第九話 女の決断と蓮華の池
翌朝を迎え、目覚ましのアラーム音で目を覚ました女は、ベッドの上で胡坐になって、もう一度考えた。女はまだ、会社の屋上から飛び降りた夢を覚えていた。夢の中の自分が、そういった行動をとった理由は勿論知る由もないが、それが現実のこととならないために、自分は今後どうするべきなのか、と考えた。アラームの音が女の手によって止められたこの部屋の中には、この後暫くの間、二十四時間稼働させっぱなしの換気扇が回る低い唸り音だけが聞こえていた。
考え続けていた女は、ふと、祖父が亡くなった時に祖母が口にした言葉を思い出した。その時、祖母は「あの人は、死ぬ間際まで、自分の好きなように生きて、きっと、とても幸せだったと思う」と、言っていた。女は、思った。自分は、好きなことに対して精一杯一生懸命に自らを捧げて、悔いのない幸せな毎日を送りたい。そして、自分の死後に自分を深く知っている者から「あの人は、とても幸せだったと思う」と言われる人生にしたい。女は、ここまで考えたところで、一つの結論を導き出した。
「よし。決めた」と言う女の声が、部屋中に響いた。強い決意を確認するかのように女の口から放たれたこの独り言は、いつも以上のかなりの音量であった。
この直後、ベッドから床へと降り立った女は、テーブルの端に置いてあったスマートフォンを手に取った。そして、Eメールのアプリを開き、宛先に上司のアドレスを選択すると、件名に、退職願と打った。
ほんの数日前、女の中で、入社以来ずっと張りつめていた糸が切れてしまった。それから女は、再びその糸を張るために、その切れてしまった糸を何度か紡ぎ合わせようと試みた。ところが、いくらきつく結び直したとしても、一度切れた糸は元の状態には戻らなかった。
この時の女は、この切れた糸は、もうどうすることもできないと、はっきりと自覚していた。そうであれば、この状態で会社に籍を置いていても、却って迷惑を掛けることになる。そして、この状態で勤務を続ければ、自分自身が飛び降りる... とまではいかないまでも、壊れてしまうことは疑いようのないことだった。勿論、女には、この先をどう生きていくかなどといった、明確なビジョンはまだ、用意できていなかった。しかし、このまま今日も何食わぬ顔で出勤する、といった気には、到底なれなかった。
女は、そのEメールの本文に、後日、正式に退職願を書面にて提出いたします、とだけ記して、送信ボタンをタップした。スマートフォンの画面に表示された、送信完了しました、の文字を確認した女の目には、何故か涙が溢れてきた。今、この瞬間、女の人生の一幕が終わった。涙の訳は、そういうことかもしれない。
女は、未だ手の中にあったスマートフォンの電源ボタンを長押しした。電源を切ったのだ。恐らく、女の送ったEメールを開いた上司は、その理由を知るために、返信をしてくるか、直接電話を掛けてくるに違いない。今迄、迷惑を掛けられたことも多々あったが、事あるごとに良くもしてくれた上司とは、これについてのやり取りをあまりしたくなかった。特に、電話で直接慰留をされるようなことがあれば、少なからず心が揺らぐだろうし、優しい言葉を掛けられれば、泣きだしてしまうということも考えられた。この重大な決心を貫くためにも、絶対にコンタクトを取らないと、決めたのだ。
女は、電源が落とされ、只の塊となったスマートフォンを、テーブルの端に置くと、再びベッドの上へと移動した。
そして「二度寝してみよっかなあ」と、呟くと、掛布団の下へと潜り込んだ。
女が目を覚ましたのは、それから一時間半後だった。もしも、これから会社へと出勤するということであれば、遅刻するのは避けられない時刻であったが、それでも、まだ、時計が示すそれは始業前のそれであった。女は、適切な時間の二度寝をとって、すっきりと目覚めることが出来たので、ベッドからの脱出も軽かった。女の中では、今日のこれから、何をするかといった予定は、既に決まっていた。時間があるのだから、当然、あの蓮華に逢いに行くのだ。いや、女の中では、時間があるのであれば、絶対に逢いに行かなくてはいけない、というレベルのものだった。
女は、支度をする。歯を磨き、服を着替え、髪を整え、爪の手入れもした。そして、いつものバッグに財布を入れ、スマートフォンを... 入れなかった。スマートフォンは、電源を切ったままだった。そして、女には、電源を入れるつもりもない。電源の入っていないスマートフォンは、何の用も足せない只のガラクタだ。持っていく必要が無かった。女は、バッグの口を閉めた。
次に女は、部屋の奥へと足を進めると、衣装棚の一番上に置いてある、一眼レフのカメラを手に取った。今日は、これを使って撮影するつもりなので、スマートフォンを持っていく必要がなかったのだ。女は、その一眼レフカメラケースのショルダーバンドを肩に掛けると、今度は玄関に行く。すると、靴箱から長靴を取り出した。この長靴は、女が以前の記録的な大雪の際に、雪かき用として購入した背の高い防水性に優れたものである。デパートなどで売っている、お洒落な雨靴などとは比べ物にならない位、大きく信頼のできるものであった。何故、こんなものを持っていくのかは、残念ながら、今の段階ではこの女にしか判らない。
女は、いつものバッグと、一眼レフカメラと、長靴を持って、外へ出た。そして、玄関の戸締りをすると、愛車が待つ駐車場へと降りて行った。女は、後部座席のドアを開け、一眼レフカメラと長靴をそこへ乗せると、バッグから財布だけを出し、サイドポケットに入れた。そして、運転席へと乗り込んだ女は、愛車のエンジンを掛ける。ここのところの重労働にも負けず、愛車のエンジンは快調であった。女は、ニュートラルの状態で、アクセルを軽く踏んで、暫し、吹き上がるエキゾーストノートを愉しんだ後、ギヤをローに入れ、ゆっくりと発進した。
この先の女は、いつもの通りである。例によって、鼻歌に、上半身ダンスに、シャウトである。理想的な二度寝をとった女は、目的地までの車中を、フルパワーで暴れ捲って楽しんだ。
そうして目的地まで辿り着いた女は、前回の時と同じ場所に車を停めると、出発に際して持って出た三点セットを手に、あの愛しき蓮華の待つ池へと足を進めた。駐車場から池へと向かう途中、幾組かのウォーカーとすれ違ったり、何名かのランナーとすれ違ったり、または、追い抜かれたりした。
蓮華の池が視野に入ってくると、自然と女の足はその回転を速めていく。手に持った長靴が、女のスピードを制御しようとするが、それにも負けず、終いに女は駆け出した。そして、蓮華の池の畔に到着した女は、先ず、池の先に見える白い鳥居に目を向けた。その場所からは見ることが出来ぬが、恐らく、その奥には、神の社がある筈だ。女は、一度その奥を見据えてから、二礼二拍手一礼の作法に則り、この地域の氏神であろう神様に挨拶をした。そして女は、男親が可愛い愛娘をあやしている時のような、デレッとした顔になり「私の可愛い蓮華ちゃん、逢いに来たよー」と、周囲を憚らずそう言った。それを聞いて、二メーターほど先にいた、首にタオルを掛けてランニングシャツを着た土木業らしき初老の紳士?が、女のほうへ顔を向けた。その紳士の眼差しは、明らかに、女を心配をしているそれだった。
女はお構いなしだ、恐らくこの時、女の目には目前の蓮華しか映っていなかったのだろう。
「元気にしてた?相変わらず奇麗で可愛くて、凛としてて、ああ、もうどうしよう。食べちゃいたい」などと続けて言った。心配そうに女を見ていた紳士も、これを聞いて、女との距離を少しずつ広げていった。
それでも、女の独り言は止まらない。「そうそう、私、会社辞めたの。だから、毎日でも逢いに来れるよ。でも、これで良かったのかなあ。で、これについてあなたはどう思う?... なんて言っても判らないか。あなた達は自分達の人生、ん?花生、まあ、どっちでもいっか、それを精一杯一生懸命に全うすればいいのよね」
更に女は続ける。
「私もねえ、そういう風に生きたいなあと思うんだけどね、人間には選択肢が多すぎるのよ、その癖、精一杯一生懸命になれるものなんて数少ないの。それって、私に見つかるかなあ。ねえねえ、どう思う?」
女は、完全に相談相手を間違えていた。当然の如く、通りすがる人達は、女にその視線を釘付けにされ、それから、周囲を見回した。恐らく、テレビドラマか何かの撮影だとでも思っているのだろう。一通り見回した後、カメラが見当たらないことに気付くと、不思議そうに首を捻ったり、一目散に逃げていったり、女の話を暫く頷きながら聞いていたりと、様々な対応をとっていた。
女は「じゃ、今日も撮影会ね」と、蓮華に対しにっこり笑いかけながら言うと、徐に履いていた靴を脱ぎ捨て、持参の長靴に履き替えた。すると女は、何の躊躇もなく、行き成り蓮華の池へと右足を沈めた。そして、次には左足。女の両足は完全に池の中である。そう、女が長靴を持ってきたのはこのためだ。そして、肩に掛けていたカメラケースのショルダーバンドを首に掛け直すと、ケースを開けて一眼レフカメラ本体を目の前の蓮華へと向けて構えた。
ここからは想像の通りだ。女は、接写に次ぐ接写を繰り返し、ひとしきりを撮り終えると、次は辺りにカメラのモーター音を響かせ、連続写真を撮り続けた。
被写体は静止しているので、何故、連続写真なのかは理解できぬが...
女が蓮華の池にその足を踏み入れた途端、周囲から人影が無くなった。この理由は、警察を呼びに行った者、救急車の要請をしに行った者、この池の管理者に通報しに行った者が、その全てであったからである。勿論これは、冗談であるが、幾人かは、本当にこのような行動をとっていたかもしれない。
日暮れが近くなった頃、女は「よし。今日も随分撮ったし、終わりにしよっか」と、可愛い蓮華ちゃんに声を掛けると「疲れたでしょ。今日はゆっくり休んでね」と、グラビアアイドルに、カメラマンが声を掛けるような口ぶりで、そう続けた。女にしてみれば、この労いの言葉に対して、返答のないことが唯一の不満ではあったが、流石に、返答を期待してはいけないことも理解していた。蓮華の池から上がった女は、履いていた長靴を脱ぎ、池の畔に無造作に置いていた靴と履き替えた。そして、一眼レフカメラをケースの中へと戻し、ショルダーバンドを首から肩へと掛け替えた。帰りの準備が整った女は「今日も、どうもありがとうね。いっぱいお話もできて、楽しかったよ」と、愛しの蓮華達に別れの挨拶を述べると、駐車場へと歩いて行った。
上りのサービスエリアで夕食を調達した女は、相変わらずの狂乱状態で、残りの道程を楽しく運転して自宅へ帰る。明日の仕事の心配をする必要が無いということが、極限値に程近い域まで、女のテンションを引き上げていた。女が叫び続けて疲れ切った頃、女の車は自宅の駐車場へと到着した。車を駐車した女は、出発の際に持って出た三点セットと、夕食の弁当の入ったレジ袋を手に持ち、車のロックを確認し、自室へと歩いて行った。
女は玄関の鍵を開け、その扉を引き開けると、先ず最初に、手に在った長靴を床へと揃えて置いた。続けて、履いていた靴を脱ぎ揃え、部屋の中へと入って行く。そして、今日は、スマートフォンではなく、肩に掛けていた一眼レフカメラをテーブルの端に置いた。女は、続けて、弁当の入ったレジ袋をテーブルの上にそっと置くと、バッグは適当なところへ投げ捨てた。この後女は、身体を清潔にするためにシャワーを浴び、髪を乾かし、寝巻に着替えると、冷蔵庫からキンキンに冷えた缶ビールを取り出した。
あの蓮華達と別れ際に挨拶を交わして以来、ここまで女は、独り言を発していない。今日は、愛しの蓮華ちゃん達と沢山話をしたので、満足しているのかもしれない。しかし、やはり、缶ビールのプルタブを開けた後には、お馴染みの儀式のために独り言に花を咲かせた。そして、夕食を終えた女は「ああ、美味しかった」の決め台詞を発し、腹を叩く。その後、食べ終えた弁当と、空き缶を片付けた女は、テーブルの端に置かれた、一眼レフカメラを手に取った。そして、ケースを開けて、カメラ本体を取り出すと、そのディスプレイに、先程撮ってきたばかりの蓮華の写真を表示させた。
「やっぱり、可愛いな」女はとても優しい顔をして、そう呟いた。
そして女は、今日も只管シャッターを切り続けたことで尋常ではない数になってしまった写真を、一枚一枚、丁寧に観察しながら、相当な時間を費やして最後の一枚まで見終えると「でも、何で、こんなにも私の心に訴えてくるんだろう」と言って、不思議そうな顔をした。この後の女は、きちんと歯を磨いて、就寝した。




