第四章:その七
その後、互いに口を利かないままひたすら直線道路を歩いていき、乳酸が溜まりに溜まってもうすでに動かなくなっていてもおかしくない足を、無理やり前へ前へと進めること数時間。途中何度か座ったりするなどして休憩は取っていたのだが、さすがにもう足も、そして男の子を抱いている腕も、疲れや痛みが限界という名の、人間が色んな悟りを開ける領域にまで達し始めてきており、実際に腕と足が痛覚のあとにくる痺れとほんわかした温かみという悟りを開き始めていた俺は、さすがにもうやばいと某に強く所望し、その功績か、町のはずれの方にあるビジネスホテルに泊まることができた。もちろん宿泊代は某持ちで、時にして12時ごろの話である。
朝は6時に出発します、と某が言ったのを聞いたか聞いていないか際どいところで、部屋に入りベッドに潜り込み意識をどこか……いや、その行き先は知っているが、気持ちよく寝るためにここは敢えてその事実を伏せておいて、意識を目的地不明の所に飛ばす、とここまでの行為を完了させた。その後に某が何か言っていたって知ったこっちゃない。
だが、朝起きてみれば状況は大きく変わっていた。ベッドに寝ているのは、俺、男の子……以上。部屋にいるのは、俺、男の子……以上。確かに俺は昨日、某がこの部屋で就寝したのをちゃんと確認してはいなかったが、それにしたってこの仕打ちはひどいんじゃないか?自分一人だけ帰りやがって、あいつ絶対、小学校のときとか友達と鬼ごっこなんかして遊んでいる時に、自分が鬼になってなかなか捕まえることができないと急に拗ねていきなり帰っちゃうタイプのやつだったはずだ。取り残された側の憤りと気まずい気持ちを少しは考えろ、この自己中が。
某のことだから、これからの行動を指し示す何かを部屋に置いていっているのではないか、と部屋をあちこち散策していると、
「やっぱりな」
案の定、入り口付近の床に一枚のメモ用紙と、それを抑えるためにかペンが置いてあった。それを拾い上げてみると、そこには目的地の病院に×印が描かれた簡単な地図が描かれており、さらにその下に『所要時間約2時間』と書かれている。交通機関を使えばもっと早く着くのだろうが、なんせ家族で出かけてそのまま移動したわけだから、一文無しどころか財布すらない。持っているのは携帯電話のみで、名義共々売りさばいてしまえば結構な金になるのだろうが、たかが徒歩二時間の道のりのために、余生を誰が使ったかも分からない携帯電話使用料金の多額支払いに使おうとは思えない。
っと、まずい。やってしまった。携帯電話という単語で思い出したのだが、親に家に帰らないという連絡をするのを忘れていた。帰ったらどんな剣幕で母さんが玄関前に立っているのだろうかを想像すると……あぁもうだめだ。きっと俺の人生は今日限りで幕を閉じるだろう。我ながらご愁傷様である。
俺が部屋の入り口前で口をあんぐり放心状態になっていると、
「……お父さん…」
と背後の部屋の内部から声が聞こえたわけで、それは俺の放たれていた心を強制的に呼び戻し、また、今俺がすべきことをはっきりと確定させた。
現在の時刻は5時50分ほど。今すぐにホテルを出ていけば、ほぼ当初の予定通りだ。
「よし」
といまいち微妙な気合を入れた俺は、男の子、もといリトル某に歩み寄り、今度は背中に負ぶって、入り口の方に向き直り、そして歩を進めた。
ホテルを出て少し経ったくらいで気付いたのだが、こいつが起きて自分で歩いてくれればどれだけ楽だろうか。幸か不幸か、今は隣に某もいないわけだし、何より早朝から5歳児を負ぶって歩く入学したての高校生、という妙ちくりんなこの絵図もなくなる。はは、メリットしか思いつかないぜ。
というわけで俺は、背中で寝息をたてているリトル某を起こして歩かせようとしたのだが、いくらか考えが浅はかだった。起きた瞬間この小僧め、現在地と俺の顔を見るや否や、暴れだすわ叫びだすわで周囲の目が痛いの何のって。ここまでの経路を説明して、何とかリトル某を宥めたはいいものの、布団たたきを持ったおばちゃんが駆け寄ってきたときは、どうすればいいか本当に困った。まったく、小さくても大きくても傍迷惑なやつだ。
リトル某は、俺のことを信用したらしたで、今度は逆の意味でうるさくなった。聞いてもないことを話しかけてきたり、俺のことをヨウジマンだと言ってきたり、誰かどうにかしてくれ。ちなみにヨウジマンとは、ここ最近幼稚園児と小学校低学年を中心に視聴率を上げている、主人公が楊枝を手に持って『変態!』と叫ぶとその楊枝の先から糸のようなものが大量に噴き出し、それを主人公がかき集めて体に巻いていくと、最終的にもこもこした全身真っ白のヒーローになり、一般人の歯の間に詰まった、敵キャラであるニクスジーなどを取っていくという、斬新といえば斬新なのだろうが、新しいものを目指しすぎたあげく本来の趣旨から外れてしまった感がどうにも否めないテレビ番組である。
その後も適当に質疑応答しながら、地図を辿って歩いていくと、以外と早く目的地に着くことができた。
俺も一緒に病院の中へ入るべきか考えあぐねていると、リトル某が今とは違う幼さ残り放題の笑顔で俺の手を掴んで引っ張っていくもんだから、もうこれは行くしかないのだろう。
病室にいくとすでに某ファザーは眼を覚ましており、無事だったのか、と俺も安心した。だが安心したのもつかの間、某両親の感謝の言葉の雨嵐で、もうどうしたものやら。途中リトル某を助け出す過程を話す破目になったり、しまいには、
「お疲れになったでしょう?」
なんて聞いてくるものだから、俺はここ数日のことも考え、
「えぇまぁ、最近よく疲れます」
なんて答えてしまったがために、
「ではこれを」
なんて一枚のリゾートホテルのパンフレットを渡され、
「私達のグループが経営してる熱海のリゾートホテルです。毎回無料で最高級スイートルームをご利用していただけるようオーナーに命令しておきますので、どうぞご家族で旅行にいらしてください」
なんてことを言われたのに対して喜んでいいのか悪いのか。さらには、
「朝食はまだとのことですので、私はこのような状況のため行くことはできませんが、もし良ければレストラン等で食事を奢らせてもらえないでしょうか?」
とまで言われたのだが、さすがにそこまでしてもらうのは悪く、また、俺にもこのあと用事があるため、この誘いは断り、その後少し会話したあと、何回目かわからない深々と頭を下げる謝礼を三人同時にされるのを見て、足早に病室から退散した。
病院の正面出入り口を出ると、柱にもたれかかるようにして某が立っており、俺が出てきたのに気付くと、
「おや、早かったですね。僕の記憶ではもうちょっと長かった気がしたんですが」
と呑気なことをいつもの笑顔で言ってくるもんだから、俺のこいつに対する苛立ちは今や表面張力状態だ。
すると某も俺の異変に気付いたのだろう。突然慌てたようすで、
「し、進さん! 大変です! もうこんな時間です! 今日は大事な約束があるのでしょう? 今からだと相当急がなきゃ間に合いませんよ!」
そう言って黒のデジタル腕時計、もといウォッチモードの“どっぐりちゃん”を俺に見せてくる。その腕デジタル算用数字が表す時間は……げっ!? 9時05分!? 集合時間は確か10時だからあと55分しかない!! これじゃ相当急いでも間に合わないじゃねぇか!!
「運賃は差し上げますからバスを使ってください。そうすれば一度家に帰ってでも間に合うはずです」
そういって某はポケットから財布を取り出し、それをそのまま俺に渡した。ナイス某! さっきまでのことは全部チャラだ! こうなった原因はおまえにあるような気もするがそれも含めて全部許してやる!
某と一度アイコンタクトをとって双方頷くと、某は顔を駐車場側に向け、さらに駐車場出入り口よりやや左の方を指で指し示す。
「あのあたりに進さんの家の近くまで行けるバスのバス停があります。あと2分ほどで来るはずですから、急い」
俺は某の言葉を最後までは聞かず、代わりに片手を挙げて感謝の意を表すと、指し示された方に向かって走り出した。
瑠璃のあの性格からして、遅刻なんてしたときにはおそらく何かしらの罰が待っていることは間違いないだろう。あんたはこれからずっと私の下僕よ! なんて言われたらたまったもんじゃない。それだけは逃れなければ。
昨日とはまた違う緊張感が、前進する体に汗となって現れた。
話の展開がどうしても遅くなりがちで非常にもうしわけありません。次回は瑠璃とのデート(?)です。評価・感想・メッセージお待ちしております!