初恋の期限
お兄様が最近、たびたびエイレーシュ家に通っているらしい。
エイレーシュ家のフェリシテ様とお兄様は幼い頃からの婚約者同士だが、政略的な意味合いが強く、お兄様はフェリシテ様にあまり興味がないようだった。
そんなお兄様が、忙しい執務の間を縫ってフェリシテ様に会いに行くとは、一体何があったのか。以前倒れて数日寝込まれてから、フェリシテ様の性格が大分丸くなっていらっしゃったけど、それと関係があるんだろうか。
「ジョゼフ様は好奇心が強いお方ですから」
苦笑しながらそう教えてくれたのはシリル様。「俺が帰るまで執務室にいておきなさい」というお兄様の言いつけに従って手慰みにハンカチの刺繍をしていると、シリル様が入ってきて二人になったのだ(もちろんドアは開けておいたけど)。気を利かしているつもりなんだろうか。
「シリル様、少し休憩なさいますか?」
「そうですね。仕事も一段落つきましたし」
「エメ、お茶とお菓子を持ってきて頂戴」
「かしこまりました」
専属メイドのエメはシリル様の従姉で、お兄様の乳母ーつまりシリル様の母親で、エメの伯母ーであるジョゼの推薦で私が幼い頃から傍に仕えてくれている、私にとっては姉のような人だ。ーそして、私が恋心を打ち明けた、唯一の人。
ーシリル兄様が好きなの。
愚かだった幼い私は、いずれはアグレアーブルのために他家に嫁がなければならないことがわかっていなかった。王太子殿下は幼い頃からジュルベーズ様と婚約されておいでだから王后にはなれないけれど、王太子殿下には弟王子が何人もいらっしゃる。そのどなたかと婚姻を結べば王族との繋がりをより強固にできる。それに、他の『三花』、『三花』ほどでなくてもその勢力を無視は出来ない有力な公爵家や侯爵家との婚姻もアグレアーブルの役に立つ。また、他国の王族に嫁するのも、アグレアーブル家の娘ならば当然のことだった。事実、伯母は隣国フェルディーアの王弟妃だし、叔母はさらにその北にあるフォレストの王妃だ。
そんなこともわかっていなかった愚かな私を、エメは優しく諭した。アグレアーブル唯一の令嬢の専属メイドとして、分家の娘として、そして何より、私のために。
ーお嬢様。お嬢様は類稀なほど高貴なる御方。結婚なさる相手は、同じくらい高貴でなければならぬのです。
ーどうして!? 私は、シリル兄様が好きなのに……
ーそれがお務めだからでございます。なぜご両親が結婚なさったのか、その理由はご存知ですか?
ーいいえ。
ー奥様は国王陛下の従妹姫で、まだ王太子だった当時の陛下も実の妹のように可愛がっていらっしゃったそうです。また、そのご実家は『三花』でこそありませんが、かなり有力な公爵家。アグレアーブルとしては、その勢力を見過ごしてはおけなかった。争いごととなれば、アグレアーブルに軍杯が上がるでしょう。ですが、かの公爵家を叩き潰せば政界に、ひいては国に混乱が生じかねません。また、奥様を可愛がっておられる陛下との距離も生じてしまう。
ー私がアグレアーブルに相応しい相手と結婚しなきゃいけないのは、争いを未然に防ぐため……?
ーそうです、お嬢様。争いとは貴族同士でのみ起こるわけではございません。国と国の争いの場合、もっと甚大な被害をもたらします。先代陛下の御世、セリースとフェルディーアの仲があまり良くなかったのはご存知ですか?
ーええ。一時は戦争にも発展しかけたと……。
ー緊張状態にあった両国の和平工作の一つとして、まだ王子でいらっしゃった頃のフェルディーアの王弟殿下と、アグレアーブルの娘であるリュシー様の婚姻が行われたのです。ルイーズ様も似たようなものです。フォレストはフェルディーアの最重要同盟国ですからね。
ーおば様方の結婚に、そんな事情が……二人とも、旦那様ととても仲が良さそうだったから、愛し合って結ばれた夫婦なんだと思ってたわ。
ーお嬢様、たとえ政略で結ばれた婚姻だとしても、努力すれば慈しみ合い、尊敬し合える夫婦になれるはずでございます。お嬢様はまだ幼いのにこんなに可愛らしくていらっしゃる。将来は誰もが振り返る美女にご成長あそばすことでございましょう。アグレアーブルに相応しい品格を身につけるべく研鑽なされば、たとえ激しい恋はなくとも、穏やかな愛で結ばれた幸福な結婚生活を送れるはずです。
ーそうなったら、エメもついてきてくれる……?
ーもちろんでございますよ。お嬢様、初恋は叶わぬものと申します。シリルへの恋はお忘れなさい。きっとその方が幸福になれます。
結果として、シリル様への気持ちを捨てることは出来なかった。それにエメは薄々気づいているようだが、私がこの恋を叶える気はないこともわかっているようなので、何も言ってこない。
叔母様や伯母様も、好きな人がいたんだろうか。何年かけて、思い出にしたんだろう。やり方を教えて欲しいが、お二人は遠い異国の地にいる。
いつかアグレアーブルに相応しい高貴な殿方と結婚して、子どもを産んで、何十年と暮らせばーシリル様のことを初恋のお兄さんとして、懐かしく思えるようになるんだろうか。彼に群がる令嬢たちを見て、胸がかきむしられるような嫉妬を、羨望を、覚えずにも済むんだろうか。
私があの人に、堂々と好きだと言える立場だったら、どんなに幸福だっただろう。
「ー様! マリー様!」
「……あ」
「最近、ぼんやりしておいでですね。今日は天気も良いですし、休憩は外でどうかなと思ったんですが、マリー様のご加減が思わしくないなら……」
「いえ、大したことはありませんの。レア、エメにお茶とお菓子は庭に持ってくるよう伝えてくれる?」
「かしこまりました」
レアが出ていった後も、シリル様は心配げだった。
「本当に大丈夫ですか? もしどこかがお悪かったら、早めに医者にかかった方が……」
「あら、大丈夫よ、シリル」
「奥様!」
「お母様!」
そこに立っていたのは、エリザベト=シャルリーヌ=デュ=アグレアーブル。私とお兄様の母にして、ヴェルニエ公爵夫人、アグレアーブルの女主人である人だった。
「私も娘時代にはそんなかんじだったらしいもの。マリー、あなた、どこに嫁がされるのかな〜なんて考えているんでしょう?」
「……」
図星だ。初恋の期限が迫っていることは、私を否応なく憂鬱にさせた。
私の顔を見て考えていることを察したのだろうシリル様は、みるみるうちに表情を暗くした。
「旦那様も、決めあぐねているみたいよ。けど、いざという時は覚悟しておきなさい。私と旦那様の結婚も突然だった」
「……はい」
お母様は優しく微笑むと、そっと私を抱きしめ、私にしか聞こえない声量で囁いた。
「旦那様はね、できればあなたを他国に嫁がせることができれば、と思っているの。そうすれば、あなたたちも、お互いを忘れやすくなるかもしれないでしょう?」
「お父様も、お母様も気づいておいでだったのですか……?」
「親を舐めないで頂戴。とっくの昔に気づいていたわよ。あなたのことだもの、シリルの気持ちにも気づいているんでしょう?」
まなざし、声、話し方。そのどれもが他の娘との時とは比べようもないほど甘いのに、どうして気が付かずにいられようか。どうして、好きにならずにいられようか。
せめて、私の片想いだったなら。きっぱり諦めてしまえたのかもしれないのに。
「国内なら、夜会や何やらで会う機会はいくらでもある。それではますます諦めきれなくなる。あなたも、いずれモーペルテュイ家の奥方となる女性と、シリルが連れ添うのを見なくても済むわ」
お母様は悲しげに微笑んで、私を離した。
「許してちょうだい、マリー。あなたとジョゼフの幸福を何より願っているわ。けど、アグレアーブルの娘として役割を果たさなければならない時も、あるのよ」
エメが運んできてくれたクッキーとお茶をお供に休憩するも、シリル様の表情は沈鬱だった。
「あの、シリル様……?」
「ああ、すみません。僕としたことが」
その笑顔は明らかな空元気だったが、彼の気遣いを無下にもできず、私も微笑みを返した。
「そういえば、お兄様は最近よくエイレーシュ家に通われていますよね。何があったんでしょう?」
「僕にもよくわからないのですが、この前はブスケ男爵の不正を発見した時と同じ顔をしていましたね」
ブスケ男爵は分家の当主の一人だったが、不正が見つかったことでお兄様により強制隠居、親戚筋が跡を継いだ。その親戚筋というのはお兄様の息がかかった人物らしい。
「不正……?」
「あはは、別にエイレーシュ家と不正は関係ありませんよ。フェリシテ嬢がジョゼフ様の興味の対象となった、ってことです」
「興味?」
「はい。ジョゼフ様は人を追い詰めることに楽しみを見出す、少々アレな性格をしていらっしゃいますから。フェリシテ嬢への興味は、また違ったベクトルのようですが」
いわく、寝込んで以来人が変わったかのようなフェリシテ様にお兄様は大変興味を示していらっしゃるらしい。まあ、未来のお義姉様とお兄様の仲が良いのは喜ばしいことだけれども。
「お顔が硬くなっておりますが、何かご心配事でも?」
「……少し、フェリシテ様が心配です。お話から察するに、お兄様はフェリシテ様に素を出しておいでなのでしょう?」
お兄様は普段は王子様スマイルでその本性を覆い隠しているが、ブスケ男爵の例からもわかるように実はものすごくSだ。それに、他人を利用できるか否か、で見る節がある。まあ、お兄様がああなったのはお父様のせいでもあるんだけど。
お父様にとってお兄様はアグレアーブルの血を次代に繋ぐ為の道具に過ぎず、私は政略の為の駒でしかない。私もお兄様も、幼い時はそれがすごく悲しかった。
もっと剣技が上達したら。もっとピアノを上手く弾けたら。もっと多くの語を話せたら。もっとダンスが上手くなれたら。誰もが憧れる紳士になれたなら。誰もが焦がれる淑女になれたなら。
父上も。お父様も。
俺のことを。私のことを。
褒めてくださるかもしれない。
だけどお父様から与えられる言葉はいつだって「励め」。この人は私たちの父ではなく、ヴェルニエ公爵なのだと悟ったのはいつ頃だったか。
「大丈夫ですよ、マリー様」
「え?」
「僕は、ジョゼフ様のことをフェリシテ嬢が変えてくださるのではないか、とそう思っているのです」
私がお兄様ほどアレな性格にならなかったのは、シリル様のことが好きだからだ。
損得勘定で物事を考えられたなら、どう考えても儚く散るさだめの恋などとっくの昔に諦めることができていた。
「それは、つまり……」
「シリル! マリー!」
「お兄様!?」
今さっき帰ってきたばかりらしいお兄様は、なぜかとても悲壮な顔をしていた。
「フェリシテが、領地に帰るらしい」
「まあ。お兄様、振られたのですか?」
「振られてたまるかっ!」
あらまあ。冗談なのに。これはシリル様の予想が当たっていそうだな。
「遅い初恋を拗らせていらっしゃるのですね」
「……うるさい」
「シリル様、事件です! あのお兄様の頬が、赤く染まっています!」
「これは騎士団に連絡して、早急に出動してもらうべきでしょうか」
「おまえら、いい加減にしろ!」
怒ったお兄様により、領地に帰る前のフェリシテ様とのお忍びデートの付き添いに無理やり命じられてしまった。