第4話 ペット
昼食を済まし店を後にした俺達は、腹ごなしに少しその辺りを歩く事にした。
三時限目の授業が始まるまで後一時間少々、あまり遠くにはいけないので、散歩の範囲は徒歩十五分圏内といったところだ。
「やっぱ、あそこのオムライスは最高ですね」
「アレであの客入りっていうから、逆に驚きだよな」
俺達が行くあの時間がたまたま空いている――というわけではなく、他の時間も大体あんな感じらしい。それでもなお潰れないのは、それだけ熱心に通う常連客がたくさんいるという事だろう。
「あ、猫」
突然隣を歩く鈴羽が立ち止まったため、俺も釣られてその場に立ち止まる。
鈴羽の視線の先には、彼女が言うように猫がいた。全身を覆う黒い毛の中で、黄色い両の目だけがやけに目立って見えた。
「猫ちゃん」
姿勢をわずかに屈ませ、鈴羽がゆっくりと猫へと近づいていく。
「引っ掛かれるぞ」
俺の忠告なんてどこ吹く風といった感じに、鈴羽が猫との距離を縮める。そしてお互いの間合いが限りなくゼロになる。
道路にしゃがみ込むようにして、鈴羽が猫に手を伸ばす。
猫は不思議そうにその手を見つめていたが、逃げる素振りは特に見せなかった。
鈴羽の手が猫の頭頂部に触れ、そのまま優しく撫でる。
猫は気持ちがいいのか、目を細め、鈴羽の手の動きにその身を任す。
「ほれほれ、ここが気持ちいいのか? ん? ここがいいんだろ?」
そう言いながら、鈴羽が猫のアゴの辺りをくすぐるように触る。それに対し猫は更に目を細め、まるで撫でやすくするかのように顔を上げる。
「せんぱいもやってみます?」
手は猫に触れたまま、顔だけでこちらを振り向く鈴羽。
「俺はいいよ」
「怖いんですか?」
「苦手なんだよ、猫が俺を」
「斬新な言い訳ですね」
鈴羽がそう言って呆れ顔を俺に向けるが、俺としては至って真面目な返しをしているつもりなので、その反応は非常に心外である。
なぜだが知らないが、俺は動物との相性が悪い。近付くだけで犬には吠えられ、猫には逃げられる。そういう人生を俺は今まで送ってきたのだった。
「ま、なんでもいいですけどね」
あらかた撫で回して満足したのか、鈴羽が猫から手を離し、立ち上がる。
「じゃあ、行きましょうか」
「……あぁ」
再びあてもなく、鈴羽と一緒に歩き出す。
「猫いいですよね。飼いたいんですけど、私に世話出来るかが心配で。やっぱり命に係わる事じゃないですか。簡単には決められないですよね」
「猫は自由気ままだからな。鈴羽じゃちょっと……」
何がどうとは言わないが、やはり心配だ。
「ちょっとなんですか。私だって猫の一匹や二匹くらい……いや、そうですね。冷静に考えると無理です。猫にも飼い主を選ぶ権利は必要だと思うんです、私」
初めのテンションはどこに行ったのか、言葉の途中から急に鈴羽の声のトーンが落ち始める。
「別にそんな卑屈にならんでも」
「大丈夫です。自分の事は自分が一番分かってますので。私なんてむしろ、せんぱいに一から十までお世話してもらう方がお似合い、というかお小遣いください、せんぱい」
「おい」
どさくさに紛れて、何変な要求してるんだ、こいつは。一瞬、まんまと術中にはまって慰めかけたじゃないか。
「ちぇ、流れでいけるかと思ったんだけどな」
「いけるか」
さすがにそれは、俺を馬鹿にし過ぎだ。
「ま、どっちにしろ、ウチは母親がアレルギーあるんで、一人暮らしでも始めないと、猫は飼えないんですけどね」
「その予定はないんだろ」
「今のところは。お金も余分に掛かりますしね」
いくら学生向けのアパートがリーズナブルとは言っても、光熱費や食費の他に、日用品を買い足したり思わぬ出費があったりと、様々な金銭面でのマイナスがあるのは事実で、その全てを親に支払ってももらうのはやはり気が引けるし、俺としては何か違う気もする。
そうなるとバイトをそれなりにこなしてお金を稼ぐしかないわけで、その辺りのバランスというか、重心の置き方がまた問題になってくる。
実際、友人の中にはバイトの方が忙しくなり過ぎて、学業の方に悪影響が出ている者もおり、単位をいくつか落としたという話も聞く。
幸いな事に、俺はなんとか上手い具合にバランスを取ってやれているが、鈴羽にもそれが出来るとは限らない。
「ま、鈴羽も一応女の子だし、当分はまだ実家暮らしでいいんじゃないか?」
「一応ってなんですか。私は立派な女の子ですよ」
ムキーと両手を挙げ、抗議をする鈴羽。
そういう事をするから、一応と付けたくなるんだよ。
「まったく。せんぱいの辞書には、デリカシーという文字がないんですかね」
「お前にデリカシーを説かれる日が来るとはな」
後、ナポレオンぽく言うな。
ちなみに、あの訳し方はあまりフランス的でないようで、向こうでは少し言葉のニュアンスが違うらしい。聞きかじった知識なので、詳しくはよく知らないが。
「とにかく、お前はもう少し色々と気を付けた方がいいぞ。無防備過ぎるというか、この前も俺の部屋に勝手に上がり込んできて、あまつさえ人のベッドで寝やがって」
「あー。大丈夫です。私、せんぱい以外の男の人の部屋に上がる事ないんで」
「いや、そういう話じゃ……」
「じゃあ、どういう話なんですか?」
「どういうって……」
どういう話なんだろうな、コレは。
「ほら、アレだ。失礼だろ、それに邪魔だし」
「今更そんな事。私とせんぱいの仲じゃないですか」
「とんな仲だよ……」
たく、俺がおかしいのか? 俺の感性の方が世間一般からずれているのか?
「せんぱい」
「なんだよ」
「ドンマイ」
「お前が言うな」
「あぅ」
昼間の街中に、頭をはたかれた鈴羽の、なんとも言えない鳴き声が響き渡った。