夏の部屋
「暑い〜、湿気が気持ち悪い〜、死ぬる〜」
そんな私の独り言のような悲鳴は、天色の空と容赦なく照りつける日差しで蒸発した。
クーラーの効いた快適なアパートの部屋で何となく「このままじゃいけない」と思い立って、ついうっかり炎天下に飛び込んだ数分前の私を、今の私は許せない。
よくもまあやってくれたな、と。あまりに快適だったから調子に乗ってしまったのかもしれない。テレビに映る外を歩く人々を見て、罪悪感みたいなものを持ってしまったからかもしれない。その一方で嫉妬や嫌悪感もあるけれど。
いずれにせよ、筋違いなんだけどさ。
しかし、暑いもんは暑いもん。
帰りたい。でも、帰ったら負けのような気もする。
たかが数分、されど数分、きちんとよそ行きの格好に着替えてまで出歩いてしまった以上、何かの用事を済ませないと家に帰れない。帰れば良いじゃん。でも、なんか嫌だ。だからまだ帰らない。面倒くさい意地っ張りなのさ、私は。へへっ。
とは言うものの、意地を張れるだけの何かが自分にある訳では全然ないし。張る意地のないことが私の意地。うーん、無知の知と違ってなんて非生産的なんだろう。
さっきから思考が散り散りである。過酷な現実に対して逃げを打つーー要は「暑い」と言いたくないだけのこと。「暑い」というだけでさらに「暑さ」が増しそうであり、最早天候だけでなく「暑い」という言葉自体に「暑さ」が込められているのではないか、夏だから「暑い」のではなく、「暑い」から「暑い」のではないか、なんてことをこの「暑さ」から考えてしまう。
……自滅した。
もう一歩も歩けない。上から刺す日差し、下から身を焦がすアスファルトの道。暑さのサンドイッチ。おまけに、体温以上の気温に全身包まれ、気力体力ともに尽きた。
「フッ、私はどうやらこれまでのようだ……」
「どうした、お嬢ちゃん。今にも燃え尽きちゃいそうだよ」
私に声をかけてきたのは、スラッと背の高く、脚の長い女性だった。白いシャツに七分丈のパンツを履き、肩までの長さで切り揃えられながらもふわふわした髪は歩くたびに上下に動く。
「ご機嫌よう、凪沙さん。見てわかりませんか。散歩ですよ」
「ご機嫌麗しくない子にご機嫌ようなんて言われてもね。どしたの? こんなクソ暑い時に。散歩? キミが?」
意外さを前面に出した表情と口調でそう言われた。
凪沙さんーーご近所さんどころか同じアパートの住人である。凪沙さんは私の部屋の真上に住んでおり、あえてぼかした言い方を選ぶならば、『季節を売る』仕事をしている。年はアラサーだと踏んでいるが、訊いてないから知らない。
「凪沙さんこそ、なんでこんな真昼間に出歩いてるんです? 普段は寝てるんでしょうに」
「眠気に食い気が勝ったの」
「夏にお腹空きます?」
「アイスが無性に食べたくて」
「ああ、そっち……」
「シャワー浴びた後に食べようと思って、冷凍庫開けたら棒アイスの箱しかなくってね。慌てて買って来て、今がその帰り」
「なるほど」
思い立ってすぐに行動に移せる素早さは、流石は大人と言ったところだろうか。
それとも、私が愚鈍なだけだろうか……。
「お嬢ちゃん。ちょいと雑談なんだけどさ、」
「なんでしょう?」
炎天下の中、いたずらに時間を費やしたくないのだけれど。
「子どもを誘拐する時の文句に『お菓子をあげるから寄っておいで』ってあるでしょう。でも、最近の子どもたちって必ずしもお菓子で釣れるとは思えないのよ。モノが簡単に手に入るようになった現代だからこそ、知らない人について行ってしまっても良いと思えるほど魅惑的なモノが、もっと他にもあるんじゃないかと」
「まあ、そうですね。今時、おもちゃよりもインターネットの動画に夢中になる子どもも多いですし」
この場合、モノだけでなく情報か。
いや、それより先に、話の前提として誘拐の例を持ち出した凪沙さんにツッコミを入れるべきだったか。
「でも。誘惑が増えると、騙されるのは子どもだけじゃなくなる。『上手い儲け話があるから寄っておいで』、こう言えば良い歳した大人だって騙される人は騙されてしまう。こうなると、最早モノ云々じゃなくて誘われる私たちの意思の強さ、流されやすくないかが問われると思うの」
「お説ごもっともかと」
「ちょいと長くなっちゃった前置きは忘れてくれて良いんだけど、さて、お嬢ちゃん。アイスがあるから、私の部屋に寄っておいで」
「ヒャッホイ、行きます行きます!」
私は全ての意地や意思を放棄し、凪沙さんの部屋にお邪魔することにしたのだった。
凪沙さんの部屋はおよそ飾り気がなく、生活に必要な最低限度のものしか置いてない。
「ま、座んなよ。帰ってきたばかりだから暑いけど、今クーラー点けるから」
ウチと同様の部屋の構造だからわかる、すぐに湿度と暑さで蒸し風呂状態になってしまうこの有様。クーラーの風が涼しげな清流となって、少しずつ部屋を冷やし始めた。クーラーを点けた後も窓は僅かに開けたままで、凪沙さんは一向に閉めようとしない。
帰ってきてすぐに部屋着のショートパンツに着替えた凪沙さんが、お盆にグラスに入れた麦茶を持ってきてくれた。
「ありがとうございます」
「良いの良いの。欲望に忠実な女の子は好きさ」
そこまで言われるようなことはしていない。
凪沙さんは胡座をかいて、麦茶をひと口でぐいっと飲み干すーーそのスタイルのおかげか、非常に様になっている。
「ぷはーっ! あー美味い。水分補給をしたところで、約束のアイスを食べようか」
「どのハーゲンダッツがありますか?」
「え? ハーゲンダッツ?」
「タダでハーゲンダッツを食べられると聞いて来たんですけど」
「タダでハーゲンダッツを食べられると思うな」
「そんな! 約束が違うじゃないですか!」
「約束が違うのはお嬢ちゃんだろう。ハーゲンダッツじゃなければアイスじゃないって、どんなブルジョワジーだよ」
ため息をつきながら、凪沙さんはスプーンと黄色いカップの氷(?)を2セット持ってきた。
「サクレレモンだ。安いし、美味しいし、最高のアイスだと私は思ってる」
「サクレは私も好きですけど……。アレ? サクレレモンって、あまりに売れ過ぎて一時期生産停止になってませんでしたっけ?」
「私が買い占めた」
「どんなブルジョワジーですか」
「まあ買い占めたって言っても、スーパーで品薄状態だったものをだけどね。流石に冷凍庫に入り切らない」
「でしょうね」
改めて、このアイスを見る。半透明のカップ。薄く輪切りにしたレモンの下に氷が詰め込まれている。私も好きではあるけれど、買い占めるほどまでに美味しいだろうか。
「美味いさ。甘過ぎず酸っぱ過ぎず、ちょうど良いレモンの甘酸っぱさがある。レモンの実を楽しめるのもお得だよね」
「凪沙さん、ひょっとして広告料とか貰ってます?」
「ちなみに、サクレレモンのレモンを食べ残す人類を私は許さない。美味しい実をオマケの生ゴミ扱いするなと私は訴えたい」
「気持ちはわかりますけど、落ち着いてください」
冷んやりとしたサクレレモンへの熱意がすごい凪沙さん。
スプーンで掬い取り、シャクシャクと口の中で溶ける氷。しばらくレモンの味が舌の上で残って、少しずつ薄くなっていく。うーん美味しい。
「で?」
「ん?」
「一体何の用事があって、私を部屋に読んだんですか?」
「用事はないよ。ただなんとなーくアイスを餌に誘拐してきただけ」
「なんですと?」
誘拐されていただと⁉︎
この私が⁉︎
「あ、ちなみに、今回みたいに騙して連れ出すことを『誘拐』と言うけど、暴力に訴えて無理矢理に連れ出すのは『略取』。お間違いのないように」
「解説調で何言ってんですか」
間違いというなら、誘拐という行為が既に人の道を間違えている。
というか、私の家はここの真下だから、帰ろうと思えばいつでも帰れる。誘拐なんて冗談にもならない。
「まあ誘拐云々は置いておいて、用事がなければ私のところに来てくれないなんて寂しいこと言わないでおくれよ」
「それもそうですね」
この歳上のおねーさんとは不思議な友だち付き合いをしている。大学に入学したのを機に今のアパートに引っ越してきて、凪沙さんはその時には既に私の上の部屋に住んでいた。
出会いは覚えてる。でも、今のような付き合い方をするに至るきっかけがよく思い出せない。
確か引越しの挨拶をしに行って、「可愛らしいお嬢ちゃんだね。そのお菓子でお茶しよう」とか言われて連れ込まれて、凪沙さんと部屋にいつのまにか馴染んでしまって……。
「そういえばお嬢ちゃん、この前の誕生日でハタチになったんだよね?」
「ええ、まあそうですけど」
「つまり成人済みという訳だ」
「そういう訳ですね」
「じゅるり」
凪沙さんは舌舐めずりをした。私は飛び退いた。危機感そのままに部屋を出て行こうとするけれど、肩を掴まれて逃げられない。
「凪沙さん、不純異性交遊は良くないと思うんです」
「喜ばしいことに同性よ、私たち」
「不純を問題にしてください」
「その辺りの倫理観はへその緒と一緒に切り落としてしまったわ」
そう言いながら、凪沙さんは私の首元に静かに腕を回す。
「綺麗なうなじね。舐めて良い?」
「嫌です。しょっぱいですよ」
「こんなにも美味しそうなのに。塩分補給もできるかな?」
「味を言った私が悪かったです。汚いので辞めてください」
何が何でも話題から状況を変えたい。他に言うべきことがある気がするけれど、私はずっと凪沙さんに訊きたかったことがある。敢えて今それを訊いてみたい。
「ねえ、凪沙さん。凪沙さんはどうして私のことを頑なに『お嬢ちゃん』と呼ぶんですか?」
成人したばかりとは言え、幼い少女に向けて言うような呼び方にはやっぱり引っかかりを覚える。……見た目もそんなにロリィじゃないつもりだし。
凪沙さんはしばらく黙っていたけれど、やがて喉の奥を鳴らすようにククンと笑い出した。後頭部がその吐息でくすぐったい。
「なーんだ、気にしていたの。じゃあ、逆に訊くけど、どうして私がお嬢ちゃんをお嬢ちゃんと呼ぶんだと思う?」
「え…………。私を子どもっぽいとでも言いたいんですか」
「正解。わかってるじゃん」
あっさりと言い切られてしまった。
「私のどこが子どもなんです?」
「自分が他の誰かのお陰で生きていることを本当の意味でわかっていないところ。他の誰かの為の働きかけが自分の喜びにも繋がるような、そんな何かについて全く考えてないところ。全く可愛らしくて可愛らしくてしょうがないよね」
冷たく、硬く、その声はよく通った。凪沙さんは笑っているのか、身体を小刻みに震わせている。
「ごめん、傷ついた?」
「凪沙さんはどうなんですか。わかってるんですか。考えてるんですか」
「さあねえ。少なくとも、私は人の参考になるような生き方はしてない」
「もう帰ります」
「そ」
凪沙さんは短く言うと、私に絡めていた腕を素早く引っ込めた。「行け」ということらしい。
振り向きもしないし鏡もないので、凪沙さんがどんな顔をしているかわからないけれど、ああもう、そんなものはどうだって良い。
靴を履いたところで、後ろから「またいつでもおいで、花子ちゃん」という声が聞こえてきた。私は返事代わりに大きな音を立てて扉を閉めた。
世間で言うところのキラキラネームとは真逆を行くのが、私の名前である。
花子って。
全国の花子さんに申し訳ないのでこの名前自体を貶めるつもりはないけれど、どういう思いで名付けられたのかは疑問が尽きない。
実際に訊いてみたところ、母親からはこんな答えが返ってきた。
『誰からも間違えられることなく、名前を読んでもらえるでしょう』
それはそうでしょうよ。記入例とかにも使われているくらいなんだから。これ以上の特別な意味はないらしい。最近ではこの名前すら凪沙さんにくらいしか呼ばれない。
そんな花子こと私は、そのまま部屋まで戻ったのだった。別に特別機嫌を損ねた訳じゃない。凪沙さんの人を食った態度はいつものことだしね。
きっと、凪沙さんはアイスを食べた後に夜まで眠り、それから働きに出かけるのだろう。働く姿を何となく想像して、“元の仕事内容”以上のリスクが怖くないのかなと思う。訊いても教えてくれないだろうし、聞いてもわからないだろう。
近くに居る凪沙さんのことすら、私はわからない。
いわんや、遠くの他人をや。
再びクーラーを点けた部屋の真ん中で倒れ込む。今の時間は確か授業が入っていたような気がしたけれど、ノートパソコンを開く気にはなれなかった。
窓を閉めてから床に全身を投げ出し目を閉じると、夜に寝苦しかった分の眠気が襲い掛かってくる。抗わずにそのまま身を委ねるつもり。
停滞と怠惰。
どちらが先に在ったのか、最早私にはわからない。もうどちらでも良い。
どこにも行かない私は、今日も夏の部屋に閉じ込められる。
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