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はて。俺は今、なんと言われたのだろう。
目の前には、愛して止まない女性である婚約者オリヴィア・レインが、綺麗に整った顔を真っ直ぐに上げ、こちらを見ている。
可愛い。
ではなく。
「……すまない。今、なんと?」
「ですから、私と婚約破棄していただきたいのです。ライアン様」
…………大変だ。オリヴィアが何を言っているのか、理解できない。
こんやくはき。こんやくは婚約だろう。うん。では、はき、とは?
まさか、破棄ではないだろう。それでは婚約破棄となって、俺たちの婚約関係を解消するという意味になってしまう。
それは無理だ。良い悪いではなく、無理だ。
そもそも、こんなにも愛している女性と婚約を破棄する意味がわからない。
アルバート殿下に「今日は良い天気だな」と大雨の空を見上げながら言われた時くらいに意味がわからない。
……っ、ま、まさか、何か不満が⁉
「…………理由を聞こう」
「あら。改めて言わないといけませんの? ライアン様が良く分かっていらっしゃると思いますけれど」
そうなのか⁉ 俺が原因なのか⁉
ツンとした表情をしているオリヴィアは今日も美しいが、今は悠長に眺めている場合ではない。
毎日ずっと眺めていたって飽きることのないこの素晴らしい婚約者が、俺から離れていってしまう危機なのだ。
と、とりあえず、俺が原因のようだ。俺が良く分かっていると言うが、欠片も分からないのが申し訳ない。
むしろ早く結婚してしまいたいと日々思っているというのに。
俺が何かやらかしたかと必死に記憶を遡っていると、オリヴィアがすっと視線を落とした。
「やはり、そうなのですね」
どうなんだ⁉ どれのことなんだ⁉ 何が「そう」なんだオリヴィア!
俺は一向に原因が分かっていないんだが⁈
「……オリヴィア」
「いえ、分かっております」
よ、良かった、分かっているようだ。俺は婚約破棄をしたいなどと一瞬たりとも思ったことがないと。
「私たちだけで決められる話ではありませんものね」
分かっていなかった。
違う、違うんだ。確かに家同士で決めた婚約を俺たちだけでは解消できないのだが、そうじゃないんだっ。
考えろ、考えろ俺。このままでは愛しのオリヴィアとの婚約が破棄されてしまうぞ。
いや、そもそも俺は婚約破棄する気などないのだから、よほどの問題がなければ解消されないはず。
父上は俺がオリヴィアをどれだけ愛しているのか知っているし、それはレイン侯爵もだ。
もとはと言えば、俺がレイン侯爵に頼み込んで成った婚約なのだから。
つまり、このままお互い親を巻き込んでしまったほうが、オリヴィアの誤解を解けるのではないか?
「……分かった。話し合おう」
「えぇ。それでは、今日はこれで。ごきげんよう、ライアン様」
いつもは穏やかだが美しい笑みを浮かべて放たれる別れの言葉が、今日は目も合わないまま、オリヴィアは去って行った。
泣きそう。
* * * * * *
「鬱陶しいぞ、ライアン。帰れ」
「…………」
「おい、アレをどうにかしろ」
「いやぁ、オレには無理です」
「…………」
頭上で交わされる言葉に、俺は鬱々とした気持ちで顔を上げた。
部屋奥に座るアルバート殿下は仏頂面で、その傍らに立つザックは苦笑しているが、どこか面白そうな顔をしている。
無性に殴りたい、その顔。
「八つ当たりはよくないぞ、ライアン」
「……はぁ」
つい重い溜め息が漏れる。
オリヴィアが立ち去り、暫く、おそらく20分ほどその場で固まったままだったが、それから殿下のいる執務室を訪れた。
何故、殿下の所なんかに来たのだろう。男の顔より、オリヴィアの端正な顔を眺めていたい。
「……今、物凄く失礼なことを考えたな。自分で来たのだろうが」
「分かっておりますよ…………はぁぁぁ」
「おいザック、その腰の剣を寄越せ」
「あっはっは、ご冗談を。怪我しますよ、殿下が」
「チッ。なんでこんな奴が主席を取れるのか」
「それはアレですよ、殿下。愛ってやつ。レイン嬢への」
「ならば、このままレイン嬢との婚約が破棄されれば、私が主席になれそうだな。よし、私は静観することにする」
……本当、なんで殿下の所になど来てしまったのだろう。
しかも、何故まだ説明していないのに、俺がオリヴィアに婚約破棄の話をされたことを知っているのか。
「お前がそこまで感情が表に出るなど、レイン嬢のこと以外にないだろう」
「そうですね~。ま、レイン嬢相手にすら表情が動かないのはどうかと思いますけど」
「どうせ動じない男が格好が良いとでも思っているのだろう。言っておくが、お前のそれはただただ逆効果だぞ」
え、何故?
「ライアン、自分の容姿とか考えたことある? 学園の女子から何て呼ばれているのか、前に教えただろ?」
「……確か……【冬の】……?」
「【冬の王】だよ。殿下を差し置いて、王って……ぷぷ」
「ザック、やはりその剣を貸せ」
「あっはっは、ご冗談を。怪我しますよ、オレが」
「無論だ。叩き斬ってくれる」
そう軽口を叩きながらも、殿下が手元の書類を捌く動きは流れるように続いている。
つい2年ほど前まで、もう少しぎこちなく書類に目を通していたが、随分と成長された。
慣例とはいえ、学園では生徒会会長もしつつ、王子としての仕事をこなす殿下は、着実に陛下や臣下からの期待に応えている。
そして、王族として避けられない問題をもう1つ。
「……殿下はどうなのですか? クリスティア嬢とは」
そこで初めて、殿下の動きが止まった。
手に持っていた紙とペンを置き、視線を上げ、余裕のある笑みを浮かべる。
「も、もち、もちろん大丈夫だとも。何もも、も、問題はない」
大丈夫じゃなさそうだし、問題しかなさそうだ。
よく見たら髪を掻き上げた手が震えている。
ザックがそれを面白そうに眺めて言う。
「そうだな~。殿下の方は、何というか。微笑ましいぞ? 2人して顔を赤くして、意味の分からないことを口走っている」
「ほう? 例えば?」
「殿下が『今日は良い天気だな』って言いながら曇り空見てたり、クリスティア嬢が『そうですね、とても美味しいです』って紅茶のカップを見て返答していたり」
「おい何故お前がそれを知っているザック」
「さて、何ででしょうね? というか殿下、とりあえず『今日は良い天気だな』って言えば良いと思ってません?」
「そ、そんなことはないっ。く、曇り空も良いと思って口にしているのだ」
ザックと視線が合い、互いに頷く。明らかに嘘だな。
そうか、この前の大雨を見ながらの「良い天気」発言は、その練習か何かか。心底どうでもいい。
「「はぁぁ……」」
殿下と俺の溜め息が重なる。
そんな俺たちの様子に、ザックが仕方ないなと言いたげな顔をした。
「恋愛初心者な殿下とライアンに、年上の男として助言をしよう」
「ほう? 私に助言か、あのザックが」
「……言ってみろ」
「なんでそんな上から……? まぁ、ごほん。良いですか、女性は殿下たちが思っているよりも純粋で純情です。どんな些細なことでも言葉にして欲しいと思っていますし、何より行動で示して欲しいと思っているものなんです」
思ったよりもまともそうな意見が出たな。
騎士として若くに頭角を現し、こうして殿下の供に選ばれるほどの才を持っているザック・グレイス。
優秀な近衛として名を知られている男だが、もう1つの話題でも有名である。
それが――――女癖の悪さ。
「手を握って甘く笑いかけ、1つ愛を囁けば大丈夫。そしてキスからの――」
「「――死ね」」