第3話 カレーライス
鈴羽の提案に従い訪れたのは、大学近くの喫茶店だった。
初老の男性がやっている個人経営の喫茶店なのだが、ここのご飯系がまた美味しく、ウチの大学では知る人ぞ知る名店のような扱いに秘かになっている。
俺達が入店すると扉に設置された鈴の音が鳴り響き、すぐさま店主の「いらっしゃいませ」という渋い声が聞こえてきた。
「空いてる席にどうぞ」
勧められるまま、俺達は扉から最も近い窓際のボックス席に、テーブルを挟んで向き合う形で座る。
現在、店内には俺達の他に三人の客がいた。
カウンター席でコーヒー片手に読書を楽しむサラリーマン風の男性と、ボックス席に座り談笑を楽しむ若いカップルの計三人だ。
「何にします?」
開いたメニューを見ながら、鈴羽がそう俺に尋ねてくる。
「アメリカンとカレーライス」
「またそれですか。飽きないですねー」
「ほっとけ」
確かに鈴羽の言うように俺は、この店に来ると八割方この組み合わせを頼む。
何しろ、ここのカレーライスは絶品なのだ。
「うーん。すみません」
鈴羽が声を上げ、手を挙げると、カウンター内にいた店主が表に出てきて、こちらにやってくる。
「ご注文ですか?」
「はい。私はアイスティーとオムライスを。で、こっちの人にはアメリカンとカレーライスを」
「……かしこまりました。水はセルフとなってますので、ご自分でお願いします」
「はーい」
鈴羽の返事には特に反応は示さず、店主は一瞥の後、カウンターに戻っていった。
「私、お水もらってきますね」
「あぁ、頼む」
鈴羽が席を立ち、カウンターに向かう。
ここの給水機はカウンターの隅にあり、客はそのすぐ横にあるプラスチックのコップを使い、そこから水を自分で汲まないといけない仕様となっている。
まぁ、不便と思う人も中にはいるかもしれないが、少なくとも俺はこれくらいの事は仕方ないと思っている。
「どうぞ」
席に戻ってきた鈴羽がコップの一つを俺の前に置き、もう一つは椅子に座るなり早速自分の口に運ぶ。
「さんきゅー」
礼を言い、俺もコップを同じく口へと運ぶ。
乾いた喉に冷たい水が流れ込み、同時に喉が鳴る。
うん。美味い。言ってしまえば、なんの変哲もないただの水だけど、なぜだがこういう所の水は無性に美味しく感じる。
この店は店主が一人で切り盛りをしているため、注文してから物が出てくるまでが結構長い。なので、二時限目と三時限目がある時は、なかなか来られなかったりする。
「ホントせんぱいは、カレーが好きですねー」
「そんな事ねーよ。この店で頼むってだけで、別に特別よく食べるわけじゃないだろ」
頻度的には週に一二度食べるくらいで、他の人がどうかは知らないが、日本人としてはまぁまぁ平均的な回数だと俺自身は思っている。
「そういうお前はどうなんだよ? 週に何回くらい食べてるんだ?」
「私は……二回くらい?」
「一緒じゃねーか。そんなんでよく俺を、カレー好きなんて言えたな」
「カレー嫌いなんですか?」
「……好きだけど」
「じゃあ、いいじゃないですか」
「……」
まぁ、そうなんだけど。なんか、腑に落ちないというか、納得がいかないというか……。
「せんぱい、カレーが好きでも嫌いでも、せんぱいはせんぱいじゃないですか。そんな事ぐらいで、私は見る目を変えたりしませんよ」
まるで何かを悟ったかのように遠い目で俺を見る鈴羽に俺は、とりあえずチョップをくらわす。
「痛っ。何するんですか」
「うるさい。お前がふざけた事言うからだ」
そうこうしている内に、注文していた飲み物が届く。
まずは一口。うん。美味い。素人の俺には細かい味の違いなんかはよく分からないが、ここのアメリカンはとにかく美味しい。
「ところでせんぱい、アメリカンってなんでアメリカンって言うんですかね」
「そりゃ、アレだろ。アメリカ大陸を開拓した時に生まれた飲み物だから、みたいな理由だろ、確か」
「いや、そんなちゃんとした答えは求めてないんで。もっと明らかに嘘くさい、作り話的なやつをくださいよ」
こいつ、急にムチャぶりしやがって……。
「日本人が初めて飲んだアメリカの缶コーヒーが、このタイプのやつだったんだ。それでアメリカの缶、アメリカンのカン、アメリカンカン、アメリカンって……」
「いやいや、そんなわけないじゃないですか」
「嘘だからな」
「嘘なんですか!?」
「……」
これは素なのかボケなのか、どちらにしろ対応に困るので、勘弁して欲しい。
それから数分後、ようやくお互いの料理が運ばれてくる。
店主が引き上げるのを何となく見送ってから、俺達は食事を開始する。
「オムライスのオムってなんですかね?」
「うるさい。黙って食え」
「えー」
スプーンを食器入れから取り出し、それを使い、カレーライスを口に入れる。
ここのカレーライスは、家で食べる物とは当然ながら全然違う。なんというか色が濃く、コクがあるのだ。ちなみに今のは、濃くとコクを掛けたダジャレ――では断じてない。
具はニンジンやジャガイモといったオーソドックスな物ばかりだが、よく煮込んでいるためか、一つ一つ柔らかく、まるでルーと一体化したかのように口の中で溶ける。
まぁ、何を言いたいかと言うと、とにかく美味いとそういうわけだ
「本当にせんぱいは、美味しそうに食べますよね」
「食事は生物の基本だからな」
「なるほど。真理ですね」
人が聞けば、何を言ってんだ、こいつら、と思われかねない会話をしながら、食事を進める。
これが俺達の平常運転と言われればそれまでだが。
「せんぱいは、一週間カレーでも大丈夫な人ですか?」
「いや、普通に大丈夫じゃないし、さすがに一週間ずっとはおかしいだろ。食べ飽きるわ」
「じゃあ、何日ならいいんですか?」
「……三日、もしくは頑張れば四日かな」
精々、その辺が一般人の限界だろう。それ以上いける人は変わり者であり、偏食家と呼ばれる人達に他ならない。
「普通ですね」
わずかに失望がこもった声と表情で、鈴羽がそう呟くように言う。
「お前は、俺に何を期待してるんだよ」
「だって、カレー好きを豪語するくらいだから、もっと頑張ればいけるのかと」
「誰がいつ豪語をした」
「あれ? 言ってませんでした? 先週辺りに」
「言ってねーよ」
どういう記憶力しているんだ、こいつは。いや、この場合、記憶力うんぬんというより、記憶のねつ造か。……なんか字面的に、途端にヤバさが増した気がするのは俺の気のせいだろうか。
「そういえばせんぱい、この世界にはオムカレーという物がありまして――」
「やらんぞ」
「まだ何も言ってないじゃないですか」
「お前の考える事くらいお見通しだ」
別にスプーン数杯程度なら分けてやらん事もないが、先程までのやり取りを思い返すとその気が失せた。
やはり、日頃の行いって大事だよな。うん。
「てか、お前こそ、よく卵食べてるよな。朝は必ず食べてくるんだろ?」
「知ってます? せんぱい。卵は一日一個までというのは、今や都市伝説なんですよ」
まるで物を知らない子供に教えるかのような、慈愛に満ちた顔でそんな事を言う鈴羽。
「それぐらい知っとるわ」
「またまた。いいんですよ。知らないものは知らないって正直に言っても――ちゃい」
にやけ顔でこちらをあおってきた鈴羽の顔に、軽く突っ張りをくらわす。
「でも、そうは言っても食べ過ぎは良くないんだろ? 何個くらいまでなら大丈夫なんだろうな」
「うーん。私は一日平均三個くらい食べてますけど、今のところ元気満点、勇気百パーセントです」
そう言って鈴羽が、「ふんす」と力こぶを利き手である右手で作ってみせる。
「三個か……」
微妙な個数だな。多いと言えなくもないと言ったところか。
「まぁなんにせよ、取り過ぎはダメだし、取らな過ぎも同じように良くないって事で」
この話を締めさせてもらおう。
「つまり、アレですね。過ぎ足るは泳がされるが如しっていう」
「それを言うなら、及ばざるが如しだ」
「あれ?」
鈴羽が心底不思議そうに小首をかしげる。
やはり、ボケじゃなくてマジなやつだった。
鈴羽はいくつか慣用句や言葉を間違えて覚えている。『台風一家』がそのいい例だ。しかも、自信満々に言い放つので、なお始末が悪い。
「まぁまぁ、猿の川流れということわざがあるくらいですから、失敗は誰にでも――」
「ないぞ。そんなことわざは」
「え!?」
それを言うなら、猿も木から落ちる、河童の川流れ、だ。混ぜてどうする。というか、水場から離れろ、お前も猿も。
「じゃあ――」
こうして昼食はいつの間にか、鈴羽の間違って覚えたものを正す勉強会へと移行していった。