第15話 7月26日。日曜日。ふたりきりの休日_3
私が料理を作っている間、ママはリビングのソファーで分厚い資料に目を落としながら、時おり壁にかかった水彩画の田園を見つめていた。
「ハナちゃんは本当に何でもできるし、何にでも興味を持てるし、新しいものに挑戦する意欲を持っているのね。それはきっと、類い稀なる才能よ」
「おだて上手だね、ママ。なんだか照れくさいけれど、ありがとう」
「驕らない姿勢も素敵ね。これからもずっと、綺麗で多彩で賢くて、それでいてどこまでも謙虚な、そのままのハナちゃんでいてね」
「うん、そうする。私もいつかママみたいに、溢れる自尊心と向上心を、穏やかな振るまいと社交的で隠せるような大人になるね」
「うふふ。ハナちゃんの料理の上手さはパパ譲りだけれど、気の強さと上昇志向な気質はママに似たのね」
お皿を洗ったあと、ママに連れられてドライブをした。
すいすいと静かに進む真っ黒なセダンの車中で、陽気なジャズが流れる。左の運転席に座るママに顔を向け、私は拙い冗談を言う。ママは静かに笑い、その姿に私はとても安堵する
「ねえ、ママ。初恋っていつ?」
「急にどうしたの?」
「昨日、ママの本棚で『はつ恋』って本を見つけたから」
「ツルゲーネフかしら」
「そう。私はまだ読んでいないから、内容は知らないけれど」
「懐かしいわ。ママはね、恋と憧れの違いを教えてくれる物語を、若い頃はとても愛していたの。恵まれた自分の人生を悲劇だと思いこむことが出来るような、若さと青さにひどく共感していたから」
「ママは本当にロマンティストだね。ずっと昔から、そうだったの?」
「うふふ。ハナちゃんのような可憐な14歳の日々があったのよ、もう随分と老け込んでしまったママにもね。ツルゲーネフに傾倒していたあの頃は、年相応に夢見がちな少女だった」
「今はもう、夢は見ないの?」
「見る暇がないの」
「それは少し、寂しいね」
「ええ。だからね、ハナちゃん。若いうちたくさん本を読んで、色々なお友達と遊んで、機会があれば恋もして、泣いて笑って眠りにつきなさい。手放しで夢を見られる時間は、無情なほど短いの。現実の社会に順応せざるを得ない時期になったら、誰だって否応なしに、物語の世界から脱却しなければならないのだから」
「うん。機会があればそうするね」
小一時間のドライブが終る。ママの年代物のセダンが、中心地のデパートの立体駐車場に停車する。単価の高い品物が並ぶ甘い香りのデパートを、ママは慣れた様子で颯爽と歩いていく。私もその後をてくてくとついていく。
ツルゲーネフの「初恋」は名作。