一 龍の伴侶になるということ➁
「……紅蘭様のおっしゃる通り、我々にも非があります」
静まり返った廊下に響いたのは、玄信の悔しげな声だった。
「聖様のご命令に背いてでも、もっと早くに色々とお話して姫様につがいとしての自覚をお持ちいただくべきでした」
彼の表情に厳しさが覗き、張りつめていた空気がさらに強張る。
「聖様は姫様が人間であることを踏まえ、『天界や龍のことは必要以上に耳に入れるな』とおっしゃられておりました。しかし、やはりそれには反対するべきでした」
玄信の言葉からは、聖の優しさが感じられる。
けれど、今の凜花にはそれが痛かった。
「私の顔の傷は、あの男……火焔につけられたものです。凜様の亡きあと、天界では大きな争いが起こり、私は致命傷とも言える大怪我を負いました」
玄信は息を吐くと、おもむろに続けた。
「龍は爪の数により、その強さが現れます。私や桜火、火焔は四本、聖様は五本。龍の中で五本爪を持つのは聖様だけですが、四本爪の龍は少なくはありません。その中でも火焔の強さは別格です。聖様であっても油断はできません」
彼の口から語られるのは、凜花が知らなかった天界の過去。
「凜様を殺した火焔は、我々にもその爪を向けました。あのとき、聖様は我々を庇って戦ったことによって深手を負い、火焔を取り逃がしてしまいました」
それは、想像よりもずっと痛ましい事件だったに違いない。
「今の聖様はあの頃よりもずっとお強いですが、火焔だって当時のままとは限りません。いや、きっともっと力をつけているでしょう。そうでなければ、わざわざ屋敷にまで現れるはずがないのです」
緊張感で喉が渇いていく。
「被害があの程度で済んだのは、ここが聖様の結界によって守られているからです。火焔が片手しか龍の姿になっていなかったのも、結界のおかげです。しかし、それでも屋敷に攻撃できたということは、火焔もそれだけ強くなったということです」
凜花の中には、今朝の恐怖心がまた蘇ってきた。
「ですから、どうか今一度ご理解ください」
玄信は荘厳な口調で告げたあと、紅蘭と同じようなことを語った。
龍の伴侶になるということは、その龍にとって大きな弱みになること。
聖は龍神であり、その座を狙う不貞な輩がいること。
凜花はそういった者たちから狙われる対象であり、必然的に聖の弱点になってしまうこと。
そんな話をした玄信が、凜花を見据える。
「我々龍には、聖様が必要です。聖様になにかあれば、天界には今のような平穏がなくなってしまうかもしれません。そのためにも姫様には覚悟を決めていただきたい」
「覚悟……?」
ようやく言葉を発した凜花に、彼が大きく頷く。
「龍の伴侶になる覚悟、そして龍神のつがいになる自覚をお持ちください。それができないのであれば、ここを……天界を去ることも視野に入れていただきたい」
普段から厳しい彼の表情が、いっそう厳しさを纏う。
「出過ぎた真似をしてしまい、申し訳ございません。私がこんな風に申し上げたことを聖様にお伝えいただいても構いません。覚悟の上で申し上げましたので」
頭を下げた玄信の厳しさは、聖への尊敬や深い思いがあるからこそ。
それをわかっている凜花は、聖に言いつけようなんて考えなかった。
浅はかな今朝の自身の行動を、いっそう深く悔やむ。
凜花の脳裏には紅蘭と玄信の言葉がこびりつき、こうなってようやく事の重さを自覚したのだった。
その夜、凜花の部屋に訪れた聖は、いつにも増して優しかった。
ふたりは縁側に腰を下ろし、言葉少なに庭を見ていた。
凜花に寄り添う彼と見上げる夜空は美しく、月も星も幾重にも輝きを放っている。
「今夜はあまり食欲がなかったな」
「ごめんなさい……」
「謝らなくていい。今朝、あんなことがあったんだ。無理もない」
凜花は申し訳なさでいっぱいだが、聖の声音はどこまでも優しかった。
「火焔のこと、誰かから聞いたか? 紅蘭が来たようだし、耳に入っただろう?」
彼は、数時間前の出来事を見透かすように苦笑している。
凜花は、玄信から『天界を去ることも視野に入れていただきたい』と言われたことは伏せつつも、彼や紅蘭から火焔の話を聞いたことは正直に答えた。
「そうか……」
「火焔さんはまた来るのかな……」
「恐らくそうだろうな」
聖が頷き、凜花の不安が大きくなる。
「あいつは今日、わざわざ屋敷を襲撃しに来た。あの時間なら俺が屋敷にいることも想定していたはずだし、結界が張ってあることもわかっていたはずだ。それでも、ここに来たのはあいつなりの宣戦布告だと受け取っている」
「聖さんと戦うつもりってこと……?」
不安に揺れる凜花の瞳に、彼の苦々しげな顔が映る。
「あいつはそうだろうな。俺は無益な争いは避けたいが、恐らく火焔は凜花だけでなく、龍神の座を狙っている」
「それは……あのときに言ってた……」
「やはりそうか。これで今まであいつが姿をくらましていた理由がわかった」
小首を傾げる凜花に、聖が深いため息をつく。
「火焔は、俺が再びつがいと巡り会う機会を待っていたんだ。凜のときと同じように凜花を傷つけ、俺からすべてを奪うつもりで……」
「あの……あの人はどうしてそんなことをするの? 龍神になりたいから?」
凜花には、火焔の目的がわからなかった。
龍神になりたいから聖を傷つけるのなら、聖がいない時間を狙って屋敷を襲撃すればよかったし、今朝も凜花を攻撃する機会があったように思う。
しかし、火焔は凜花を狙いつつも、どこか余裕そうだった。
それでも充分怖かったが、朝よりも幾分か冷静になった今は、彼の行動の意図がよくわからなくなっていた。
「それは大前提だが、火焔が欲していたのは龍神の座よりも凜だ」
「えっ?」
「火焔は凜を愛していた。でも、凜が俺と番うことを決した日、愛情が憎しみに代わったんだろう……。火焔は自らの手で凜を……」
「そんなっ……!」
「俺と凜がつがいになる運命だったとはいえ、親友に愛する者を奪われるのは我慢なかったんだろうな」
凜花の目が大きく見開く。
「親友……?」
「ああ……。俺と火焔は、幼なじみで親友だった」
聖の瞳が翳る。
いつだって力強い双眸が、今は深い悲しみで満ちていた。
言葉が過去形なのも、その事実も、凜花の胸を深く突き刺す。
「だが、今はもう、親友でもなんでもない。火焔は凜の命を奪い、凜花まで狙っている。俺はあいつと戦う覚悟を決めている」
「聖さん……」
体を傷つけ合うような争い事なんて、現代の日本で生きていたときには無関係なことだった。
けれど、今は違う。
凜花も渦中にいるのだ。
彼のつがい候補である限り、これは逃れられない現実なのだ。
「凜花のことは俺が守る。なにに代えても、火焔には奪わせない」
聖の真っ直ぐな想いと言葉が、凜花の心を捕らえて離さない。
同時に、凜花に決断のときが迫っていることに気づいた。
火焔の冷たい目が、紅蘭の表情が、玄信の言葉が消えない。
もし、凜花が本当に聖と番うのならば、凜花は三人のことや聖の過去、凜のことまで受け止めた上で、覚悟を決めなくてはいけないのだ。
(そんなこと、私にできる? でも……)
知ったばかりの恋心は、たった一日でさらに大きく育った。
まるで、聖と一緒にいたいと訴えるように。
この想いを、彼を、決して失いたくない。
そう強く感じた凜花の胸には、大きな決意が芽生えようとしていた。




