第1話 カラオケ
「だーれだ?」
大学構内のベンチに座ってスマホをいじっていると、突然背後から誰かに視界を塞がれた。
いや、犯人が誰かは分かっている。
というか、この場合、分からない方がどうかしているだろう。
「鈴羽」
「おっ、よく分かりましたね、せんぱい」
声と共に、俺の目の前から手がどけられ、視界が正常に戻る。
振り返り、声の主を確認する。満面の笑みを浮かべた少女が、俺の背後に立っていた。
「いや、声で普通に分かるから」
「あ……。なるほど」
この馬鹿は俺に指摘されるまで、本当にその事に気付いていなかったらしい。
さすが鈴羽。最近まで、本気で波浪警報をハロー警報と勘違いしていた愉快なやつだ。
彼女の名前は、神崎鈴羽。俺の一つ下の後輩だ。
身長は平均より低め、顔はそこそこ、運動神経は抜群、頭は残念。髪は俺が出会った二年前からずっとショートカットで、その理由は彼女曰く「髪が早く乾くから」だそうだ。どうやら、髪は女の命という言葉を彼女は知らないらしい。
ちなみに、こいつと俺は高校時代からの付き合いで、その当時から冗談めかしに「せんぱいと同じ大学に入ろうかな」などと進路の事を話していたが、まさか本当に俺と同じ大学に入学してくるとは当時の俺は夢にも思っていなかった。
こう言ってはなんだが、当時の鈴羽の頭では逆立ちしても合格出来るような所ではなかったのだ、ウチの大学は。おそらく、もの凄く頑張って勉強をしたのだろうが、残念な事にその面影は今の鈴羽からは全くと言っていいほどに感じられなかった。
「というか、人の視界を突然塞ぐな。もし俺が、大事なやり取りの最中だったらどうするつもりだ」
「ははは。やだな。せんぱいに、私にからかわれる以上に大事な用事があるわけないじゃないですか」
よし。殴ろう。
「あぅ」
頭を軽く小突くと、鈴羽が変な声で鳴いた。
「いきなり何するんですか! 私がこれ以上馬鹿になったら、せんぱい責任取ってくださいよ」
「大丈夫だ。お前がいくら馬鹿になろうと、俺の中でのお前の評価は一ミリたりとも揺るぎはしないから」
「せんぱい、そんなに私の事を……」
何か壮大な勘違いをして、潤んだ瞳で俺を見つめる鈴羽。
まぁ、ここでその勘違いを正すと、今以上に面倒な事になりそうなので、あえてこのまま勘違いさせたままにしておこう。
「ところでせんぱい。この後、暇だったりします?」
言いながら、鈴羽がベンチの端を回り、俺のすぐ隣に腰を下ろす。
「今のところ暇だが、今後の展開次第では暇じゃなくなるかもしれない」
「大丈夫です。せんぱいはきっとフラれるって、私信じてますから――あぅ」
ムカついたので、とりあえず鈴羽の頭をもう一度、今度は先程より強めに小突く。わずかにのけぞった鈴羽を尻目に、俺は再びスマホに目を落とした。
来た。
振動と共に、新たなメッセージが画面に浮かび上がる。
「ごめんね、今日は用事があるの。また今度誘ってね――あぅ」
「人のスマホを横から覗き込むな。後、読むな」
本日三度目の小突きを鈴羽に食らわしながら、俺はそっとスマホの画面を待機画面に戻し、その後電源ボタンを押す。
「まぁ、アレだな。今回は急だったし、たまたまタイミングが合わなかっただけ、だよな、きっと」
「そんな事言って、何回目です? 断られるの?」
「……まだ三回目だ」
三勝三敗。勝率は五割ちょうど。大丈夫。まだ俺は戦える。
「はいはい。とにかく、これでこの後の予定は完全になくなったんですから、さっささと覚悟を決めて、私と遊んだり私に遊ばれたり私をもて遊んだりしましょう」
「いや、後半二つは意味不明だが……」
仕方ない。
「二時間だけだぞ」
「やった。じゃあ、久しぶりにカラオケ行きません? 私、実は歌いたいやつあるんです」
「別にいいけど、久しぶりってほど久しぶりでもないだろ」
確か、カラオケには先月も何回か一緒に行ったはずだ。
「十日も経てば久しぶりですよ。あ、ちなみに、私は昨日も友達と一緒にカラオケ行ってきました」
「元気だな、おい」
二日連続カラオケは、さすがに俺には真似できない。多分、翌日喉が死ぬ。
「そうと決まれば善は急げです。とっとと行きましょう、せんぱい」
「たく、お前はホント、いつも騒がしいな」
「はい。それだけが私の取り柄ですから」
そう言って鈴羽は、にぃと歯を見せて笑った。
「あ、ここですよ。ここ」
そう言って鈴羽が立ち止まったのは、開け放たれた扉に四〇四号室と書かれたプレートが張り付けられた、一室の前だった。
鈴羽が先に入り、俺が後から続く。
電気が点り、薄暗かった室内が明るくなる。
デンモクとマイクをテーブルの上に二つずつ用意した鈴羽がソファーの奥の方に座り、早速デンモクで曲を選び始める。
「せんぱい、先に入れていいですよ。私は昨日も来たので、先手はお譲りします」
視線を下に落としたまま、鈴羽がそんな事を言ってきたため、俺は有り難くそうさせてもらう事にする。
ソファーのちょうど中央付近に腰を下ろすと、俺はもう一つのデンモクを手に取り、曲を入れる。
テレビ画面に俺の入れた曲の名前が映ると、
「あ、いつもの」
という鈴羽のヤジが飛んだが、無視してデンモクの代わりに今度はマイクをその手に取る。
今入れた曲は二年前くらいのドラマの主題歌で、俺は比較的よくこの曲を入れる。いわゆる持ち歌というやつだ。
最初の曲という事で、あまり力は入れず八割程度で歌う。歌い慣れた曲なので、特に問題なく普通に歌い終わった。
「わー。無難ですね」
「うっさい。肩慣らしくらいさせろ」
「いります? 肩慣らし」
「俺はいるの」
そんなやり取りをしている間に、鈴羽が入れた曲が始まる。最近出たばかりの新曲だ。
鈴羽は俺と違って肩慣らしを必要としない。最初から全力。……そして普通に上手い。
「そうだ、せんぱい」
歌い終わってマイクをテーブルの上に置きながら、鈴羽がそう話を切り出してくる。
「なんだよ」
というか、もう次の曲始まるんだけど。
「次の私の曲から点数勝負しません」
「断る」
即答した。
「えー。なんでですか」
「お前と普通にやっても勝負にならないから」
前奏が終わり、本格的に曲が始まる。
マイクを構え、歌いだす。今度の曲は、歌い慣れたものの中でも比較的最近のものだ。友達から薦められて聞いた曲で、正直俺はこの歌手のこれ以外の曲は知らないし、その友達から教えてもらうまでこの歌手自体を知らなかった。
先程、鈴羽に無難と言われてしまったので、意識して少し一曲目の時より力を込めて歌う。出来はぼちぼち、悪くはないといったところだ。
「じゃあ、私は今から歌う五曲の平均点、せんぱいは今から歌う五曲の最高点で勝負ってのはどうです?」
二曲目を歌い終わった俺に、鈴羽がそう再び話を切り出してくる。その話をするためだろう、まだ次の曲は入っていなかった。
「いや、なんでそこまでして俺と勝負したいんんだよ」
「え? 楽しくないですか? 普通に」
まぁ、鈴羽の言いたい事は分からないでもない。勝負事は燃えるし、接戦であればあるほど楽しいものだ。
「分かった、分かった。そのルールでなら、受けてやるよ、勝負」
「やった。よーし。がぜんやる気が出てきたぞー」
そう言いながら鈴羽が入れた曲は、これまた最近出たばかりの新曲だった。勝負と言いつつ、歌い慣れていない曲を入れる辺り、やはり鈴羽だな。
とはいえ、歌は普通に上手いので――
「九十三か。ちょっとアレンジ入れちゃったからな」
「……」
うん。俺は誰になんと言われようと、持ち歌で行こう。
歌い慣れた曲を、いつも通り、しっかりと歌い切った結果――
「お、九十四。今のところ、せんぱいが一歩リードですね」
「……」
一点差か。方や一週間前に入ったばかりの新曲、方や三年前から歌い続けた持ち歌。これはなんと言うか、厳しいな、色々と。
その後も鈴羽は、最近のものから古いものまで多種多様なジャンルの曲を入れ続けた。一方俺はというと、歌い慣れた曲をひたすら入れ続け――
「えーっと、私の点数は、九十四、九十五、九十七、九十八、九十七だから、平均は九十六点ちょっとですね。せんぱいは?」
「九十五点」
ちなみに、平均では九十に少し届かないくらいなので、そちらの勝負方法だった場合は俺の完敗だ。
「じゃあ、罰として――」
「罰ゲームありかよ!」
「え? 言ってませんでしたっけ?」
「言ってねーよ」
「じゃあ、罰として――」
「おい」
人の話を聞け。
「せんぱいは私とデュエットする事」
「は? そんなんでいいのか?」
鈴羽の事だからもっと変な事を要求されると思っていたのだが、思っていたよりまともな要求で少し拍子抜けをする。
「はい。あ、ちゃんとせんぱいの知ってそうな曲を選ぶので、そこは安心してください」
まぁ、そういう事なら……。
「バリバリのラブソング入れますね」
「なんでだよ!」