家
家には、もう住所がない。
誰かが「自宅」という言葉を使うたび、微かな違和感を覚えるようになったのは、いつからだったか。
「自宅」は動く。
呼びかければ、家が足元を滑り、街を越え、山を越え、海を越えてゆく。
目的地を告げる必要すらない。
ただ「海が見たい」と呟けば、青い潮騒の音が窓から流れ込み、床が瞬時に柔らかい砂地へと変わる。
「都会の喧騒が恋しい」と願えば、ビル群の灯りが壁一面に反射し、排気ガスの匂いすら忠実に再現される。
それが、この時代の家だ。
便利で、完璧で、息が詰まるほど快適な檻。
僕の家も、当然ながら移動する。
けれど、どこへでも行けるのに、行く場所がない。
不動産営業という仕事柄、毎日のように誰かの家へ「足を運ぶ」。
言葉通り、家そのものが取引先のもとへ飛んでいくのだ。
僕の家は僕を乗せ、客の家の前で静止する。
玄関が開くと、すでに調香された香水の匂いが漂ってくる。
高級な家具、最新の空調、カーボンナノ素材の床。
彼らの家はどれも似ている。
違うのは、そこに立つ人間の顔だけだ。
客は決まって言う。
「本当に、いい時代になったものだね」
僕は笑ってうなずく。
だがその笑顔の裏で、同じセリフをもう百回以上聞いていることを、彼らは知らない。
──いい時代、なのだろうか。
家の移動技術は「ドミシル・シフト」と呼ばれている。
十年前、地球規模の環境危機が深刻化したときに実用化された技術だ。
定住の概念を捨て、人口を流動的に分散させる。それが理想だった。
誰もが世界中を自由に移動し、好きな場所に住める。渋滞も通勤も消え、都市と田舎の格差もなくなる──はずだった。
しかし現実は、金を持つ者ほど、美しい場所を“固定”できた。
富裕層は海辺や高原に家を構え、
僕のような中層の人間は、都市の排気層を漂っている。
住宅区は流動しているようで、実際は見えない階層に固定されていた。
自由に動けるのは、金を持つ家だけだ。
今日も、営業先へ向かう。
家に向かって言う。
「取引先の家へ」
足元が微かに揺れ、壁が波打つように歪む。
数秒後、外の景色が一変する。
完璧に管理された街並み。
無音の電車、無臭の空気、等間隔に整列する木々。
すべてが最適化され、すべてが均一だ。
ドアを開けて外へ出ると、人工の風が頬を撫でた。
それでも、汗が一筋、首筋を伝う。
「おや、今日は暑いですね」
取引先の男が笑う。
彼の背後には、雄大な海が広がっていた。
潮騒の音と、規則正しい波のリズム。
けれどそれは、ただの“設定”だ。
リゾート地の座標は抽選制だが、金次第で優先枠がある。
彼はその枠を持っている。
僕はそれを売った。
商談が終わると、男がふと訊ねた。
「あなたの家は、どこにあるのです?」
僕は少し考えてから答える。
「いつも、どこでもありません」
男は笑った。
僕が嘘をついていると思ったからだ。
だが、本当のことだ。
僕の家は、どこにもいない。
どこへ行っても、そこは帰る場所ではない。
夜になる。
家に戻ると、自動で灯りがつく。
壁が柔らかく光を放ち、室温が最適化される。
AIが僕の疲労度を分析し、好みの音楽を流す。
「今日は少し、海辺の音にしますか?」と家が言う。
「いや、いい」
僕は床に腰を下ろし、無言で外を見た。
外の景色は、他人の家の壁だ。
狭い空間。
どの家も、まるで互いに目を合わせないように無機質に並んでいる。
翌朝。
ニュースが流れる。
〈富裕層向けリゾート地「アクア・ベイ」にて、新たな区画が開放されます〉
〈抽選倍率は、およそ一万倍〉
家が問う。
「申し込みますか?」
僕は乾いた笑いを漏らし、首を振った。
「やめておこう。どうせ当たらない」
「お金の問題ですか?」
「そうだな。金がない」
家は沈黙した。
しばらくして、照明がわずかに暗くなった。
まるで、同情しているかのように。
「海が見たい」と言えば、家は見せてくれる。
だが、それは現実ではない。
本当の海には、もう十年行っていない。
潮風の本来の匂いを、思い出せない。
ある日、街の片隅で古い家を見かけた。
動かない、固定された家。
基礎の上に、錆びた壁。
「旧式住居」と呼ばれるタイプだ。
まるで化石でも見るように立ち止まる。
ドアの前に、老人が座っていた。
彼は僕に気づき、皺の多い顔で微笑んだ。
「動かない家は、いいぞ」
「なぜですか」
「帰るという行為が、まだ残っている」
僕は何も言えなかった。
夜。
帰宅。
窓の外、同じような家々が並ぶ。
どれも同じ明かり、同じ形。
まるで、世界全体が同じ一点を回り続けているようだった。
僕は家に言う。
「今日は、どこへも行かなくていい」
「了解しました」
家が静かになる。
温度が少しだけ下がる。
外の音も完全に遮断される。
静寂の中で、僕は思う。
この世界には、移動しかなく、到達がない。
誰もがどこかへ向かっているのに、誰もどこへも着かない。
それでも、明日も家は動く。
僕を乗せて、他人の家の前に立つ。
営業の笑顔を浮かべて、契約書に判を押す。
「いい時代ですね」と言われ、同じように笑う。
完璧に制御された空調の中で、
なぜか、また汗が一筋、頬を伝う。
それが、僕がまだ人間であることの、
最後の証のように思えた。
(完)




