後、私は女の子を産んだ。側には和也がいて、チイの写真もあった。

 その生まれた女の子は、チイの希望通り、ミナミと名付けられた。

 私はチイのもみじ「ミイ」を写真立てに入れて、チイの写真の横に置いた。そして、毎晩寝る前にチイの写真にお休みのキスをして眠った。もちろん、もみじのミイにもキスをして眠った。

 チイの妹、ミイ(ミナミ)もチイに負けないくらいの明るい女の子に育っていった。

 

 

 あれから、十年。

 目を開けると、車は止まっていて、夫も娘もいなかった。

「あれ? 和也? ミイ?」

 二人を探して車を降りて鍵を掛けた私の目に、近くにある石段を下りてくる二人の姿が映った。

「あ、お母さん!」

 娘のミナミが和也の手を離して私の元に走ってきた。

「あ、起きたか。お前、凄く気持ち良さそうに眠ってたもんだから、起こすのなんか可哀相だと思って。お前が起きるまでミイとこの上にある展望台に行ってたんだけど。余計な心配掛けちゃったか?」

 ゆっくりとした歩みで妻の前まで来た和也は言う。

「ごめんなさい。私、いつの間にか寝ちゃってたみたいね」

「お母さん、大丈夫? なんか泣いてたみたいだったけど」

 え? と思いながら目の下を触ると、少し濡れていた。

「チイのことでも思い出してたのか?」

「ねえ、チイってだあれ?」

「ミイのお姉ちゃんよ」

 私はしゃがんで娘と同じくらいの背丈になって言う。

「オネエチャン?」

 ミイは母親の方に向き直って訊く。

「そうよ。今日は、お姉ちゃんに逢うために来たのよ」

「ん?」

 ミイは私達の言うことがイマイチわからないらしい。

「じゃあ、行こうか」

 和也がそう言い、

「ええ」

「ねえ、オネエチャンって?」

「ついて来れば分かるわ」

「うん」

 私達はイマイチ納得できないミイの手を引いて三人で歩き出した。と、

「あ、ちょっと待って」

 そこで不意に私がそう言い、

「どうした?」

 和也が訊いた。

「写真忘れてきちゃった」

「おいおい、チイがあっちで泣くぞ」

「ちょっと取ってくるから、待ってて」

 そう言って私は車に戻り、

「ごめんね」

 と言って、助手席にあった写真立て二つを手に取って、急いで二人の所に戻った。

「あったか?」

 駆けて来る私に和也はそう呼び掛けると、私はうん! と言って和也とミイの元に着いた。

「何の写真?」ミイがそう訊くと、

「着いたら教えてあげるよ」

 私は娘に優しく言った。

 

 もみじが一面に舞い散る小道を歩きながら、私達三人は目的地に向かって歩いていく。

 小道を抜けた先には街の景色が広がり、その景色が見え始めると、ミイはわあ! と言いながら私の手を離してその景色を見に走っていった。

「すごーい!」

 一面に広がる赤や黄色に変化した街の景色を眺めながら、ミイは思わず呟いた。

「あなたが住んでる街よ」

 娘に追い着いた私は娘の横に来て言った。

「こんなにキレイだなんて知らなかったよ。なんか感動」

「連れて来て良かったわ」

「おーい! 美久ー、ミイー!」

 声のした方を見ると、和也が少し降りた所で手を振っていた。

 彼が立っている所の横には、一本のもみじの木と一つの小さな墓があった。

「お父ーさーん!」

 ミイも手を振って父親に応える。

「お父さんの所に行こうか」

「うん!」

 ミイは私と手を繋いで和也の所に向かった。

「とうちゃーく! ん? わあ!」

 着いた所からの景色も最高だった。

「ほら、ミイ。お参りしよう」

「お参り? 何で? ってかこれ、誰のお墓?」

「あなたのお姉ちゃんよ」

 そう言いながら、私は持ってきた二つの写真立てを墓に飾った。

「? オネエチャン?」

「そう。お姉ちゃん。あなたは、お姉ちゃんが願ってくれたから、今いるのよ」

「!」

 ミイは少し黙って、そして何かを思い付いたように口を開いた。

「そっか。ずっと前に、小さい頃のあたしに呼び掛けたのは、お姉ちゃんだったんだね」

「「え?」」

 娘の突然の意味不明な発言に和也と私は同時に彼女を見て思わず言った。

「もう大分昔のことなんだけどさ。幼稚園の時だったかなあ? 夢の中で、誰かがあたしに呼び掛けてたの。なんかすっごい可愛い声でさ。私の代わりに、お父さんとお母さんの側にいてって。二人の前からいなくなっちゃダメだよ、もう二度と二人を悲しませるようなことはしちゃダメだ! って。ずっと言ってた。最初聞いた時は何のことだかよくわからなかったけど、でも、たびたび夢の中でその子はあたしにそう言ってきた。だから、これはあたしに課せられた何かの使命なんじゃないかなって思ったんだ。……思ったけど、あたしがお父さんとお母さんの前からいなくなるなんてことないんじゃないかってその後で思ったから、やっぱり、その子の言ったことがよくわからなかった」

「「……」」

「でも、ここに来て、このお墓を見て、この写真を見て。やっとわかった。あの声は、お姉ちゃんのモノだったんだって。夢の中のあの声が言ってたことは、お姉ちゃんの願いだったんだって」

 私と和也は黙って聞いた。

「あたし、『お姉ちゃんの願い』叶えるよ。お姉ちゃんがどうして死んじゃったのかは知らない。でも、お姉ちゃんは居たかったんだって。お父さんとお母さんの側に居たかったんだって。今、そう思えるんだ。だからあたしは、ずっと居るよ。お父さんとお母さんの側に。二人の前からいなくなったりなんか、絶対にしない。だってそれが、お姉ちゃんがあたしに願った、『願い』だから」

 そう言った娘の目は決意に満ちていて、写真の中の彼女の姉は、安心したような顔をして笑っていた。


「ば……バカ!」

「ば、か? バカとは何だ、ミイ! 俺はこれでも部長だぞ!」

 墓から少し離れた所で、和也とミイが車の中の続きなのか、しりとりをやっている。

 十歳の少女から発せられるワードは、さっきから父親を弄んでいるような言葉ばかり。遊ばれている父親の方は、単に娘に合わせているだけなのか、それとも遊ばれていることに本気で怒っているのか。微妙な感じで、二人のしりとりは続いている。

 そんな様子をもみじの木の下で座って休みながら見物している私は、チイともみじのミイの写真を手に微笑む。

「待ちなさい、ミナミ!」

 父親をもて遊ぶ娘と、それを追う父親。

「はは! いやあ!」

 と、和也がミイを捕まえた。その捕まったミイの姿が、一瞬チイに見え、すぐにまたミイに戻った。

「チイ」

 不意に両目から涙が出てきた。

 どうして、私はあの子を死なせてしまったんだろう。

 そう思うと、涙はどんどん溢れてきた。

 と――

 穏やかな風が、一瞬さーっと吹いて、

 

 泣かないで―――

 

 どこからか声が聞こえた。その声は聞き覚えのある、優しい声だった。

「え?」

 どうして泣くの? ―――

 その声は言う。

 あなたの泣き顔を見るために、私はあの時願ったんじゃないよ―――

 あなたの笑顔が見たくて、あなたにずっとずっと笑っていて欲しくて、願ったんだ―――

 だから、そんな顔しないで―――

 笑ってよ―――

「うっ……」

 その声の言葉を聞くたびに、涙が溢れた。

 ほら、写真の中の私を見て―――

 笑っているでしょう? ―――

 確かに笑っていた。

 私は、嬉しいんだよ―――

 声は続ける。

 願いが叶って。あなたが独りぼっちにならずに済んで。もみじのミイが無事で。お父さんとミナミが、ずっとあなたの側にいるって言ってくれて―――

 とっても、嬉しいんだ―――

 私は、「何かの形」としてあなたの側にいることはできないけれど、あなたの心の中にはいられるから、私も、あの二人に負けないようにあなたの側にいるよ。いながら、いつまでも見守るよ―――

 二つのことを同時にこなすのは難しいけど、あなたが笑っていてくれるなら、それもやれるよ―――

 私、頑張るから―――

 だから、あなたも頑張って―――

 涙を拭いて―――

 笑顔でいて―――

「う、うん。……ごめんね」

 両目の涙を拭い、そして笑った。

 ありがとう―――

 その笑顔を決して絶やさないで。ずっとずうーっと、いつまでも笑っていて―――

 お母さんが、ずうーっと笑っていてくれること。―――

 それが―――、

 

 チイにとっての、一番幸せな事なんだ―――

 

 また風が吹いて、同時に声は聞こえなくなった。

「チイ……」

 私は空を見上げ、呟いた。

「おかーさーん!」

 ミイが走ってきた。

「えい!」彼女は私の胸に飛び込む。「ねー、お腹減った」

「え?」

「コノヤロぉー」

 後から来た和也は、娘に散々弄ばれて疲れたのか、息がゼーゼーいっている。

「ねー、お腹減ったあー」

「だって」

 夫に振る。

「え? んー、じゃあ、帰るか!」

「えー! お父さん、ここから家まで何時間掛かると思ってんのー」

「何だよ、腹減ってんだろ?」

「ええー! 家まで耐えらんないよぉー」

「んなこと言ったって、食べるもんなんて持って来てねーぞ」

「えー」

「じゃあ、どこかレストランでも寄って行きましょうか?」

 父と娘の言い合いに、私はすっと割り込んで言った。

「はあ!?」

「わーい! さんせーい!」

「ちょ、ちょっと待て。何をいきなり」

 ミイは一人わーい! を連発している。和也はその横でポケットから出した財布の中身を気にしている。

「あら、部長さんなんでしょう?」

 和也に追い討ちを掛けるように私は言う。

「だからって、いつもいつも大金持ち歩いてる訳じゃねーぞ」

「私も持ってるから、何とかなるわよ」

「だけどなあ」

 ミイはわーい! と言いながら来た道を引き返し始めている。

「こら、ミイ!」

 和也もその後を追って走っていく。

 私は二つの写真立てをしっかりと両手に持って立ち上がり、歩き出そうとした。

 と、また風が吹いて、私は思わず歩みを止めた。

 その風は、墓の横のもみじの木のもみじの葉を数枚、木の枝からもぎ取るようにして取り、それらを一気に空へと運んだ。

 チイが呼んだような気がした。

「大丈夫。もう泣かないよ。だから安心して。もう、あなたに心配を掛けるようなことはしないから。ずっとずっと、笑顔でいるから――」

 舞い上がっていったもみじ達に向かってそう言い、私はまた歩き出した。

 

 

 美久が墓から大分離れた頃、舞い上がったもみじ達がはらはらと墓の上に落ちてきた。

 そのもみじ達が落ちるのと同時に、墓の前に一人の少女が現れた。

 少女は美久の姿がその視界から消えるまで、その徐々に見えなくなっていく後ろ姿を見つめていた。

 そしてその姿が完全に見えなくなると、

「約束だよ――」

 そう言って、吹いた風に乗るようにして消え、そのまま、舞い上がったもみじ達と一緒に空高く昇っていった。




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