表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

掲載日:2025/11/02

家には、もう住所がない。


誰かが「自宅」という言葉を使うたび、微かな違和感を覚えるようになったのは、いつからだったか。

「自宅」は動く。


呼びかければ、家が足元を滑り、街を越え、山を越え、海を越えてゆく。

目的地を告げる必要すらない。


ただ「海が見たい」と呟けば、青い潮騒の音が窓から流れ込み、床が瞬時に柔らかい砂地へと変わる。

「都会の喧騒が恋しい」と願えば、ビル群の灯りが壁一面に反射し、排気ガスの匂いすら忠実に再現される。


それが、この時代の家だ。

便利で、完璧で、息が詰まるほど快適な檻。


僕の家も、当然ながら移動する。

けれど、どこへでも行けるのに、行く場所がない。


不動産営業という仕事柄、毎日のように誰かの家へ「足を運ぶ」。

言葉通り、家そのものが取引先のもとへ飛んでいくのだ。

僕の家は僕を乗せ、客の家の前で静止する。


玄関が開くと、すでに調香された香水の匂いが漂ってくる。

高級な家具、最新の空調、カーボンナノ素材の床。

彼らの家はどれも似ている。

違うのは、そこに立つ人間の顔だけだ。


客は決まって言う。

「本当に、いい時代になったものだね」

僕は笑ってうなずく。

だがその笑顔の裏で、同じセリフをもう百回以上聞いていることを、彼らは知らない。


──いい時代、なのだろうか。


家の移動技術は「ドミシル・シフト」と呼ばれている。

十年前、地球規模の環境危機が深刻化したときに実用化された技術だ。

定住の概念を捨て、人口を流動的に分散させる。それが理想だった。

誰もが世界中を自由に移動し、好きな場所に住める。渋滞も通勤も消え、都市と田舎の格差もなくなる──はずだった。


しかし現実は、金を持つ者ほど、美しい場所を“固定”できた。

富裕層は海辺や高原に家を構え、

僕のような中層の人間は、都市の排気層を漂っている。

住宅区は流動しているようで、実際は見えない階層カーストに固定されていた。

自由に動けるのは、金を持つ家だけだ。


今日も、営業先へ向かう。

家に向かって言う。

「取引先の家へ」


足元が微かに揺れ、壁が波打つように歪む。

数秒後、外の景色が一変する。

完璧に管理された街並み。

無音の電車、無臭の空気、等間隔に整列する木々。

すべてが最適化され、すべてが均一だ。


ドアを開けて外へ出ると、人工の風が頬を撫でた。

それでも、汗が一筋、首筋を伝う。


「おや、今日は暑いですね」

取引先の男が笑う。

彼の背後には、雄大な海が広がっていた。

潮騒の音と、規則正しい波のリズム。

けれどそれは、ただの“設定”だ。


リゾート地の座標は抽選制だが、金次第で優先枠がある。

彼はその枠を持っている。

僕はそれを売った。


商談が終わると、男がふと訊ねた。

「あなたの家は、どこにあるのです?」

僕は少し考えてから答える。

「いつも、どこでもありません」


男は笑った。

僕が嘘をついていると思ったからだ。

だが、本当のことだ。

僕の家は、どこにもいない。

どこへ行っても、そこは帰る場所ではない。


夜になる。

家に戻ると、自動で灯りがつく。

壁が柔らかく光を放ち、室温が最適化される。

AIが僕の疲労度を分析し、好みの音楽を流す。

「今日は少し、海辺の音にしますか?」と家が言う。


「いや、いい」


僕は床に腰を下ろし、無言で外を見た。

外の景色は、他人の家の壁だ。

狭い空間。

どの家も、まるで互いに目を合わせないように無機質に並んでいる。


翌朝。

ニュースが流れる。

〈富裕層向けリゾート地「アクア・ベイ」にて、新たな区画が開放されます〉

〈抽選倍率は、およそ一万倍〉


家が問う。

「申し込みますか?」

僕は乾いた笑いを漏らし、首を振った。

「やめておこう。どうせ当たらない」

「お金の問題ですか?」

「そうだな。金がない」


家は沈黙した。

しばらくして、照明がわずかに暗くなった。

まるで、同情しているかのように。


「海が見たい」と言えば、家は見せてくれる。

だが、それは現実リアルではない。

本当の海には、もう十年行っていない。

潮風の本来の匂いを、思い出せない。


ある日、街の片隅で古い家を見かけた。

動かない、固定された家。

基礎の上に、錆びた壁。

「旧式住居」と呼ばれるタイプだ。

まるで化石でも見るように立ち止まる。


ドアの前に、老人が座っていた。

彼は僕に気づき、皺の多い顔で微笑んだ。

「動かない家は、いいぞ」

「なぜですか」

「帰るという行為が、まだ残っている」


僕は何も言えなかった。


夜。

帰宅。

窓の外、同じような家々が並ぶ。

どれも同じ明かり、同じ形。

まるで、世界全体が同じ一点を回り続けているようだった。


僕は家に言う。

「今日は、どこへも行かなくていい」

「了解しました」

家が静かになる。

温度が少しだけ下がる。

外の音も完全に遮断される。


静寂の中で、僕は思う。

この世界には、移動しかなく、到達がない。

誰もがどこかへ向かっているのに、誰もどこへも着かない。


それでも、明日も家は動く。

僕を乗せて、他人の家の前に立つ。

営業の笑顔を浮かべて、契約書に判を押す。

「いい時代ですね」と言われ、同じように笑う。


完璧に制御された空調の中で、

なぜか、また汗が一筋、頬を伝う。


それが、僕がまだ人間であることの、

最後の証のように思えた。


(完)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ