二 懺悔(二)
居場所は、きっと変わることなく師の傍にあった。師が安正を遠ざけたのではない。安正の方が師から去ったのだ。
師の神道説を、あの頃の安正は信じることが出来なかった。「述べて作らず、信じて古を好む」は論語の言葉だが、師は神道にも同じ姿勢で取り組んだ。古書や写本、各地の神社に伝わる口伝、そこに語られる様々な物語を一つ一つ丹念に拾い集め、異同を調べ、整理する。どんなに荒唐無稽な逸話も、嬰児のようにたどたどしい言葉もそのままに記録する。決して己れの了見で取捨選択して辻褄を合わせ、説を立てたりはしない。
そんな師の態度に、理解することに性急だった安正は満足出来なかった。更に儒学の方面での見解の違いなどが重なり、次第に師の前に出ても言葉を飲み込むことが増え、足が遠のいた。更にその頃から目立ち始めた神道系の門弟たちの、儒者とはどうにも肌合いが異なる、神秘的とも、閉鎖的ともいえる雰囲気も不快だった。
だが今思えば、あれはただの独占欲だったのかもしれない。安正も若かった。今以上に性急で、そして欲張りだった。師の全てを理解したい、己れが受け継ぎたい、そう願わずにはいられなかった。
『一部の解釈の違いなど、愛想笑いでもしてやり過ごせば済むものをな』
伝え聞いた話では、師はそんなことを言って苦笑していたという。厳格で気短かで、理解が遅い者や努力を怠る者を容赦なく怒鳴りつけるといった面もあったが、それでも決して狭量ではなかった。主義主張の違いに拘泥せず、相手の優れた部分に学び、自分の糧に出来る人だった。
そんな人だからこそ、仁斎の文が優れていると思えば、そこへ門人を通わせることも出来たのだろう。何度も注意されたではないか。仔細に書を読むはよいが、お前は人の瑕疵を求めすぎる、もっと全体を見よと。毛を吹いて小疵を求めるような真似は、師の最も嫌うところだった。
もう少し時があれば、あるいは戻れたかも知れなかった。だが安正が師の許に通わなくなって一年も経たずに、師は体調を崩し、間もなく訃報が届いた。晩秋九月十六日の朝、夜明けを待って静かに逝ったという。
九月十六日という日を思うたびに、胸が締めつけられる。何故、何をおいても駆けつけなかったのか。あれほど懇切に教え導いてくれた師に、何ひとつ報いることのないまま、永遠に別れてしまった。何と薄情で恩知らずな、不肖の弟子であったろう。
今の安正に出来ることは、ただ師の学を後世に伝えることだけだ。
憚りながら、拙者一生学問の覚悟にて御座候間、少しにても存じ違へ申す義は、如何様にも仰せられ下さるべし。
かつて安正が文を書いて朱批を求めた時、師は丁寧な字でこう返してくれた。
此の章、見得て此に到るは最も難し。謂ふ所の一生覚悟の言、殊に感懐浅からず。
生涯を賭けて道に挑む覚悟だと、二十代半ばの若造の言葉を、師はとても喜んでくれた―――。
もう、二度と裏切るまい。命尽きて倒れるまで、師の歩いた道をひたすらに歩み続けよう。死して後已む、それが儒者の生きる道だ。
天を仰いだまま、安正は大きく息を吐いた。
【了】