一 大儒の死(三)
伊藤仁斎。
長年にわたって盛んに学を講じ、道を高唱しながら、あの男は、ついに書を出版して世に問うことをしなかった。その言葉や文章が世間に流れ、度々物議を醸しはしたが。
そんなところも、師とは正反対だった。師は道を説き、道を究める傍らで、出版の方面でも精力的に活動した。出版した書は五十冊を超える。もっとも師の書とはいっても、その多くは編纂物で、自説を展開することはほとんどなかった。
安正もまた、何冊もの本を世に問うてきた。その中には、はっきりと仁斎を名指しで批判したものもある。だが、相手からの反応はついになかった。
「あいつがきちんと己れの考えを書にして出版したら、おれも存分にそれを弁じてやろうと思うておった。あいつはついにそれをせずに死ぬだろう」
弟子なりが手沢本や稿本を元に出版することはあるだろうが、それをどんなに完璧に弁じきったところで、仁斎がそれを読むことはない。第一、それが仁斎の考えであるかどうかすら判らないではないか。影を相手に剣を揮うようなものだ。
これまでがそうであったように、恐らくどれほど弁じたところで、仁斎が正面切ってそれに反論してくることはないだろう。それでも、相手が生きているのと死んでいるのとでは大きな違いだ。
もう、あの男には届かない。
「告子を失うた、と―――朱先生は陸氏の死を嘆かれた。あの男の死を、おれは嘆きはせぬが、いささか思うところはある」
「性は善だ」と説く孟子に対し、「性は善悪いずれでもない」と主張したのが告子だった。二人の論争の記録が『孟子』にある。
朱熹は有名な鵝湖山での対面以来、何度も書簡を交わして陸象山と論を闘わせた。陸象山は朱熹よりも九歳年少だが、その死は七年早く、五十代半ばで亡くなっている。朱熹は論敵の―――互いに認め合った好敵手の早すぎる死を、深く嘆いたと伝わる。それはあるいは道のためには害になるだけの私情に過ぎなかったかもしれないが、多くの門弟を持ち、広く人と交わった朱熹という大儒の魅力でもあった。
安正は師に遙かに及ばなかったが、仁斎の告子たることもついに出来なかった。
切り結んでみたかった。あの男と。そして出来る事なら、一刀両断にしてやりたかった。
そうすれば、師は安正を褒めてくれただろうか。それとも、他を批判している暇があるなら己れの学を磨けと叱責しただろうか。
判らない。
かつて安正は、仁斎の許へ兄弟子と共に文章を習いに通ったことがある。
『源佐どのが文章を教えておるゆえ、行って習うてこい』
師にそう言われた時、何故あんなやつに、と喉まで出かかった抵抗を、安正はぐっと飲み込んだ。
仁斎の文章が卓越していることについては、確かに衆目の一致するところだ。京随一の名文家とも評する者もいる。だが、その名文を以て綴られるのは、所詮杜撰極まりない異端の学ではないか。あれ程正学に心血を注ぎ、仏教を批判し王学を斥けた師であるのに、何故あのような妄説を唱える男に学べと言うのか。師の門下において仁斎への批判は喧しかったが、師は一切それに与しなかった。擁護することもなかったが、批判めいたことは一切口にしなかった。むしろ源佐どの、と呼ぶ師の口調には、不思議な親しみさえあった。
そのことが、安正を苛立たせた。伊藤仁斎は、安正にとって喉に刺さった小骨のような存在だった。
安正は小さく吐息を漏らし、また薔薇の芽を一つ摘んだ。