通り雨
きれいだった青空は、いつの間にか真っ暗に変わり、大粒の雨が降り注ぎ始めた。
あまりに急な雨に、思考が働かず、周りの人間は一瞬立ちすくむ。
うっすらと灰色がかったアスファルトが、次々と黒に染め上げられてゆく。
それを見てようやく現実を理解した人々は、傘を出すなり、近くのビルに飛び込むなりして雨をしのぎ始めた。
私は傘を持っておらず、雨宿りを選択したうちの一人となった。
足元にはねてくる水を眺めながら、朝のニュース番組を思い出す。
事務的な笑顔の天気予報士は、今日の天気を今月一番の快晴と表現していた。
何が快晴だ。その顔に心の中で悪態をつきながら、空を見上げる。
空はまだ暗く、雨は止む気配を見せない。
買い物袋に入った本が濡れないように、私はもう少しビルの奥に引っ込むことにした。
一歩、二歩、三歩。壁に当たった。
これだけ下がれば大丈夫だろうと判断して、私は壁にもたれかかった。
少し乱れたマフラーを直して、濡れた服をチェックする。
もしも私が人間だったら、風邪をひかないか注意する必要があっただろう。
「大丈夫かい」
私の横一メートルほどのところに、一人の男が、私と同じようにもたれかかっていた。
その視線がこちらに向いていることを確認して、ようやく男が声をかけた相手が自分だと理解した。
大丈夫です。
小声で告げて、マフラーを外す。
中に見えたであろう雪のように白い首輪、認識票、を確認して、男は納得したこのようにこちらを見つめた。
その眼に好奇心が表れていることを確認して、私は仕方なく男と話すことにした。
「私の主人は私が首輪を見せることが嫌いです。夏場にマフラーをしているほうがよっぽど気持ち悪いとは思いますが、私の意見を聞くような人ではありませんから」
「首輪を出さないのは条例違反じゃなったかな?」
「罰金千円なんてどうでもいいと、主人は申しておりますよ」
目の前に立っている男は、細かいことで警察に連絡するようには見えなかった。
むしろ付きまとわれて、自分が目立つほうがよくないだろう。
実際、真実を教えられて、楽しそうにすることはあっても、携帯で通報を始める様子はなかった。
「君は面白いね。気に入ったよ」
「ありがとうございます。私は静かなのが好きなのです」
「そうか、名前は?」
「……」
驚くぐらいに話がかみ合わない。
やんわりと混ぜた拒絶の意思は、あっさりと無視された。
人間の中には無礼な、相手のことを考えない奴がたまにいるが、彼はそうゆう人間とは違うにおいがした。
それゆえに、私も彼に興味を持ち、会話を続けることにしてみた。
雨はまだやむ気配を見せない。
「そちらから名乗るのが筋でしょう?」
「生意気な奴だな」
あまり立場などを考えずに話せる相手と分かり、私も少しずつ、話し方を楽にし始めた。
相手はそんな自分に対して怒ることもない。
「やっぱり名乗らなくていいよ」
「そうですか」
私は別に相手の名前に興味などなかったが、逆に拒否されると、何か理由があるのではと勘繰ってしまう。
「まあ、犯罪者とかいうわけではないけどね。俺は自分の名前言うのが好きじゃないだけ」
私の“心”を読んだのか、男は釈明した。
犯罪者かどうかの疑いはそんなもので晴れるわけもないが、もともと私もそんなことはあまり気にする性格ではない。
素直に、気にしませんよ、と返すと、男はまだ疑われているのかと、一瞬むっとした顔になった。
「俺は佐藤だ。よくある名前だろう」
「私が偽名を名乗るのなら、その苗字を名乗りますね」
「これが偽名だと? 本名で悪かったな」
「わかりました。佐藤様ですね」
「それでよろしい」
ああ、君はやっぱり面白い奴だな。男、いや佐藤はそう言うと笑った。
私には人間のツボ、というものがよく分からない。
「こっちは名乗ったぞ」
そういえば、こちらの名前を聞くために向こうは苗字を明かしたのだ。
しょうがない、名乗るか。
私には名前が二つある。が、たぶん相手の望む名前は愛称のほうだろう。
もう一方は聞いたところで仕方がない。
「小口です。小さいの小に、入口の口」
「ふぅん、由来は?」
「本の裁断面です」
相手が固まった。
確かに本というだけで疑問詞が付く相手に、本の各部名称は分からないだろう。
私だって、今と違う人生を歩んでいたら、こんな言葉を知るはずもない。
「本、好きなの?」
「私の主人はね」
そればかりか本屋を運営していると知ったら、この男はどんな顔をするだろうか?
うちの主人と違って、このご時世に働く人間はあまりいない。
もっとも、うちの主人“が”働いている様子はめったに見ないのだが・・・。
「俺も好きだよ、たまに読む」
見た目からはそんな雰囲気はしない。
むしろ寝転がって漫画を読んでいそうな、少しおしゃれなどこにでもいる人間。
眼鏡をかけていれば、もう少し知的には見えるかもしれない。
「嘘じゃない。信じろよ」
「ええ、信じます」
「信じてないだろ、お前」
信じていますよ。
私は微笑みで相手の反応を遮る。
男は怪訝な顔でこっちを見た。
私は笑ってその視線を受け流す。
「雨、止みそうですね」
降り続いていた雨が、急速にその勢いを落とし始めていた。
天気予報は当たらない。
私が今日新たに認識した“常識”だった。
その学習ができた点だけ、今日の雨には感謝している。
「止むだろうさ。ただの通り雨だ」
「通り雨?」
これが通り雨ですか……。
私がつぶやくと、また男は怪訝な顔でこっちを見つめた。
「どうかしましたか?」
「いや、やっぱり変わっているな、お前」
見知らぬ通行人にいきなり話しかけるのも、よっぽど変わっていると思うのですが……。
人の振り見て我が振り直せ。少し使う場面を間違えているのかもしれないが、今の私にはその言葉がしっくりきた。
私もこの男みたいにおかしなことをしないように努力しよう。
私は静かなのが好き。余計なことは嫌い。
あまり目立たないようにしたい性格である。
すくなくともそういう設定だったはずだ。
あたりがまた、騒がしくなってきた。
周りを見渡すと、さっきまで傘をさしていた通行人が、一様に傘をしまい始めている。
さらに、近くの建物からは、広がる油のように人がダラダラと溢れ始めた。
この建物も例外ではない。
ごめんよ、と声をかけながら人が二人の横をすり抜けてゆく。
相当迷惑をかけてしまっているのは明白だった。
「雨、止みましたね」
「ああ、そうだな」
続いて、カメラのストロボのように、サッと太陽光が顔を直撃した。
黒いアスファルトにしみ込んだ水が蒸発をはじめ、むっと湿度が上がり始める。
本には良くない気候だ。
おそらく人間の機嫌にもよくない影響を与える気候である。
今夜の不快度指数はどこまで上がるのだろうか?
主人の機嫌が心配だ。早く帰らなければ。
「それでは急いでいるので―――」
「気をつけろよ」
頃合いだな、と判断して、私は軽く会釈をすると、目的地に向かって走り始めた。
久しぶりの全力疾走。足元の水たまりが跳ねて、靴が汚れていく。
後ろで男も軒下を出たことは、雰囲気で分かった。
突然会話を打ち切るのは失礼だったかな?
男の姿が振り返っても見えない場所まで行ってから、ようやくそんなことを思った。
後悔先に立たず、そういえば男の名前もしっかり聞いていなかった。
まあ、何かしてもらったわけでもないし。いっか。
いつか偶然会うこともあるでしょうし。
その偶然は、思いがけないところで起こることになる。