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第11話 7月25日。土曜日。夜。ママの愛する男の人_4

 追加で頼んだそら豆を箸で摘まんだまま、私は固まる。ママがそれでも私に優しい眼差しを向ける。そして、三流映画の下手な端役のように、大袈裟に眉を寄せて首を振った。


 「そんなことはないわ。ハナちゃんと過ごす方がよっぽど幸せよ。けれど、そうね。一時的であっても、転勤でこちらに帰ってこれてよかったと思っていることは、事実かもしれない。多感な時期を過ごした場所は、十分に年をとった今でも特別なの。過去にばかり執着するなんて、あまりに感傷的だと否定的に思うかもしれないけれど」


 「ねえ、ママ。若い頃と今を比べて、例えば香川で過ごした思春期と子供を持ったキャリアウーマンの今日を比べて、ママはどちらの方が幸せ?」


 私は感情をコントロール出来ないまま、ママを見ずに無表情で質問した。本当は、私も引くべきだと分かっていた。ママが譲歩して私に花を持たせたように、私もママの浮き足だった態度を水に流すべきだった。だけど、出来なかった。焦燥を抑えることに必死な稚拙な今の私には、冷静な判断をすることが難しかった。


 「ママは毎日が幸せなの。100点以外の一日なんて、生まれてから一度もなかったわ」ママは私の髪をさわり、くすくすと笑った。「比べるものなんて何もないの。ただ、ここはママにとっての唯一の故郷で、大切な心の拠り所のひとつだということは、ハナちゃんにも理解してもらえたら嬉しいわ」


 「ママの心の拠り所に、私は含まれてる?」


 「もちろん。だから、この大切な夏にあなたをこちらに呼んだの。ママはね、好きなものは全部、集めて揃えておきたい性格だから」


 ママはおどけて肩を竦めた。ママのわがままで子供じみた言葉に、私は耐えきれなくて笑ってしまった。ふたりでしばらく、目を見つめていた。


 少なくともその瞬間は、ママは私とふたりだけの世界に存在していた。


 「ふたりで何の話をしてるのー?」


 皿洗いを終えたおじさんが、タオルで手を拭きながら近づいてきた。キッチンでの作業を終えた彼は、眩しい笑顔のままにカウンターの向こう椅子に座った。


 「内緒よ。私とハナちゃんと、ふたりだけの秘密なの」


 「えー、気になるなあ」


 おじさんはママに愛想よく相づちを打ち、酒粕とチーズのつまみの皿をママに、クッキーとハチミツの乗ったお菓子の皿を私に、「サービスでーす」と言って手渡した。


 「それで、ハナちゃん。夏休み中は何をする予定なの? 遊びに行ったり、見に行ったりしたいところとかある?」


 ママに渡したつまみに箸をのばし、おじさんは私に話を振った。真摯に私を見つめる目はあまりに澄んでいて、色素の薄い瞳には日が落ちた後の静寂な海が見えるようで、私は気恥ずかしくなって視線を逸らした。


 「えーっと、まだあんまり考えていなくて」


 「焦らないで、ゆっくりでいいのよ。このおじさんも、もちろんママも、時間だけは十分にあるの。大人の夜は、とても暇なの」


 つまみを食べながら、ママが私に助け船を出す。ママは柔らかな笑みを私に向け、そしておじさんに目配せをした。時間を持て余したママは、成熟した大人らしく、おじさんの綺麗な瞳を直視できていた。


 「そうだよ。僕たちはすごく暇なんだ。だから気楽に、ハナちゃんの言葉で思いを伝えてほしいな」


 おじさんはママと同じ空気を共有していた。血の繋がりだけでなく、長い時間を共有した末の成果のように感じた。ふたりにはふたりの世界があり、その狭い世界を楽しんでいた。けれどふたりは、大人だった。ふたりの視線や話題の焦点は、ごく自然に私に向けられる。大人として当然の振るまいとして、部外者の私をふたりは大げさに持ち上げる。


 「私の習い事の友達で、明日香ちゃんっていう女の子がいてね。その子が流行りに敏感なんだ。だから習い事の帰りに、新しく出来たおしゃれなカフェを一緒にまわったりしてて。それで先週、明日香ちゃんといるときに面白いことがあってね」


 ふたりは示しあわせたように私を会話の中心に配置し、当たり障りのない質問をして、返ってきた答えにオーバーなリアクションをとって、大きく頷いて、たくさん笑った。それから、おじさんは聞いたことのない歌を熱唱して、つまらないジョークを言って、ママはそれを鼻で笑った。そしてまた、3人で乾杯をした。

ビールを飲めば次のステージへ進めると信じていたけれど、本当はソフトドリンクで乾杯して笑いあえた頃が人生のピークだった。

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