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咆哮

作者: sethy

 跳躍した最高点で、刃を繰り出したのは同時。白刃が交錯し、硬度の高い音を立てた。

「シャァァァァア!」

 獰猛な蛇の唸り声のような吐息が間近で聞こえた。いったいどうしたんだ。フィン・マドラスは思った。考えている暇はない。動揺している暇もない。それでも、考えずにはいられなかった。

 身の丈の三倍はある高さで切り結んだ二つの影は、そのまま降下し、

 そして海面に『立った』。

 間を置かず、フィンは素早く右脚を軸に旋回した。海水の柔らかさが、脹脛に伝わる。

 そして次の一瞬で、逆の脚を踏み出した。フィンは海面を『蹴り』、海の上を『走った』。

 それは相手も同じだった。同じように素早く振り向いた相手は、同じように走りだし、走りながら右手に握った巨大な両刃の剣を振り上げ、柄に左手を添えた。

 撃ち下ろしてくる。彼の撃ち下ろしは重い。フィンはそのことを誰よりも知っていた。上背も体重もほとんど変わらないのに、剣には大きな差異があった。技術的なことではなく、種類という意味だ。

 自分の剣が鳥だとすれば、彼の剣は大型の獣だ。強靭な力を持つ、獣。

 あの撃ち下ろしを、最大の力で受けてはいけない。心中は揺れ続けていたが、闘争本能がフィンの身体を動かした。左脚を踏み出したタイミングで、フィンは下げた右手に握った細身の剣を海面に突き刺し、そのまま前方に向かって振り上げた。

 強い水しぶきが上がり、それが相手に降りかかる。闘争本能に支配されているのは、相手も同じだ。それがただの海水とわかっていても、突然自分に飛びかかって来るものは、咄嗟に剣で受けようとしてしまう。

 フィンの考え通り、相手はわずかに剣の腹を水しぶきに向けた。一瞬、撃ち下ろしの構えが崩れた。

 好機。フィンは踏み出した右脚で海面を蹴り、大きく跳躍した。

 水には強い弾力がある。陸の上での跳躍より遥かに長い距離を、フィンはひと蹴りで跳んだ。一度相手の進行直線から外れると、次のひと蹴りで、一気に相手との距離を無くした。

「フィン!」

 一瞬だけ対応が遅れた相手だったが、それでもフィンの動きは見えていたらしい。小型の船ならば一撃のもとに両断しそうな剣を、素早く器用に旋回させ、相手はフィンの突き出した細身の剣を受け流した。

 刃同士が擦れ合い、火花が数度、飛び散った。身体と身体がほとんど密着し、フィンと相手の鍔がぶつかった。

「……なぜだ、リゲル」

 フィンの問いかけに、リゲル・ヴァルトナーは二本の刃の向こうで、口元だけを歪めて笑った。

 鍔迫り合いの格好になり、しばらくは力の勝負になるところだったが、ここが海の上であることを知っていて、その戦いに慣れている二人の動きは、やはり同時だった。お互いに相手の剣を押すように力を込めると、その反動を利用して、後方へ跳んだ。

「答えろ、リゲル!」

「訊くな、フィン!」

 水の弾力を使い、やはり身の丈の三倍以上跳び上がったフィンは、空中で絶叫した。それに答えたリゲル・ヴァルトナーも、やはり叫んでいた。しかしフィンにはそれが、どこか冷めた叫びに聞こえた。

「おれには、しなければならないことができた。それだけのことだ!」

 降下する足下に、ゆっくりと海面が近づいてくる。リゲル・ヴァルトナーの言葉を聞いたフィンは、眼下の海を見つめ、思い出していた。

 幼馴染であるリゲルと、自分の事を。


 世界最大の大陸、アヴァロニア大陸。その西方、大陸最古の王国、神聖王国カレリア。その南方に浮かぶ辺境の島々の一つ。名もなく、小さな島で、フィンとリゲルは育った。

 世界にはかつて、万能なる力が存在した。

『魔法』と呼ばれたその力を使い、アヴァロニア大陸とその周辺諸島群は、繁栄を謳歌していた。

 それが数百年前、唐突に終わりを告げた。

 豊かで、繁栄もしていた世界でありながら、人々はより豊かで、より栄えた世界を求め続けた。求めれば求めただけ、『魔法』が使われた。求めるものが衝突すれば、争いが起こり、それが国の間で起これば、より多くの『魔法』が使われた。そうして万能な力を使い続けた世界は、強大で強力な魔法の力が起こす、猛烈な熱量によって、徐々に温度を上げていった。上昇した温度はかつて氷の平原であった土地を湿地に変え、草原に変え、砂漠に変えた。

 人の傲慢が、世界の姿を変えてしまった。

 そうしてある時、突然猛烈に嵩を増した海水に、世界は飲まれたのだという。

 それから人々は、多くの陸地を失うと同時に、『魔法』の力を失った。今でもごく稀に、『魔法』を使える人間がいたが、それは本当に稀なことだった。

 そんな世界の片隅で、フィンとリゲルは育った。

 いつかこの島を出て、本土に渡る。そして神聖王国カレリアの聖都、シュレスホルンで兵に志願し、やがては騎士になる。特徴的な赤い髪を揺らしながら、リゲルはよくフィンにそう話していた。フィンはリゲルとは対照的な、黒く長い髪の下から、ただ黙って楽しそうに話す親友の姿を見つめていた。

 それが彼の父親の影響であることに、フィンは気づいていた。リゲルの父親は、この島を出て、神聖王国の兵士となった。大陸ではカレリアとファラ、二つの大国同士が、大陸の覇権を争う戦いを始めたばかりだったので、父親はその最前線に送られたらしい。

 そして、戻って来なかった。

 フィンの両親は、フィンがまだ幼い頃、海へ漁に出たまま消息を絶っていた。リゲルとは歩けもしない頃からの付き合いだったが、祖母に育てられたフィンには、リゲルの気持ちはよくわからなかった。父親と同じ道を辿ることは、父親を取り戻したいのだろうか。それとも自分は父親のようにはならないと、周りに示したいのだろうか。

 二人は十歳になった頃、村の戦士たちから剣を習うようになった。

 島には、屈強な戦士がいた。この島と村、そして、村に伝わる宝を守るために、日々鍛錬していた。その宝がどんなものなのか、フィンもリゲルも知らなかったが、よほど大切なものなのだろうことは、子供ながらにわかった。強靭な肉体を持った数十人の戦士たちが守っているのだ。貴重なものに違いない。そう思っていた。

 島に生まれた男の中から、さらに選ばれたものだけが、戦士になれる。リゲルの父親は、選ばれなかったそうだ。選ばれずに、王国の兵士となった。だからなのかもしれない。リゲルは必死に、戦士たちから稽古をつけてもらっていた。フィンは幼馴染に負けたくなくて、リゲルの後に食らいつき続けた。

 これも、騎士になる修行の一つだ。おれは神聖王国で、誰にも負けない騎士になる。稽古の合間に、リゲルはよく、そう言っていた。

 お前はどうする?

 戦士としての修行を始めて、二年ほど経った頃、突然リゲルがそう訊いた。お前なら、おれの次ぐらいにはなれるかもな。どうだ、お前も一緒に志願してみないか。フィンと実戦形式で手合せをしながら、リゲルが言いだしたのだ。

 その時、フィンは答えをはぐらかした。自分も行くとも言わず、行かないとも言わなかった。この島を出たいなど、考えたこともなかったからだ。

 一日もあれば一周できる程度の島の、鬱蒼とした森に囲まれた村。森を抜けて浜辺に出たとしても、その向こうには、永遠に続くかのような水平線が広がっている。繁栄した人の世界からは遠く離れた場所であることは、子供ながらにわかってはいた。

 それでも、フィンは構わなかった。

 生活に不自由はなかった。食べ物に困ることはない。大人たちが釣り上げてくる魚、森から取ってくる動植物は、いつもたくさんあった。湧水も豊富で、村には畑もあった。時折、海の向こうから交易船がやって来て、見たこともない食料や衣料品を置いて行く。その様子には、確かにフィンもわくわくとした。遠くの土地へ思いを馳せ、この世界にはどんな人々が、どれほどいるのだろう、と想像した。

 でも、結局それだけだった。この土地を離れてまで、何かをしようだとか、何かになろうだとか、リゲルの様に考えたこともなかった。

 何も変わらないし、変わる必要もない。そう考えていた。


 それからさらに三年が経ち、二人は十五歳になった。そしてその頃には、二人とも一人前の戦士として扱われるようになっていた。事実、大人でも、二人に勝てるものは少なかった。

 いよいよ旅立つ。ある夜、リゲルにそう打ち明けられた。

 村の長老の許可も得た。戦士団の長の許可も得ている。次に来る交易船に乗って、おれは神聖王国カレリアの聖都シュレスホルンを目指す。呼び出された夜の浜辺で、星明りに目を輝かせたリゲルは、フィンにそう告げた。

 ――お前は、どうする?

 自分の話をし終えた後。波音だけが聞こえる時間を置いて、リゲルが二年前と同じことを訊いた。

 ――おれは……

 今度ははぐらかせない。自分の考えを伝えなければいけない。はっきりと。フィンはそう自分に言い聞かせた。言い聞かせたが、言葉が出て来なかった。自分はこの島を出たいのか。それともここに残りたいのか。リゲルは自分が共に行くことを望んでいる。望んでくれている。なら、自分はそれに応えるのか。それともこの島に残り、戦士として、村人として、これまで通りの生活を送るのか。

 その答えを、考えていなかったわけではなかった。リゲルにお前はどうすると初めて訊かれてから三年、自分がどうしたいのかを考えない日はなかった。それでも、フィンには答えが出なかった。

 ただ、ひとつだけ、自分にも望むものがあることがわかった。わかっていた。バカげた望みだった。叶うはずのない想いだった。それでもフィンは、心のどこかで、頭の片隅で、胸の奥底で、自分でも気がつかないうちに、その願いを、望みを、強く強く、想い続けていた。その想いはフィンの思考の根となり、同時に見えない鎖ともなって、フィンの身体に巻きついていたのだった。

 ――行かないか、一緒に。

 波打ち際に歩み出たリゲルは、浜辺に立ったままのフィンに背中で言った。降るような星空を見上げているのか、目線は少し上を見ていた。

 ――おれは……

 波がリゲルの足下に打ち寄せ、引いて行った。バカげた望み。叶うはずのない想い。フィンはそれを言葉にすることが、怖かった。それでも今は、言わなければ。波が何度か打ち寄せて、引いて行った。長い沈黙を置いてフィンが決意を固め、言葉を選んだ時。

 ――フィン!

 突然、風が動いた。鞘走りの音が聞こえ、海から吹きつける潮のそよ風が、大きく攪拌された。

 フィンはリゲルの足を見ていた。それでわかった。リゲルは唐突に振り向いて、腰に佩いた戦士の剣を抜いたのだ。

 ――最後に一手、本気でやりあってもらいたい。

 顔の前にかざした剣の向こうに見えたリゲルの顔は、笑っていた。何もかも、もしかしたらフィンの胸の奥にある想いさえも、見透かしているように見える笑みだった。

 フィンは黙って剣を抜いた。厚い両刃の、肘から下程の長さの剣。さほど長くはないが、全身の力を伝えやすい剣。この剣ならば、言葉よりも容易く、この身体の想いまで、届くのではないか。

 思った瞬間、フィンは砂浜を蹴っていた。リゲルは剣を正面に構え、海の中へ退いた。

 いや、海の上へ、だ。

 リゲルの身体が、退きながら海の上を走っていた。

 この島の戦士団には、ある特徴的な戦い方が伝わっている。

 海の上を、自在に移動する戦い方だ。

 理論は単純だった。片足が沈む前に、次の足で水面を蹴る。フィンもリゲルも、そう習った。そしてそれ以上の教えはなかった。これまでの戦士たちも、皆そうしてその戦い方を身に付けたのだと聞いた。

 もちろん、そう簡単にできるはずがない。戦士となって五年で、二人はこの海走りの法を体得したのだった。

 フィンの足が波打ち際を超え、水を蹴った。

 水は弾力がある。地面よりも、遥かに身が弾む。その跳躍力を生かして、海上を飛ぶように移動するのが、この戦い方の特徴だった。

 たった一歩で、フィンとリゲルの距離は無くなった。

 フィンは右から剣を振り下ろす。リゲルは落ち着いた様子でこれを受け、その力を流した。フィンがどの程度の力で跳躍し、今自分の前でどの程度の突進力が残っているのか、そういったことがすべてわかっているような受け流し方だった。

 フィンの身体が、剣に引っ張られるようにして、前のめりに倒れ込む。視野の端で、リゲルが手の中で剣を旋回させ、真っ直ぐ撃ち下ろそうとしてるのが見えた。

 本気だ。リゲルは本気で撃ち込んでくる。多少の怪我では済まなくとも、そうするつもりだと、刹那の内に感じ取ったフィンは、身体から力を抜いた。無理に振り向いたりしようとはせず、むしろ受け流されるままにした。剣の先が海面に沈み、頭から海に倒れ込む。その直前。フィンは倒れ込むその勢いを利用して、身体を前方へ回転させた。脚が空中を半回転し、その脚の踵で、フィンは剣を振り下ろそうとしていたリゲルの腕を蹴り付けた。切っ先が自分の身体に触れる直前、腕を蹴られた反動で、リゲルの身体が大きくその場から後退するのが見えた。

 フィンは、頭が水の中に落ちる寸前、今度は海に没した腕に『力』を込めた。水の特性を捉える『力』だ。この五年で体得したもので、足や手、身体が水面に触れる時、この『力』を意識することで、水の上に乗ることができた。意識した『力』が剣を通じて伝わった瞬間、水に弾力が現れた。フィンは剣を支えにして海面に逆立ちした形のまま跳び上がり、空中で一回転すると、再び海面に降り立った。

 長時間、水の上に立ち続けることはできなかった。一歩が沈む前に、次の一歩を出す。そうしなければ、いくら『力』がこもっていても、身体は水の中に沈んでしまう。その基本に忠実に、フィンは着水と同時に海面を蹴った。

 対するリゲルの動きも同じだった。大きく仰け反った後、すぐに前進する一歩を踏み出したのだろう。剣を横払いの形に構え、すでに目前に迫っていた。

 今度はリゲルの手が一歩速い。そう判断したフィンは、素早くリゲルの一太刀を防ぐように剣を立てた。そこにリゲルの横払いが直撃した。

 重い一撃だった。柄を通して衝撃が両手に伝わり、肘から二の腕、肩へと這い上がった。

 これまでもリゲルとは、毎日のように剣を合わせて来た。そのすべてを凌駕する、驚くべき重さの一撃だった。本気だと改めて思った。

 ――フィン!

 リゲルが吠える。フィンは剣の腹で受けたリゲルの剣を弾き上げると、その剣を、そのまま振り下ろした。

 ――リゲル!

 フィンは吠えた。自分が叫んだことに、後になって気づいた。

 リゲルの肩を狙ったフィンの撃ち下ろしは、寸でのところで身体を捻ったリゲルに躱された。刀身が空を切り、その下の海面を撃った。水しぶきが高々と上がる。

 その水しぶきを裂いて、リゲルの脚がフィンの側頭部を襲った。剣を弾かれながらも、身体を浮かせたリゲルが空中で撃ち出した、鋭い蹴撃に、フィンはあまりにも無防備だった。受け身を取る間もなく、まともに弾かれた身体は、海面の上を大きく飛んだ。

 だが、意識までは飛んでいなかった。フィンはすぐに片手を水面に付いて身体を捻り、また空中で体勢を整えて、着水。すぐさまリゲルに跳びかかった。

 リゲルが咆哮をした。獣じみた咆哮だった。吠えながら、リゲルもまた、フィンに向かって跳びかかって来ていた。

 フィンも咆哮した。やはり獣じみた咆哮だった。

 あの時、咽喉を通して音になったのは、どんな想いだったのだろう。後になってフィンは考えたことがある。その想いは一つではなく、さまざまなものが複雑に重なり合ったものだっただろう。だからこそ、単純な言葉にはならなかったのではないか。本気で撃ち合っていたからではなく、言い表すことができない想いが、混然一体となっていたからこそ、発せられたものだったのではなかったか。


 それが二年前だ。その数日後、リゲルは神聖王国の聖都に向かって島を出た。

 そして今日、生まれ故郷であるこの島に、戻って来たのだ。

 侵略は唐突だった。沖合に数隻の大型船の姿が見えた。初め、村の戦士たちも、それほど大事には思わなかった。交易船が行きかう姿は、度々目にしていたからだ。

 ところがそれが一隻、また一隻と数を増やし、明らかにこの島へ向かって進んできていることがわかった。船影は見る間に大きくなり、ついに一隻が島の入り江へと入り込んだ。そしてそこから百を超える武装した人間たちが現れたのだ。目を見張る戦士たちの前で、鉄の鎧に身を包み、剣を掲げた侵略者たちは鬨の声を上げて浜辺に押し寄せた。

 村の戦士たちは応戦した。彼らがどんな目的で現れたのかもわからなかったが、剣を振りかざして迫ってくるものたちを、そのまま村へと通すわけにはいかなかった。

 フィンも戦った。すでに島の戦士の中で随一の腕前になっていたフィンは、村を守るため、必死で剣を振るった。

 それでも、多勢に無勢だった。戦士たちは一人、また一人と倒れ、開いた穴を通るようにして、暴威は村へとなだれ込んだ。

 どうにかしなければ。彼らを止めなければ。フィンは歯を食いしばり、周囲に仲間がいなくなっても、まだ奮戦した。

 その前に、彼は戻って来た。

 特徴的な赤い髪を潮風に靡かせ、上背と同じほどある巨剣を担いで。

 侵略者として。

「しなければ、ならないこと?」

 フィンは着水と同時に海面を蹴った。リゲルから距離を保ちながら、沖合方向へ移動する。

「そうだ。今のおれは、この島の戦士だった頃のおれじゃない」

 対するリゲルも同じだった。平行移動した二人は、次の一歩で再び接近した。

「おれは、神聖王国の騎士。それも女王陛下の騎士だ。陛下のご意思の代弁者として、ここにいる!」

 リゲルが放った頭部を狙った撃ち下ろしの一太刀と、胴を薙ぐ一太刀は、ほとんど同時に見えた。たった一呼吸遅れたフィンは、慌ててそれに合わせた。二度、金属がぶつかり合う音がしたが、それもほとんど同時に聞こえた。

 衝撃が、剣を通して伝わった。掌が痺れ、振動は肩まで響いた。

 本気だ。過去に受けたどんな斬撃よりも重い。それはリゲルの意志の固さと同義だった。

 再び水面を蹴って距離を置くと、リゲルの目線がわずかに逸れ、こちらではない遠くを見ていることに気がついた。フィンはリゲルから意識を逸らさず、それでも彼の視線を追って、彼が見ているものを見た。

 視線の先には、入り江に侵入してきた大型船があった。甲板を行き来する人影が見える。それほど深くに、船は入って来ていた。

 その船の船首部分に、数人の人影が固まっているのが見えた。十人はいない。それぐらいの人数が、一塊になってこちらを見ていた。いずれもきらびやかな服装で、男も女も子供も老人も混ざっている。

 そのうちの一人が、手を上げたのが見えた。銀色の髪をした、おそらくは女性。

 ふっと、フィンの脳裏を、過去がまた過ぎった。おれはこの人に仕えるんだ。神聖王国カレリアの女王陛下。『魔法』の力を今もお使いになることができるらしいぜ。そう言って、リゲルが差し出したのは、一枚の絵だった。

 不思議な絵だった。薄汚れた古い紙に描かれているのに、その絵は少しも擦れても、汚れてもいなかった。この絵も魔法で描かれているんだぜ、とリゲルが言う。

 紙には銀色の髪に、赤い目をした女性が描かれていた。焦点を定めていない目は、どこか遠くを見ているようにも、何も見ていないようにも見えた。それでも虚ろには感じなかった。次の瞬間には、その目に強い意思が宿るのではないか。そんな迫力を感じる絵だった。リゲルは親父が残して行った絵だ、と言っていた。これが神聖王国の女王なのか。フィンでさえも、一度でいいから会ってみたいと思った。

 あれは、あの時見た絵の人ではないか。つまり、神聖王国の最高権力者。女王陛下ではないのか。

「おれはこの地の秘宝を回収しに来た。それが陛下の騎士であるおれが、今すべきことだ!」

 一瞬の隙を、リゲルは見逃さなかった。声の近さに慌て、フィンが視線を戻した時、リゲルの巨大な刃が間近に突き出されていた。間に合わない。咄嗟に水面を蹴り、身を捻ったが、巨刀はフィンを簡単には逃がさなかった。刃が右肩を掠め、傷口から鮮血が噴き出した。

 痛みよりも、熱さを感じた。ただ熱いだけだった。流れる血が剣を伝って海に落ちる。かなりの量だった。フィンは海面を蹴った。陸地に向かって二度跳躍すると、浜辺に降り立った。

「秘宝、だと?」

 血は止まらない。肩に傷を負ったことは、直接の致命傷にならずとも、利き腕に傷を負ったことは、この戦いにとって致命的だった。時間はかけられない。自分の傷をそう判断しながらも、フィンはリゲルに問い質した。

 この島には、何もない。森と村と畑。海と、そして大人たち。あるのはそれだけだ。フィンはずっとそう思ってきた。そのはずだった。

 いや。そこまで考えて、フィンは思い直した。自分は何を守るために戦士になったのだったか。初めに一度だけ、その話を聞いた。だが、実際にその物を見たことはなかった。

「そうだ。秘宝だ。この島の戦士たちが守って来たものだ。この村に伝わる、『魔法』の力を宿した宝だ」

 リゲルが波打ち際に着水した。力を解いたのか、その脚は脛までが海水の中にあった。

 その物は、森の奥深くに安置されていると言われていた。今は絶滅してしまった生き物の、身体の一部だった。そんなものが本当に今も残ってるのか、信じることはできなかった。それでもフィンは構わなかった。フィンはその物を守りたくて戦士になったわけではなかったからだ。フィンは、村と村の人々を守れれば、それでよかった。それが、フィンの望みだった。そしてそれは、バカげた、叶うはずのない想いと、一つに繋がっている望みでもあった。

「魔法の力?」

「この村の戦士たちが体得する海走りの法。あれは決して体術の一種などではない。気づいていなかったのか?」

 水をかき分け、リゲルが歩み寄る。フィンは血の流れる右肩に、左手を添えた。剣を右手に握ってはいたが、感覚が鈍い。

「あれは魔法の力だ。この島に伝わる秘宝、『龍のひげ』のな。おれたち……いや、戦士たちは皆、秘宝が発する魔法の力を使いこなせるようになって、初めて海の上を走れるようになれたんだ」

 まったく気づいていなかった、と言えば、おそらく嘘になる。単なる体術、移動術だけで、人が水の上を走れるなど、フィンも思ってはいなかった。それにフィン自身、水に触れる時、確かに意識する『力』。あれを魔法だというのならば、そうだ。確かに何らかの力は存在する。

「陛下は魔法に関する秘宝を集めていらっしゃる。それらを集め、魔法の力をより確実なものとすることで、世界はかつての繁栄を取り戻す。神聖王国カレリアは、女王陛下は、その中心になられるお方だ」

 リゲルがわずかに振り返った。その視線の先には、先ほどの大型船がある。その船首で、女王はまだこちらを見ているはずだ。浜辺まで来てしまったので、今は確認できないが、きっとそうだ。自らが手を汚すことなく、自らが危害を加えられることもない場所で、あの女性は人々の運命が変わるのを見ている。

 周囲では、まだ戦闘の音が響いていた。金属の触れ合う音。森に火が放たれたのだろう。木々が焼け、爆ぜる音。人々の叫び声。戦士たちの断末魔。侵略者の悲鳴。村人たちの慟哭。

 フィンは自分の身体が熱くなるのを感じた。肩の熱が消えて行く。

 魔法の力。秘宝。かつての繁栄。親友が口にした言葉を、頭の中で繰り返した。繰り返せば繰り返すほど、フィンの体温は上がった。

 なぜだ。

 なぜなんだ。

「『龍のひげ』は我々が回収する。戦士たちに抵抗を止めるように言え、フィン!」

「……なぜだ」

 低い声が出た。自分の咽喉から出たとは思えないほど、低かった。

「何?」

「なぜだ! なぜ無くせる、なぜ簡単に捨てられる!」

 右腕に力が宿った。フィンは剣を振り上げる。切っ先がリゲルを指す。肩の熱はもう、完全に消えていた。

「魔法の力だと? 繁栄を取り戻すだと? ふざけるな! そんなもののために、お前はなぜここを捨てられる! ここはおれたちが生まれた場所だぞ! ここは、ここは……!」

 ここは、おれたちの育った場所だ。

 そしておれは、みんなが帰ってくるのを待っていた。

 リゲルの親父さんも。

 海で消えたおれの両親も。

 みんな、いつか、必ず戻る。

 そのためにおれは戦士として、この村を守る。

 バカげた願い。叶うはずのない想い。それはわかっていた。それでも、フィンはそう信じ続けていた。信じ続けていれば、必ず叶う。いつか、会ったことのない両親にも、必ず会える。そう信じていた。

 その願いは、一握りの人間の願う繁栄や、至上の力を得ようとする欲に、踏み潰されていいものではない。ましてや、同じ土地に生まれ、同じ想いを共有することのできるはずの男に、そんなことをさせるわけにはいかない。

「おれは、認めない。今のお前を、おれは絶対に認めない!」

「『星の砂』『光の粉』『龍のひげ』は絶対に必要なんだ。剣を退け、フィン!」

 フィンは砂浜を蹴った。獣じみた声を上げながら、大地を踏み締め、剣を振りかざして、リゲルに飛びかかった。その目に、リゲルが大きく口を開ける姿が映った。叫んでいた。咆哮していた。

 この咆哮は、あの日と同じだ。さまざまな想いが複雑に重なり合い、声となった。単純な言葉にはならず、言い表すことができない想いが、混然一体となり、声となった。フィンは叫びながら、自分の胸にある想いのすべてを見た。


 この剣の重さは、おれの想いをすべて届けてくれるだろうか。


 剣を、振り下ろした。

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[一言] 水の上を走るというトンデモ武術を書こうという、 その心意気がGJです! 戦闘描写もストーリーもまだ向上の余地はありそうですが、すばらしかったです!
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